第二話 汚れ。
ようやく、教室の片付けが終わった。
ゴミを捨て、床を拭き、濡れた制服を雑巾のように絞る。そんなことをしているうちに、窓の外はすっかり黄昏色に染まっていた。
鞄を肩にかけ、逃げるように教室を飛び出したその時だ。
「おっと、千葉。……まだ残ってたのか」
廊下の向こうから、聞き慣れた明るい声がした。
担任の三田村先生だ。二十五歳、独身。清潔感のある短髪に、爽やかな容姿。生徒からは「ミッチー」と慕われ女子生徒からだけではなく、男子生徒にも人気だ。保護者からも「理想の教師」と絶賛される男だ。
「……三田村先生。さようなら」
僕は顔を伏せたまま、短く挨拶して通り過ぎようとした。けれど、三田村先生の長い腕が、僕の肩を親しげに、それでいて逃がさないような力強さで掴んだ。
「あー、千葉。ちょっといいか? ……お前、なんだ。その格好。ずぶ濡れじゃないか」
三田村先生の声は、いかにも教え子を心配しているような、優しさに満ちたトーンだった。
僕は足元を見つめたまま、言葉に詰まる。
本当のことを言って、助けてもらおうか。いや、でもお母さんに知られたら悲しませる。もし黒丸たちにバレたら、明日は水じゃ済まないかもしれない。
僕が迷い、唇を噛み締めていた、その時だった。
「……お前さ、その薄汚いツラを誰にも見せるなよ。いいか?」
耳元で、温度を失った声がした。
驚いて顔を上げると、そこには、相変わらず「爽やかな先生」の笑顔を浮かべた三田村先生がいた。
「あー……黒丸たちだろう? 知ってるよ。でもな、千葉。誰にも言うな。もちろんお前の親にも、他の教師にもな」
三田村先生は僕の肩に置いた手に力を込め、グイと自分の方へ引き寄せた。
「俺の評価に傷がついたら困るんだよ。わかるだろ? この学校はさ、お前みたいな『ゴミ』が一人消えるより、俺みたいな『優秀な教師』が一人汚れることの方が大損害なんだよ。校長だってな、お前のいじめをもみ消せって俺に言ってる。校長もペケがつくの嫌なんだよ」
そういうと、僕の顔に指でペケを書く。
「そん、な……」
僕の喉から、震えた声が漏れる。
三田村先生は、僕の濡れた制服で汚れた自分の手のひらを、嫌悪感を隠さずに僕の肩で拭った。
「変な動きをしてみろ。速攻で退学に追い込んでやるからな。……いいな、千葉。」
三田村は最後にもう一度、廊下を通りかかった他の生徒に見せつけるように、僕の肩を「ポン」と励ますように叩いた。そして、素晴らしい生活指導を終えた聖職者のような、すがすがしい顔で歩き去っていった。
西日に照らされた長い廊下。
僕は一人、自分の靴音さえ聞こえないような静寂の中に放り出された。
絶望、という言葉では足りなかった。
それは、僕がこの社会というシステムから、正式に「除外」されたことを告げる宣告だった。
学校も、教師も、大人も。
誰も、僕を人間としては見ていない。
僕はただ、彼らの平穏を乱さないためだけに、黙って踏みつぶされ続けるだけの「汚れ」なのだ。




