第一部第一章
慈円は朝早く目を覚ましたが、いつものようにひどく体がだるかった。前の日に後鳥羽上皇の催した宴会に招待されて、それが夜遅くまで続いたことも原因の一つではあった。ただ、少し前から何かしら体の不調を感ずることが多かった。毎朝目が覚めても何か頭がうとうととしているようだ。健康に自身を無くすときもあった。しかし、着替えを済ませ、法衣に包まれ朝の勤めを終えると、その頃には体の血の循環が促され、精神も研ぎ澄まされ、体の力も戻ってくるのを感じた。勤行の後、法堂から出たときには生まれ変わったように才知と気力に目を輝かせ、みなぎる活動力は、この比叡山でかなうものなし、全く天台座主の名にふさわしい、”仏教の最高権威者”であった。
「しかし久しぶりの都ではあったが……」
比叡山を降りて都へ行くことはここのところ滅多に無かった。ただ前日は、弟の九条兼実が昨年関白になったこともあり、続いてその関白の兄たる自分が今年建久三年(千百九十二年)十一月天台座主となったことを後鳥羽上皇が目出度く覚え、宴を催されたのである。本来仏の身に仕える自分は宴会は遠慮したかったが、上皇の思し召しである。断りようが無かったのである。
それにしても、宴会の席は退屈であった。
「相も変らぬ公卿どもの体たらくよ……」
七月十二日には源頼朝が征夷大将軍となり平安朝までの貴族階級による日本の統治機構は終焉を迎えようとしていることは、誰よりもその貴族たちが一番よく知っていたはずだ。それなのに!
慈円は宴に集まった貴族たちの覇気の無さに怒りすら覚えた。彼らは挫折感の塊に過ぎなかった。新しい日本をどうやって築いていけるか、いかに武士階級に対抗するか、あるいは協力しつつ彼らを利用するか、そのような話はまったくその場では出なかった。無論、兼実自身が頼朝と近いこともあり、うかつにそういう話題に触れられないことも理解できたが、明らかに無力感が彼らを支配していたのは慈円の目に明らかであった。
弟の兼実にしてもそうだった。慈円から見れば、彼は頼朝のご機嫌取りに過ぎなかった。
慈円は目を瞑り、宴会の席のことは今は忘れ去ろうと、頭を強く横に振った。しかし、たちまちのうちに、続いては昨日の平安京の町の有様が脳裏に思い浮かんだ。ーーー都の大路はかろうじてまずまずの整備がなされていたが、大路から垣間見る小路の有様は悲惨そのものであった。無数の打ちひしがれた人々であふれていたのである。どの人もぼろをまとい、栄養は明らかに不良で、骨と皮ばかりの有様であった。
「これが帝を頂点とする日本国の都の姿とは……」
慈円にとって平安京の理想イメージは、曼荼羅の世界そのものであった。秩序、平安、調和、それが帝を頂点として形成される世界、その都があって、都を中心に帝の臣下たちが地方を治める日本国の姿がある。その全体がまた大きい曼荼羅の世界を形作る。ーーー何と美しく調和の取れた世界であるか!そして帝の上にはさらに仏がおられることは言うまでもない。慈円の精神世界において、仏法があって始めてこれらの調和は保たれるのである。
「そして、その仏法の護持のためにこそ比叡山延暦寺がある!」
慈円の自負がここにあった。
この荒れ果てた都を、日本を仏法の加護のもとに立て直そう、そのために座主として一身を投げ打とう。そのために自分が、延暦寺ができることは何であるか…。課題は無数であると言える。
「だからこそやりがいのある仕事ではある」
座主となった今、自分の意のままに延暦寺の僧たちは動くのだから。
慈円が、このような感慨にふけっていたそのとき、襖の向こうから取次ぎの者の声がした。佐々木盛高が昨日の不祥事について再度お詫びを直に申し上げたい、と訪問に来たと告げるのである。
慈円はすぐに行くので、盛高を待たせておくようにと言いつけた。佐々木盛綱は近江源氏の首領、佐々木秀義の遠縁にあたるもので、今は故あって慈円の下に身を寄せて、叡山全体はもちろんであるが、特に慈円ら叡山の要職にある僧たちの警護に当たる僧兵たちの頭領として働いていたのである。
源平の争乱が一段落したとはいえ、まだまだ不穏な情勢の下では、警護を堂衆の僧兵だけには任してはおけなかった。源平争乱のおりに木曾義仲にかなり手洗い真似をされた記憶も生々しい。そんな経験から、武将の者を堂衆、僧兵たちの訓練のために登用、さらには叡山防衛、警護の責任者としても抱えるようにしたのであった。
慈円はそんな数多い武将達の中でも盛高の腕を高く買っていた。
彼が比叡山に身を寄せることになった経緯については周囲からいろいろと聞いていた。その中にはいい噂もあれば悪評もあった。ときおり見せる彼の寂しげな表情は彼の暗い過去を物語っていた。しかし武術に関しては右に出るもの無し、というのは衆目の一致したところであった。慈円はそんな彼の持つ一種独特の、虚無感を漂わせつつ、一方で人を寄せ付けぬ威圧感はどこから来るものか知りたいものだとかねてから思っていた。
そんなこともあって、いくら武芸に秀でているとはいえ、本来叡山において一般大衆にすぎぬ盛高であったが、慈円は座主に任じられるやいなや彼を自らの護衛の責任者に登用、さらには非常に彼を重用したのであった。
取次の声がした。
「盛高が御前に……」
慈円は盛高の待つ部屋へ早速足を運んだ。行くと、盛高がそこに微動だにせず座している。彼は慈円が部屋に入るのをみるとうやうやしく深く頭を下げた。
慈円は彼に言葉をかけた。
「盛高、もっとくつろぐが良い。ーーーどうしたことか?お詫びとは何のことであるか?」
実際、慈円はお詫びと言われて、それが何のことかもう一つ要領を得なかったのである。
「はは!」
盛高は筋骨隆々、その逞しい体から想像される通りの力強い声で返事をすると、そのまま言葉を続けた。
「座主におかれましては、このたびの盛高の不始末をお許しいただきたく、こうしてお詫びに参りました」
慈円は訝しげに答えた。
「盛高、不始末というが私には何のことか検討がつかぬ。詳しく申してみてみい」
「はは、昨日の件にございます」
慈円は昨日のことを思い出しながら盛高の話に聞き入った。盛高は続けた。
「昨日の都での死人の件でございます」
慈円はそれを聞くと「はっはっ」と笑った。そして続けて言った。
「つまらぬこと!慈円は全く気にも留めておらん。気にするな」
盛高は深々と頭を下げた。
「ありがたきお言葉、盛高、これからは二度と失態の無いように気をつける所存です」
慈円は昨日のことを思い起こした。それは慈円の一行が比叡山を降り、白川を渡り、都に入ってからのことである。院の御所への途中の大路で思わぬ事態が発生した。慈円の一行の行く手に、おそらく病気か飢えのための行き倒れであろう、女子の死体が転がっているという報告が先見隊の一行からなされたのである。
「何ということだ!」
盛高は一行を止め、至急に検非違使と連絡を取った。当時の常識では死は不浄であったし、死体も然りであった。さらには、そんな穢れたもののそばを通ると、その者も穢れる、と考えるのが普通であったし、当時の都の知識人たちにとって”穢れ”は何よりも避けなければならぬものであった。
「なぜこともあろうにこのようなことに……」
盛高はため息をついた。このような事態を防ぐため、わざわざ、前日、検非違使に対し座主一行の通る予定の道について説明しておいたのだ。あらかじめ道の清掃をしておくためである。そして実際、当日検非違使の指示の元、大路の清掃は朝からなされていたはずである。清掃にあたる雑役たちの監視もしていたはずなのに……。
「これはまったくこちらも予期せぬことで……」
駆けつけた検非違使はつい先ほどまでは何も異常が無かったと主張した。おそらく、つい今、その場で、この女子は病気のためか、あるいは飢えのために倒れ息絶えたものであろう。
「ともかくも死人の処理をせねば……」
それやこれやで一行はかなりの時間そこで待たされてしまったのである。
事の次第を盛高から聞かされて、慈円は「それは致し方あるまい」と告げ、彼自身はそのことに特別立腹などしなかった。都が死体であふれていることは慈円のみならず都人なら誰でも知っている常識であった。
――そんなものを隠したところで何の意味があろうか!
慈円にとっては、それよりも、そんな都の荒廃した姿を間近にしているに違いない貴族たちの、この都を何とかせねばという気迫を感じられなかった昨日の宴のほうがよっぽど腹立たしかったのである。
慈円は平身低頭のまま微動だにしない盛高に、優しく告げた。
「盛高、もう良い。頭を上げい」
「はは」
盛高はようやく頭を上げた。
慈円は忠義心あふれる盛高の姿勢に感銘を受け、こう続けた。
「盛高に何の責任も無い。強いて言えば検非違使の責任であろう。そもそも遅れた事、私は一向に気になどしておらん。心配するな。もう下がってよろしい」
「はは」
今一度礼をして、盛高は引き下がった。
慈円は常に誠実な態度で自らの任務に当たっている盛高を買っていたが、今回の件でさらに彼への評価を高めた。
「のう」
盛高が座を退くと、慈円は傍らの弟子にこう呟いた。
「都の公家共に、一人でもあのように、帝に対して忠義心に満ちた者がおればのう……」
「はは、左様に……」
弟子の返事も、紋切り型で慈円はこれにも不満を募らせたが聞き流した。そして思った。「あの者はいつか重大事の時にきっと何かの役に立つに違いない」
慈円は心の中でそうつぶやくと自分の部屋に戻った。今日もまた一日の勤めがある。都を、いや日本国を護持する比叡山延暦寺の座主として、一心に仏に祈らねばならない。
「頑張らねば!」
慈円はあらためて自分の勤めの重要性を自らに言い聞かせるのであった。
ふと外を見渡すと、比叡山も冬支度に入らんかの木々の眺めである。あれほど鮮やかであった紅葉もくすんだ色となり、風も日々冷たさを増している。
その時であった。慈円の固い決意を支えようと言わんばかりに、山が大きくざわめいた。強風が山に吹き付けたのだ。慈円は比叡の山の強い意志を全身に感じた。いや、座主の意志が山に届いたのだ、と彼は感じた。
「うむ、満足!」
彼はそう言い放つと、弟子たちが呆気にとられている中、部屋を後にすると、本堂へと向かった。
――私は比叡の山の頂点に立つ者ではないか!
仏の加護を全身に感じつつ、彼は力強い足取りで廊下を突き進んだ。深い祈りの世界へと己の精神を集中させながら……。