気づいてしまう距離
朝の空気は、思っていたよりも柔らかかった。
冬の名残はまだ残っているけれど、刺すような冷たさはない。
朝倉凪は、駅へ向かう途中でそんなことを考えていた。
季節が変わる、その境目にいる感覚。
(……変わったのは、季節だけじゃないな)
昨夜のやり取りを、無意識に思い返す。
「今日はありがとう。楽しかった」
「こちらこそ。無理してなかった?」
自分の返した言葉が、やけに事務的だった気がして、少しだけ眉をひそめる。
(もっと、他に言い方あっただろ)
咲の言葉は、確かに嬉しかった。
なのに、それを受け取る自分は、どこか慎重すぎた。
——距離を間違えないように。
それは、長年の癖だ。
人と深く関わるほど、相手の反応を気にしすぎてしまう。
踏み込みすぎれば、期待させる。
引きすぎれば、冷たく見える。
そのバランスを取るのが、昔から得意だった。
(でも)
咲に対しては、その“慣れ”が邪魔をしている気がする。
改札を抜け、ホームに立つ。
人の流れに紛れながら、ふとスマートフォンを見る。
既読はついている。
それ以上のやり取りはない。
(……考えすぎか)
そう思おうとして、やめた。
考えすぎるのは、咲の前ではやめようと決めたはずなのに。
電車に揺られながら、凪は目を閉じる。
咲の表情が、頭に浮かんだ。
笑っていた。
穏やかで、優しくて。
でも——どこか、言葉を飲み込んでいるようにも見えた。
(俺のせい、か?)
そう思った瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。
自分の何気ない言動が、
彼女を不安にさせている可能性。
それに気づいてしまった以上、
もう「気づかないふり」はできない。
(……ちゃんと、向き合わないと)
仕事の予定が頭をよぎる。
忙しい一日。
それでも、凪は心の中で決めていた。
次に会うときは、
“慣れた優しさ”じゃなくて、
“選んでいる言葉”で話そう、と。
電車が次の駅に滑り込む。
扉が開き、人が入れ替わる。
その流れの中で、凪は静かに息を吐いた。
まだ、はっきりとはわからない。
でも——。
何かが、少しずつズレ始めている。
そしてそのズレは、
きっと見過ごしてはいけないものだ。
昼休み、凪は社屋の裏にある小さなベンチに腰を下ろしていた。
缶コーヒーを片手に、ぼんやりと空を見上げる。
雲は薄く、風も穏やか。
なのに、頭の中だけが妙に落ち着かない。
(……咲は、何を考えてたんだろうな)
昨日の表情。
笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ滲んだ迷い。
見なかったことにしようと思えば、できた。
そうしてきた経験は、いくらでもある。
凪は、過去の自分を思い出す。
深く踏み込まない関係。
相手に期待させない距離。
でも、完全に突き放しもしない。
それは優しさでもあり、
同時に、責任を引き受けない逃げ道でもあった。
(……最低だな)
自嘲気味に息を吐く。
相手を傷つけたつもりはなかった。
でも、相手がどう感じていたかまでは、ちゃんと考えていなかった。
——咲と再会するまでは。
彼女は、昔からそうだった。
人の感情に敏感で、寄り添うことを自然に選ぶ。
だからこそ、凪の曖昧さを、
“理解しよう”としてしまう。
(それが、一番怖い)
自分がはっきりしないせいで、
彼女が我慢する構図だけは、繰り返したくなかった。
スマートフォンが震える。
仕事の連絡。
画面を閉じたあと、凪はふと、
咲の名前を思い浮かべる。
他の誰かと同じ扱いには、できない。
それは、もう自覚している。
(俺は……)
選びたい。
逃げずに、向き合いたい。
でも同時に、
自分の過去が、足を引っ張っている気もする。
——咲は、それに気づいているだろうか。
もし気づいていたら。
それでも、彼女は笑ってしまうのだろうか。
凪は缶を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
過去は消えない。
でも、繰り返す必要もない。
その当たり前のことを、
ようやく自分は理解したのかもしれない。
午後の仕事が始まる時間が近づいていた。
それでも、心の中には一つの決意が芽生えている。
——次に会うときは、
ちゃんと、言葉を選ぶ。
彼女が、「察する側」でいなくて済むように。
仕事を終えてビルを出ると、空はすでに暗くなり始めていた。
街灯が灯り、昼とは別の顔を見せる街を、凪はゆっくり歩く。
スマートフォンを取り出し、画面を点けては消す。
何度目かも分からない動作。
(……今、送るべきか)
「元気?」
「今日どうだった?」
どれも違う気がして、結局打たない。
言葉を選ぶ、というのはこういうことだ。
軽すぎても、遠すぎてもいけない。
昔の自分なら、迷わなかった。
適当に言葉を投げて、相手の反応を見てから調整すればよかった。
(でも、もう)
それじゃだめだ。
咲は、察してしまう人だ。
こちらが曖昧でいればいるほど、
自分の中で答えを探してしまう。
それが、どんなに優しい行為でも。
凪は足を止め、夜空を見上げた。
雲の隙間に、星が一つだけ見える。
(俺が、ちゃんと話せばいいだけなのに)
簡単なはずなのに、怖さもある。
拒まれるかもしれない。
重いと思われるかもしれない。
でもそれは、
今まで自分が避けてきた「当たり前のリスク」だ。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
一瞬、心臓が跳ねる。
画面を見ると、咲からだった。
「今日はお疲れさま。寒くなってきたね」
他愛ない一文。
でも、胸の奥がじんわりと温かくなる。
凪は、ゆっくりと文字を打った。
「ありがとう。咲も無理してない?」
送信してから、息を吐く。
少し前の自分と、同じ言葉。
でも、意味は違う。
——逃げるためじゃない。
ちゃんと向き合うための、一歩目だ。
すぐに返事が来る。
「大丈夫だよ。気にしてくれてありがとう」
その文面を見て、凪は思う。
(やっぱり、この人は)
自分の言葉一つで、
こんなにも柔らかく受け止めてしまう。
だからこそ曖昧なままではいられない。
凪はスマートフォンを握りしめた。
次に会うとき。
近いうちに。
そのときは、ちゃんと伝えよう。
過去の自分がどうだったか。
これから、どうしたいのか。
選ぶ覚悟があることを。
夜の街を歩きながら、凪は静かに決めていた。
この距離に、名前をつけるのはもう怖くない。
怖いのは、
何も言わずにすれ違うことだけだ。




