タイトル未定2026/01/23 21:12
文化祭まで、あと一週間。
教室に足を踏み入れた瞬間、いつもとはまるで違う空気を感じた。
机は壁際へと寄せられ、中央には段ボールや模造紙、カラーペンが散乱している。
天井近くには、誰かが試しに吊るした装飾がぶら下がっていて、まだ完成していないそれが、文化祭前独特の落ち着かない高揚感を醸し出していた。
「じゃあ、シフトはこの時間帯で回そう」
教室の中心で、朝倉凪がホワイトボードを指しながら言う。
その一言で、周囲のクラスメイトたちが一斉に動き出す。
――やっぱり、すごい。
誰かに命令しているわけじゃない。
でも、凪の言葉には自然と人を動かす力があった。
私は少し離れた窓際で、メニュー表の文字をなぞりながら、その光景を眺めていた。
以前なら、ただ「すごいな」と思うだけだったはずなのに、今は胸の奥に、言葉にできない感情が沈んでいる。
近づいたはずの距離。
それなのに、どこか遠い。
齋藤えみるが、このクラスに戻ってきてから――
私の中の時間が、過去と現在を行き来するようになってしまった。
「咲」
名前を呼ばれて顔を上げると、えみるが立っていた。
「買い出し、人数足りないみたい。
一緒に行かない?」
その言葉に、一瞬だけ迷う。
視線の端で、凪の姿を探す。
彼女は今、男子たちとレイアウトの話をしていて、こちらには気づいていなかった。
「……うん」
答えた自分の声が、少しだけ弱く聞こえた。
校舎を出ると、夕方の空気が肌に触れる。
夏の手前の、少し湿った風。
えみるとは並んで歩いているのに、どこか距離を感じてしまう。
「文化祭、楽しみ?」
えみるが、何気ない調子で聞いてきた。
「……どうかな」
「咲、昔から人混み苦手だったよね」
その一言で、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「覚えてたんだ」
「忘れるわけないでしょ」
笑いながら言うえみるの横顔は、確かに昔と重なる。
でも、完全に同じじゃない。
「ねえ、咲」
少し間を置いて、えみるが言った。
「朝倉さんのこと……好き?」
唐突すぎる質問に、足が止まりそうになる。
「……分からない」
そう答えるのが、精一杯だった。
好き。
憧れ。
安心する存在。
どれも当てはまる気がして、どれも違う気もする。
「そっか」
えみるは、それ以上踏み込まなかった。
でも、その声は少しだけ沈んでいた。
「私ね」
スーパーの自動ドアが開く音に紛れて、えみるが続ける。
「ここに戻ってきたの、偶然じゃないんだ」
「……え?」
「もう一度、咲と話したかった」
胸の奥が、静かに揺れる。
「昔みたいに、ってわけじゃない。
でも……あのまま終わりにしたくなかった」
過去を、引きずっているのは私だけじゃなかった。
その事実が、少しだけ救いで、少しだけ重たい。
買い物を終えて教室に戻ると、凪がこちらを見ていた。
ほんの一瞬だけ、表情が曇る。
「おかえり」
そう言って笑う凪は、いつも通り完璧で。
だからこそ、私は思ってしまった。
――この人は、どれだけの感情を隠して、ここに立っているんだろう。
文化祭前夜。
浮かれる教室の中で、
私たち三人の距離は、確かに少しずつ歪み始めていた。




