この夜に、もう戻れないと知っていた
夜のプールは、
昼とはまるで別の場所みたいだった。
水面に映る照明が、
ゆらゆらと揺れて、
現実感を少しだけ奪っていく。
「……静かだね」
凪が、
プールサイドに腰を下ろして言った。
昼間の喧騒が嘘みたいに、
今は水の音と、
遠くの虫の声しか聞こえない。
「みんな、
部屋でゲームしてるみたい」
「そっか」
凪は、
水に足を入れて、
小さく波紋を作る。
水着姿の凪は、
いつもより少しだけ、
“無防備”に見えた。
でもそれは、
露出のせいじゃない。
表情だ。
(……緊張してる)
私も、
同じだったけど。
「咲」
「なに?」
「一緒に、
入らない?」
誘う声は、
軽いのに、
目は真剣だった。
「……うん」
水に入ると、
思ったより冷たくて、
息をのむ。
「冷っ」
「でしょ」
凪が、
くすっと笑う。
その笑顔に、
少しだけ救われる。
並んで、
ゆっくり歩く。
肩まで水に浸かると、
自然と距離が縮まる。
「……ねえ」
凪が、
声を落とす。
「今日さ」
「うん」
「ずっと、
考えてた」
水面が、
揺れる。
「昨日のこと」
「……うん」
「手、
離さなかったでしょ」
胸が、
きゅっとなる。
「うん」
「私ね」
凪は、
一度だけ息を吸う。
「正直、
怖かった」
「……なにが?」
「期待すること」
その言葉は、
水よりも冷たく、
でも、真っ直ぐだった。
「前はさ」
凪は、
遠くを見る。
「期待して、
信じて」
「それで、
壊れた」
私は、
何も言えなかった。
ただ、
凪の言葉を、
そのまま受け取る。
「でも」
凪が、
こちらを見る。
「それでも、
咲の手、
離したくなかった」
心臓が、
強く鳴る。
「……私も」
「うん」
それだけで、
十分だった。
しばらく、
何も話さずに水に浮かぶ。
夜空には、
星が少しだけ見えた。
「……綺麗」
凪が言う。
「うん」
「でも」
凪は、
小さく笑う。
「咲の方が、
ちゃんと見てる」
その言葉に、
胸が熱くなる。
「凪」
名前を呼ぶ。
「……なに?」
「怖かったら、
止まろう」
「でも」
「進みたかったら、
一緒に進もう」
凪は、
少し驚いた顔をして、
それから――
安心したように、
笑った。
「……ずるい」
五回目。
「咲って、
ほんとずるい」
「褒め言葉?」
「……多分」
凪は、
水の中で、
少しだけ近づく。
距離は、
もう誤魔化せない。
でも、
触れない。
「ねえ、咲」
「うん」
「私さ」
凪の声は、
震えていなかった。
「……ちゃんと、
恋していい?」
その問いに、
胸の奥が、
一気に満たされる。
「いいよ」
即答だった。
「凪が、
そうしたいなら」
凪は、
一瞬だけ目を閉じて、
それから開く。
「……ありがとう」
その声は、
とても柔らかかった。
部屋に戻ると、
布団が並んでいる。
電気を消すと、
暗闇が一気に広がる。
「……眠れる?」
凪が聞く。
「多分」
「私も」
布団に入って、
横になる。
間に、
ほんの少しだけ、
距離。
でも、
昨日より近い。
「ねえ、咲」
「なに?」
「今日さ」
「うん」
「一緒にいれて、
よかった」
胸が、
ぎゅっとなる。
「私も」
沈黙。
やがて、
凪が小さく言う。
「……手、
いい?」
私は、
何も言わず、
布団の中で手を伸ばす。
指が、
絡む。
今度は、
離さなかった。
この夜、
私たちはまだ、
恋人じゃない。
でも。
心は、
もう完全に、
同じ方向を向いていた。
そして、
私は確信していた。
この人となら――
ちゃんと、
恋をして、
ちゃんと、
傷ついてもいい。
夏の夜は、
静かで、
優しくて、
少しだけ怖い。
でもそれは、
恋が始まる音だった。




