それでは、行ってきます
いつもの席だった。
いつものテーブル。
いつもの焼き菓子。
いつもの湯気。
違うのは――
そこに、カシャンがいることだけ。
金属音が、かすかに鳴る。
ジ……カシャ……。
誰も話さない。
美佳は、クッキーを一枚取った。
「これ、まだ温かいね」
返事はない。
弓勇者が、落ち着かない様子でカップを持ち上げる。
受付嬢は、視線を伏せたまま、何も飲んでいなかった。
プリーストは――
祈るでもなく、ただ黙って座っている。
沈黙を破ったのは、カシャンだった。
『議会判断、確定』
音声は平坦で、抑揚がない。
『対象:美佳』
『現世界への滞在は、観測および均衡に影響を及ぼす』
美佳は、もぐもぐしながら聞いている。
『代替措置として』
『上位階層――天界への一時移送を提案』
一拍。
誰も、声を出せなかった。
「……天界?」
弓勇者が、かすれた声で言う。
受付嬢が、顔を上げる。
「それって……」
プリーストが、息を呑んだ。
カシャンは、続ける。
『当該空間は、現在余剰あり』
『外来干渉の影響が最小』
『観測継続が可能』
美佳は、最後のクッキーを食べ終えた。
「ふーん」
それだけだった。
「じゃあ」
カップを置いて、立ち上がる。
「行けばいいんだね」
――空気が、凍った。
「待って!」
弓勇者が、思わず立ち上がる。
「それで……それでいいのか!?」
受付嬢も、慌てて声を上げる。
「話、早すぎません!?
もう少し……その……」
プリーストは、完全に取り乱していた。
「天界ですよ!?
神々の領域ですよ!?
準備も何も――」
美佳は、きょとんとした顔をする。
「準備?」
「準備です!」
即答。
「心の準備とか!」
「身だしなみとか!」
「ご挨拶とか!」
三方向から詰め寄られる。
美佳は、少し考えてから言った。
「……あー」
そして、笑う。
「じゃあ、あとで行く」
その一言で。
今度は――
完全にパニックになった。
「あとで!? いつ!?」
「今日じゃないですよね!?」
「せめて餞別を!」
「お土産も!」
「女神様には化粧品が無難です!」
「弓は!? あの弓は持っていくんですよね!?」
美佳は、両手を上げる。
「ちょ、ちょっと待って」
「持てないから」
その瞬間。
受付嬢が、はっと顔を上げた。
「……次元コインロッカー」
弓勇者が、目を輝かせる。
「ある!」
プリーストが頷く。
「ありますね!」
さらに。
「運ぶなら――」
鍛冶屋ネットワークから、声が飛ぶ。
「カラコロ、作る?」
美佳が首を傾げる。
「カラコロ?」
「そうそう!」
「荷物運ぶやつ!」
「本気で作るから!」
数時間後。
そこには、
・異次元対応コインロッカー
・鍛冶屋渾身のカラコロ
・山のような餞別
・化粧品
・お菓子
・謎の縁起物
そして。
美佳は、弓を手に取った。
「これは、持ってく」
弓勇者が、少し笑った。
「想い出、ですから」
カシャンが、静かに記録する。
『移送準備、進行中』
『対象、美佳』
『――』
一瞬、間があった。
『……未定』
誰も気づかなかった。
その“間”の意味を。
美佳は、振り返る。
「じゃ」
「行ってくるね」
誰も、引き止められなかった。
この世界が、
彼女を“送り出してしまった”ことを。
まだ――
理解できていなかったから。




