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雪解けの後

雪はもう降っていなかった。

 それでも、歩道の端や建物の影に残る白が、確かに冬がここにあったことを黙って主張している。

 朝倉凪は、駅前の通りをゆっくりと歩いていた。

 休日の午後にしては人通りが少なく、空気は妙に落ち着いている。吐く息が白くならないことに、少しだけ違和感を覚えた。

 ——あの夜から、まだ数日しか経っていない。

 十年ぶりの再会。

 雪の降る夜。

 そして、名前をつけることを恐れていた感情に、ようやく触れた瞬間。

 思い出すたびに、胸の奥が静かに鳴る。

 高鳴るというより、確かめるような感覚だった。

「……ここ、だったよな」

 凪は、足を止めて小さな喫茶店を見上げた。

 ガラス張りの店内には午後の光が差し込み、外からでも落ち着いた空気が伝わってくる。

 十年前なら、きっと選ばなかった店だ。

 もっと騒がしくて、理由もなく賑やかな場所を選んでいたと思う。

 扉に手をかけ、一度だけ深呼吸をする。

 特別な約束じゃない。

 「会おう」と言っただけの、簡単な約束。

 それなのに、心臓の音がやけに大きく感じられた。

 扉を開けると、ベルが控えめに鳴る。

「いらっしゃいませ——」

 店員の声に応える前に、視線の先で誰かが立ち上がった。

「凪」

 葭葉咲だった。

 窓際の席。

 膝にコートを掛け、両手でカップを包むように持っている。

 あの夜よりも、少しだけ日常に近い姿。

 それでも、目が合った瞬間に浮かべた笑顔は、確かに凪の知っている咲だった。

「久しぶり……って、言うほどでもないか」

「そうだな。でも、なんか変な感じ」

 向かいの席に座ると、テーブルの上にはすでに二人分の水が置かれていた。

 自分が来ることを、最初から想定していた証拠。

 それだけのことが、妙に嬉しい。

「寒くなかった?」

「思ったよりは。もう冬も終わりだね」

 咲はそう言って、窓の外に視線を向けた。

 そこに映る景色が、過去ではなく“今”であることを、確かめるように。

 凪は、ふと気づく。

 ——この人と、ちゃんと時間を進めている。

 それは、安心でもあり、少しの不安でもあった。

 注文を終えると、再び静かな時間が戻ってきた。

 店内には、カップが置かれる小さな音と、遠くで流れる控えめな音楽だけがある。

「……不思議だね」

「なにが?」

「こうして向かいに座ってるの」

 咲は、指先でカップの縁をなぞりながら言った。

「十年も経ったのに、全然“久しぶり”って感じがしない」

「それ、俺も思った」

 正直な感想だった。

 もっと気まずくなるか、逆に変に盛り上がるか、そのどちらかを想像していた。

 でも実際は違う。

 まるで、少し長めの間を空けただけの続きを話しているような感覚。

「変わったところ、ある?」

「……あるよ」

 凪は少し考えてから、言葉を選んだ。

「落ち着いた。いい意味で」

「それ、よく言われる」

 咲は小さく笑う。

「凪は?」

「私は……どうだろうな」

 自分のことを語るのは、昔からあまり得意じゃない。

「昔より、考えるようになったかも」

「考えすぎてる感じ?」

「否定できない」

 二人して、くすっと笑った。

 笑い合う、その一瞬が心地いい。

 でも同時に、凪の胸の奥には、言葉にできない慎重さがあった。

 ——踏み込みすぎないように。

 あの夜、確かに想いを伝えた。

 けれど、それで何かが“決まった”わけじゃない。

「ねえ、凪」

「うん?」

「最近、どういう生活してるの?」

 咲の問いは、さりげなくて、でもちゃんと“今”に向いている。

「仕事行って、帰って、たまに外食して……特別なことはないな」

「そっか。相変わらずだね」

「悪いかよ」

「悪くない」

 咲はそう言って、少しだけ目を細めた。

「安心する」

 その一言に、胸の奥が静かに揺れる。

 依存じゃない。

 でも、確かに必要とされている感じ。

「咲は?」

「私は……忙しいけど、充実してるかな」

 一瞬、言葉が途切れた。

 ほんのわずかな間。

 凪は気づいたが、あえて何も言わなかった。

「ちゃんと、楽しいよ」

「なら、よかった」

 本心だ。

 それ以上を求めるのは、今じゃない。

 カップの中身が少しずつ減っていく。

 時間も、同じように静かに進んでいた。

 店を出ると、空気がひんやりとしていた。

 夕暮れが街を包み、昼と夜の境目が曖昧になっている。

「暗くなるの、早いね」

「冬の名残かな」

 自然と、並んで歩く。

 肩と肩の距離は近いが、触れない。

 凪はふと、自分の癖を思い出していた。

 女性と話すときの距離感。

 無意識に相手を安心させる言葉の選び方。

 深い意味はなくても、好意と受け取られがちな振る舞い。

 ——今までは、それで困らなかった。

 でも今は、少し違う。

「凪ってさ」

「ん?」

「昔から、優しいよね」

 咲は前を向いたまま言った。

「それ、褒めてる?」

「半分」

 苦笑いが混じる。

「誤解されやすいでしょ」

「……否定はしない」

 凪は正直に答えた。

 咲には、取り繕う気が起きなかった。

「昔は、それで逃げてた気がする」

「逃げてた?」

「誰かとちゃんと向き合うのが、怖くて」

 言葉にしてみると、思った以上に重い。

「でも、咲には」

「うん」

「誤解されたくない」

 咲は足を止め、ゆっくりと凪を見る。

「それ、嬉しい」

 ただそれだけ。

 責めるでも、期待するでもなく。

「凪は、変わったよ」

「そうかな」

「うん。ちゃんと、考えてる」

 その言葉に、胸の奥が少し熱くなる。

 ——この人の前では、軽く振る舞えない。

 駅前に着くと、人の流れが増えてきた。

 ここで別れる、いつものタイミング。

「今日はありがとう」

「こちらこそ」

 一瞬、言葉に詰まる。

 手を伸ばせば、触れられる距離。

 でも凪は、あえて動かなかった。

「また、会おう」

「うん」

 咲は柔らかく笑って、改札へ向かう。

 その背中を見送りながら、凪は思う。

 ——今までみたいな“優しさ”じゃ、足りない。

 彼女を大切にするって、

 きっと、ちゃんと選び続けることなんだ。

 雪解けのあとの空気は、まだ少し冷たい。

 それでも、確かに前に進んでいる感触があった。

 この恋は、もう曖昧さに隠れられない。

 そう、凪は静かに自覚していた。

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