第七話 走る。
夜の住宅街。街灯の下で、僕は自分の「実力」に絶望していた。
「はひぃ、……はっ、ひぃ……っ!」
たった。
たったの数分、足を動かしただけだ。それなのに、肺は焼けた鉄を流し込まれたように熱く、喉の奥からは血の味がした。
膝から下は自分の意志を離れてガクガクと震え、地面に吸い付くように重い。だらしなく曲がった両腕を振り、靴底をアスファルトに擦りつけながら、僕は醜く身体を揺らした。
「はーい、今八十メートル通過だよー。つかさっち、ペース遅すぎ! デンデンムシの方がまだ早いよー」
頭上では、バンシーがタブレットで何かの動画を眺めながら、片手間で応援を飛ばしてくる。
普通なら腹が立つような光景だ。けれど、今の僕には、この「軽薄な無関心」が救いだった。三田村先生の陰湿な嘲笑や、黒丸君たちの悪意に満ちた嫌がらせに比べれば、この妖精の冷たさは百万倍マシだ。
勇気――なんて高尚なものじゃない。ただ、ここで足を止めたら、本当にすべてが終わってしまうという恐怖だけで、僕は身体を動かした。
だが、数年もまともに運動していない身体は、とうに限界を突破していた。
「げひーっ、げ、ひぃ……っ!!」
自分でも引くほど、醜い喘ぎ声が漏れた。
視界が激しく揺れ、ついに膝が折れる。僕は踏まれたウシガエルのように道路に突っ伏した。
掌から、アスファルトのザラついた感触と熱が伝わってくる。
「あれあれ? つかさっち、今日はここでギブアップ? もう一回首、括ってみる?」
バンシーが退屈そうに空中で寝そべりながら問いかける。
……死ぬ?
冗談じゃない。
母さんを殺し、僕を「ゴミ」と呼んだあいつらが笑っているこの世界で、僕だけが、このまま無様に消えてたまるか。
震える掌に力を込める。
「……っ、が……っ、あぁあ!」
泥にまみれた膝を、自らの手で強引に押し上げた。ミシミシと筋肉が悲鳴を上げ、脳が「止まれ」と警報を鳴らしている。
それでも。一歩、一歩だけ。
「よし、まだ、いけ……」
そう確信した瞬間、ふっと視界から色が消えた。
脳のスイッチを、誰かが無理やり引き抜いたような感覚。
僕は仰向けに、コンクリートの上へと倒れ込んだ。
「本日の記録ー、百五十メートル。……完走まで、あと八百五十メートルだね」
遠のいていく意識の隅で、事務的に記録をつけるバンシーの声が聞こえた。
最初の一キロ。
たかだかその距離ですら、僕はたどり着けなかった。
------------------------------------------------------
枕元で鳴り響く着信音で、僕は意識を強制的に引き戻された。大東京総合病院からだ。
入院費の精算、葬儀の手配、親戚の有無……。昨日と同じ冷たい事務連絡。僕は震える声で、身寄りがないことと、手持ちの金がないことを伝えた。すると電話の主は、少し声を潜めて
「お母様の保険証書や印鑑を持ってきてください」
と言った。
押し入れの奥、母さんが大切にしていた古い缶の中から、それらしい書類を掴んで、全身が痛む中、病院へ向かった。僕はこの日、生まれて初めて、学校を休んだ。
「……なるほど、確かに受領いたしました」
受付の女性は、書類を確認すると奥の人間とヒソヒソと話し込み、やがて僕に営業スマイルを向けた。
「千葉さん、安心してください。手続きはこちらで代行します。保険会社から直接病院に支払われるように手配しますから、あなたにお金を用意していただく必要はありません」
「えっ、本当ですか……?」
「ええ。本来は認められないのですが、今回は特別ですよ」
なんていい人なんだろう。地獄に仏とはこのことだ。
その後、役所の人間という男が現れ、淡々と告げた。
「お母様の葬祭関係ですが、こちらで弔います。あなたは未成年ですが、現在施設が一杯でしてね。空きが出るまで今の場所で生活してください。……では、そういうことで」
色々な大人たちに救われた。そう思って、僕は鉛のように重い体を引きずって家路についた。
だが、暗い居間で一息ついた瞬間、あの嫌な輝きが視界に飛び込んできた。
「つかさっちー、やられてんよー。おめでたいね、つかさっちー」
「……バンシー!? あれは夢じゃなかったの?」
「失礼な! 昨日、倒れた君を誰がここまで運んであげたと思ってるのさ」
「えっ、君が……?」
「いや、私の部下」
「違うんかい!」
思わずツッコミを入れた僕を無視して、バンシーは空中で足を組み、冷たく笑った。
「ねえ、病院の請求額、いくらだったか知ってる? 85万だよ」
「85万……!? お母さんが保険に入ってて本当に良かった。助かったよ」
「甘いねー。じゃあ、その保険金、全部でいくら下りるはずだったか知ってる?」
「え……? わからないけど、同じ金額くらいじゃないの?」
バンシーは人差し指を突き立て、残酷な真実を告げた。
「正解はーッ! 一千万円でしたー! 死亡保障、特約込み込みでね!」
「いっ、一千万……!? どこからそんな大金……」
「無知は罪だねぇ。月々数千円の掛け捨てでも、死んだらそれくらい出る契約だったんだよ。病院側はね、君が何も知らない子供なのをいいことに、委任状にサインさせて保険金を丸ごと掠め取ったのね。役所も面倒な君を引き取りたくないから、施設がいっぱいなんて嘘をついて放置した。君から『一千万』を奪うために、大人たちが手を取り合ったんだよ。無知は罪だねぇ。あ、2回言っちゃった」
血の気が引いた。全身から汗が噴き出す。
「い、今から病院に行って返してもらう! お母さんが、僕のために遺してくれたお金なんだ!」
「無駄だよ。もう手続きは終わってるよ。法的に完璧な書類を揃えられて、あーだこーだ言い訳されて追い返されるのがオチさ。つかさっち、君はたった今、お母さんの遺産を盗まれたんだよ」
僕は床に膝をつき、拳を握りしめた。悔しくて、情けなくて、涙が止まらない。
母さんが命を削って遺してくれたものを、あの「いい人」たちは笑いながら奪っていったのだ。
「ま、失ったものは戻らない! 気を取り直して、明日に向かって走ろうじゃないか!」
「え……走る? また? 僕、全身筋肉痛でもう一歩も走れないんだけど」
「あのね、筋肉痛を治す唯一の方法!それは、さらに走ることなんだよ! ほら、ゴーゴー!」
無理やり玄関に押し出された。
怒りと、悲しみと、理不尽な筋肉の痛み。
僕は泣きながら、また夜の街へ駆け出した。肺が壊れそうになり、再び意識が遠のく。
「……あと、五百メートル……」
微かに聞こえるバンシーのカウント。
保険金を奪われ、母を失い、ボロボロになった僕。
それでも僕は、まだ走らされている。




