第四話 慟哭。
風呂場で泥を流し、冷えた指先で制服を洗った。けれど、割れた眼鏡のレンズだけは、どうしたって元には戻らない。
僕は机に向かい、ボンドでレンズの破片を繋ぎ合わせた。つぎはぎだらけの視界は、まるでひび割れたステンドグラスのようで、今の僕の心そのものだった。
「これじゃ……さすがにバレるかな」
押し入れの奥から、埃を被った貯金箱を引き出す。お父さんが生きていた頃から、コツコツと貯めていた小銭。これを足しにすれば、少しはお母さんの負担を減らせるだろうか。
そんなことを考えながら、いつものように見切り品のパンを齧り、イヤホンを耳に押し込んだ。
けれど、時計の針がいつものお母さんの帰宅時間を、一時間を過ぎた頃、僕の胸に嫌なざわつきが広がった。
「遅いな……。お店、忙しいのかな」
その時だった。
鼓膜を破らんばかりの勢いで、イヤホンが着信を告げた。
「……っ! あ、はい。千葉です」
『こちら、大東京総合病院です。千葉司さんでしょうか』
事務的な、温度のない女性の声。その一言で、部屋の空気が凍りついた。
お母さんが、緊急搬送された。一刻を争う容態だ。
その後の説明なんて、耳を通り抜けていった。僕はスマホと貯金箱の中のお金を掴み、靴をまともに履くことさえ忘れて夜の街へ飛び出した。
「お願い……お願い、お父さん。お母さんを連れて行かないで」
パニックで足がもつれる中、何かに祈った。そして通りかかったタクシーに飛び乗った。
病院の受付で、震える声で自分の名前を告げる。案内された部屋の扉を開けた瞬間、僕の時間は止まった。
そこには、真っ白な布を顔に被せられた「遺体」が横たわっていた。
「……お母、さん?」
返事はない。
「原因は詳しく調べないと分かりませんが、極度の栄養不良と、過労によるものかと思われます」
医者の淡々とした言葉が、刃物のように僕の胸を切り裂いた。
嘘だ。だって昨日まで、笑ってたじゃないか。僕に「高校だけは」って言ってくれたじゃないか。
僕は、その白い布を剥ぎ取った。
そこにいたのは、僕の知っているあの頃のお母さんではなかった。
頬はこけ、肌は土色に変色し、肩の骨が浮き出るほどに痩せ細った、見知らぬ老婆のような亡骸。
お母さんは、僕にご飯を食べさせるために、自分は何も食べていなかったんだ。夜の街で、心ない客に頭を下げ、身を削って、僕を学校へ通わせるためのお金を絞り出していたんだ。
「ああああああああああああああああッ!!」
喉の奥から、人間のものではないような絶叫が迸った。
悲しみなんて綺麗な言葉じゃ足りない。それは、僕の人生そのものが崩壊した音だった。
お父さんが死んで、家を追い出されて、学校ではゴミのように踏みつけられて。
それでも、お母さんがいたから。お母さんの笑顔があったから、僕は「真面目」という呪縛に縋って生きてこれたのに。
「なんで……なんでだよ! 僕が何をしたって言うんだ! ただ、普通に生きていたいだけだったのに! ささやかな幸せさえ、僕には許されないのかよ!」
視界が涙でぐちゃぐちゃになり、鼻の奥が焼けつくように痛い。喉が痙攣し、ひっくり返った声が夜の病棟に響き渡る。
神様なんていない。
もしいるのなら、これほどまでに残酷な仕打ちを、一人の高校生に背負わせるはずがない。
泣いて、叫んで、母さんの冷たい肩を揺さぶり続けた。
そんな僕の背中に、看護師が冷ややかな声をかけた。
「あの……もう、そろそろ」
彼女は、僕の人生が終わった瞬間に立ち会いながら、退屈そうにあくびを噛み殺した。
僕の絶望は、この世界にとって、眠気を誘う程度の「日常」でしかないのだ。




