第三話 黄昏色の空。
「へきしゅんッ!」
校門を出た瞬間、冷たい冬の風が濡れた制服を突き刺す。体の芯まで凍えて、歯の根が合わない。早く、早く帰ってお風呂に入って、着替えないと。
僕は足早に歩き出そうとした。だが、その足は校門の脇でピタリと止まった。
高級そうな香水の香りと、品のいい、けれどひどく冷酷な笑い声。
二階堂伊織と、花菱翠がそこにいた。
「おい千葉ぁ。帰宅部のくせに帰るの遅えじゃん。居残り練習でもしてたのかよ、豚のモノマネとかの」
短い金髪の目立つ、二階堂がニヤニヤと近づいてくる。証券会社の副社長を父に持つ彼は、常に他人を「自分より下の価値」としてしか見ていない。
「……あ、うん。ちょっと、ね」
「てか、めっちゃ濡れてんじゃん。冬なのに脂汗? 汚ったな」
政治家の娘である花菱が、高価な鞄を盾にするようにして顔を顰めた。彼女の両親は高名な代議士だ。その気になれば、事件の1つや2つ、もみ消すことなど容易いほどの権力を持っている。
「そうなんだよ、ほら、僕、太ってるからさ。自家発電?」
僕は引きつった顔で、精一杯の自虐を投げた。かつてなら、これで「お前バカだなあ」と笑ってもらえた。でも、今の彼らにとって、僕の言葉はただの雑音に過ぎない。
「……全然面白くねえよ、デブ」
二階堂の目が冷たく据わった。
「そういやお前さ、母親がスナックで働いてるんだって? 酔っ払いのジジイに酒注いで小銭稼いでんの? 惨めだねえ」
心臓が跳ね上がった。隠しておきたかった、母さんの必死な日常。
「あ……それは、その、あんまり大声で言わないでほしいな……」
「あぁ、貧困家庭ってやつ? 可哀想。パパに言って、援助金でも回してあげよっか?」
花菱がスカートの裾をひらひらさせながら、慈悲を与える聖女のような顔で言った。
代議士の娘である彼女なら、もしかしたら本当に。
一瞬、愚かにも僕は希望を抱いた。だが。
「なーんか面白いことしてくれたら、考えてあげなくもないけど?」
「面白いこと……って?」
「んー。二階堂と、総合?」
「……え? 総合って、何?」
「総合格闘技だよ、バカ。スポーツ。だから、これは『いじめ』じゃねえぞ? なあ?」
二階堂が既にファイティングポーズをとっていた。喧嘩どころか、テレビの乱闘シーンすら苦手な僕に、戦う術なんてあるはずがない。
「ほら、お前も構えろよ。スポーツマンシップだぜ?」
見様見真似で、震える拳を構える。次の瞬間。
「がはっ……!?」
無遠慮な拳が、僕の柔らかい脇腹にめり込んだ。
「おっと、ガードが甘いぞ!」
スポーツを装った蹂躙。二階堂の拳が、掌が、膝が、面白半分に僕の体を叩く。
避けられない。痛い。苦しい。
やめてくれ、と叫ぶ声すら、重い衝撃で肺から追い出される。
そして、最後の一撃。
二階堂の重いストレートパンチが、僕の顔面を真っ向から捉えた。
「――あが」
火花が散る視界の中で、僕の眼鏡が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられた。
視界が急激にボヤける。這いつくばって眼鏡を探そうとした僕の手の先に、カツカツと小気味いい靴音が近づいてきた。
「あ、ごめーん。拾おうと思ったんだけどぉ」
パキッ、という乾いた音。
花菱が、僕の眼鏡のレンズを、その華奢なローファーで完璧に踏み抜いた。
確信犯的な、あまりに冷酷な「うっかり」だった。
「……あ、いいんだ。……それで、あの、面白かった、かな?」
僕は激しく喘ぎながら、口に入った泥を噛みながら聞いた。
「面白かったら……ご両親に、言ってくれる、んだよね……?」
花菱は、心底気味が悪いものを見る目で僕を見下ろした。
「は? なんであんたみたいな底辺のこと、パパやママに話さなきゃいけないの? 汚れるわ。……行こう、二階堂。キモすぎて鳥肌立っちゃった」
ぞろぞろと去っていく彼らの背中を、僕は見送ることしかできなかった。
歪んで片方のレンズが割れた眼鏡を、震える手で拾い上げる。
こんなものでも、かけていないと、家に帰ることすらままならない。
歪んだ視界の中で、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
(……お母さんに、なんて言おう)
制服はドロドロ。眼鏡はボロボロ。
スーパーのレジ打ちとスナックの仕事で、指先をひび割れさせてまで僕を高校に通わせてくれているお母さんに、僕はどんな顔をして会えばいいんだろう。
黄昏色に染まる絶望は、冬の冷気よりもずっと深く、僕の体を凍りつかせていた。




