イカ釣り編 サカーワ領府
翌日は昨日のスープを温めなおして食事を済ませると出発である。ブルーノは本物の黒パン食べるのは今回が初めてらしいが、珍しい体験ということで、スープが美味いのでそれほど気にしていないようだった。その後二日間似た様な経験を済ませると、工房を出て4日目の昼前に領府に到着したのだった。ブルーノはよくもまあ、馬車で丸三日も掛かるところに燻製のためだけに来るものだ。その根性だけは見上げたものだ。
「凄い」
ジキは領府の市壁を見てそう言った。高さは普通だが延々と続く市壁はそう言わせるだけのことはある。戦争のこともあるが魔物対策として村や町を囲む外郭は欠かせない。そのためガシ国最大の港町にして、10万人都市であるサカーワ領府の市壁は、巨大なものにならざるを得ないのだ。
だが三人娘のうち他の二人は驚いていない。何故なら他の二人はここに来るのは二度目であるからだ。この時代の大量輸送は海運である。そしてサカーワ領府は大規模な港町であるため、俺と同行するために訪れたことがあるのだ。
俺は各拠点回るたびに、塩や魚醤を別の拠点に供給するため大量に買い付けている。どの拠点も海辺にあるから船での物資移動に問題はない。そこで今回も燻製工房に物資を届けるために、サカーワ領府で船から荷を降ろすと馬と馬車を借りて工房に届けたのだ。その後馬車は工房の弟子が領府に卸しに行くときに、ついでに利用するのである。そのため村から離れたことのない、ジキだけは初めて見る領府に感心しているのだった。
「中に入ったら、もっと驚きますよ。行きかう人の量が多くて」
そう言ったのはヌイである。三人娘の中では最も旅した距離が長いが、俺に手を引かれてきたから、旅の苦労を知らない以上はどんぐりの背比べである。
そうして話している間にも、ブルーノの顔パスでスムーズに検問をくぐり抜けると大きな街が目に入る。ヌイの言うとおりに大量の人々が街を行きかっている。活気があり善政がしかれていることがよく分かる。
「そのまま領主館の裏手に止めてください。兄に話を通す必要があるので、客間でお待ちください。絶対に滞在できるようにします」
なにやら決意をみなぎらせた顔でブルーノが語っている。何かしら怒られる要素があるよな、馬車のこともあるが、就職活動中に馬車で三日も掛かる燻製工房に出かけたんじゃな。だがブルーノはお抱え料理人に俺の料理を覚えてもらいたいがために、更に我がままを押し通すのである。
そうしてブルーノが決意も顕にしている後ろでは、箱馬車の窓からジキが身を乗り出さんばかりにしている。人通りや商店が軒を連ねる様子が興味を引くらしい。サカーワ領府はガシ国の東の玄関口として大きな港を構えており、この街で手に入らないものはない。遠くにはその物流を支える幾つもの大型帆船の姿が見える。ジキは好奇心が三人娘の中でも一番旺盛であるため、何もかもが興味深いのだろう。この領府にはそこそこ滞在期間があるし、その間に色々覚えてもらおう。
「イペンサ様、何故行きかう人全てが路を空けていくのですか?」
ヌイの質問どおり、この馬車の向かう先の先まで路が開けていくのである。まるで路に火を放たれたかのようである。理由は簡単である。
「こんな馬車に乗るのは貴族のみ、つまり猛獣が居るとこの馬車で宣伝しているようなものだ。お前は人食い猛獣の前に立ちたいか?」
「嫌です。それで皆さん路を空けた後に興味深そうにこちらを見るんですね。私も猛獣だと思われているのでしょうか?」
即答だった。ヌイは納得した表情で答えているが、自分も猛獣と思われるのは不本意そうだ。確かに危険だと思われ何かする前に排除されても困るだろう。
「近いかな? お前の姿を見て貴族と思う奴は居ないが、見るからに貴族のブルーノが御者台に居るからな。猛獣の背中にリスが乗っているから不審に思っているんだ」
その分かりやすい例えに、三人娘は成るほどと頷いている。その姿は実に小動物っぽい。ウサギともネズミとも言えず、リスが一番しっくり来る。
「本当に身も蓋もない例え話ですね。しかも完全に合っているだけあって反論も出来ません」
ブルーノはさめざめと寂しそうにしている。まあねえ、俺たち平民には混ぜれないよね。でも、肉食動物が草食動物の群れに入ろうとしている様なものだから仕方ない。
「お前ら今から領主の館に行くからな、猛獣の巣に入るようなものだ。猛獣を前にしたらお前達はどうする?」
田舎の小娘である。貴族に会ったらどうする? なんて聞いても分からないだろう。猛獣に例えるのが理解への早道である。
「騒がず、息を殺します」
ヌイが即答する。
「動かず、気配を殺します」
ルサが次に続く。
「立ち去るまでその状態を維持します」
そしてジキが締めくくった。3秒ほどで即座に回答が返る、実に適切な反応だった。発見されていないならこれが一番だろう。
「よし全部正解だ。だが猛獣がお前達に興味を持ったらどうする?」
「逃げます」
「それは無理だ。相手のほうがずっと早い」
俺の答えに三人娘が考え込む。
「木に登ります」
「正解だ。ちなみに木は俺だ。離れすぎるなよ」
ジキの答えに合格を出してやった。平原で上る木も無く猛獣に出会えば後は食われるだけ、弱者はすぐに登れる木を移動の中心にしなければ食われてしまう。これら基本事項に加え補足説明を加える。
「ちなみに貴族相手に話しかけられたら無視したり逃げたりしてはならない。無礼打ちで殺されかねないからな。その場合は正直に答えること。ただし村の名前やどの地方にあるかや、工房に誰が何人いるかとか、何を作っているか等一切話してはならない。猛獣に自分の住処で何が食べられるかを教えるようなものだ。気分しだいでお前の家が襲われかねない。もし問われたら俺の許可がなければ答えられないと返事をすること」
これらの話を聞いてブルーノは最早涙を流していた。ブルーノは燻製工房のある村にここ3年ほど通っているのだ。年1回顔を出す程度だが、こう思われているというのはショックだろう。とはいえ実は殆どの村人はブルーノが貴族だとは知らない。ばれたら大変なことになるだろう、口の利き方次第で殺されるなんて村人達には別世界の住人にしか思えないよ。
「確かに、確かにそういうことはある。でも、僕はそんなことしないのに」
お前はしないだろうけど、他の貴族がするからな、皆危険を犯さないんだよ。小娘が貴族一人ごとに対応を使い分けられるわけが無いから、一般的な対応の仕方をまず教えているのだ。無念そうなブルーノのために少しフォローしてやろう。
「猛獣にも色々あるが、こいつは優しい猛獣だ。基本事項を守る必要はあるが、怖がる必要は無い。分かったか?」
「は~い」
三人娘のその返事が返ってくる頃には、領主の館の裏手についていた。裏門に着くとブルーノの顔を見た守衛が恭しく話しかけてきた。
「ブルーノ様お帰りなさいませ。その方達とはどのようなご関係でしょうか?」
「ご苦労、物々しいな何かあったか? この方達は客だ通してくれ」
その一言で別の者が門を開ける。門が開く間に守衛が受け応えていた。
「ズース領の塩の値上げを受けまして、街中が混乱しております。噂では何人かの商人が破産したとか、お気をつけください」
「分かった覚えておく、お前の名もな、ゴーディ」
その一言で守衛は顔を輝かせていた。ちなみにこれでもブルーノは十分気安い。貴族の当主だと簡単に労ったりはしないものだ。働いて当然という意識でなければ、ちょっとした事で当主に不満を抱きかねない。
ブルーノは三男ということで、その辺の配慮が緩いようだ。不満を持たれても構わないということと、同時に素直に感謝を伝えたいのだろう。あまり慕われても後継者争いに発展するので良くないのだが、兄が既に権力を握っているから心配ないのだろう。
さまざまな要因が重なることで慕われる貴族という、滅多にお目にかかれない存在が出来上がっていた。ただし本人に慕われる要素が無ければ当然慕われない。更に本人に慕われる要素があってもこれらの要因で、簡単に慕われるわけには行かないのだ。貴族にとっては畏敬の念を抱かれるのが理想だろう。慕われる貴族は二流である。但し嫌悪される貴族よりはよっぽどましだ。
「お疲れ様。大変だな」
門を抜けて方から若干力の抜けたブルーノを労う。人に聞かれると拙いので、聞こえるぎりぎりの声である。
「気楽なのがいいのですが、そうも行かなくて本当に疲れます。後言葉に気をつけてくださいよ。もうそろそろ危険です。僕は馬車の中に戻ります」
「承知致しました。ブルーノ様」
俺は口調を変えて恭しく返事をすることにした。外門が開いたのを受けて館の前のロータリーには、使用人が10人ほども並んでいた。さすが公爵家だ使っている人数も半端ではない。
見慣れない男が御者をしていても、顔には出さず馬車の扉が開くのを待っている。そうして館の前に馬車が止まると、扉が開かれブルーノが姿を現した。家臣が乗っている場合は主人が最後なのだが、今回はブルーノが真っ先に出た。事情説明なしで小娘が3人も出てきてはトラブルになりかねない。本来は先触れの家臣が事情を伝えているものだが、ブルーノはどうやって一人旅を実現させたのか不思議でならない。「お帰りなさいませ」の声とともに一同が頭を下げる。
「帰ったぞ、誰か兄上に面談の予約を入れてくれ。話したいことがある。あと、彼らは客人だ丁重に客間に通してくれ。堅苦しくやる必要は無いが礼節をもってな」
その一言とともに執事から下男、下女に至るまで手際よく働き始めた。
「それでは僕は準備があるから、後は上手くやってくださいね」
そう一言残してブルーノは館の中に入っていった。
「よし、お前達馬車を降りろ。荷物は持たなくていいぞ。自分の荷物を持つのは信頼していない証か、よほど大事なものが入っている場合だ」
そう言って俺は一つだけ鞄を持つと後は使用人に任せた。大人数の大人たちが静々と働いていることに、気圧された三人娘は緊張で固まりつつも馬車を降りた。しかし、ルサが足をもつれさせて地面に倒れた。その一瞬後にはルサが物凄い勢いで起き上がって土を払いつつ謝っていた。下男がルサが起きるのに手を貸そうとしていたが、手を出す間もなかった。
「大丈夫です。ごめんなさい。大丈夫です。ごめんなさい」
それ以外何も言えないようだった。俺も流石に公爵家の館に招かれるのは初めてで緊張していたが、彼女らのおかげで緊張が抜けた。失われたレシピを求めて過去の文献等を漁った結果として、知識のみで礼儀作法を知っているだけで経験するのは初めてである。
「あ~、すみません、この犬は私の私財なんですが、犬の飼育施設はありますか?」
「猟犬用でよければございます。餌などは与えたほうがよろしいでしょうか?」
「お願いします」
そうしてロタとロコを預ける。ロタはともかくロコは大きいので使用人が怖がっている。2匹には人に預ける旨の合図をして従わせる。人に預けること自体は多いので素直について行ってくれるのがありがたい。でもなあ、後で餌せがまれるんだよな、公爵家のお犬様がどれほどの餌を食べているか、後で確認しなければならないだろう。
そうして最低限の用事を済ませると、何所からとも無く静々と執事らしき人が現れて案内してくれた。館の内装やら調度やらが貧相にならず、かつ見せびらかさない範囲で目に入る。新興貴族だと過剰か不足のどちらかなのだが、見事に調和が取れている辺り流石に長年貴族をやっているだけはある。
そうして客間に通された。埃一つ無いその部屋は、部屋一つで芸術品として完成しているかのようだった。入ったときの印象や座ったときの印象まで見事に考慮されている。あまりの完璧さにソファーに座っていいのか悩む、別に服が汚れているわけではない。町に入る前に清潔なものに着替え、体も濡れた布で拭ってある。三人娘も同様だが気後れして戸惑っている。とはいえ、座らないと使用人も仕事をこなせないだろう。覚悟を決めて座ることにする。そうすると三人娘も俺に従って座る。そうして全員が戦々恐々としていると執事さん達が出て行った。気を利かせてくれたのだろう。
「イペンサ様、怖いです」
ヌイのその一言に他二人が頷いていた。俺も怖いし、どうにも出来ない。もう少し軽く考えていたのだが、公爵家となるとここまでかと圧倒されてしまった。
「我慢して慣れるしかないな、俺達が品質の良い物を作っている限り、そのうちこういうところからお呼びが掛かるのは必然だ。良かったな見聞が広まったろ?」
俺の返答にルサがツッコミを入れる。
「広まりすぎです~。早すぎです~。10年後くらいに、私じゃない人がやって欲しかったです~」
そうしてひそひそと会話を交わしているうちに、執事さんが戻ってきて茶を入れてくれる。その間全員固まっている。高そうなカップに手に持つ事も躊躇われる。しかしながら食事のお供である茶である。粗末に味も分からないなんて事は俺の矜持が許さない。そうして一口味わってみるとカーズ国の茶であった。サカーワまで運ぶとなると結構な輸送費が掛かるはずである、しかも茶葉の質も良いから最高級の持て成しと言えるだろう。
「イペンサ様、これはなんですか?」
ジキは茶を珍しそうに見ながら問いかけてきた。こういうのに飛びつくのはいつもジキである。
「茶樹は知らないか、この辺じゃ普通は香草を茶にするもんな。この国には殆ど生えていないが茶樹という木がある。その葉っぱで作った茶だ。この葉はカーズ国の一級品というところだな」
その一言に執事が感心したようだが、顔には出してない。この辺の町商人じゃ、知らないだろうね。貿易商か行商人でもないと難しい。
「何でそんなものをわざわざ遠くから運んでくるんですか? 香草で十分じゃないですか?」
そう返したのはヌイだ。俺も不思議だ。詳しくは知らないんだが、知る限りを話そう。
「茶樹の茶が好まれる理由は三つある。第一に茶樹の茶は不味い水の味を誤魔化してくれる。第二に茶樹の茶は精神を落ち着かせる効果があるという。第三にどの国も茶といえば茶樹の茶の事を指す、他のものを出すと田舎者扱いされるんだ。俺達にとっては1,2,3の順番に有難いが、貴族は3,2,1の順番で有難がっている」
三人娘がそんな事情はどうでも良さそうに茶を飲んでいる。ガシ国ではお目にかからないからいいけどね。茶を使った料理もあるが、こちらでは高いので何らかの生産に使うということにはならないだろう。地産地消が俺の方針だ。他所の土地から材料が必要だとしても同国内でなければ、大したものでなくてもやたらに値上がりする。例え大きな利益が上がるとしても、戦争が起こっただけで大打撃を受けるような生業に関わりたくなんか無い。
そうして話し込んでいるうちに、俺達が入ってきたのとは別の、奥にある扉が開く、俺が立って迎える姿勢をとると三人娘も従う。本来なら平伏すべきだろうが、そこはちょっと譲らないほうがいいだろう。嘗められると交渉に響く。45度の角度でお辞儀をして、向こうが声をかけてくるのを待つのみである。
「顔を上げてください。仮にも客人である以上、身分は対等ということで今後話を進めましょう。私はアリスト、サカーワ領の領主代行を務めています」
入ってきたのは年の頃30前後のブルーノに似た貴族然とした男性だった。金髪碧眼に白皙の顔は貴族の象徴である。長男らしく落ち着いた雰囲気に、武官よりは文官らしい知的な雰囲気を漂わせている。
「お初にお目にかかれて光栄です。アリスト様、私はイペンサ流しの釣り師です」
俺の丁寧な言い回しに三人娘が驚いている。貴族同士ならもっと長ったらしい言い回しになるから、参考にしてくれるなよ。
「はて、釣り師という職業は良く存じませんが、釣りをするのに必要ですかね? 我が領内のズース産一級塩全てが」
アリストは会って早々切り込んできた。先制攻撃のつもりだろうか? ブルーノの顔が引きつる。元々引きつってはいたが兄の怒気に当てられたかな? アリストの方は顔は一切変化しないが、声に迫力が加わる。
「釣って終わりというわけには行きませんから。釣った魚を食べるためには加工の必要があります。そのための材料確保の一環でございます」
いけしゃあしゃあと言う俺にアリストは間髪いれずに詰め寄ってくる。
「ほほう、それだけ釣れると言うなら――」
「兄上少しお話があります」
ブルーノが少し怖気づいているものの、アリストの言葉を止めた。そして耳打ちするがまる聞こえである。隠すつもりは無いのだろう。
『釣れと言えば、本当に釣りますよ、竿一本で我が領内の魚は全滅です』
その一言にアリストは不信を顕にしつつも、とりあえず弟の言葉を聞き入れて話を変えた。
「失礼した。先渡取引にて膨大な量を我が領内で買い付けたと聞いていて、それだけの塩を何故必要になさるのか、私は気になっているのですよ」
「弟さんから聞いていませんか? 燻製や魚醤を作るのに必要だからです」
「ですが何年分もあるでしょう?」
アリストは実に不満げである。顔を顰めて威圧的に問いかける。
「国はこの値上がりが解決する見込みがあるということでしょうか? ズースの先代領主が急死され、その跡継ぎたる長男も急死という状況では、数年以内の解決は難しいと思ったのです」
「国のことは私は存じませんが、他にもズース領の塩を買いたい人はいるだろうということです」
「ご購入なさればいいのではないでしょうか? たった5割の値上げです。他にも塩はありますし問題ないと思いませんか?」
ブルーノが茶を吹いた。何割上がったかは言わなかったからな。一度に5割も値段を上げると自分は馬鹿ですと言っているようなものなのだ。もしくは売りませんという意味である。ズース領に塩を売らない理由はないから。大抵の人は前者だと考えるだろう。
「塩は国の要、それを一度に5割も値を上げては、問題にならないわけが無いと思いますよ」
「それは私の関知する所ではない問題です。値上げが決まったのは私がこの領に入ってからです。責任の所在はズース領主にあります」
「なるほど、確かに貴方に責任は無いようですが、貴方は今回の塩問題の解決を任されたと聞きましたが」
「確かに燻製工房の親方には頼まれましたが、一介の平民である私には重過ぎる仕事です。国の要であれば国王が解決してくださるでしょう?」
アリストは怒気を収めてふと笑顔になるとこう続けた。
「腹の探り合い早めましょう。貴方はつまり何をしたいのですか?」
北風と太陽作戦である。先程までが北風、今が太陽である。だが俺は思惑があるわけではないので、事実をそのまま答えるだけである。
「何もしたくありません。何もしたくないので、何もしないうちに解決することを望んでいるだけです」
頭の良さそうな人物だから伝わるだろう。問題の解決を早めるために、問題の発生も早めただけであると。困った誰かが解決すれば俺は働かなくて良い。塩は先物で十分確保した。燻製工房と魚醤醸造所は1年や2年待つことは出来る。5割も急に値段が上がって、誰も彼もズース領の塩を買っていないはずだ。すぐに元に戻る可能性も有る。
「ですが我が領内の塩商人の何人かは、何もしないうちに大損してしまうのです。同時に塩不足を恐れた人々が塩の買占めに走って、塩は値上がりを続けています。もう既に買えなくなっている人がいるでしょう、そのうち暴動が起きるかも知れません」
自分で解決したくなくて問題の発生を早めた分だけ、アリストが領主代行として対応する時間が無くなった。その点に関しては協力するのが筋であろう。でなければ、切り殺されてしまう。
「商人の方はともかく、塩不足の懸念に関しては払拭させることができるかもしれません」
ここであえて言葉を切る。アリストが教えて欲しいと言えば俺はアリストの協力者になる。体面上アリストは協力者を切り殺したりすることは出来ない。とはいえ有効な策が無ければやはり殺される可能性は残るが、一部の塩を買い占めただけで殺すのでは暴挙といえるだろう。アリストはしばらく考えている。俺としてはアリストの面目が立つように、そこそこの策を提供するつもりだ。アリストも策そのものについては察しがついているだろう。
「分かりました。その策を教えていただけませんかね」
「アリスト様のお言葉を持ちまして、献策させていただきます。私が買った塩の3割をお売りいたしましょう。それをサカーワ領として買っていただければ、民間の買占めにあわずに済みます。残りの7割も無闇に動かさず1年転売しないことをお約束しましょう。置き場所はサカーワ領主の直接管理物件とする。そう布告すれば民も安心するでしょう」
これを俺の口から言う必要があるのは、アリストが提案すると脅し取った形になるからである。俺から申し出ればアリストは民のために協力を取り付けた名君となる。そういう問題があるから俺は、献策に関しては大仰な言い回しで、俺が献策しましたよと公言したわけである。他に人の目が無いので噂は付いて回るが、平民呼びつけて謁見してもそれはそれで脅しているように見えるから、どちらをとっても変わりはない。権力のある人は一つ一つの言葉や動作が、一々大げさに取られて本当に面倒臭そうである。
「商人の方はどうにもなりませんか?」
「値が上がっただけで物はあるわけですし、金さえあればどうとでもなるのでは?」
「その点についてはもう少し考える必要があるようですね」
アリストは俺の起こした変化全てを無かったことにしたかったのだが、塩商人が大損するのは自業自得なので、下手に救うと領主代行が塩商人を依怙贔屓したことになってしまう。そこまでして助ける必要があるか聞いたわけである。先渡取引の商品引渡しは4日後なのでそれまで時間はある。値が上がっても商品はあるので、商人は損をしてでも買わなければならないだけで、結果として破産するにしても無茶な要求では無い。交渉材料として引き合いに出しただけである。
そうして領府に売る際の値段は後々交渉するとして、俺はその間滞在することとなった。アリストは実に忙しそうなので、まず顔を合わせる機会は無いだろう、値段交渉にしても本人が出てくるか分かったものではない。アリストが客間を出て行った直後に三人娘が声をそろえてこう言った。
「怖かったです」
尤もな感想である。怒った貴族相手はいつ首が飛ぶか分かったものではない、家族であるブルーノですらびびっていたのだ。権力が無くても不機嫌な大の男を相手にするのは怖かろう。
「あれが貴族というものだ、ブルーノが優しい猛獣だといった理由が分かったろう?」
「よく分かりました」
三人娘が揃って頷いている。そうして、アリストが出て行っても残っていたブルーノはというと。
「怖かった~」
お前もかよ家族だろ。10も離れていれば兄弟喧嘩はしないかもしれないが、兄同士で喧嘩しているのは目にする機会もありそうなものだ。
「権力をかさにきるタイプじゃなくて良かったよ、売るっていっても怒らなかったし」
「兄貴は不当なことはしないよ、商人がどういう風に動くか知っているし、どうすれば動かせるかも知っている。今回の件は注目を浴びているし、城門から館まで堂々と入っていったからな、下手に手打ちになんかしない。その分値段交渉が大変になると思いますけど」
「悪いけど達成したい額があるから、値段交渉は譲れないな、転売するとしたら出る利益の7割を封じられたんだし、誓約書はまだ書いてないから色々条件つけて抵抗するよ」
「暴利じゃなきゃ問題ないでしょう、塩いくら買ったんです?」
「20トン」
「どこの豪商ですか! それじゃあ兄貴も怒るよ!」
俺の即答にブルーノが目を剥いている。それにしてもブルーノは値上げ幅を知らず。俺が買った塩の量も知らない。本当に美食追求のために俺に会いに来たのか。良くそれで兄に怒られなかったものである。
「そうはいっても金額にしたら億は越えないよ、ズース領の塩は安く売ってるし」
前回のヌマヌッシーの儲けに関して言えば、濡れ手に粟であった。元手なしで儲けたようなもので工房一つでは使いきれなかったため、今回塩を買う元手になっている。
「イペンサさん資産家だったんですね。護衛の一人も付いてないからびっくりです」
「ロタとロコがいるからね。特に必要ない、むしろ旅の途中で裏切られたら危険だ。俺は背後に権力者いないし、商人ギルドも商人同盟も加盟させてもらえないし」
商人同盟とは商人同士の連帯組織である。商人が金を持っているのは当然だが、金を持っていれば狙う存在に事欠かない。そういう存在が無法にも商人を脅かそうとしたときに、その身を守るためのものである。商人ギルドにもそういう仕組みはあるが、商人同盟はいくつかのグループに分かれていて、より強力に力を貸してくれる存在だ。商人ギルドが全国組織で、商人同盟は地域互助会と考えればよく分かるだろう。
「なんかやったんですか?」
商人ギルドにすら加盟できないというのは、問題起こしたということである。通常問題とは法を犯した場合がそれに当たる。
「俺の師匠が貿易商でね。買占め得意だったんだよ、そりゃもう恨まれる事甚だしかったよ。最後は怒った貴族に首を刎ねられて死んだ」
「イペンサさん元商人だったんですか? それでなんで加盟させてもらえないんです?」
「師匠が首刎ねられたのが問題でね。師匠も身分を保証するために同盟に加盟していたから、合法の範囲で動いた商人を殺されては同盟としては見過ごせない。首を刎ねた貴族に同盟が、そこそこの制裁で手打ちにしようとしたんだけど、怒った貴族はそんなの撥ね付けてね。同盟対その貴族で戦争になってお互いに消耗した結果、弟子の俺の評判もすこぶる下がってギルドにも加盟させてもらえなくなった。だから俺は商人だったことは無いよ、商人ギルドにも入れてもらえないからね」
「それはまた随分ご苦労されたんですね。それで今は産業を育てているのもその贖罪で?」
この話に三人娘も感心している。俺が商人の元弟子というのはあまり有名な話ではない。釣り師と名乗ることが圧倒的に多いし、商人だったことも無いから当然である。
「いや、美味い物食いたかったからだ。俺は悟ったね。幸せの青い鳥って話があるだろ?」
「ああ、幸せになれる青い鳥を探して旅に出て、帰ったら自宅にその青い鳥がいたという」
ブルーノも三人娘も似たような表情をしている。話の先は読めている、だから今ある家庭や幸せを大事にしよう、と月並みなことをいうのだろうと言う顔である。だが俺は続ける。
「ああ、俺の師匠は青い鳥を探して旅に出たタイプの人間だった。しかし俺は幸せって自宅にあっても気が付かない程度の、価値のないものだと悟ったよ、だから俺は適当に美味い物食って生きていこうと決めたんだ」
ブルーノを含め三人娘全員も期待をはずされてズッコケて居た。ブルーノは額に手をやっている。態とらしい奴である。救いようの無い落ちに全員呆れているようだ。そもそも家庭的な幸せを求めるならどこか適当に定住しているだろう。そこから分かりそうなものである。
「そう来ますか、やっていることは自宅の青い鳥を大きく育てているのに、それに至る結論が随分違いますね」
「美味い物は幾らでも作れるからな」
美味い物は目に見えるが、幸せは目に見えない。幸せを追い求めるくらいなら、美味い物を追い求めたほうが確実である。各地に拠点が出来たのはその結果であった。俺一人で美味い物を作るのは大変であり面倒臭いので人に任せたのだった。
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追伸:臨時修正完了
第一回訂正:2013/08/22
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