優しさの行き先
駅の改札を抜けてからも、胸の奥が少しだけ温かいままだった。
それが嬉しくて、同時に、ほんの少し怖い。
葭葉咲は、帰りの電車の窓に映る自分の顔をぼんやりと見つめる。
昔より大人びたはずなのに、感情の揺れ方は、あの頃とあまり変わっていない。
(……また会えた)
それだけのことなのに、心が軽くなる。
でも同時に、凪の言葉や仕草が、何度も頭の中で再生されていた。
——誤解されたくない。
あの一言。
咲に向けて選ばれた言葉。
(嬉しい、はずなのに)
なぜか、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
凪は、昔から優しかった。
誰に対しても、自然体で、距離を詰めるのが上手で。
それが悪いことだなんて、思ったことはない。
——むしろ、救われてきた。
(でも)
今日の凪は、少し違って見えた。
言葉を選ぶときの間。
踏み込みそうで、踏み込まない距離。
優しさの向け先を、意識的に限定している感じ。
(私だけ、って思っていいのかな)
そう考えてしまう自分に、咲は小さく首を振った。
期待しすぎない。
決めつけない。
それが、大人になるということだと、自分に言い聞かせてきた。
「……らしくないな」
誰もいないホームで、ぽつりと呟く。
十年前。
名前をつけるのが怖かった恋。
今はもう、怖くないと思っていた。
でもそれは、傷つく覚悟ができた、という意味ではない。
(凪は、ちゃんと前を向いてる)
それは、わかる。
だからこそ、自分も追いつきたいと思ってしまう。
——追いつこうとしている時点で、もうバランスが崩れているのかもしれないのに。
電車がホームに滑り込む。
ドアが開く音に、咲は小さく息を吸った。
(大丈夫)
そうやって、自分に微笑みかける癖は、昔から変わらない。
誰かを大切にするために、
自分の不安を後回しにする癖も。
それが、優しさなのか。
それとも——。
答えはまだ、見えなかった。
翌日の昼休み。
咲は職場近くのカフェで、同僚の女性と向かい合っていた。
「で、その人が例の?」
「……うん」
ストローを指先でいじりながら、曖昧に頷く。
詳しく話すつもりはなかったはずなのに、名前を伏せただけで、再会したことは口にしてしまっていた。
「へえ。十年ぶり?」
「正確には、もう少し前にも一度だけ会ってるけど」
同僚は興味深そうに身を乗り出す。
「映画みたいだね。で、どんな人?」
「優しい、かな」
「それだけ?」
咲は少し考える。
「……距離感が上手」
言葉にした瞬間、自分の胸がわずかに痛んだ。
「ふーん」
「なに?」
「いや、なんとなく」
同僚は意味ありげに笑う。
「モテそう」
「え?」
思わず声が上ずる。
「そういう人って、無自覚に女の人を安心させるタイプじゃない?」
「……そうかも」
否定したかった。
でも、完全には否定できなかった。
咲の中に浮かぶのは、昨日の凪の姿。
言葉を選びながらも、相手を傷つけない距離で話す横顔。
「悪い意味じゃないよ?」
「うん、わかってる」
同僚は軽く肩をすくめる。
「むしろ、大人だなって思う」
「……そうだね」
咲は笑って応じた。
それが一番、角の立たない反応だとわかっていたから。
でも、心の奥では別の声が囁いている。
(私も、その“安心させられる一人”なんじゃないか)
凪にとっての優しさは、特別じゃない。
誰にでも向けられるもの。
そう考えると、胸の奥がひやりとする。
カフェを出たあと、一人になった道で、咲は立ち止まった。
「……それでも」
小さく、独り言。
十年前も、同じように思っていた。
自分だけじゃないかもしれない、という不安。
それでも、凪の隣にいたかった。
(今回も、同じ?)
答えは、まだ出ない。
でも一つだけ、確かなことがある。
凪は、簡単に人を切り捨てない。
だからこそ、誰か一人を選ぶのが、きっと苦手だ。
——その不器用さを、知っているから。
咲は、スマートフォンを取り出し、凪とのメッセージ画面を開いた。
最後のやり取りは、昨日の「またね」。
指を動かしかけて、止める。
(今、送るべきかな)
重くなりすぎない言葉。
軽すぎない距離。
咲は、まだ迷っていた。
帰宅して、コートを脱ぎ、部屋の灯りをつける。
静かな空間に、一人分の生活音だけが響いた。
ソファに腰を下ろし、咲はスマートフォンを手に取る。
画面には、凪とのやり取り。
——またね。
それだけの言葉。
なのに、何度も読み返してしまう。
(私は、なにを怖がってるんだろう)
凪が優しいことは、今に始まったことじゃない。
誰かに寄り添う癖も、距離の取り方も、昔から変わらない。
それを知っていながら、再び彼の隣に立とうとしているのは、自分だ。
(だったら)
覚悟を決めるべきなのは、凪じゃなくて——。
咲は、ゆっくりと文字を打った。
「今日はありがとう。楽しかった」
送信。
すぐに返事が来るとは思っていなかった。
なのに、数秒後。
「こちらこそ。無理してなかった?」
凪らしい言葉。
相手を気遣いすぎるところも、変わらない。
咲は、少しだけ笑った。
「してないよ。ちゃんと、嬉しかった」
一拍置いて、またメッセージが届く。
「それならよかった」
たったそれだけ。
でも、不思議と胸が落ち着く。
(この人は、逃げない)
優しさは、誰にでも向けられるものかもしれない。
それでも、凪は「向き合うこと」から目を逸らさない。
十年前は、それができなかった。
でも今は、少し違う。
(私も)
咲はスマートフォンを胸に抱えた。
期待しすぎない。
決めつけない。
それでも、信じてみる。
それが、大人になった自分の選択。
窓の外では、街灯が静かに光っている。
雪はもうない。
でも、冬が完全に終わったわけじゃない。
それでも——。
「……ゆっくりでいい」
咲は、凪に言った言葉を、今度は自分自身に向けて呟いた。
名前をつけた恋は、まだ形を変えながら続いている。
不安も、期待も、全部抱えたまま。
それでも前に進もうとする、その気持ちだけは、確かだった。




