守りたいと、思ってしまった
夏休みが始まってから、
時間の流れは少しだけ、形を変えた。
授業がないだけで、
一日がこんなにも静かになるなんて、
知らなかった。
午前中の図書室は、
特にそうだ。
冷房の音。
ページをめくる音。
外から聞こえる、蝉の声。
私は、
窓際の席に座っていた。
向かいの席には、
朝倉凪。
参考書を開いているけれど、
視線は同じところを行き来している。
(……集中できてないな)
そう思ったのは、
多分、
自分も同じだから。
「凪」
声をかけると、
少し遅れて顔が上がる。
「……なに?」
「さっきから、
同じページ」
「あ」
凪は、
小さく苦笑した。
「ばれた?」
「ばれるよ」
「……そっか」
凪は、
本を閉じて、
深く息をついた。
「無理しなくていいよ」
そう言うと、
凪は一瞬だけ、
目を見開いた。
「無理、してるように見える?」
「……少し」
正直に答えた。
凪は、
少しだけ考えてから、
視線を落とす。
「……自分でも、
分からなくて」
その言葉に、
胸が静かに鳴った。
(まただ)
凪は、
“分からない”を選ぶ。
それは逃げじゃない。
ただ、
立ち止まっているだけ。
「ねえ、凪」
「うん?」
「今日は、
勉強やめよっか」
「え」
「アイス、
買いに行こう」
凪は、
一瞬きょとんとして、
それから小さく笑った。
「……急だね」
「夏だから」
理由にならない理由。
でも、
凪は頷いた。
図書室を出ると、
空気が一気に変わる。
熱。
光。
匂い。
自販機の前で、
どれにするか迷う凪。
「どれがいい?」
「……それ」
指さしたのは、
シンプルなバニラ。
「甘いの、
大丈夫?」
「……今は、
それがいい」
ベンチに座って、
アイスを食べる。
溶ける速度が、
早い。
「ねえ、咲」
「なに?」
「咲はさ」
凪は、
スプーンを見つめたまま言う。
「……どうして、
そんなに落ち着いてるの?」
「え?」
「私、
一緒にいると安心する」
その言葉に、
一瞬、息が止まった。
「でも、
咲はあんまり、
揺れないでしょ」
私は、
少し考える。
「……揺れてるよ」
「ほんと?」
「凪が思ってるより、
ずっと」
凪は、
こちらを見る。
その目は、
真剣だった。
「でもさ」
凪は、
少しだけ声を落とす。
「私が、
何かあったら」
「……うん」
「咲まで、
巻き込みそうで」
その瞬間、
胸の奥で、
何かがはっきりした。
(ああ)
(この人は、
自分を守るより、
人を遠ざける)
私は、
スプーンを置いて、
凪を見る。
「凪」
「なに?」
「それ、
私が決めることだよ」
凪が、
目を瞬かせる。
「巻き込まれるかどうかも」
「近くにいるかどうかも」
心臓が、
少し速くなる。
「……私が、
選ぶ」
凪は、
何も言えなかった。
ただ、
少しだけ唇を噛む。
「凪が、
一人で抱えようとするなら」
「私は、
隣に立つ」
「それが、
嫌なら」
少しだけ、
言葉を選ぶ。
「……ちゃんと、
言って」
沈黙。
蝉の声が、
やけに大きく聞こえる。
「……咲」
凪の声が、
少しだけ震える。
「それって、
重くない?」
「重いよ」
即答だった。
「でも」
私は、
凪から目を逸らさない。
「それ以上に、
放っておく方が、
嫌」
その瞬間、
凪の目が揺れた。
「……ずるい」
「二回目だね」
「……そういうところ」
凪は、
小さく笑った。
でも、
その笑顔は、
どこか泣きそうだった。
「私さ」
凪が、
ゆっくり言う。
「守られるの、
慣れてない」
「知ってる」
「……怖い」
「知ってる」
「それでも?」
「それでも」
言葉にした瞬間、
分かった。
(ああ、私)
(この人を、
守りたいんだ)
好き、
という言葉よりも、
先に来た感情。
壊れそうなものを、
そっと支えたい。
無理に変えたいわけじゃない。
ただ、
倒れそうなら、
手を伸ばしたい。
それだけ。
凪は、
しばらく黙っていた。
やがて、
小さく頷く。
「……ありがとう」
「うん」
「今日、
言ってくれて」
凪は、
アイスを食べ終えて、
立ち上がる。
「帰ろっか」
「うん」
並んで歩く。
距離は、
昨日と同じ。
でも、
心の位置が違う。
私は、
もう迷っていなかった。
凪の背中を見ながら、
静かに思う。
(この人が、
逃げそうになったら)
(私は、
手を伸ばす)
それが、
私の選択だ。
夏は、
まだ続く。
でも、
この日を境に、
私の中で何かが、
確かに決まった。
守りたい。
理由なんて、
もういらなかった。




