二人の間に、名前のない温度があった
朝の海は、
夜とは別の顔をしていた。
昨日まで騒がしかった波は落ち着き、
空気は少しだけ涼しい。
宿の食堂では、
生徒たちが思い思いに朝食を取っていた。
その中で、
葭葉咲と朝倉凪は、
並んで座っていた。
会話は、
特別なことじゃない。
「ご飯、足りる?」
「うん、大丈夫」
「眠れた?」
「……少しだけ」
そんな、
どこにでもあるやりとり。
それなのに――
同じテーブルにいたクラスメイトは、
なぜか二人から目を離せずにいた。
「……なんかさ」
ぽつりと、
誰かが言う。
「あの二人、
空気違くない?」
「分かる」
別の生徒が、
小さく頷く。
「付き合ってる、
とかじゃないよね?」
「違うと思うけど……」
視線の先では、
凪が飲み物を取ろうとして、
少しだけ身を乗り出す。
その瞬間、
咲が自然にコップを引き寄せて、
手渡した。
言葉はない。
でも、
“知っている動き”だった。
凪は一瞬だけ驚いて、
すぐに小さく笑う。
「ありがとう」
その声は、
とても穏やかだった。
それを見た周囲は、
なぜか何も言えなくなる。
(……あ)
誰かが、
心の中で思った。
(あれ、
特別だ)
恋人、
という言葉を使うには、
まだ早い。
でも、
友達、
という言葉では、
足りない。
そんな距離。
朝食後、
荷物をまとめて外へ出る。
帰り支度の中で、
凪は少しだけ静かだった。
咲の隣を歩きながら、
視線は前。
でも、
歩幅は揃っている。
「……凪」
名前を呼ばれて、
凪が振り向く。
「なに?」
「眠そう」
咲の声は、
いつも通り優しい。
「……バレた?」
「うん」
凪は、
少しだけ困ったように笑った。
「昨日、
考え事してて」
その言葉に、
咲は何も聞かない。
ただ、
「そっか」
とだけ言った。
それが、
凪にはありがたかった。
(聞かれないことが、
こんなに楽だなんて)
凪は、
胸の奥でそう思う。
誰かと一緒にいるのに、
無理に説明しなくていい。
理解されようと、
背伸びしなくていい。
その感覚が、
凪にとっては久しぶりだった。
一方、
咲もまた、
考えていた。
(昨日の夜)
凪の声。
震え。
言葉の間。
(あの人は、
まだ全部は言わない)
でも――
(言わないことを、
信じていい気がする)
それが、
咲なりの答えだった。
帰りのバス。
席は、
自然と隣同士になる。
誰も何も言わない。
それが、
もう“当たり前”になっていた。
窓の外を眺める凪の肩に、
咲の肩が、
ほんの少しだけ触れる。
凪は、
避けなかった。
咲も、
離れなかった。
その距離を見て、
後ろの席の生徒が、
静かに思う。
(ああ……)
(これは、
始まってるな)
大きな出来事はない。
告白も、
キスも、
劇的な言葉もない。
それでも。
二人の間には、
確かに、
「もう戻れない距離」
が生まれていた。
夏は、
まだ続く。
でも、
この日の朝を境に、
咲と凪の関係は、
少しだけ名前に近づいた。
それが何なのかは、
まだ誰も知らない。
ただ、
確かな温度だけが、
そこにあった。




