それでも、この気持ちは名前を欲しがる
冬の気配が、校舎の隙間に入り込むようになっていた。
朝の空気は少し硬く、吐く息が白い。廊下を歩く生徒たちの足音も、どこか年末を意識しているようで、せわしない。
朝倉凪は、窓際の席に座りながら、校庭を眺めていた。
葉を落とした木々の向こうで、グラウンドを横切る風が砂を巻き上げる。その景色を見ていると、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ沈殿していく気がした。
――ここまで来たんだな。
そんな実感が、ふいに湧く。
隣の席では、葭葉咲がノートを閉じて、大きく伸びをした。
「寒くなったね」
「うん。もう、すぐ冬だ」
それだけの会話。
けれど、その“それだけ”が、少し前の二人にはなかったことを、凪は知っている。
齋藤えみるが転校してきてから、三人の時間は大きく揺れた。
過去が暴かれ、感情がぶつかり、言葉にできなかった想いが、何度も行き場を失った。
それでも――。
凪は、そっと胸に手を当てる。
そこにある感情は、もう“痛み”だけではなかった。
昼休み。
屋上へ向かう階段で、咲が足を止める。
「ねえ、凪」
「なに?」
咲は一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせ、それから、いつもの少し照れた笑顔で言った。
「ここまで来れたの、ちゃんと凪が話してくれたからだと思ってる」
「……それ、今言う?」
「今だから、かな」
屋上のドアを開けると、冷たい風が二人を迎えた。
空は高く澄んでいて、雲がゆっくりと流れている。
凪は手すりに寄りかかり、遠くを見る。
「昔さ……」
「うん」
「気持ちに名前をつけるの、怖かったんだと思う」
「名前?」
「友達とか、幼なじみとか、そういう安全な呼び方のままにしておけば、壊れない気がして」
咲は何も言わず、凪の言葉を待つ。
「でも、名前をつけなかったから、失ったんだって……最近、やっと分かった」
凪は息を吸い、ゆっくり吐く。
「好きって言葉も、恋って気持ちも、便利じゃない。守ってくれない。でも……ちゃんと向き合わないと、何も始まらないんだなって」
その言葉に、咲の目がわずかに揺れる。
「……それってさ」
「うん」
「今の気持ちにも、名前をつけたいってこと?」
凪は、少しだけ笑った。
「たぶんね。でも、急がなくていいとも思ってる」
「どういうこと?」
「名前がつく前の、この時間も……嫌いじゃないから」
咲は一瞬驚いたように目を見開き、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「ずるいな、それ」
「そう?」
「でも……うん。私も、嫌いじゃない」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちる。
それは、気まずさではなく、共有された“余白”だった。
放課後、教室を出るとき。
えみるが、少し離れたところから二人を見て、静かに微笑んだ。
もう、追いかけることも、割り込むこともない。
それでいい、と心から思えた。
――それぞれの場所で、それぞれの想いが、ちゃんと前に進んでいる。
凪は、ふと立ち止まり、咲を見る。
「ねえ、咲」
「なに?」
「この物語に、もしタイトルをつけるとしたらさ」
「急にどうしたの」
「きっと、“まだ名前のない気持ち”についての話なんだと思う」
咲は少し考えてから、柔らかく笑った。
「でも、その気持ちは……いつか名前を欲しがるんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、それでいいんじゃない」
名前がなくても、確かに存在している感情。
怖くても、臆病でも、それでも前に進もうとする心。
それこそが、この物語が描いてきたものだった。
夕焼けに染まる廊下を歩きながら、凪は思う。
――これは終わりじゃない。
ただ、一つの答えに辿り着いただけ。
そして、時間は流れる。
ゆっくりと、確実に。
次にこの物語が語られるとき、
それはきっと、少し未来の――
特別な冬の日だ。




