第六話 最初の一歩。
「うーん……弱ったなぁ。これ、どうしよ」
バンシーは宙に浮いたまま、ポリポリとピンク色の髪を掻いた。どうやら、僕が死ななくて困ってるようだった。
「……君、は……誰なんだ?」
僕はまだ、床に転がったまま掠れた声で問いかけた。
「あー、えーっとね。予定では君、ここでバシッとお亡くなりになって、異世界に転生するはずだったの。私はその案内人! 死ぬはずだった君を、光り輝く新天地へエスコートするのがお仕事なんだけど……」
バンシーはドギマギしながら、僕の首に巻きついたままのバスタオルを指差した。
「ちょーっとばっかし私が登場を急ぎすぎちゃったみたいで、君に姿が見えちゃったんだよね。死んだ人にしか見えないはずなのに。テヘペロ☆」
「テヘペロ……って……」
唖然とした。が、なんとなく状況がわかってきた。
「じゃあ、僕は死ななかった。だから、転生もしない。……それでいいんだね?」
「うーん、そんなイレギュラー、マニュアルに載ってないんだよねー。んー、 ちょっと待ってね、本部に確認するから」
バンシーは空中で見えないインカムに手を当て、通信を始めた。
「あー、モルス氏? こっち見てた? ……あ、そっか、見てなかった?あー、 今日あのドラマの配信日だったっけ! ギャハハ! ウケる! ……ケラケラケラ!ケラケラケラケラッ!」
……僕の生き死にがかかっているというのに、この妖精、向こう側でめちゃくちゃ盛り上がっている。
「じゃなくてー! つかさっちがさぁ、死にぞこなってね」
流石に、その言い方はないだろ、と僕は心で思った。
「……はい、はいはい。えー、でもぉ。……あー、はいはい。うんうん。わかりましたよーだ。おっけー、了解でーす」
通信を終えたバンシーは、何事もなかったかのように僕に向き直った。
「誰と話してたの?」
「え、知らない人」
僕は思わず、床に盛大にズッコけた。人生で一番「死」に近い場所にいるはずなのに、なんだこの緊張感のなさは。
「あはは! つかさっち、ノリいいじゃん!」
「笑い事じゃないよ! ……で、本当は誰なのさ」
「モルス様。私の直属の上司で、あの世界の管理職。君たちがいうところの『死の女神』かな」
「神!? いたのか、本当に……」
「まあ、君たちがイメージしてる威厳たっぷりな感じとはちょびっと違うかもだけど」
「で、モリス様はなんか言ってた?」
「別に」
二度目のズッコケ。僕は天を仰いだ。
「なんだよ、君! ふざけてるならもう帰ってよ!」
「まあまあ、落ち着いて。私だって上司に『お前のミスなんだから、責任持って面倒見ろ』って丸投げされちゃったんだから」
「面倒って、何を……」
「日々のアドバイス? つかさっちが、このクソみたいな世界で『死なずによかった』って思えるようにさ。……あ、早速アドバイス第一弾!」
バンシーがビシッと僕の鼻先を指差した。
「とりあえず、今から一キロ走ってらっしゃい!」
「……はぁ? ちょっと待ってよ、僕が今日、どんな目に遭ったか知ってるの!?」
「知ってる知ってる。今日の出来事をAIに10文字で要約してもらったから」
「10文字!? 短すぎだろ!」
バンシーはケラケラと笑い転げながら、僕の背中を押す。
「いいからいいから! 走りきったら、ちゃーんと『ご褒美』あげるからさ!」
訳がわからないまま、僕は片方だけの靴を履き替え、玄関で運動靴の紐をギュッと結び直した。
首の痛みはまだ残っている。心はボロボロで、未来なんて一ミリも見えない。
でも、あのお気楽な妖精のせいで、死ぬタイミングを完全に逃したことだけは確かだった。
「……走ればいいんだろ、走れば」
僕はドアを開けた。
夜の冷たい空気の中に、一歩を踏み出す。
どうしようもない毎日だけど、僕は、転生しないで生きてみることにした。




