命の天秤(塔の医学録コミカライズ版オリジナルエピソード)
この作品は『塔の医学録~悪魔に仕えたメイドの記~』のコミカライズ版に収録予定だったオリジナルエピソードを小説として書き直したものです。昨年6月にヤングチャンピオン編集部より発表があった通り、同作は連載終了となりました。これまで応援してくださった読者の皆様への感謝とお詫びの気持ちを兼ねて、ささやかながら無料公開いたします。本当はすぐに公開したかったのですが、私の都合で遅くなってしまい申し訳ございません。
尚、こちらの作品は本編既読の方向けです。38話あたりまでお読みいただけますとお楽しみいただけるかと思います。
『塔の医学録 ~悪魔に仕えたメイドの記~』
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児童虐待の描写があります。ご注意ください。
夜明け近く、人々がまだ二度目の眠りの中にある頃。脂臭い蠟燭を頼りに私室で書類を書きつけていたヨハンは、扉の向こうから掛けられた声に眉を顰めた。入室の許可と共に現れた品の良い男は音もなく扉を閉める。
「こんな夜更けに一体何の用だ? クラウス。ヘカテーを通すわけでもなく、供すら連れず、わざわざお前一人で……となれば、どうせ碌なことではないんだろう」
手の震えを抑えるように押し付けられたままのペン先が、貴重な紙に青黒い染みを広げていく。あからさまな敵意を見せつけられても、クラウスは芝居がかった笑みを崩さない。
「いえ、そんなことは……実は、ヨハン様に薬を調合していただきたいのです」
「薬、だと?」
ヨハンは疑わし気に首を傾げつつ先を促した。クラウスはヨハンの反応にも慣れた様子で紙を取り出す。
「皇帝がご病気なのです。心臓の具合が悪く、動悸が収まらないのだとか」
「動悸だけではまだ何とも言えんな。年も年だ。血圧や気鬱の問題から脈拍が上がることがあってもおかしくないが……他に症状は?」
「詳しくはわかりかねますが、帝都の医師は皆心臓と診断しているようです。症状は重く、ご公務にも支障が出ています。何日も伏せるほどなのだとか。様々な治療を試されているものの、心臓は暴れるばかりで脈拍は下がりません」
ずいと一歩、足が踏み出される。優艶な細面から笑みが消える。ヨハンは無遠慮に近づいた顔を退けるのを躊躇した。夕凪の中に微かに感じる熱は憎しみか憐れみか、いずれにせよ嫌われている臣下が浮かべるような表情ではない。
「そこで、方伯様はヨハン様に白羽の矢を立てました」
一拍の沈黙を置いて、クラウスは予想外の言葉を口にした。
「父上が?」
「はい。異国の医学を学ばれているヨハン様であれば皇帝を救えるかもしれない。宮廷で名を上げる好機です。ヨハン様の存在を知らしめて代変わりに備える……方伯様は既に、ヨハン様の幽閉を解くことを検討していらっしゃるのですよ」
「俺の幽閉を解く、だと……?」
オリーブの瞳が見開かれ、蠟燭の火に揺れる。そこに映し出されるクラウスの笑顔は穏やかで優しいものだ。いつもの二人の間に流れるひりつくような空気が蝋と共に溶かされたかのように。
「はい。自由が欲しくはありませんか? この仕事が成功すれば、あなたは名誉を回復し、普通の貴族に戻れるのです」
ヨハンは返す言葉を選びきれず小さく呻いた。条件が良すぎる。言葉の裏などいくらでも読める科白だ。だがそれを悪魔の誘惑と切って捨てるには、クラウスの表情はあまりに真摯に見える。
「どうぞご検討ください。期日は2日、方伯様が宮廷に出発されるまでです」
紙をしまって一礼し去っていくクラウスの背中を呆然と見送ったのち、ヨハンは皺の寄った眉間を指でつまむ。瞼を上げることもなく溜息をひとつ。
「……オイレ、いるか?」
「はい、ここに」
「頭痛の種が増えた、動向を探れ。それからもう一つ気になることがあってな……」
詳細な命令を受けたオイレは部屋を出るとしばらく佇んでいた。小さな窓から差し込む朝日を背に、握りしめた拳が微かに震える。長らく仕えてきた隠密にとって、主の部屋で繰り広げられたやりとりは希望よりも怒りを強く感じさせるものだった。主が本来こんな狭い塔に押し込められるべき人ではないことを彼は知っている。自由など、本来は交渉の切り札になりえない。奪われたものを取り返すのに、何故対価が必要だというのか。執事の話が真実であれ嘘であれ……仕える側の身でありながら、恩着せがましく機会を与えてやろうという態度がオイレは気に入らなかった。
しかしほどなくして聞こえてきた靴音に顔を上げると、すぐさま軽薄な笑みを貼り付けてゆっくりと階段をおりた。
「やぁ、ヘカテーちゃん」
手を振った先で黒髪の少女が微笑む。
「オイレさん、いらしてたんですね」
「ちょっとお仕事でねぇ。調子はどう?」
「お陰様で勉強も捗ってます。ギリシア語を読むのは本当に楽しくて。」
朗らかな返答にオイレはすうっと目を細める。一点の曇りもない、苛立ちすら覚える眩しさ。こんな笑顔を向ける者は彼の周りにはいない。既にこの世を去った姉を除けば、主の周りにもいなかっただろう。
「それはよかった! でもね、そろそろ他の道も考えておいた方がいいかもよぉ?」
「他の道、ですか?」
「ヨハン様の幽閉が解かれそうなんだ。ヨハン様がこの塔を出られたら、君を雇い続けることは難しいかもしれない」
「え! ……でも、おめでたいことです。ヨハン様はずっと狭い塔に閉じ込められているべき方ではないですから、私は嬉しいです。自分の先行きは不安ですが、私もできることがあれば協力します!」
どこまでも他人を気に掛ける、打算のない優しさ。気に入られるのも道理だが、オイレにはこの純朴な少女に主を受け止められるだけの度量があるとは思えなかった。
「そうだねぇ、君ならそう言うと思ったよ。ヨハン様の復帰は薬を調合する仕事と引き換えなんだ。何かあれば手伝ってね、ヘカテーちゃん」
昼の仕事を受け持つ彼女に一言投げかけ、オイレは静かに塔を去った。
三時課を迎える頃になると、街からフェルトロイムト城に向かう往来もすっかり人の声で満ちる。せわしく動き回る人々にどつかれながら、向けられる悪態をものともせずに鼻歌交じりで歩く小さな人影がひとつあった。
「今日も合図が出てた! おっちゃんのおかげで上質な毛皮が手に入るのはありがたいな。まぁ、おれに無償で下げ渡すってことは、訳アリの毛皮なんだろうけど……あの塔の中で一体何をやってるんだろ?」
小さく独りごつ少年はヤープ、皮剥ぎを生業とする賤民である。年齢はまだ十を過ぎたぐらいだが、自らが社会のつまはじき者であることは自覚している。それ故、最近巡り合った仕入れ先を不思議に思っていた。頭巾で顔を隠した初対面の男から聞いたのは、城の塔に服が干してある日は質の良い毛皮動物の死骸が手に入るということだけ。斡旋料も要求されていない。誰に殴られることも罵られることもなく、それどころか城の下男と接触することすらなく、出所不明の原革を無料で引き取れるというのは、どう考えても裏がある。
「たぶん、純粋におれのためってわけじゃない。おれが毛皮を引き取ることで、誰かしらが得してる。もしかしたら何かヤバいことに使われていて、そのうち口封じに殺されちゃうとか?」
ヤープは学はなくとも頭脳には恵まれている。手放しに降って湧いた幸運を喜んでいたわけではなく、最大限に利益を得た上で安全に逃げる道を探ろうとしていた。
「よう。お前がイェーガーの城に出入りしている子供だな」
……しかし後れを取った。答えに辿り着くよりも、罠が作動する方が早かった。突然被せられた麻袋で暗転する視界の中で、ヤープは己の至らなさを呪う。こうして白昼堂々連れ去られる時も、周囲の助けはおろか制止も望めない。年端もいかぬ少年が身を守るためにできることは、両手を下げて敵意なしの意思表示をすることだけだった。
それでも、無抵抗が相手の害意を弱めるのは移動の間だけの話である。手首を縛る縄の感覚だけを頼りに長い距離を歩かされた挙句、突然床に転がされ、ようやく袋を外されたヤープが見たのは、薄暗い納屋のような部屋と二人の男だった。一人は目線を合わせるように屈んで陰湿な笑みを浮かべ、もう一人は腕組みをしながらゆっくりとヤープの周りをうろついている。
「手間が省けたな、利口なガキだ」
屈んだ男が話しかけてきた。歯が悪いのか、一音ごとにひどい悪臭が吹きかかるが、ヤープは機嫌を損ねまいと無表情のままで座り直した。
「ここは……?」
「おっと、質問するのはこっちだぜ。なんてことはねぇ、お前の雇い主について知っていることを洗いざらい吐けば逃がしてやるよ」
「雇い主? おれはいつも一人だよ。金勘定は父ちゃんに手伝ってもらってるけど、別に雇い主ってわけじゃないし」
「はは、はぐらかすのが上手ぇな。さすがこの年で隠密に拾われるだけのことはある」
「隠密って何の話⁉」
「とぼけたって無駄だぜ。お前がイェーガーの隠密だってことはもう調べがついてんだ」
否定の言葉を口にするよりも早く視界の外から拳が飛んできて、ヤープはつんのめる。
「嬲り殺しにされたくなきゃ、ヨハンについての情報を吐け。知らされてなきゃ、お前が受けている任務の内容だけでもいい」
「誤解だよ! おれは隠密じゃない。任務なんて何も」
脇腹に重い二発目。
「ああ、情報を漏らせば殺されると思ってんのか。安心しろ、お前の力量次第じゃこっちで雇ってもいい。ガキの手駒は貴重だからな。俺たちの主も欲しがるだろうよ」
「違う! おれは余り革をもらってるだけで隠密じゃな」
三発目、四発目、そして蹴り。
「見上げた根性だが、俺たちが諦めて解放することはない。お前にできることは秘密を守って死ぬか、話して生きるかだ。慣れてるようだから一旦質問を止める。そうだな、五十発入れたらまた聞こう。そこでも黙秘するなら次は道具を使う。それまでに考えるんだな」
訊き役であったらしい男が立ち上がったのを合図に、虐め役の男がヤープを引っ張って壁際に立たせ、殴り始めた。くぐもった小さな声で淡々と数を数えながら小さな身体の至る所に拳を放つ。死なないように急所を避けつつ、痛みの強い点を的確に突いている。ヤープははじめこそ必死で無関係を主張していたが、十を数える頃には無駄を悟り、二十には言葉を発することもできず、三十に届く頃には数える声を聞き取ることも難しくなった。訊き役はその様子に一瞥も呉れない。
痛みに耐え続け朦朧とする意識の中で、考え事をする。やはり自分は未熟だった。美味い話に欲をかきすぎて引き際を見誤った。いや、そもそもあの頭巾の男を信じたのが間違いであったのかもしれない。汚れた仕事と忌み嫌われ、庶民すら触れることを拒む身分である自分に笑顔を向けること。嘘をついていなかったこと。本当に得をさせてくれたこと……さすがにその理由を美徳や優しさと信じたわけではないが、侮蔑や憎悪よりも損得勘定を優先する人間がいたのだと希望を持ってしまった。自分の命がどれほど軽いものかを考えれば、美味い話が持ち込まれた時点で悪意を感じ取るべきなのに。
しても仕方のない後悔に沈んでいると、ふいに静寂が訪れた。先ほどまでいた二人の気配がない。瞑っていた目を開く。ゆっくりと焦点が合う。
「お待たせぇ、大丈夫?」
わざとらしいくらいに白い歯を輝かせ、人懐っこい笑顔を浮かべた赤毛の男が見えた。良く通る声はどこかで聞いたことがあるような気もするが、はっきりとは思い出せない。
「誰……?」
「はいはーい、正義の味方だよぉ」
意味不明な科白を吐きながら、彼……オイレはヤープの縄を切り、背を向けて目の前に屈む。
「さ、掴まって」
「捕まる……? 今度は誰に……?」
「おんぶしてあげるから背中に乗って。早くお城に行こう。痛いだろうけど、きっと助けてもらえるから!」
促されるまま、ヤープはその背におぶさった。ついさっきまでの後悔にもかかわらず、罠かもしれないと拒むことはしなかった。穢れた自分に触れるどころか、背負うとまで言ってくれる者が現れたのだ。生まれて初めて知る他人の温もりに、これが罠でもいいと思ったのである。
ヤープを背負ったオイレが現れると、塔で待っていたヨハンとヘカテーは蒼白となった。いつも解剖後の動物の死骸を引き取りに来ていた皮剝ぎ人の少年。交わした言葉は少なくとも記憶に残る、したたかさを感じる生意気な口調と、強い生命力を湛えた透き通る瞳。それが今は全身血塗れの痣だらけで、既に意識を失っている。
「ご指示の通りヤープの周囲を警戒していたのですが……」
「報告は後だ! とにかく治療するぞ。おいヘカテー、針と絹糸、ワイン、布を持ってこい。急げ!」
三人は調理場に移動した。塔に住む二人の食事は、ヘカテーが居館から運んでくるものだけで賄われているので、この調理場は本来の役目を失って久しい。普段は専ら動物の解剖や標本の整理といった作業に使われ、死の匂いの染みついた空間に重傷者を運び込むことに皆不安がないではないが、ほかに寝かせられる場所もなかった。
「ひどい傷! どうしてこんなことに……」
「呟く暇があったら傷を縫え。俺は右から治療していくから、ヘカテーは左側を。オイレは折れた歯をどうにかしろ」
「かしこまりました」
「ヤープ、痛いけど頑張って。絶対治してあげるから」
実践経験は皆無でありながら 当然のように傷を縫うことを任されたことを、ヘカテーは不思議には思わなかった。以前奇跡的な経緯で人体解剖を行う機会が訪れた際、彼女は遺体への敬意を表し、解剖後に傷を全て縫った。生身の人間の傷を縫う機会はあまりないが、その体験とヨハンの指導により、皮膚の厚みは概ね把握している。
震える手を叱咤して、ヘカテーは傷口の横に針を刺した。針の痛みも傷の痛みで掻き消されるのか、ヤープは何の反応も見せない。ワインに浸した布で血でぬめる皮膚を拭きながら縫い進めるが、滲み出す血の勢いはそこまで強くはなく、ぐったりと寝込む彼の容態の原因は出血とは別のところにあるように思えた。蒼ざめ乾ききった口元に張り付く汚物が、ここに運ばれるまでに幾度も嘔吐したことを窺わせる。
(今更血が止まっても……助からないのかな……)
短くなった蠟燭を眺めるような気持ちで唇を噛む。ヘカテーも死に慣れていないわけではない。街にいたころは訃報など日常茶飯事で、弱い子供は大人になれないことも知っている。少し外れた道に入れば道端で息絶えた人間を見ることもあった。それは自然の摂理の一環だ。病や事故で人が死ぬのは、羊が狼に食われるようなもので、悲しみこそすれ怒りはしない。だが、今目の前で燃え尽きようとしている少年の命は、悪意と暴力で無理矢理奪われようとしているものだ。卑賎の民である持たざる者の命ひとつ、潰して得られるものなど何もないだろうに。
「何をぼーっとしている!」
苛立ちに満ちた主の声で我に返る。ヤープを挟んで反対側にいたはずのヨハンがヘカテーの隣に回っていた。見れば右半身の傷は大方縫い終えられている。
「申し訳ありませ……」
「手を止めるな。貸せ!」
ヨハンはヘカテーから針と糸を奪い、慣れた手つきで勢いよく縫い進めていく。
「ここは一刻を争う場だ。丁寧さが美徳にはならんぞ」
ヨハンの縫った跡は赤く滲み引き攣れた不格好な縫い目だった。しかし、その分流される血は少ない。遺体の傷とは目的が違うのだということを、ヘカテーはようやくはっきりと理解した。深呼吸する。主が諦めていないのなら、まだ学んで日の浅い自分が勝手に諦める訳にはいかない。
「残りは頼めそうだな。雑で良いから素早く対処しろ」
その顔が泣き顔から凛とした表情へと変わったことを見届けると、ヨハンは針と糸を握らせ、ヤープの右側に戻った。
「肩を脱臼している。少し揺れるが手元を狂わせるなよ」
言うなりヨハンは一、二、三、と呟きながらヤープの右腕を大きく回した。ごり、と鈍い音がして、あっさりと肩が嵌る。あまりに鮮やかなその手際に驚き、ヘカテーは危うく針を取り落すところだった。脱臼に治療法があることも、たった三呼吸で治してしまえることも今まで知らなかった。頭の方からひゅう、という感嘆の口笛が聞こえて、折れた歯の処置をしていたオイレもなかなか目にする技ではないことを意識する。
「回転の力を利用した処置だ、今度教えてやる。さて、傷は縫い終えたようだな」
「はい。しかし、未だ目を覚ましません……」
皆沈痛の面持ちで、調理台に横たわる少年を見た。時折呻いたり震えたりはするものの、痛みを伴う処置の間でさえ、一向に意識を取り戻す気配はなかった。小さな身体に灯る命の火はあまりに微かで、この塔の冷え込む空気にもどれだけ耐えられるかわからない。ヘカテーはせめて自らの体温を分けようと、ヤープの左手を両手で包み摩った。その程度のこと、氷に覆われた魚に毛布を掛けるようなものでしかないとわかっていて尚、何かせずにはいられなかった。
ヨハンは寸刻天井を仰ぎ、溜息をひとつ吐くと、静かに告げた。
「ヘカテー、打撲の塗り薬は俺たちでやるから、書庫に行って樽の上の木箱を取って来い。赤茶色の丸い石が入っているから」
「ヨハン様、なりません!」
珍しくオイレが主の言葉を遮る。
「優先順位をお考えください。あれは皇帝陛下のために取り寄せた大変貴重なものではないですか! いかに目を掛けている駒であろうと、賎民のために費やすべきではございません」
「黙れ」
「それに期限もあるのです。明日までに調合できれば、ヨハン様はやっとこの塔から出ら」
ばん、と乾いた音が響いた。ヘカテーは啞然とした。殴られた頬を押さえながら、オイレはよろめくこともなく主を睨みつけている。琥珀の瞳に宿るのは怒りの色だ。常に鷹揚として本心の掴めない彼からはこれまで感じ取られたことのない、激しい感情が明らかに見てとれる。
しかしそれを、ヨハンは鼻で笑った。
「黙れと言っているだろう。なんだその目は。散々人を殺めてきたくせに、今更善人ぶるなとでも言うつもりか」
「……あなた様なら、私がそんなことを思い付きもしないことはご存じでしょう」
「ああ。お前も、俺が考えなしに重大な選択をしないことくらい知っているよな」
凍てつくような沈黙。ヘカテーはおろおろと様子を伺った。何か重大な背景があるのだろうが、死の迫る少年を捨て置こうとするオイレの心情も、忠言に暴力で返し鼻で笑うヨハンの心情も測りがたい。発すべき言葉も分からぬ自らの不甲斐なさに唇を噛みながら、ただ必死にヤープの手を摩り続けた。
「ヘカテー、とっとと行け。こんな話をしている間もこいつの容体は悪化するんだぞ」
「は、はい!」
ヘカテーは慌てて階段を駆け下りながら、二人の言葉を嚙み締める。オイレは明らかに「この塔から出られる」と言おうとしていた。つまり、今ヤープに使おうとしている貴重な薬は、ヨハンが長い幽閉生活から解放される鍵となる存在なのだ。それに、皇帝に献上するというような発言もあった。献上品を勝手に使ってしまってはヨハンに罰が下るかもしれない。
果たして主に言われるまま薬を取りに行くことが正しいことなのか、わからないままヘカテーは走った。もちろんヘカテーとしてはヤープに助かって欲しい。幼い少年が死にゆく様など、何度見ようと決して慣れない光景だ。しかし悲しいことに、世間において人の命の価値とは平等ではない。貴族の頂点に立つ皇帝と、触れることさえ厭われる皮剝ぎの子供。どちらを優先すべきかなど考えるのも馬鹿馬鹿しいほど明白である。にもかかわらず、ヨハンは……自らの立場を危険にさらしてまで無価値な方の手を取ろうとしている。常識的に考えれば、その判断を諫めたオイレの方が正しい。
それでもヘカテーは書庫へと進む足を止めることはできなかった。ほとんど殴るようにして扉を開け放ち、木箱へと走り寄る。幾重にも布に包まれて、親指ほどの大きさの石が収められていた。河原で拾う石のように丸っこく、ところどころひび割れた何の変哲もない石。ヨハンの言葉に合致することを確かめると、箱ごと小脇に抱えて道を折り返した。
彼女の心にあったのは二つの確信だ。ひとつには、自分よりもヨハンの判断の方が信頼できるということ。そしてもうひとつには、人の命は須らく尊いということ。
「只今戻りました!」
木箱から出した薬を渡そうとするヘカテーを、ヨハンは手を挙げて制し、水を張った椀を握らせた。
「その薬はお前が飲ませてやってくれ。こいつはここに運ばれてくるまで俺の顔を知らなかったからな。お前の方が安心して飲むだろう」
ヘカテーとオイレは顔を見合わせた。意識の朦朧とした子供に配慮したところで、理解できるとは思えない。それでも少しでも患者を安心させようとする主の意志を汲み、ヘカテーは石を砕いてヤープの口元に運んだ。
「ヤープ、聞こえる? 私だよ。どうか助かって。ヨハン様はご自分の自由と引き換えに、あなたを守ろうとしてるんだよ」
祈りに応えるように、こくん、と小さな喉が鳴った。皇帝に献上されるはずだった、金にも等しい貴重な薬が飲み下されていく。部屋の空気が安堵に緩んだ。
……それから数日後、藁袋の中で上体を起こし、焦った顔で喚くヤープの姿があった。
「え、おれのこと助けたの貴族だったの!? しかもご領主様のご子息って!? どういうこと、一体何が起きてるんだよ!?」
「怖がらないで。何度も説明したでしょう」
「説明されても理解が追い付かないよ!」
「理解しなくてもいいから、今は落ち着いて。もうすぐヨハン様がいらっしゃるから……」
言い終えぬうちに、扉が開け放たれた。
「目を覚ましたそうだな。身体は大丈夫か?」
当然のように直接声をかけてくるヨハンに、彼は益々混乱した。ヤープはたしかに記憶していた。言葉を交わすことも厭われる自分の汚れた身体に躊躇なく触れて、忌まれるその血を拭い、床屋のように治療した男。それと同じ顔が今目の前にある。上等な服を着て、恭しい態度の大人を傍に従えながら。
「は、はい! 傷は痛みますが、しばらくすれば動けるようになると思います。こんな布団の中での謁見で、申し訳ございません……」
「それだけの受け答えができるなら問題なさそうだな。歩けるようになるまではここにいて良い。よく寝てさっさと治せよ」
「あ、あの!」
発話に問題がないことを確認してすぐに去ろうとする後ろ姿に、ヤープは思わず声を掛けていた。
「なんだ?」
「どうして助けてくださったのですか? 私に何をお望みなのでしょうか?」
「別に何も望んでおらん。お前の治療で経験が積めた。それだけだ」
「それにしたって、私のような価値のない身分の人間をわざわざ……」
無礼を恐れながら問うヤープを、ヨハンは鼻で笑う。
「身分がどうした。人間なら皆中身は同じだぞ。ひとたび皮を剥げばその下は筋肉や骨があるだけだ。皇帝だろうが皮剥ぎ人だろうが大差ない」
「え、ええ……?」
「まぁ皇帝を切り裂いたことはないがな、学べば学ぶほどわかるのさ。世間は血筋血筋と五月蠅いが、誰の血だろうと血はただの血だ。くだらん」
物騒な言葉の連続に困惑するヤープの耳元で、ヘカテーがそっと翻訳した。
「価値のない命なんてないんだよ。自分を大事にね」
雪の反射でも受けたかのように、視界が白む。天地がひっくり返るような台詞だった。いるだけで目ざわりで足蹴にされるのが自分だと思っていた。搾取されることでようやく存在を許されるものだと思っていた。
「なんて人なんだ……」
息だけの小さなつぶやきが漏れる。目の前の貴族はそれを咎めることもなく、後ろを向いて部屋を出ようとしている。誰もに傅かれる領主の息子でありながら、見返りもなく賎民の命を救い、そのことを特別なことだとも思っていない。
「あの……」
「なんだ、まだ何かあるのか? 忙しいんだが」
「も、申し訳ありません! その、あなた様にお仕えすることができないかと思いまして……私にはそのくらいしか、お礼ができないので」
「はぁ、勝手にしろ」
「ありがとうございます!」
ヨハンは苛立たし気に頭を掻きながらオイレに向き直り、満面の笑みを湛えて深々と頭を下げるヤープを指さした。
「オイレ、隠密として迎え入れる準備をしておけ。部隊はそうだな、諜報がいい。こいつは頭が回りそうだからな」
「は、御意に」
淡々としたやり取りを眺めながら、ヘカテーもまたそっと声を掛ける。
「ヨハン様」
「今度はお前か。揃いも揃って騒がしい奴らだ」
「ご自身の自由よりも子供の命を優先されるお姿、感動いたしました」
「別に慈善ではない。知識は使うためにある。人を実際に救えなければ、医学の知識など空虚だろう」
「そのお考えが、私には美しく感じられます。これからもお傍で学ばせてくださいませ」
「ふん、せいぜい励め。付けた知恵の分こき使ってやる」
意地悪く鼻で笑うヨハンだったが、オリーブの瞳に宿る光は温かい。ヘカテーはその輝きを見ているうちに、自らの胸にも温かい光が宿るのを感じていた。どこまでもついていきたい。命に価値を認める方だからこそ、命を賭してもお仕えしたい。静かにそう願った。この温かさの名を、彼女はまだ知らない。
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同刻、クラウスは回廊で従者から受け取った紙を読み、珍しく穏やかな笑みを崩していた。
「失敗したか。予想外だな」
怒りのままに紙を握りつぶす。それもそのはず、彼がヨハンに持ち掛けた話は、彼の家……アウエルバッハにとって千載一遇好機だったのである。皇帝の病気は嘘だ。健康な皇帝に心臓の動きを抑える薬を与え、死ぬか廃位に持ち込めれば良し。薬を毒薬と糾弾すれば作ったイェーガーも共に潰せたはずだった。
「まさか用意していた薬を下賤な子供に使うとは、ヨハン、本当に意味の分からん男だ。だが次は潰す。イェーガーの持つ栄誉は必ずやリッチュルと……我がアウエルバッハのものとするのだ」
お読みいただきありがとうございました。
今後も小説の執筆は続けてまいりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。




