Burg Katz ―猫城―
やっと見つけた、ここだ、ここだった―――彼の心持ちはこんなだったのかも知れない。雪がちらつくある夜、そこは寒々とした下町といった風情の住宅街、とぼとぼと歩いていた茶トラの牡猫が一軒の家の前で立ち止まった。辺りはうっすらと雪化粧、そこに街灯の光が大柄な彼の影を落とす。彼は凍てついたアスファルトの上に座ると前脚を立て上背を半分もたげてその家を見上げた。窓のシャッターはすでに下ろされ外に漏れる光はない。ただ小さな門灯だけがほのかに灯っている。そして住宅街特有の夜のかすかな喧噪のなかで、この家だけはひっそりと静まり返っていた。
彼は立ち上がり、再び歩き出すと生垣の隙間から家の敷地内へ侵入し、玄関の前に座ってにゃあと鳴いてみた。大柄でもっさりとしており、おまけに右耳の一部が欠損しているという彼の風体にそぐわないような綺麗な響きだ。しかし反応はない。もう一度、にゃあにゃあ、やはり反応はない。戸も窓もしっかりと閉ざされており、加えて周囲の夜の静かなざわめきが、それがいかに微かなものであるとしても彼の鳴き声を消し去ってしまっているのかも知れない。どうやらこの声を家の中に届けることは、どうにもこうにも出来ないようだ。
そうこうするうちに雪が本格的に降るようになってきた。彼の顔にも降りかかる。少し風があるので玄関の庇も役に立っていないらしい。彼は迷惑そうに夜空を見上げると玄関から庭に出、隣接するカーポート付きの駐車場へ向かった。そこにはこの家の自動車がある。もしついさっきまで動いていたならば、エンジンの余熱で暖かかろう―――しかし残念ながら今日は一日動かなかったようだ。冷え切ってしまっている。とは言え、この下にいれば雪はしのげるし、駐車場周りはそこそこ高い腰壁で囲ってあるから忍び寄って来る冷気も少しは防げるに違いない。彼はのそのそと自動車の下へもぐり込み、そこで一息つくことにした。
顎まで地面に押し付け、不貞腐れたような格好で彼は冷たいコンクリに寝そべっていた。そして車の下から、すっかり白くなった道路とそこにあとからあとから降り積もって行く雪のちらちらを黙って眺めていた。そうしているとその身体が随分と凍えてしまっているにも関わらず、彼の気分は何だかゆったりとしてくるのだった。そんな気分の中で、彼の脳裏には様々な過去の印象がゆっくりと流れ始めた。
* * * * * * * *
彼の一番初めの記憶は―――と言っても確実なものでは無論ない。ただ忘却の彼方で薄ぼんやりと揺らめいているようなもの、そう、それは何やら柔らかく暖かい暗所で、とくんとくんという低い穏やかな音に包まれていたというものだった。心地良くまどろんでいるような時の流れ、そして時折そのふわふわしたものを少し掻き分けたところにある、良い香りを放つ突起物に吸いつくのだ。そこからあふれて来る丁度良い温度の甘い液体は、彼の口から喉からどこまでも染み渡って行く。それに伴い彼には次第に自分というものが、自分の体というものが意識されるようになって来た。そんなことを何度も重ねるうちに、自分の身体が段々と大きくなって来るように思われた。
そうしていると、今度は自分以外の誰かがここにいることが分かってくる。しかも複数だ。体をくねらせて四肢を動かしたりする折に、似たようなやはり動いているものに接触することが頻発し、それが自分と同じく頭と四肢を備えた運動しているものである、加えてそれらは自分の仲間であるということまでが新たに理解できた。そこで彼はそちらの方へもぞもぞとにじり寄る。すると向こうの方からも同様ににじり寄って来る。こうして彼は自分らがひとかたまりにくっつき合っていることを確認した。
こうした環境が彼にとっての全てだった。このような柔らかさと暖かさと仲間達に包まれている状態、そしてこれは当たり前のことである、このように彼は思いまどろんでいた。ところがそうではなかったのだ。
ある時、自分と仲間達を取り巻いていたあの暖かいふわふわしたものがするすると解け、辺りが突然ぱぁっと明るくなった。彼にとってはあたかも、大地が割れ天が裂け、いきなり無の世界へ放り出されたというような具合であった―――無の世界と言ってみたものの、彼はそこで少しばかり眩しさを感じていた、従って彼には視覚が備わっており周囲は暗黒の世界ではなかったのである。そればかりではない。そこに充満していたのはこれまでに感じたことがないようなひんやりとした空気、これまでに嗅いだことがないような様々な臭い、そして四方八方から聞こえて来る騒々しい音の数々、これまでの当たり前があっさりとひっくり返されたわけであり、驚天動地とはまさにこのことだった。
彼がそのままじたばたしていると、上の方から巨大な何かの顔面らしきものが近付いて来た。特に恐怖は感じなかった。それからその大きな口らしきところからピンク色のペロンとしたものが現れ、彼を盛んに舐め始めた。それは少しざらざらしてはいたものの不快なことではなく、逆にかなり気持ちのいいものであった。そうしてこのピンクのペロンは彼の仲間達も順番に舐めていった。そしてこのことが、これまでの当たり前が崩壊したことによる彼の恐慌を随分和らげてくれた。これも印象的なことだった。
それからの彼の記憶については、自分達を庇護しているらしいあの大きなものと仲間達との生活に関することが続くことになる。また、彼は外部のいろいろなものが見分けられるようになり―――あの大きなものと彼の仲間達の姿はよく似ている、ただ大きさのみが違うだけである、つまり同類なのだ、そしておそらく自分も彼らと同じ様な姿をしているのだろう、だから自分も連中と同類なのだ、そんな印象を持つようになった。そのため彼はこの大きな保護者のすることを真似ることが習慣になった。何やらもよおしてくると、決まったところに行って、出て来るものを出す、その後しっかり埋める。小さな動くものがあったら追いかけて捕まえる、おいしそうなら食べてみる。大きな動くものは避ける、ことによったら逃げる。そういったことは彼にとって遊びだった。仲間たちと一緒にいつも遊んでいた。ころころと遊び回っていた。良い印象だ。
しかしそんな生活も突然終わりを迎えた。ある時目覚めると、あの常に近くにいてくれた大きな庇護するものがいなくなっていたのだ。彼は驚いて周囲を見渡す。目に入るのはがらんとした彼らの住みかと、その中に彼と彼の両側にそれぞれ仲間達、あの保護者だけではない、彼の仲間はもっといたはずだ、ほかにもあいつ、あいつ、あいつ‥‥‥再び訪れた環境の激変だった。彼は、やはり目覚めてこの状況に驚愕しているのであろう仲間の顔を交互に見る。不安気な表情。仕方がないので彼はみゃぁ、と鳴いてみた。するとほかの仲間もミャァ、と鳴く。別の仲間もミャァミャァ、と鳴く。それから一斉に、みゃぁミャァミャァ、みゃぁみゃぁ、ミャァミャァみゃぁミャァミャァ、彼らはあの大きな保護者を呼ぶように鳴き続けた。暫くそうやっていたところ、突然頭上でバサバサっと音がして大きな影が彼らを覆い、これまた黒い巨大なものが舞い降りると、仲間を硬そうな大きな爪で捕まえた。彼にも爪はあるが大きさが全然違う。その巨大なものは頭部の鋭いとんがったところで仲間の頭を激しく突く。仲間の頭はあっさりと割れてしまった。多量の赤い液体が飛び散った。それからその恐ろしいものの目がこちらを見やり、キラリと光った。彼は恐怖で立ち竦む。しかし次の瞬間、その恐怖心が今すぐ逃げろと命令する。彼の体は勝手に動き、全速力で走り始めた。それでもその間彼の目は初めて見る外の世界をしっかりと捉えていた―――それにしても、広い。
その後、逃げ延びた彼と仲間はその広い世界を時折身を隠しながら歩き回った。安全な場所を求めて。歩きながら彼は、妙に硬い地面だ、と思った。かつての彼らの住みかの地面はこうではなかった。これでは後ろから出て来るものを出した時、埋めることが出来ない。そこいらもこれから探していかなければならないだろう。ところでこの世界には恐ろしいものが無数にいる。先ず二足獣がうようよしている。こいつらはどうも分からない。自分達を見かけても全く気にしていないのもいれば、嬉しそうにこちらに愛想をするのもいる。かと思えば、恐ろし気な声を出し追っ払おうとするのもある、よく分からない。また大きな唸り声を上げる四足巨大獣も沢山走り回っている。こちらは要注意だ。こいつらに踏まれると文字通りペシャンコにされてしまう。その他、あの二足獣の巣と思しき超巨大な箱型のものがにょきにょきと林立している。この箱の集まりの間を縫って、彼らが歩く黒く硬い地面が続くのだ。そしてこの世界の上の方には、あのカァカァと鳴き騒ぐ黒い巨大なものが数多くいる。(ただしこちらから見上げると小さく見える)連中は箱型のものや高い棒状のものの上に立ち、こちらを見下ろしている。本当に危険な奴らだ。決して隙を見せてはいけない。
彼らはこの世界を調査し多くのことを学んだ。二足獣の巣らしきものはよく見ると形も大きさもいろいろで、更にごくわずかだが大分いびつな格好のものもあった。それらは傾いていたり部分的に欠損してしまっていたりと、どことなく彼らがあの庇護者と暮らしていた住みかに雰囲気が似ていた。そういうところは大抵、その敷地は柔らかい地面であり、またそこにびっしりと背の高い植物が密生している。今の彼なら分かるのだが、自分達がもっと小さい頃に暮らすには最適だった。きっとあの保護者がそういう場所を選んでくれたんだろう。そこで彼らもそのような適当な場所を住みかとして確保した。それで後ろから出て来るものも存分に出すことができる。きれいとは言えないが水のあるところも見つけた。食料もそれなりに手に入れることができるようになった。ところで食料の入手ということに関係するのだが、彼らはあの二足獣達とも関わるようになっていた。それというのも、連中のなかにはやたらと自分達に好意を持っている者がおり、ときどき彼らに食べ物をくれることがあった。勿論十分に注意しているのだが、彼らはよくこの食べ物を貰って食べていた。何しろこれが美味なのだ。そこらを飛び跳ねているものや這いまわっているものなんかよりずっと美味しい。そこでこういった差し入れがあると、彼らはそれを有難く頂戴していた。時には二足獣が間近にいておいでおいでをするような場合でも、十二分に注意してその二足獣の様子を見極め、出されたものを食べに行くようなこともまれにではあるがあった。そしてこのことが再び災難を呼ぶことになったのである。
そろそろ暑さが増してきたある日、彼と仲間は朝の日差しを避けながら自分達の縄張の検分を行なっていた。太陽が高く上がってからは更に暑くなるので、彼らはこの時間帯に見回りをすることにしていたのだ。開けた所では日陰を伝いながら、二足獣や四足巨大獣を避けつつ、またこの他にも変則的な二足獣、こいつらは四足獣のような円い脚が横にではなく縦に二つ並んでいたのだが、この連中にも気を付けながら彼らは見回って行く。そしてとある静かな路地のような所を通りかかった時だった。ここに足を踏み入れると、二匹は思わず立ち止まった。そこには一匹の二足獣がしゃがんでおり、その前にはよく見る食べ物が皿に盛られていた。乾燥したカリカリしたもので大変美味しい。いろいろな二足獣が時々くれるものだった。勿論二匹とも大好きであった。その二足獣が自分達に好意を持っているように見えたのだろう、彼の仲間はゆっくりとそちらの方に近寄って行き皿の中の食べ物を食べ始めた。しかし彼は少しためらった。これまでやって来た縄張見回りで、彼はこの二足獣を何度か見かけたことがあったのだ。その時は彼らに関心がない連中の一人かと思ったが、彼にはこの二足獣の目付きが気になった。少々不気味な印象があったからだった。それで彼は一時躊躇していたのだが、やはり美味しい食べ物の誘惑には勝てず、仲間の隣に行き二足獣に注意を払いながら食べることにした。しかし一口食べるとすっかり夢中になってしまい、すぐに仲間と同じ様にがつがつと食べ始めた。暫く一心不乱に食べていた彼だったが、すぐそばでしゃがんでいた二足獣がすっと立ち上がるのを視界のはじで捉えた。やはり注意を払っていたのだろう。彼は瞬時に飛びのきさっと距離を置いて、立ち上がった二足獣を見上げた。二足獣は彼を見ながら、チッと音声を発し、それから今度はまだ食べ続けている彼の仲間の方を見下ろして、いきなり足で仲間の腹を蹴り上げた。仲間はすでに腹がいっぱいになっていたであろうから堪らない、グェエッという悲鳴とともに口から食べたばかりの茶色のものを吐き出しながら吹っ飛んだ。すぐに二足獣は地面に転がった仲間のところへ行き、痙攣している仲間の首根っこを前脚でひっつかむと、今度はそのまま近くの二足獣の巣の壁に叩きつける。そのクシャッという音を聞き、彼は一目散に走り始めた。何が何でもその場所から遠ざかろうとして。彼の心は恐怖で一杯だった。以前空中のあの黒い大きなものに別の仲間がやられた時のように。しかし今回の方がはるかに恐ろしかった。あの黒い奴は仲間を喰うために頭を割ったんだ。これまでに自分の縄張内でも、あいつが四足巨大獣に轢かれた同類の潰れた体をついばんでいるところを見たことがある。しかしあの二足獣は哀れな仲間をいたぶるのを楽しんでいた。あの目は笑っていた。快感の光を湛えていた。ただ殺るためだけならあの身体の大きさだ、一蹴りでお仕舞いだっただろう。けれどもそうではなかった。わざと力を抜いていた。一発では終わらせない、たっぷりと楽しみたい、そんな恐ろしい心持ちが見て取れた。そんなものの存在自体が恐ろしい。彼は一目散に走るのだった。
無我夢中で走って行くと、やがて目の前に広くて両側に長い空間が拡がった。そこには無数の四足巨大獣が我が物顔に走り回っており、その周りでは数多くの二足獣や変則型が行き交っている。このようなところの小規模なものなら見たことがあるが、ここでは全く呆れたことに、さらにその広大な空間の上部には信じられないほど高い大きな屋根が、両端が全然見えないほど長大に延びていたのだ。そのため彼の眼にはこれが世界の果てであるように思われた。そこで今度はこの屋根に沿って走り始めた。途中走り回る四足獣の間をすり抜けつつ、歩いている二足獣をかわしつつ走って行く。するとやがて前方に見たこともないような巨大な二足獣の巣が現れた。彼にはこの巨大な巣の向こう側がこちらとは別の世界であるように思われた、あの邪悪な二足獣のいない世界に、しかしその前にはさっきと同じ様な四足獣が行き交う広い空間が―――丁度その時彼の眼前を激しく行き来していた獰猛な四足巨大獣達が何故か一斉に大人しく立ち止まった。そしてその前を二足獣達がぞろぞろと歩き始める。この機を逃してはならない。彼はそのまま移動している二足獣の群れの間を縫うようにして走り、この不思議な場所を越えることができた。その後、直ぐに二足獣の巨大な巣の後方へ無事逃げ込んだのだった。
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こんなことをつらつらと思い出しながら、彼はため息をついた、寒いな。過去の記憶は記憶として、今現在彼は極寒の夜を過ごしている。これまで野良猫として何度か冬を経験してきた彼だったが、今年の冬の寒さ、中でも今夜の寒さは特別なのだ。しかも去年の今頃は家猫としてこの家の中でぬくぬくと過ごしていた。それで野良としての感覚が鈍ってしまったのかも知れない。こんな夜に備えて避難場所を確保しておかなければいけなかったのだ、いや、そういうものが無いわけではなかった。かなりの数、あるにはあった。ところがちょっとした事情でどの避難場所にも入ることができなかったのだ。仕方なく彼は新たな避難場所を見つけるためにあちこち徘徊することになった。あまり知らない場所を闇雲に探してみたがやはり埒が明かない。寒さはその厳しさを段々増して行き、雪までがちらちらし始める。そしてとある場所でこの家のことを思い出したのだ。それまではすっかり忘れてしまっていたのであるが。
あそこに行けば、またあの暖かい部屋で過ごすことが出来る。飼い主の布団にもぐり込んでもっと暖かな思いをすることが出来る。美味しい食べ物にもきれいな水にもありつけよう。そう思いついて彼はこの家を探すことにした。とは言え、家を出たのはかなり以前のことになる。それは赤い太陽が沈んで行く方角だということをある牝猫からかつて聞いたことがあったのだが、その方角に来てみてもこの辺りだという事しか分からない。その家を特定することは猫の、しかも牡猫の頭脳では困難なことだった。結局街中を暫くうろつきまわり、随分と道草を食ってしまうことになった。そうしてやっとたどり着いたのだが、こんな時間になってしまったのだ。もう少し早ければ、ここの家人に気づいてもらえたかも知れない―――しかしそうでなかったのだから仕方のないことだ。
それでもここにたどり着くことが出来たんだから上等だろう、彼はつらつらと考えた。何しろ一匹猫になってしまった後、沢山のことを学んだし、かなりの経験を積んだのだから。確かに、それが無ければ野良猫として生きていくことは出来なかった。そんなことを考えると、また過去の様々な印象が次々によみがえってきた。
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故郷を逃げ出した彼は、この新しい場所に大して苦労することなく馴染むことが出来た。雰囲気は似通っていたが、こちらの方が全体的に広々としており余裕があったのだ。また先住の猫が前の街よりかなり多く居たから心強かった。あの問題の二足獣についても、自分達に好意的な者が多く住んでいるらしく、あの美味しいカリカリの盛られた皿や新鮮な水の入った椀が、複数個所にそっと置かれていたりした(勿論、彼は暫くの間決して近付くことはしなかった)。
ここで彼はさっさと縄張を確保した。一番の問題は先住の猫達との付き合いだったが、彼の元々の人の好さもあり上手く付き合い良好な関係を築くことが出来た。ここで彼は周辺の探索や仲間達とのやり取りなどから見聞を広めていった。そのためこの世界のことをかなり理解するようになった。そしてその端緒は、とある出来事だった。ある日彼はあの変則的な二足獣がやって来るのを発見し急いで隠れたのだが、そいつは近くで立ち止まると、驚いたことにいきなり分裂したのだ。彼が呆れてながめていると、どうやら一方は通常の二足獣で他方は円い脚二つが組み合わさった何かであった。結局二足獣は人間というもので、円い脚二つは人間の乗り物であることが判明した。この認識の誤りは如何ともしがたいことであった。何しろこれまで人間の乗っている自転車に対して彼が持っていたイメージが、言わばケンタウロスのようなものであったのだから。しかしここから、四足獣は自動車という人間の乗り物で走っている時には人間がその内部に入っているということ、二足獣の巣は人間が住んでいるものもあるがそれ以外の用途のものもあり建物と称するものであるということ、更にその中には信じられないくらい大きなものも沢山あるということ、あの大きな黒いものは空を飛行する鳥というものの一種、カラスというものであり他にもっと小さくて捕食したら美味しいものもあるということ、自分達が猫という種族であるということ‥‥‥、彼はこの世界のからくりを数多く学ぶことが出来た。
ここでの野良猫生活はそれなりに快適なものだったが、この頃から暑さが厳しくなってきた。昼日中など、とてもじゃないが日なたを歩くことなど出来はしない。日差しの強さもさることながら、道路が焼けるように熱いのだ。日陰を伝って行くしかない。だから真昼時は安全で風の通る過ごしやすいところでごろごろしていた。そして辺りが薄暗くなってくると活動し始める。同じ様に起き出してきた他の猫どもに挨拶をしつつ、縄張の見回りと水や食べ物の調達に行く。食べ物については、彼は人間の用意してくれたカリカリなどには手を出さず、また人間の出したゴミを漁るのも気が進まなかったので、主に狩りに精を出した。上手くすればスズメやセキレイ、またネズミなどが手に入った。駄目な時はヘビやトカゲやカエル、下手をすれば昆虫の類いとなる。しかし身体が大きくなっていくにつれて、ハトなんかも捕獲できるようになり、そんな頃にはあの恐るべきカラスでさえも撃退できる程になっていた。カラスの方でも彼を警戒するようになったようで、向こうから彼を襲うなんていうこともなくなった。
確かに夏の暑さは厳しかった。けれど日中は適当な場所を確保すればしのげるし、それ以外の時間帯はさほど苦にはならなかった。それにこの季節は獲物が豊富にいた。肉食獣たる猫族にとって、沢山の生き物たちが元気に活動しているということは有難いことだったのだ。ただ、そんな暑さも段々と和らいでゆく。次第に涼しくなってくる。そうなると日中でも日なたを歩くことが出来るようになる。しかし同様に生き物達の数が減って来る。その活動も活発ではなくなって来て、鳥達もあまり地面に降りなってくる。建物の上で丸くなっているようになる。地面の上を跳ね回っているのは虫共ばかりだ。こう言っては何だが、こいつらは旨くない。鳥やネズミが獲れなければ仕方ないのだが。
それでもこんな時期はまだましだ。その次には涼しさを通り越して寒い季節がやって来る。彼にとっては初めての冬、野良猫にとっては大変に過酷なときである。かれのぼんやりとした記憶にも辛い印象として残っていた。始めは木枯らしに肩をすくめるくらいで済んでいたが、どんどん風の冷たさが強まって行く。凍てついた空気と道路、あまりにも冷たいので暗くなってから道路を歩くのは辛かった。水は凍り、生き物達の数も活動も激減する。時折降る冷たい雨、更に冬も深まれば雪までが降るようになる。こうなると気が進まないなどとは言っていられない。人間の用意してくれたカリカリや水をこっそり貰いに行く。極寒の夜を過ごす場所を探すのも大変だった。夏とは逆に、風が通らない、雨雪がしのげるような狭い所を探して一晩耐え忍ぶ。こういう場所は幾つか候補があったのだが、他の野良猫達もいるから当然条件の良い場所の取り合いとなる。争いごとも頻発したが、彼はそういうことが好きではなかったので、劣悪な環境で一晩中震えていることがままあった。このような冬を乗り切るためにはしっかりと食べなければならない。当たり前だが、そのためには他の野良猫たちの食べ残しのカリカリだけでは全然足らない。ヘビやカエルも全く姿を見せないので、彼は小鳥を狙っての狩りに励んだ。しかし都合よく地面に降りている小鳥を見つける機会は非常に少なかった。だから得られる獲物の数も少ない、これではこの厳しい寒さに対抗できない―――そんな彼の目にとまったのは、どんなに寒くとも人間のゴミ置き場でゴミ袋を平然とつついているあのカラス共だった。あいつらの肉をいただくとしよう、彼は以前この街で一羽のカラスに襲われ撃退した時のことを思い出した。それは当時でも拍子抜けするほど造作のないことだった、今はその時より更に体も大きくなっている、注意してやりさえすれば‥‥‥、彼はそっとゴミ捨て場の数羽のカラスに近付いた。それからその中の比較的小ぶりな奴に狙いを定め、跳躍一番襲いかかり見事その首に噛みつくと、一気に骨までかみ砕き、そのまま瞬時に逃げ去った。背後でギャァギャァと騒いでいる他のカラスのことなんぞ構わず走り続け、安全な所まで逃げおおせると早速この獲物をがつがつと食べた。臭くて美味しくはなかったが、食べられるところは全ていただいた。自分が獲った奴だ、完食しなければならない。こうやってこの冬を越さなければならない。彼は何故だかこの厳しい寒さがいずれ終わると確信していた。そして彼は狩られるものから狩るものになった。彼はもう子猫ではないのだ。
彼はこうして最初の冬を乗り切った。春が来ると野良猫の生活も生きるためという目的から解放される。早朝から縄張の巡回をのんびりと行ない、途中出会った他の野良猫達に気安く挨拶をする。大概やせ細っていた彼等は例外なく、この時期に大きくて屈強な体躯を保持している彼を見て感嘆した。また彼はいつもこの途中狩りをして腹を満たす。これが済むとねぐらに戻ってゆっくり昼寝、それから夕方前に起き出して今度は縄張外をゆっくりと散歩、小腹が空いている時はちょっとした狩りをするか人間が用意してくれたカリカリを失敬する。後は帰って寝るだけだ。
彼はこうやって春の日々をのんびり暮らしていたが、この界隈の野良猫達の間での彼の評価は高まった。特に、冬の時期、彼があの恐るべきカラスを捕まえて喰っていたという話は彼らを驚嘆させるに十分だった。特にこの地域の牝猫達の間ではかなりの話題になっていた。そんなこととは露知らず、彼はそのうち綺麗な牝猫達が妙になれなれしく自分のところにやってくるようになったことに不審の念を抱いた。(ただ、彼の目には牝猫なら皆綺麗に見えたため本当に美人猫ばかりだったかどうかは定かではない、それはさておき)とは言え、このことは彼にとっては大変結構なことだった。来る者は拒まず、彼は多くの牝猫と仲良くなった。しかし毎度のことながら、この彼にとっては楽しい状況が、またもや災難を呼び寄せることになったのである。
ある日の午後のこと、彼は自分の縄張外を散歩していた。すると向こうから一匹の牝猫がやって来た。牝猫は彼に気付くと、傍らに走って来て体をすりつけて来る。勿論彼は嫌な気はしない。来る者は拒まない彼なのだ。そのままデートと洒落込んだ。しかしここは彼の縄張外、つまり他の猫の縄張だった。早速ここいらを縄張としている牡の黒猫がやって来た。細身ながら長い四肢に大きな爪を持った、長身の猫だった。黒猫は、ここは自分の縄張である、ただ通行するだけなら構わないが牝を連れて歩かれては自分の面子が立たない、その牝を置いて出ていかれよ、そんなようなことを言う。前半については確かにその通りだ、と彼は考えた、しかし連れている牝を置いて行けとは自分に対して要求するべきことではない、彼は傍らの牝猫に、あの黒猫と一緒にいたいのかどうか訊ねた。牝猫は、自分と一緒がいいと言う。そこで彼は、この牝はここにはいたくないそうだから両方ともで早々にここから離れることにする、と答えた。この返答に黒猫は大いに立腹し、非常な勢いで彼に跳びかかった。牝猫はびっくり仰天して逃げ出した。そんなことにはお構いなしに、黒猫は彼に攻撃を加える。俊敏な動きと鋭い攻撃、彼は防戦に努めた。元々彼の方には相手に対する怒りはない。カラス相手と違って、殺して喰ってしまおうなんてこともない。牝猫も逃げてしまったことだし、頃合いを見計らってずらかることにしよう、それにしても黒い奴はいろいろと厄介ごとを持ち込みやがる―――ここでちょっとした隙があったようだ。黒猫の爪が彼の耳を捉えたのである。右耳に痛みが走る、これは堪らない、彼は爪を隠して黒猫の脇腹に一撃を食らわせた。黒猫はグゥッと唸って、素早く飛びのいた。そのまま少し離れて対峙する茶トラと黒、やがて茶トラの方がゆっくりと後ずさる。そのまま彼は黒猫の縄張を出て行った。
こうして彼はその耳に名誉の負傷を負うことになった。右耳がてっぺん辺りから鋭角に切り取られた格好で、桜の花びらのように見える。そのため他の野良猫達から“サクラ”と呼ばれるようになった。しかし出血と痛みさえ無くなってしまえば、彼にとっては呼び名などどうでもいいことだ。その後も彼はこれまでと同じ様に飄々と野良猫生活を続けた。暖かい快適な春を過ごし、暫くするとまたあのひどく暑い夏がやってくる。それにもめげず彼は狩猟の腕を磨き、以前のように仕方ないからカエルや虫を獲る、という必要もなくなった。ところで、いつも人間が出すゴミ袋を狙っているような野良達はこの季節にはよく腹をこわす。そんな連中に病後のおすそ分けができるほどになったのだ。
そして再び厳しい寒さの季節がやって来る。この頃には彼の体も更に大きく頑強になっていた。そのため得意のカラス狩りでも大物を狙うようになった。だからこの季節でも彼はいつも腹一杯食べられるようになった―――とは、残念ながらいかなかった。カラスを狩る気のいいサクラさん、として有名になっていたものだから、首尾よくカラスを捕まえてもその直後幾匹もの腹をすかせた牝猫達がわらわらと集まって来るのだ。そして、当然でしょといった態度でこの獲物を食べ始める。彼は後ろでちょこなんと座り、大人しく待っている。彼女らが食べ終わると、やっと彼の番になる。その頃には頭と骨くらいしか残っていない。彼はやむなくそれらをバリバリと食べて終了となる。そんなこんなで、彼はこの二度目の冬も何とかしのいだのだった。
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こんな風に彼の頭の中でいろいろな印象がよどみなく流れて行く。忘れてしまっていたことばかりだった。彼は頭を上げ訝し気に周囲を見渡した。体はすっかり凍えてしまって動かすのにも億劫なのに、頭の方は冴え冴えとしているようなのだ。全く不思議な感覚だった。
その冴えた頭の中に当時の様々な印象が蘇ってきたので、彼はその頃の自分の体験を眼前に見る思いだった。確かにそんなこともあった、昔のことだけれども。彼はそのまま立ち上がる。ただここは自動車の下なので、少し身体を縮こめて。そしてそこからのそのそと這い出した。どうやら風は止んだようだ。降り続ける雪も上から下へ真直ぐに落ちてくる。彼はそのまま腰壁の方へ行き、よじ登ろうとした。元気な彼なら一跳びで越えられそうな高さだが、今の彼では無理なのだ。体は重く感じるし、ところどころギシギシと音を立てているようでもある。それでも何とか庭へ出ると、かなり積もった雪の上に足跡を残しながら彼は再びこの家の玄関へと向かった。
玄関の庇の下に来ると、やはり雪は降り込んでいない。彼は最初来た場所に、後ろ脚をたたみ前脚を立てて行儀よく座った。辺りは先程までのかすかな住宅街のざわざわ感がなくなり、しんと静まり返っている。それで試しに、にゃあ、と鳴いてみた。そして続けてもう一度、にゃあにゃあ、やはり反応はなかった。その声自体、さっきよりも弱々してなっている。彼は玄関扉の上方を見上げ、にぃ、とため息をついた。それから力なくうつむくと、かつてここで家猫になった時のことを思い出した。いろいろな印象が再び彼の脳裏をめぐり始める。しかし今度の回想は彼が自分から思い起こしたものだった。
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この冬も無事越すことが出来た彼が、ある日の早朝自分の縄張から少し離れたある街をぶらぶらと散歩していた時のことだった。まだ暗いうちから起き出して縄張の見回りを終え、ちょっとした気まぐれであの長大な屋根の向こう側への冒険でもしてみようと思ったらしい。そしてそれには理由はなかった。そもそも彼の行動には動機というようなものはあまりない。自分の視界に入って来たあるものという外的な、あるいは自分の過去の印象が何の脈絡もなく心に現れるという内的な原因によって、身体が勝手に動くという行動がほとんどなのだから。
それで彼はまだ肌寒い早朝の見知らぬ街をのんびりと歩いていた。見知らぬ場所ではあったが、現在の縄張のある街と雰囲気はあまり変わらない。ほぼ似たような感じだった。ただ彼の住んでいる街の方が広い道路があって自動車も沢山行き来し、人通りも多かった。建物もあちらの方が巨大なやつが数多くあったと思われる。ただ彼はそんな自動車や人間を避けて生活していたのだから、結局のところはそんなに違いはないわけだ。しかし逆にそうだからこそ、こちらの方が自分にとっては住み心地がいいかも知れない、そんな風にも考えた。だから彼は気分よくこの街をぶらついていた。
ところである一軒の家の前を通りかかった時だ。彼は門のところで突然立ち止まり、門扉の格子越しに覗き込んだ。彼の鋭敏な嗅覚が美味そうな食べ物の匂いを感じ取ったのだ。彼は格子の隙間越しに、玄関に置かれた皿を発見した。あれが匂うに違いない。彼はそっと生垣をくぐり抜け、その皿の方へ行ってみた。あれほど慎重なはずの彼が‥‥‥おそらくこの日の気分の良さがそうさせたのかも知れない。そして食べてみるとやっぱり美味い。彼はカリカリと音を立てて思う存分食べた。その上よく辺りを見回すと、ちょっと離れたところにきれいな水の入った皿まであった。ここに来る時には皿に向かって一直線だったので気が付かなかったらしい。至れり尽くせりである。勿論彼はこの水もたらふく飲んだ。すっかり満足しそこで暫く寝転がっていたが、この家の中から物音や話し声がするようになったので急いで退散することにした。
それにしてもやっぱり美味かった。人間達の中には、何を考えてかこんな酔狂なことをしている連中がままいることは彼も知っていた。しかし今回のことは非常に強く印象に残ったのだった。彼にはあの食料と水が、彼だけのために、彼専用のものとして用意されていたように思われたのである。だから彼は次の日から毎朝その家に通うようになった。期待通り、毎日欠かさず食料と新鮮な水は供給され続けた。他の野良猫が食べにくることもない。結局彼はこの街に引っ越して来てしまった。
こうやっていると段々この家にも慣れて来る。だから物音や人影にも平気になってくる。朝の食事以外でも訪れるようになってきた。ある日の正午頃、春にしては少し暑かったので彼は駐車場の車の下で寝そべって涼んでいた。すると人間の足音が響き、ここの家人が覗き込んできた。その人間はびっくりしたような声を立てる。彼もちょっと驚いたが、人間と自分の運動能力の差(勿論彼の方が数段優れている)を知っていることと、吹いている風が心地いいことからそのまま寝そべっていた。するとすぐにさっきの人間が戻って来て何かの入った皿を差し出した。その人間がすぐに離れて行ったので、よく見るとそこには肉らしきものが盛ってあった。良い香りがする。色合いもきれいだ。彼は少し舐めてみた。美味しい。口にすると柔らかくてみずみずしくて実に美味い。彼は瞬く間に平らげた。これまで彼が食べたことのない味なのだ。あのカリカリよりも一段階上である。さらに、通常狩っているスズメやハトより断然美味しい。カラスやネズミとは比較にもならない。カエルや虫どもなんて論外だ。これまで彼が口にしたものとは全くの別ものだった。
こうなるとまた欲しくなる。次の日の朝、彼は再びあの家に行った。しかしこの時間、家の外には誰もいなかった。けれど彼はどうしてもあれが食べたい。そこで彼は、我ながら大胆だと思いながら玄関の前で、にゃあ、と鳴いてみた。すると扉の向こうで人間の話し声や歩く音などが響き、玄関引き戸がゆっくりと開き人間の顔が現れた。昨日の奴とは違う顔だと彼は思った。その顔は驚いたような表情を浮かべ、家の内部に何か言いながら引っ込んだ。それからすぐに別の人間が出て来ると(こちらは昨日の奴だった)、嬉しそうな面持ちで彼の前にしゃがみ、手に持っていた皿を彼の前に置いた。昨日と同じものが盛ってある。彼は間近に人間がいるにも関わらず一心不乱にそれを食べた。一瞬かつて仲間の被った恐ろしい悲劇が頭をかすめたが、この人間は大丈夫だと思われた。食べ終わり、最後の小さなかけらも舐め取ると、彼は上目遣いで目の前の人間に注意を払いながらじりじりと後退した。その人間は相変わらず嬉しそうにしている。彼はそのままそこを出た。
次の日からその家に行くと、あの御馳走が、いつものカリカリした食べ物に添えて時折置いてあるようになった。そうするとその日が楽しみになる。その家の人間が庭にいることもある。それでも段々平気で食べるようになる。そんなある日、この日も御馳走があったのだが、それが幾本かの棒で組み立てられたスカスカの箱のようなものの中に置いてあった。出入口らしきものはあったので、元々狭いところが好きな彼は早速そこにもぐり込んだ。そしていざこれをいただこうとしたその時、後方でガチャンと大きな音がした。何事かと振り返ると、出入口と見えたところがしっかりとふさがれていた。出入口ではなく一方通行の入り口だったわけだ。自分は檻という罠の中に閉じ込められたのだ。彼の心は恐怖に満たされ、珍しくふぎゃーとわめいて暴れまわった。その騒ぎを聞きつけて家から人間達が現れる。その表情は驚きと共に嬉しさを表していた。その時また、彼の脳裏に、仲間の哀れな子猫をなぶり殺していたあの人間の笑みが浮かび恐怖は倍増した。そのためますますこの檻の中で暴れ狂い泣き叫び、後で分かったのだが、この時右前足の爪が一本もげてしまっていたほどだった。そんな彼をしり目に、人間達はせわしなく話し合ったり動き回ったりしている。そのうちに彼はすっかり絶望してしまった。後は檻の中でうずくまって、観念したようになぁおなぁおと鳴くばかりになった。そのうちに彼の処遇が決まったようで、人間の一人が彼を罠の檻ごと持ち上げて自動車の方へ向かう。恐怖は頂点に達し周囲の状況も分からないほどだった。ただ運ばれていく途中、一匹のキジトラ猫が家の中から窓越しにこちらをじっと見ていたことだけは印象に残った。
その後の記憶は切れ切れでぼんやりしている。檻に布をかぶせられ自動車で遠くまで運ばれた。ある建物に着くと白ずくめの人間が待ち受けていた。その人物は彼を明るい部屋に連れて行き、いきなり後ろから何かチクっとすることをした。ひどい痛みではなかったが何故か段々と眠くなってきて―――気が付くと多分同じ建物の別の部屋にいた。何をされたのかもどれくらい眠っていたのかも分からない。暫くすると自分をここに連れてきた人間の一人がやって来て、再び自動車で家へと運んだ。到着すると中へ運び込まれた。そこには大きな檻がしつらえられていて、自分が入っている小さな檻から移そうとする。彼もそれに異存はないので進んで入って行った。そして奥の方へ引っ込んだ。
こうして彼はここの家猫になった。それでも最初の内は大きな檻の奥の方で丸くなっていた。立派なトイレが用意してあり、食事や水もきちんきちんと提供される。どうやら自分は酷い目に合わされることはないらしい。それどころかここはなかなか快適だ。彼は安心すると同時にこの環境に慣れ始めた。そうなると檻の外のことが気になるようになる。人間が時々やって来て愛想をすることがあった。これに対して(少々迷惑だったが)適当に相手をしてやる余裕も出来た。しかしそんなことより気にかかったのが、頻繁に檻の近くを行き来するこの家にいるもう一匹の猫だった。彼が捕まって連れていかれる時に見かけたあの猫だ。小柄な牝だが自分より随分年上らしい、気の強そうな美人猫である。
何となくではあるが、自分が大人しくして人間の相手を務めてやったりすればこの檻から出してもらえるような気がした。彼はいかにもこの生活に慣れてきたようにふるまった(実際慣れていたのだが)。その結果人間達から合格点をもらえたようで、早々に彼を檻から解放してくれた。彼は早速かの美人猫に直接会いに行く。そして彼女の整った鼻筋の先っぽに自分の鼻の頭をちょんちょんと当てて挨拶をしようとした。すると瞬く間に彼女の前脚が彼の顔面に二三発張り手を食らわせる。彼は驚愕し、みゃっと悲鳴を上げて素早く飛びのく。失礼な人間達はこの光景を見て楽しそうに笑っていた。
気の強そうな、ではなく実際気が強い姐さん猫だった。しかも自分が美人であることをちゃんと了解し自尊している女王様猫であった。彼は野良猫社会での豊富な経験から、こういう牝猫とどのように接すればよいのか、すぐに答えを見出した。そもそも彼女は先住猫であり自分は新参者である。彼女は洗練された家猫であり自分はもっさりとした野良猫である。だから最初は距離を取り、ただし彼女に対し非常に関心があるという態度は見せつつ次第に距離を縮めてゆく。そして始めはちょっと離れたところから、それから少しずつ接近しながら尻を中心に相手の匂いを嗅ぐのだ。そうすれば今度は彼女の方から自分の匂いを嗅いでくる。猫の世界では匂いが何よりも大事なのである。物事はこのように進めて行かねばならない。こうやってゆっくりと手順を踏んでいった結果、気は強いが決して性悪猫ではない彼女は、快く彼を舎弟として遇してくれるようになった。ただ、機嫌の悪い時など彼を張り倒すこともしばしばだったのだが。しかしこれは牝猫のことだから、仕方のないことだ。
こんな具合でその後、彼女は彼が家猫になれるよう毛づくろいから始めて熱心に指導してくれた。また彼は彼女から多くのことを学んだ。彼女も元は野良猫であり、ここに引き取られた後、苦労して家猫になったということを知った。彼女も彼も捕まった後すぐに子どもを作れなくなるような手術というものを受けたということを知った(どうりで股のあたりがスース―するわけだ)。彼は人間から“のび”と呼ばれ、姐さんは“あや”と呼ばれていることを知った。彼がここに来るきっかけになったあの御馳走、あれはウェットというものである、海という大きな水たまりに住む魚というものの肉なのだということを知った。人間が自分をどう呼んでいるかということには興味はないが、姐さんが元野良猫だったということには驚いた。姐さんは人間にも慣れているようだし荒々しさがまるでない。怖いものもないようだ。第一、食べ物に関して全くガツガツしていない。自分や他の野良猫達との共通点が見当たらない。ここで暮らしているとこんな風になるのだろうか。確かに、ここでは食べ物や水の心配は何もない。ウンコをしたり眠ったりする時周囲に注意を払う必要もない。それに、いつもなら今頃は夏になっていて、もうかなり暑くなっているはずだというのにこの家の中はそんなことはなく、丁度よい温度で実に快適だ―――そんな彼もこういった環境に慣れるに従って次第に家猫振りが板についてくるのだった。
そんなある日、朝から家の中が騒々しい。人間達が何かの準備をしているのだろうか、盛んに動き回っている。彼は妙な胸騒ぎがした。姐さんに聞いてみようとしたが、知らん顔で眠っている。彼は不安で仕方がない。人間達が良からぬことを企んでいるようだ。そうこうするうちに人間の一人が両手に一つずつ小型のキャリー(この名称も姐さんから教えてもらった)を持って来て、起きたばかりで寝ぼけ眼の姐さんを抱きかかえるとキャリーの中へ押し込んだ。そして二人の人間が、今度はお前の番だとでもいうようにこちらを見る。彼は床の上で震えていたが、脱兎のごとく走り出し隣の部屋のベッドの下にもぐり込んだ。人間達は恐らく、早く出て来るようにという意味のことを言っているんだろう、盛んに話しかけてくる。彼にとってはそんなこと出来るわけがない、そのまま丸くなってぶるぶる震えていた。すると棒状の何かが侵入してきて彼の尻の辺りをぽんぽんと叩く。人間がやっているに違いない。本当に野蛮なことをする連中だ。それでもそこで踏ん張っているとその棒状のものは、今度はそのまま抵抗できないような力で彼の体をぐいぐい押し始めた。そうやってベッド下から押し出そうとしているのだ。彼は、これではまずいとまた素早く駈け出してベッドの下から出ると、一直線に最寄りの椅子の下へ這い込んだ。しかし椅子の下では容易に人間の手が届いてしまう。彼はゆっくりと外へ出され、首根っこを掴まれてしまった。こうなるとお手上げである。彼は悲し気になぁおなぁおと鳴くしかない。そしてもう一つのキャリーに敢え無く放り込まれてしまった。
こうして捕り物騒動も決着したので、人間達は彼らを自動車に乗せて出発した。彼は相変わらずぶるぶると震えていたが、キャリー越しに見る姐さんは落ち着き払っている。目的地に着いたのか自動車が停まると、彼と姐さんは降ろされて見たこともない建物の一室へ連れていかれた。そこには小型のケージが沢山置いてあり、彼らはその中の一つにそれぞれ移された。周りの他のケージの中にも様々な柄の猫が一匹ずついる。柄ばかりではなく性格もいろいろであるらしい。騒がしくミャァミャァと鳴いているのもいれば、黙って寝そべっているのもいる。シャーシャーと威嚇しているのもいれば、隣り合ったケージの相手とお喋りをしているようなのもいる。彼の様にケージの隅っこで震えているのもいるし、姐さんのように悠然と辺りを睥睨しているようなのまで、と実に様々であった。
ケージの中の猫達も様々だが、そこにいる人間達もいろいろだ。背格好もばらばらで、人間が着ている服というのも色から形から各人それぞれだし、顔の方も、猫と違って毛が無いからむき出しでよく分かる、つるんとしたのからしわくちゃまでの各段階、目、鼻、口の大小美醜、これも人間だけが持っている髪の毛というもの、長中短、無いものまでいる。一つの部屋にこんなに大勢の見知らぬ人間がいることだけで恐ろしい。一体ここは何をするところなんだろう。猫たちの一部は鳴いたり威嚇し合ったり、人間達はそこここのグループごとでお喋りをしているらしい。暫くすると今までここにいた人間以外の人間が入って来た。その人間は何か歓迎を受けている様子で、やがて猫達の入っているケージを一つ一つ見て回った。時々最初からいた人間の一人が説明のようなことをする。後から入って来た人間はふんふんと頷きながらまた他も見て回る。そうしていると、また新手の人間が部屋に入って来て先程の人間がやったのと同じ様なことが繰り返される。この種々雑多な印象の過剰な流入は彼の心をすっかり疲弊させた。しかしここにいる、またやって来る人間達は少なくとも悪い人間ではないということだけは間違いないと思われた。そのため少し安堵した。そこで彼は他の猫たちの様子もあらためて観察してみたが、やはり様々で、彼のような猫もいれば全然違うものもいる。特に彼の姐さんなどは平然としており、この部屋を訪れた人間に抱っこされるなんていうこともあった。
随分長いように思われたが、この儀式もようやく終わったらしい。当初からここにいた人間達だけになり、片付けが始まった。あちらこちらで騒がしく、しかし楽しそうに話をしながら人間達は手早く作業を進める。やがて片付け作業も終わり、沢山のケージがそれぞれの人間達によって運ばれて行った。彼と姐さんは当然彼が今住んでいる家人によって運び出されて来た時と同じように自動車で家に帰った。いつもの部屋に戻ってキャリーの戸が開かれると、彼はすぐさま外へ飛び出て人間のベッドの下にもぐり込む。そこで暫くの間じっと丸くなっていた。もうぶるぶると震えてはいなかった。彼は家猫であり、ここは彼の家である。ここに戻って来たのなら、もう何も心配する必要はないのだ。
その後、彼は姐さんにあれが何だったのかを聞いてみた。彼女が言うには、あれは譲渡会というものである、いろいろな事情で人間に保護された猫の里親を募るために開かれる、自分達も保護猫であるからそこに出て飼い主を募集しなければならないのだ、だから怖いものではない、とのことであった。彼は、はっきり理解したとは言えなかったが、恐ろしくはない、ということだけははっきり分かった。そうであれば次回はあんなに怖がらなくてもいいわけだ。彼はそう確信したが、何しろ彼は茶トラの牡猫である。次の日にはきれいに忘れてしまっていた。勿論彼の意識の奥底の、深層心理付近には保存されたのだが、そんなものは常日頃には意識に浮上してくることはない。残念なことに彼は次回もその次もそのまた次も、譲渡会の日がやって来るとキャリーを恐れて逃げ回り、譲渡会場ではぶるぶると震えて丸くなっていた。姐さんも呆れていただろう。よく言われる通り、悲劇は何度も繰り返されれば喜劇になってしまうものなのである。
譲渡会というのは不愉快だったが、普段の日々の生活は誠にのんびりとしたものだった。家の中は暑くも寒くもなく快適だったし、食事も水もふんだんにある。ウンコをしても人間がすぐに片づけてくれるし、シッコを何回しても臭いがトイレにこもらない。これも人間が何らかの対策をしてくれているのだろう。しかし何よりも、姐さんと一緒にいられるのが楽しかった。姐さんの機嫌が悪い時以外は姐さんのそばにいた。こうしてゆったり過ごしていたある日のこと、窓際で二匹並んで日向ぼっこをしていた時に姐さんがこんな話をしてくれた。自分はかつて近くの公園で野良猫をやっていた、子供を産んだこともある、その公園にはいつも食事と水を持ってきてくれる人間がいた、自分は特に人間を恐れていなかったからその人が傍らにいても平気で食事をしていた、また撫でられても拒否しなかった、そんなある食事時、その人ともう一人別の人間がやって来た、なんだろうと思ったが気にせず食事をした、食べ終わるとその別の人が自分を抱き上げ、そのままケージに入れて病院に行き子供ができなくなるような施術をした(らしい、何しろ自分はその間ずっと眠らされていたのだから)、その後この家に連れて来られた―――彼女はそろそろ色付いてきた庭の紅葉を眺めながら話し続けた。そうやって野良をやっている時に聞いたのだが、自分を病院に連れて行った人間のような人達が何人かいて、保護猫活動ということをやっているらしい、それは自分のような野良猫を捕まえて子供を産めないようにした上で家猫になれそうならそのままここのような家で保護する、難しいようであれば耳の一部を切って元の場所に戻す、これは病院で施術済だということがわかるようにするため、そうしないとかつての自分の様に野良猫がどんどん子供を産んで増えてしまうから、それは人間にとっては不都合であるらしい、自分達猫にとっても野良をやっていくのは大変だ(それはあんたにもよく分かるだろう)、そういうわけだからあんたがここに通い始めた時この家の人間はその耳を見て施術済の外猫だろうと思っていた、しかしその割にはあまり人を怖がっている様子はない、だから一度捕まえて家猫になれるかどうか試してみようということになった、ところが捕まえてみたら立派なものがついていたんだから驚いただろう、慌てて病院に連れて行って緊急の施術、そしてその後あんたはこの家で目出度く保護猫になったというわけだ―――姐さんはどこか懐かしむような調子で話してくれた。母猫であったこともある彼女の話を聞いて、彼自身も何故か懐かしい気分になった。
彼はこのような日々を当たり前のように過ごしていた。けれどそれは当たり前のことではなかったのだ。ある日の夜、彼らがまったりしていると家人が急に譲渡会に行くときに使うキャリーを出してきた。譲渡会はいつも明るい時間だったので、彼にとっては不意打ちであり急いで人間のベッドの下に逃げ込んだ。しかし人間は座布団の上で寝そべっていた姐さんをケージに入れ、そのまま彼女と一緒に出かけてしまった。どこに行ったのか分からない。きっとすぐに戻って来るだろう。特に心配はいらないはずだ。彼は夜が更けて来ると寝てしまった。翌日目が覚める。昨日の夜のことなど彼はきれいに忘れていた。しかし姐さんがいない、このことにはすぐ気が付いた。それで彼女を探し始めた。彼はみゃぁみゃぁと鳴いてみる。けれど何の反応もない。おかしい。それにこの家の人間達が自分のことを気の毒そうに見ているのが気になった。家じゅうを歩き回っているうちに漸く彼は昨日の夜のことを思い出した。そして彼女が、自分達は保護猫であると言っていたことを思い出した。この二つを繋げてみると、姐さんは新しい飼い主のもとに行ってしまったということになり、そうであるなら恐らくもう会うことは出来ないということだ。彼はその日の午後、腑抜けの様になっていた。けれど夕方になり好物のウェットを貰って晩御飯のカリカリを食べると眠くなり、早々に寝てしまった。翌日目が覚める。昨日のことはきれいに忘れていた。その後時々ちらちらと姐さんの印象が頭の中にちらつくことがあるが、まとまった記憶としては現れない。姐さんの記憶は頭の奥深くに沈んでしまった。
こうしてこの家に一匹だけの保護猫として彼は暮らし始めた。あたかも当初からそうであったように。これまでは姐さんの後を追い、姐さんの傍らに寝そべって、(姐さんの機嫌が悪い時は距離を置きつつ)暮らしていたが、これからは一匹である。彼はこの家の中を自分自身の縄張として見回りをしたり、窓から外を監視したり、カーテンにじゃれついてみたり、一日に一回おやつとしてのウェットを家人に要求したりとすっかり自立した家猫になった。ただそれでも依然として譲渡会は定期的に開催され、彼はその都度キャリーを恐れて逃げ回り、譲渡会場ではぶるぶると震えて丸くなっていた。そんなことが何度繰り返されたか、そのうち彼が譲渡会へ連れていかれることはなくなった―――あくまでも推測ではあるが、この家の人間はあまりにも譲渡会を恐れている彼が不憫になり、正式に彼をその家の飼い猫にすることにしたのではなかろうか―――そしてこの茶トラの牡猫にとって、譲渡会のないことが当たり前の日常となっていった。あたかもずっと以前からそんなものなどなかったかのように。
新たな平穏な日常は、しかし間もなく破られた。涼しいと言うよりそろそろ寒く感じられるようになった頃、ある日の夕方突然三匹の子猫たちがやって来たのだ。この子たちも保護猫に違いない。そのためのケージが組み立てられ、三匹はその中に収容された。体は汚れてもおらずきれいで、もう母乳は必要ないらしい、ケージの中にはトイレとカリカリと水が用意されていた。それぞれサビ、キジトラの牝と茶トラの牡だった。三匹ともネズミのように小さく、ケージの奥に引っ込んで互いに身を寄せ合ってこちらを見ている。食べようとも飲もうともしない。人間達はいろいろとこいつらのご機嫌を取ろうとしているようだが、不安に満ちたこの三匹の目を見た彼は、自分がこいつらを保護してやらなければならないと考えた。正確に言うと、“感じた”ということになるのだが。いずれにしてもその晩、彼はケージの前で眠ることにした。チビたちに自分の姿が常に見えるような位置で。同族が近くに居れば少しは安心するだろう。
翌朝彼が目覚めると目の前にケージがありその中に三匹の子猫がこちらを見ている。始め、こいつらは何だっけと不審に思っていた彼だったが、暫くして昨日のことを思い出した。そうだった、新入りの保護猫だ。見るとカリカリも水も減っていない。それに大体こいつらは夜眠ったんだろうか。彼は起き出してきた人間にこの場所へ彼の食事と水を持って来させ(つまり人間は彼の要求を、感心なことに察してくれたんだろう)、その場で少し大袈裟に美味そうに食べて見せた。それからゆっくりと背を伸ばし、そのまま朝の巡回に出かけた。戻ってみるとチビたちが大きな皿に盛られたカリカリを夢中で食べている。彼は満足げに、にゃぁと鳴いた。
彼の努力の甲斐あって、子猫たちは案外早くこの環境に慣れてきた。体も徐々に大きくなってくる。ケージ内での動きもバタバタと活発になってきた。彼が近くに来るとミィミィ、ミャァミャァと姦しい。この様子を見て、人間達はそろそろ頃合いだと判断したのだろう、子猫たちをケージから解放してやった。チビたちはケージから飛び出すと彼のところへ群がりすり寄った。彼は順番にチビたちの体を舐めてやる。その姿はまるで母猫のようだった。その後も彼は甲斐甲斐しくチビたちの世話を焼く。ケージから躊躇なく飛び出したチビたちだったが、それはただ彼の傍に行きたかったからなのであり、ケージ外はまだまだ未知の、得体の知れない世界だった。そこで彼は毎日少しずつこの世界について教えていった。先ずは現在のこの部屋から、それから隣の部屋、今度は廊下、そしてその突き当りの広い部屋、最後に階段と二階の部屋だ。こうやって部屋の案内をされてみてもそこは子猫たちのこと、直に忘れてしまう。それでも何かしらの印象は残っているので、チビたちは気が向くと冒険気分でいろいろな部屋へ出かけて行く。そしてそこで少し怖くなったりすると不安気にミャァァァと鳴く。するとすぐさま彼が駆けつけそこにいたチビを安心させるのだ。
彼がここまで教えれば、後は慣れだ。更には彼のすることを真似たりして自主的に学習するようにもなる。外の寒さが厳しくなる頃には、チビたちは――もはや“チビ”とは呼べない程――体の方は大きく立派な猫に成長していた。また個性もはっきりして来る。サビは好奇心旺盛で賢く、キジトラは食いしん坊でのんびり、茶トラは甘え上手で元気だが少々ビビり、子猫からの卒業も間近かも知れない。そんな子猫たちの成長を見るのが、彼には嬉しかった―――しかし何故牡猫である彼が、しかも実の子でもないこのチビたちの面倒を何故これほど熱心に行なうのかは不明である。持って生まれた人の好さ、とでも表現するしかないだろう。
こうして彼にはまた新たな日常が始まった。朝早くに彼はリビングで目覚める。まだ夜はケージに入っている子猫たちは、目を覚ましてはいても中でじっとしている。直に二階から朝の早い家人が降りて来る。その足音を聞き逃すことなく、彼はリビングの引き戸の前に行く。戸が開いて家人が入って来ると彼はすかさずみゃぁと鳴く。朝のおやつのウェットを寄こせというわけだ。家人は心得たもので、システムキッチンへ直行しおやつの準備を始める。しかし何分にも大小四匹分あるから皿に盛るのに時間がかかる。彼は家人の足元を歩き回り体をこすりつけながら急かすように、にゃぁにゃぁと鳴く。このころになるとケージのチビたちもニャァニャァ、ミャァミャァと騒ぎ出す。ようやく準備ができると、家人は四枚の皿を器用に両手で持ちリビングの机の上に運ぶ。やはりその間も彼は家人の足元にまとわりつき、結果として運搬の邪魔をする。四枚の皿が机に並べられ、最初に一枚が彼の前の床に置かれる。彼はゆっくりと食べ始める。それから今度は子猫たちの番だ。残り三枚の皿がケージの前に並べられ戸が開かれる。チビたちは我先にと飛び出してそれぞれの皿に殺到する。キジトラはゆっくりと、サビと茶トラは猛然と食べ始める。そしてこの二匹はあっという間に平らげてしまい、今度はまだ食べている彼の皿へ突進する。そして二匹して彼を押しのけ皿に頭を突っ込むのだ。彼は二匹の後ろでちょこんと座っている。勿論彼は二匹に残りを譲るためにわざとゆっくり食べていたのである。朝のおやつが終わると、チビたちは廊下に出て奥の部屋へと出かけて行く。そこでころころと遊びだす。彼はそのままリビングで寝そべっているが、暫くすると大抵チビからお呼びがかかる。ミニャァァァという鳴き声が小さく響くと彼は立ち上がり、奥の部屋へと向かう。到着すると三匹が見える場所に陣取って、その様子を眺めている。そうしていると時々チビたちが一匹ずつやってきて彼にじゃれついていく。結局これがやりたくて彼を呼んだのだ。そのうちに段々と遊びも過激になってきて、廊下やリビングや二階をも巻き込んだ全速力の追っかけっこになる。これには彼も参加しなければならないらしい。家猫になってから全力で走るなんてことはなかったのだが、体は鈍ってはいなかった。散々遊び倒すとチビたちは早くも眠くなってくる。先ずはリビングで主食のカリカリを食べて腹を満たす。そこから長い昼寝の時間となる。その日の気分で多少異なるが、大体日当たりのよい窓際で三匹並んで眠るのだ。彼は三匹がよく見える出入口付近で横になる。そこで眠っているとチビが寝ぼけて彼のところにやって来たりする。事によると三匹一緒に彼のもとにやってくる。そんな時は薄い茶トラの彼をキジトラ、サビ、濃い茶トラが取り巻き、こんもりとしたひと塊の毛皮の様になってしまうのだ。こんなような昼寝、まどろみの時間は長く続く。夕方近くになって漸く彼とチビたちは活動を始める。真先に行なうのは夕方のおやつの請求だ。いつもその時間に帰って来る家人を待ち構えていて、その足元にみゃぁみゃぁとまとわりつく。人間の方もさっさとシステムキッチンへ行き、朝と同じ様に準備を始める。終わる頃には、別の部屋でのんびりしていたチビたちがリビングに集まって来る。皿が配られると朝と同じ光景が繰り返された。チビたちが食べ終わってそれぞれ散って行くと、彼は各皿の食べ残しをきれいに舐めとって行く。少々いじましい。それからは各自自由時間だ。とは言え彼に関しては自由な時間ではなさそうだった。朝ほど活発にではないが、そこかしこで遊んでいるチビたちがあっちこっちからミャァァァと彼を呼ぶ。彼はその都度押っ取り刀で駆けつける。なかなか忙しいのだ。彼の夜はこうして更けてゆき、再び彼とチビたちは夜の眠りにつくのだった。
十年一日の如くこのような日々が流れて行った。しかしチビたちは保護猫である。そのため時折譲渡会に行かなければならなかった。三匹はこの日にはいつも悲痛な鳴き声を上げた。かつての彼のようだった。キャリーに入れられるときには抵抗し、帰って来ると急いで飛び出る。その後彼のところに直行し、ぴったりくっついて身をすくめた。ここだけが彼の場合と違っていた。もしかしたら三匹は彼と離れることが嫌だったのかも知れない。ところでチビたちは譲渡会でも、ケージの奥に引っ込んでぶるぶると震えていたようであった。そのためだろうか、なかなか引き取りの声がかからなかった。
それでもチビたちは可愛い盛りである。寒さが和らいできた頃のある日の夜、突然キジトラだけがキャリーでどこかに連れていかれてしまった。そして戻って来なかった。それは姐さんの時と同様だった。きっと里親候補が現れたのだろう。キジトラがいなくなり、暫くの間彼と子猫たちは少し勝手が違った生活を送った。しかしそのうち彼と二匹の生活が普通になってしまう。この日常は少しの間ではあるけれども、続いた。けれどそろそろ暖かくなってきたある日の夜、今度はサビと茶トラが連れていかれる番になったのだ。この時は気配を察した二匹がいつになく頑強に抵抗した。いつものようにミャァァァと鳴いて彼を呼ぶ。それでも二匹は連れていかれてしまった。そして戻って来なかった。こうして再び彼はこの家で一匹きりになった。彼はチビたちに関しては心配していなかった。姐さんから聞いたように、連中は新しい里親の人間のところに行ったのだ。きっと良くされているに違いない。おそらくまた新しい保護猫がここに来るだろう。大人か子どもか知らないが―――こうして彼の何度目かの新しい日常が始まったのだった。
外の世界はどんどん春めいていく。寒さが緩んでくることはとても良いことだ。彼の日々の生活は、季節と同様穏やかに流れていった。朝と夕のおやつの要求は相変わらずきちんきちんとなされ、その後の遊びは静かな大人しいものとなり、食後の昼寝は春のとろとろとした陽だまりの中、彼は全くの無防備状態でただひたすらぐっすりと眠った。姐さんに続いてチビたちのことも心の奥底に沈み込み、最早通常の状態では浮かび上がってくることはない。彼にとってはこれが以前からの日常だった。彼には何の不満もなかった。
しかしそんなある日のことである。その日はこの家の人間達が朝から忙しく働いていた。沢山の荷物を家の中から自動車へと積み込んでいたのだ。何のためにしているのかは不明だった。すでに朝のおやつを貰いカリカリも十分食べてしまっていたので、彼は寝そべったままその様子を面白がって見物していた。荷物は当然玄関を通って運ばれる。だから玄関の扉は全開だった。そこから外の景色がよく見える。ガラス越しには毎日見ているが、こうして外と内と同じ空気を共有しているとどこか新鮮に感じられた。屋外の匂いも入ってくる、暖かな風も感じられるようだ。そんな状態を体感していると、彼の心にはある衝動が沸き起こって来た。それは、外の世界に出てみたいというものだった。彼は体を起こし前脚を立てて座った。どうしてそんな願望が起こったのかは分からない。彼には何の不満もなかったのであり、退屈であったのでもない、日々の日常に充分満足していた。だから逃げ出したいわけではなかったのだ。また野良猫生活の辛さの印象は例によって心の奥底にしまい込まれてしまっていて、その記憶が彼の突拍子もない願望を妨げる力にはならなかったことは確かだ。そうして不可解な彼の願望は次第に高まり、玄関の開口部に人も荷物もない瞬間を見て取った彼は、跳躍一番、ついに表に飛び出した。何やら騒いでいる人間達を尻目に、彼は全速力で走った。走ることが目的であったかのように走り続けたのである。
* * * * * * * *
彼は身体を一つブルっと震わせると顔を上げた。頭上には玄関の庇、今彼を雪から守ってくれている。しかしかつてこの家の内部で彼は全ての不都合から守られていた。ずっとこの家に留まっていさえすれば現在のような窮状に陥ることはなかったのだ。
彼はここで大きな欠伸を一つした。それからゆっくりとその場に蹲った。眠くなってきたらしい。あれ程冴え冴えとしていた意識に微睡が忍び寄ってくる。だがこれは気持ちのいいものだ。彼はそのまま満足げになぉぉぉんと鳴いた。そしてその自分自身の声を聴いた彼は可笑しくなった。それはさっき回想した自分が家猫だった頃、家人に朝のウェットを要求する時の声だったのだ。何故今なのか。彼はやっぱり可笑しくなった。それでもう一度なぉぉぉんと鳴いてみた。するとその直後に彼の耳がぴくりと動いた。玄関扉の向こうで何か音がしたように思えたのだ。なにかの気配があったような、彼はしばらく耳を澄ませた。しかし何事も起こらない。気配も音も消えてしまった。いや、もともとそんなものは無かったのかも知れない。気のせいだったのだ。
彼は目の前の大きな框戸を見上げてみた。はめ込まれた分厚い型ガラスは何の光も通していない。黒々と黙りこくっているばかりだ。この扉の向こうでの生活を思い出したのは本当に久しぶりだった。夏は涼しく冬は暖かい。毎日きちんきちんと提供される食事ときれいな水、朝夕にはおやつのウェット、遊ぶのに適当な用具も常備されていたし走り回るのに十分な広さもあった。おまけに階段もあったから垂直運動も自由にできた。ここで一緒に生活した姐さんやチビたちのことも思い出される。姐さんはきついけれど優しかった、いろんなことを教えてくれたし。チビたちはやんちゃで騒々しくて手を焼いた、それでも一緒にいるとなんだか楽しかった。連中は今頃どこでどうしているだろう。まあ、きっと上手くやっているに違いない。優しい飼い主のもとで、この家にいた時と同じように何の心配もなく、退屈することもなく―――是非そうであってほしいものだ。
暗闇の中で、彼の真丸の瞳孔は穏やかな光をたたえていた。この厳しい寒さには閉口していたが、その心に後悔の念はなかった。いや彼には、というよりもそもそも猫族には後悔するなどということはあり得ない。猫族たる彼の行動はほとんどが衝動的なものであり、そうしてもたらされる結果は必然的なものなのだ。行動する前にいくつかの候補の中からある行為を選択するなどということはしない。だから後になって、あの時ああしていればとかあんなことをしなければとか、そんなこと考えることはあり得ないはずなのである。
だから彼はまた過去のことを思い出そうとした。真冬の寒空の下、こうして蹲って震えているだけではつまらない。これまでそんなことはしたことがなかったのだが、昔のことを思い出すというのはなかなか面白いものだ。どこか知らないところを散歩しているようで。ところでこの言い方は変かも知れない。かつては見知った事柄であるはずなのだ。しかし一旦は忘却の彼方に消え去ってしまった記憶の想起である。そんな風に思われてもおかしくはないだろう。
* * * * * * * *
突発的な衝動で住み慣れた家を出た彼ではあるが、どこへ行こうとか何をしようとか、そんな考えは当然ない。ただ足の向くまま、諸印象の流れのまま、猫特有の忍び足でトットットっと歩いて行く。人や自転車が行き交う広い道路、時折自動車が騒々しく走って行くが、彼に注意を払うものはいない。彼はトットットッと歩いて行く。大きな沢山の家々、更に大きな建物群、そしてもっともっと巨大なビルディング、こいつの全体を見ようとしたら立ち止まって顔を真上に向けなければならない、空を見上げなければならない、そうしたらきっと電信柱の先っぽや張り巡らされた幾本もの電線までが見えるだろう。けれど彼にはそんな気は全くない、だからどんどんどんどんトットットッと歩いて行く。
そうして暫くすると、周囲が何となく見覚えのある風景になってきた。ぼんやりとではあるが、昔の見知った街並みであるような気がした。けれどはっきりとは思い出せない。きょろきょろしながら歩いていると前方にゴミ置き場があり、そこに積まれたゴミ袋をカラスの群れがさかんについばんでいる。得体の知れない興味がわき起こって、吸い寄せられるようにそちらの方へ歩いて行く。アァアァと騒がしくゴミ袋の山に集まっていたカラス達は、彼の姿を認めるや否やギョエェという悲鳴のような鳴き声を上げ一斉に飛び立った。空高く、一目散に逃げて行く。彼は不審に思った。どうも意味が分からない。あいつら、折角の飯の最中に‥‥‥そこではたと思い当たる。自分は昔、冬の間あいつらを喰っていた、奴らは覚えていたようだ、こっちはすっかり忘れていたんだが、喰う方と喰われる方とではやっぱり違うのか―――そんなことを考えていると近くの破れたゴミ袋から嫌な臭いが漂ってきた。こんなものを食べているのだからあいつらの肉は臭いに違いない、あの冬は他に獲物が獲れないから仕方なしに喰っていた、しかし今ではあのウェットの味を知ってしまった、もうあいつらを狩ろうなんて全く思わない。
そうすると今度はそのウェットが恋しくなってくる。小腹も空いたし、そろそろ家に戻るとするか。彼はまたトットットッと歩き出した。そうやって歩き出したのはいいけれど、実は帰り道が分からない。だから当初のように、足の向くまま歩くことになる。目的がなければそれでいいのであるが、今回は家に戻るという目標がある。この目標への方向が分からずに歩くとなると、それはむやみやたらと闇雲に歩き回るということになり、目標達成は覚束ない。当然のことながら彼は迷子になってしまった。
けれど彼は気にしない。どんどんどんどんトットットッと歩いて行く。そのうち家に帰ろうとしていたことさえ忘れてしまい、足の向くまま、諸印象の流れのまま、猫特有の忍び足でトットットッと歩き続けた。どれくらい歩いたのか、突然幅広の道路が前方を横切り大きな水たまりがその向こうに広がり、さらにその彼方に石を沢山積み上げた丘のようなものが長く高くそびえ、さらにさらにその丘の一角にこれまで見たことのない奇妙な建物がのっかっている光景に出くわした。これは何だろう、何事だろう。彼は驚き呆れ、しかし同時に大変感心し、これが何なのか、突き止めてやろうと決心した。そこで自動車やらバイクやらに注意しながら広めの道路を横断し、人間やら自転車やらを横目に奇妙な建物を左足に見ながら巨大な水たまりに沿って真直ぐな歩道を歩いて行った。
道の縁をのぞき込んでみると、彼が歩いている歩道の下も石が積まれているらしい。しかもかなりの高さがある。かなりと言っても猫族にとっては何でもない高さだが、下は大量の水でありこんなところに落ちたりしたら猫族にとっては大問題だ。あまり道の縁には近づかない方がよい。注意しながら歩いていると道が折れ曲がっているところがあって、右へ左へと進む。そこからはまた真直ぐだ。暫くすると漸く終わりが見えてきた。水たまりが大きな高い土の丘に遮られ、その丘の表面には草が生い茂り、上部は多くの樹木で覆われている。これまで見たこともないような地形だった。
近づくにつれ迫力が増してくる。これより大きな建物も幾つか見たことがあるが、それらとは別種の凄さがある。何となくだが、大きな建物の内部には人間だけがいる、しかしこの眼前の巨大な丘にはその密生した草むらや鬱蒼とした樹木の茂みの中に自分よりずっと小さい小動物や虫たちが無数にうごめいているだろうからではあるまいか。そんな風に感じながら彼が水辺に目をやると、一匹のねずみのように小さな子猫が水をすくったり叩いたりしている。水の中の虫でも獲ろうとしているのか、それとも単に遊んでいるだけなのか。ぼんやりと眺めていると少し向こうのちょっと高いところから、よせよせ、そこから早く離れろと呼びかけている猫の声が聞こえた。年寄りのようだ。あの子猫に向かって言っているのだろう。子猫は水辺での狩りだか遊びだかに夢中で、その声が耳に入ってはいないようだ。彼は年寄りの言葉を素直に聞くようにしていたので、そんなに言うならあのチビをこちらに連れて来ようかと一歩前に踏み出そうとした。その時だ。子猫の正面の水面がいきなり大きく盛り上がり中から巨大な影が水しぶきとともに現れたかと思うと、あっという間にその大きな長い嘴のようなもので子猫をくわえ込み、瞬時に水中へと没してしまった。後にはただ乱れた波が上下するばかり。そしてその波はゆっくりと放射状に拡がっていった。
ニョォォ、という悲痛なため息が聞こえる。呆気に取られていた彼は直ぐ我に返り、その声がした方へ行った。土手を少し上がったところだった。そこにはかなり年老いた一匹の牝猫がいた。しきりに嘆息している。彼は愁傷の言葉を述べ、何があの子猫をさらっていったのかと尋ねた。老猫は、この堀に住む、昔はいなかったが最近姿を現すようになった巨大な魚であること、春になってあれの動きが活発になり、やはり春になってここいらに子猫が増えたためその子らを襲うようになったこと、体が細長くて遠い国の河にいるワニという生物に口が似ているものだからワニヤリみたいな名前らしいこと、一週間ごとにあれはやってくるようだが年老いた自分にはどうすることもできないこと等々説明してくれた。彼はこの年老いた牝猫の博識の片りんを見たようで仰天した。堀とか遠い国とか河とかワニとかヤリとか一週間とか、彼にはさっぱり分からない言葉なのだ。そこで彼はこの年寄りから色々なことを学ぼうと考え、その物騒な奴を退治するためここに暫く居させてほしい、と頼んだ。老猫は彼をじろじろ見て、あいつはお前の三匹分くらいの大きさがある、しかしあの口が体の長さのかなりの部分を占めているし尾もあるようだから実質的には二匹分くらいだろう、流石に丸飲みにはできまい、やってみるがいい、ここに住むことはお前の自由だ、と言ってくれた。
その日から彼はそこで暮らすことになった。この場所は人間が食料や水を毎日持ってきてくれるところだったが、それはあの老牝猫やその他近所で暮らしている野良達のものだったので、彼は久しぶりに狩りをしなければならなかった。腕は鈍っていなかった。そのため皆にお裾分けをすることもできた。そしてその合間、老猫の暇な時間にいろいろと教えを乞うた(とは言え大抵一日中暇だったのだが)。例えば数について、ものが目の前にぽつんとあるとある時はヒニャ、ものが左右にある時はフニャ、ものが前と左右にある時はミィァ、ものが前後左右にある時はヨミォという風に数える、これは応用を利かせると実に便利であった。(あの巨大魚の大きさについて老猫が言っていた“フニャ匹分”とか“ミィァ匹分”の意味も了解できた)またこの場所が大昔人間によって作られた“城”というもののほんの一部であり、大きな水たまりが堀、石積みの丘が石垣、その上にある建物が櫓というもので、外部の人間を中に入れさせまいとする工夫である、ということも聞いた。彼がその理由を尋ねると、昔から人間は敵味方に分かれて大層派手な喧嘩を繰り返してきた、そのためそうした場合に備えて作ったものらしい、とのことだった。
また彼は教えてもらうばかりではなく、逆に自身の生い立ちを尋ねられることもあった。そこで老牝猫に、自分のこれまでのことを苦労して思い出しながら話して聞かせた。老猫は興味深そうに聞いていたが、彼の話が終わると、お前はきっとオシキリで生まれて子猫時代を過ごしたのだろう、それからジョーシンに移って野良猫をやっていたと見える、家猫になったのは多分センゲンあたりであろう、それにしてもお前はいろいろな幸運に恵まれていたようだ、性格が良いに違いない、しかし折角家猫になったのに家出をして道に迷ったのは大きな不運だった、ただお前がいた家はおそらくここからそんなに遠いところではない、方角としてはこの場所から見て一日の終わりに沈んでいく太陽が赤くなるその方向だ、覚えておくがいい、それからお前の名だが、以前様々な呼ばれ方をしていたが忘れてしまったということだから、生まれ故郷の地名からとってオシキリにするがよいと、ますます多くのことを教えてくれた。しかも名前まで。そこで彼は相手の名前を聞いてみた。いつまでも、婆さんと呼んでいるわけにもいかないから。すると、特に名はないがこの城に住み着いている猫達からは“三の丸の長老”と呼ばれている、とのことだった。彼には“長老”というものが何なのか分からなかったが、きっと随分偉い猫なんだろうと合点してそう言った。長老は、そんなことはない、ただ子供を沢山生んで長く生きてきただけだ、次の夏が二十回目になると答えた。彼はこの、フニャ・トミォという数を聞いてたまげてしまった。気が遠くなるほどの数だ。彼はこの長老をますます尊敬するようになった。
こんな風に過ごしているうちに、またあの危険な魚が現れる頃になった。そこで彼は、堀の近くから近所の野良猫達を(特に子猫たちを)遠ざけ、それから自身は水辺に座り右前足で水面をチャプチャプと軽くたたき始めた。そうやってあの怪魚をおびき寄せようというのだ。水面は揺れているからただでさえ濁っている水の中は見えない。しかし逆に水中からもこちらに大人の猫がいるとは分かるまい。彼はそう考えた。彼にしては見事な推理である。ところが暫くチャプチャプやっていてもなかなか巨大魚は現れない。いい加減嫌になってきたので休みをはさみながらすることにした。そうやって根気強く続けていたが、何回目かのこと、ぼんやりと水面をたたいていた彼は突然殺気を感じた。それは水中からだった。彼はチャプチャプを続けながら目を大きく見開き、身を低くして残りの三本の脚で踏ん張った。そして頃合いを見計らって右脚をさっと引く。その瞬間目の前の水面が高く盛り上がり、水しぶきを上げながら大きく開かれた巨大な長い口が襲い掛かって来た。間髪を入れず、彼はその怪物の首筋と思われるあたりに右前足の爪を立てる。すると丁度そこには妙な隙間があってうまい具合に爪がその中に食い込んだ。これ幸いと、彼は怪魚の突進力を利用して力の限り後方の土手に向けて放り投げる。怪物は宙を舞い土手の中腹に叩きつけられたが、その時ガッという硬いものどうしがぶつかるような音がした。そこにはたまたま角張った大きな石が埋まっており、怪物の頭部がその石の角に激突したらしい。怪物は血をほとばしらせながら草むらへと落下して、そのまま動かなくなった。
すると突然ニャニャニャニャァァァと歓声が上がった。彼が驚いて振り返ると土手の上に多くの野良猫が集まってこちらを見ながら鳴き騒いでいる。どうやらこの界隈の猫達に見物されていたようなのだ。きっと長い間待っていてくれたんだろう、かれはそう考えて感謝の印として前足を振ってやった。再び大きな歓声が上がる。その騒ぎの中長老がゆっくりと下りてきた。彼奴のエラを利用して投げ飛ばすとは見事である、長老は相変わらず難しい言い回しで彼に語りかける。それでもきっとほめられたんだろうと考え、彼は長老に謝意を表した。
そのうち丘の上にいた野良猫達が下りてきてわらわらと集まった。ただし例の怪魚の方へ、そしてその体に爪を立てたり噛んでみたりしている。その様子を見て長老は、そこでもう一つ頼みたい、お前が獲ったあの魚だが多分皮が厚くて普通の猫では歯が立たない、食べ易いように皮を剥いでもらえまいか、と依頼してきた。彼は早速死んだ怪魚のところに行き、その前で暫く考えた。確かに頑丈な皮だ、かなり手強い、背中や側面は無理だろう、彼は魚の体をひっくり返し腹を上にした。けれども多少ましとは言えこちらもかなり硬そうだ。仕方がないので彼は両前足でガリガリと引っ掻き始めた。家猫の時やっていた爪とぎの要領だった。そうやっていくと剥がれた欠片が沢山飛び散って、段々薄くなって行くのが分かった。十分削ぎ落し終わると彼は喉に当たると思われる部分に爪を立てた。案外あっさりと刺さる。そこで一気に切り裂いた。それから腹を開く。はらわたと肉がよく見えた。さあどうぞと彼が後ろに下がると、周りで見守っていた猫達がわっと群がった。
その様子を見ながら彼は少々複雑な気分だった。魚と聞いて、以前姐さんが教えてくれたウェットの原料であることを思い出して、実はその肉が美味ではなかろうかと期待していたのだ。ところが苦労してあいつを解体してみると嫌な匂いがする。これが本当にあのウェットの肉なのか?そこに食事を終えた長老がやって来た。そして、久しぶりに新鮮な肉が食べられたと礼を言われた。どうやら皆の食事も終わったらしい。そこで彼も怪魚の死体の方へ行った。随分食い散らかしてあるが、元々が大きな魚なのでまだ食べ残しが十分ある。彼はそれを食べてみた。やはりあまり美味くはない。しかし自分が狩った獲物であるし、自分が野良に戻ってしまったからにはこれからも狩りで生きていかなければならない。そう考えてもりもりと食べ始め、すっかり平らげてしまった。
このことがあってから、気は優しくて力持ちのオシキリさんだとの噂が拡がったのか、他の猫達から頼まれごとをされるようになった。気のいい彼はそれらに気安く応える。そのために三の丸中を巡ることになった。そうすることによって彼は再び野良猫としての感覚を取り戻していった。そんなある日、例によってある猫からの依頼のために出かけていた外堀の森から帰って来た彼は、今度は三の丸の長老から頼まれごとをされた。二の丸の長老のところへ行き自分に代わって挨拶をして来て欲しい、とのことである。加えて、二人とも年が年だからあの婆の生死の確認も兼ねて、なんて物騒なことを言う。彼はこれも二つ返事で請け合った。長老は二の丸への行き方を説明し、あいつのことは二の丸に行けば直ぐに分かるはずだ、自分と同じ様な婆であるから、と言って送り出してくれた。
教えてもらった方向へ彼はトットットっと歩いて行った。人間やクルマが時折行き来する道であったから注意しつつ歩く。右手には高さはないが広そうな建物、左手には堀の水、しかしこの堀は直ぐに終わってここよりも随分低い陸地になってくる。さらに行くと、この陸地はこちらとあちらの高い石垣に挟まれた深くて広い溝であることが明らかとなった。長老の言っていた空堀というやつに違いない。これを横目に見ながら歩いていると堀に架かった高い通路が見えてきた。そこはこの通路を渡るために人間が行き来しているので急いで通り過ぎる。そのうち彼は空堀の中には人間が(勿論クルマも)見当たらないことに気づいた。こっちの方が安全ではなかろうか、この中を通って行こう。彼は石垣をするするすると下りて行く。随分高さがあるが猫族にとっては造作ないことだ。ここは(三の丸の外堀ほどではないが)草深い。虫も沢山いる。探してみればネズミなんかもいるかも知れない。彼はサクッサクッサクっと歩いて行く。
なおもどんどん真直ぐ行くと、石垣が通せんぼしているところに突き当たった。どうやら堀が折れ曲がっているようだ。右の方に行くことはできるが、恐らくこの上が二の丸であろうと見当をつけて彼は正面の石垣をひょいひょいひょいとよじ登った。てっぺんに立つと眼下に広大な敷地が広がった。眼下にと言ったのは、何故だか自分が立っている位置が堀の内側の地面より高いから。より詳しく観察してみると二の丸と思しきこの大きな四角形の敷地の周囲だけが高くなっているようだ。そしてこの長い縁は石ではなく土が盛ってあって、多くの木が立ち並び草が生い茂っている。それに対してその内部の敷地は砂利やアスファルト、コンクリばかりでほとんど草も生えておらず、樹が数本申し訳程度に点在しているばかり、おまけにその真中には真四角の巨大な建物がドッかと鎮座ましましている。あまり住み心地のよくなさそうなところだ。三の丸にも大きな四角い建物ばかりがごてごてと密集しているところがあったが、あそこにはかなりの猫達がいた。ここはどうなんだろう。彼はこの場所を探索することにした。
先ずは初めに降り立ったこの一角を調べてみたが、やはりここは生活するにはあまりよろしくなかった。樹々や草むらで鬱蒼としている周囲の小高い土手は具合が良いが、細長い土地の連なりで散歩用ならまだしも生活するには不向きである。平地は人間がうろうろしていて物騒だ。ここには二の丸の長老さんもおられまい。早々に見切りをつけてもっと奥の方へ行くことにする。すると大きな出入口らしいところがあって人間達はそこから向こう側と出入りをしていた。とは言え猫族がこれに倣う必要はない。さっさと仕切りの塀のようなものの下から入り込んだ。そこは先程までとは全く違う、猫族にとっては居心地の良さそうなところであった。目障りな巨大建物などないし人間もあまりいない、土の地面の上には草地、樹々が豊富にある。またこちらの一角もやはり高い石垣上にあり、一方の側を空堀で、もう一方の側を水堀で囲まれていた。上から見ると水堀と空堀が接するあたりの景色が三の丸の長老の住処と似通っている。二の丸の長老もこの辺りに住んでいるのだろうか。
その時彼は少し離れたところに猫の親子を発見した。一匹の母猫と五匹の子猫だ。子猫はやっと乳離れしたばかりのようだった。母猫は子どもたちをさかんに舐めてやっていたが、暫くすると器用に二匹の首根っこを咥えて歩き出した。一匹の子猫はそれに気付いて急いで後について行く。残りの二匹は気付くことなく寝そべっている。そのまま母猫と三匹の子猫は姿を消した。彼は呆気にとられてしまった。一体何が起こったのか。とんでもない忘れものだ。残された子猫はどうなるのか。すると、おやまたか、しかも二匹だ、というような声がした。ほぼ同時に、母親がいなくなったことにやっと気付いたらしい子猫たちがミャァミャァと鳴き始めた。彼はそれで我に返り子猫たちの方へ歩いて行った。近くまで来ると、鳴いている子どもらの傍らに一匹の老牝猫がいた。先程の声の主と見える。その時頭上でバサバサと激しい羽音がした。見ると大きなカラスだ。狙いは子猫であるに違いない。老猫はいち早くこれに気付いており、カラスの方へ向き直ってシャーと威嚇している。しかしあの婆さんではちと荷が重すぎるだろう。彼は瞬時に助走し、今にも猫たちに跳びかかろうとしているカラス目がけて跳躍、体当たりを食らわせた。そしてカラスと身体が離れる刹那、その首筋に爪を立て行きがけの駄賃とばかりに羽根を三四本毟ってやった。カラスは体勢を崩しながらも鳥族の底力を持って墜落することはなく、それでも痛々しい悲鳴を上げながら飛び去った。彼の方も猫族らしくきれいにストンと着地した。
恐ろしい光景を目の当たりにしてニャァニャァ騒いでいるチビたちをあやしながら、老牝猫は彼に礼を言う。自分もああやって気張ってはみたが一匹ではチビどもを守ることが出来なかったに違いない、自分自身もどうなっていたか分からない、大いに感謝すると言われた。彼は何となくこの牝猫が二の丸の長老ではないかと感じていたので訊ねてみた。すると老猫は、別段自分でそう名乗っているわけではないが世間ではそのように呼ばれているらしい、まあ子どもを沢山産んでちょっと長生きしているだけだ、とどこかで聞いたことがあるようなことを言った。それで彼はこの婆さんが確かに二の丸の長老であると納得した。そこで彼は残された子猫の母猫について聞いてみた。これに対して、あれは単なる引っ越しである、あの母親はひどく若いから勘定ができないようだ、一匹か複数匹かくらいしか判断出来まい、だから子どもを皆連れていると思っていたんだろう、とのことだった。この話を聞いて彼は自分自身の遠い昔の記憶をぼんやりと思い出した。それで、こういうことはよくあることなのか、と聞いてみた。長老は、ちょくちょくある、そのため自分は随分以前からこうした孤児を育てることを仕事にしている、と言った。彼はこれも何かの縁であろうと考えた。そこで挨拶が遅れたことの非礼を詫び、三の丸の長老からの伝言と、暫くここに滞在したい旨を伝えた。長老は、三の丸の婆は息災か、まだ生きていたとは結構なことだ、それにお前がここにいてくれるということは心強い、カラスもおいそれとは襲って来れなくなるだろう、是非頼むと言ってくれた。こうして三の丸での生活が始まった。
彼は居候であったのでいきおい三の丸の長老の手伝いが、つまり子猫の面倒見がここでの仕事となった。毛づくろいをしてやったり耳掃除をしてやったり遊んでやったり、こまごまと世話を焼く。食事や水は、彼が最初三の丸に入った場所に人間が毎夕持って来てくれていたので、長老と子猫の護衛も兼ねて出かけて行った。その時間はカラスもいなくなる頃だったが、念のためである。勿論自分の分はチビたちの昼寝中に済ませておいた。そのため水堀の方へ下りて水辺で小型の魚を獲ることもあった。そんな時には長老やチビたちにもおすそ分けをした。皆喜んでくれたが彼は、昔大きな水たまりに住む魚の話を聞いたことがありその肉と称するものを食べたことがあるがあれはもっと美味かったと話した。それを聞いた長老は、その大きな水たまりというのは海というもので、とんでもない大きさがありその水はしょっぱいそうだ、そこに住む魚はこの水堀に住む魚よりも断然美味であるらしい、ミナトの方から流れて来たサビ猫から聞いたことがある、と教えてくれた。それはともかくとして、彼の働きぶりに長老はいたく感心した。お前は牡猫であるのに何故そんなに気が利くのか、そう聞いてきた。彼は、以前家猫だった時先住の牝猫から習ったのだと答えた。それにしても牡猫が、と二の丸の長老はますます感心してしまった。そのため彼はまたこの長老にも自分のこれまでの経験を、苦労して思い出しつつ話さなければならなかった。聞き終わると長老は、お前はいろいろな幸運に恵まれていたようだが、それはお前が素直な良い牡猫であるからに違いない、今は再び野良猫に戻ってしまったのだから名前も必要となる、そこでこれからはお前が正真正銘の野良猫になった場所にちなんでジョーシンと名乗るがよい、こう語った。彼は三の丸にいた時には別の名前があったような気もしたが、よく思い出せない、だからそれならそれでいいと思った。
その後彼は世話焼きのジョーシンさんとして二の丸に住む猫達から頼りにされるようになった。そのためあちこちから頼みごとが持ち込まれ、日々忙しく過ごすようになる。そうしているうちに、いつしか涼しい風が吹くようになってきた。あれ程小さかったチビたちも随分大きくなった。そんなある日、彼は長老に呼ばれた。長老は、話というのは他でもない、子猫たちのことである、あの二匹は牡と牝だ、そして最近二匹が少々不穏な動きをしている、これはつまりは子どもが出来てしまう恐れがあるということだ、子どもが出来ること自体は問題ないが、この二匹が兄妹若しくは姉弟だということは問題である、昔からきょうだい間で子どもを作るのは良くないこととされている、そこで一匹は別の場所へ行ってもらおうと思う、こう話した。彼は話の内容についてはよく分からなかったが、そのままふんふんと頷いておいた。長老は続ける、そこでお前に頼みたい、チビの牡猫の方を御深井丸の長老のところへ連れて行っては貰えまいか―――
こうしてまた彼は教えてもらった方向へ一匹のチビとともにトットットっと歩いて行った。チビはきょうだいと別れることになったのだが、彼が一緒なので平気なものだ。楽し気に歩いている。彼はチビの姿を視界にとどめながら歩いて行く。教えてもらった通り突き当りの大きな深い空堀沿いに本丸を迂回する。そうしていくと通路も堀も左に折れた。彼とチビもその通りに進む。すると前方の樹々の上に巨大な建物が現れた。非常に大きい。全体の印象としてはこの城に来るとき最初に見かけた建物のようだった。しかしこちらは比べ物にならないほど大きい。普通猫族はその視点も低く、滅多に空を見上げたりしないから高い大きなものの存在にはあまり気づかない。それなのにすぐ彼の視界に入って来たのだから半端な大きさではないのだ。しかも形がこれまで見てきた高層建物とは似ても似つかない。下から上に行くにつれてだんだん小さくなっていく。しかも屋根が緑色の三角形で、さらにその三角形が所々に幾つも付いているのだ。そして何よりも奇妙なのはそのてっぺんに金ぴかの魚らしきものが二つのっかっていることだった。彼はすっかり感心し、正面から望める場所まで来ると立ち止まってゆっくりと眺めた。これは人間が作ったものだ、三の丸の長老がそう言っていた。一体どうやって作ったのだろうか。人間は自分たちに比べると確かに大きいが、それにしたって目の前の、空堀の底から高々とそびえている石垣なんて人間よりも大きな石が沢山組み上げられたものだ、どうやってやったんだ?しかもその上の建物なんて桁外れだ。以前家猫をやっていた家も人間がその中に住んでいるんだから、そりゃそれなりに大きい。でもあれは人間が作ったと言われても、まあそうなんだろうなと思うことができた。しかしこれは、いやはや呆れてしまう。
こんな風に考えていると、彼はあらためて人間が怖くなってきた。丁度この辺りには今もちらほらと人がいる。チビと一緒であるからだろうか、ちょっかいをかけてくる連中もいる。そこでそろそろ行こうかとチビに声をかけた。するとチビは腹が減ったと言う。彼は少々困った。ここには獲物が見当たらない。人間が常にいるから小鳥は寄り付かないし、近くの藪にも爬虫類や虫などいなさそうだ。どうしようかと暫く思案したが、ふと空堀の底のことに気が付いた。以前二の丸へ行く時に通ったところは草が生い茂っていて、バッタやトカゲをよく見かけたのだ。きっとここもそうであるに違いない。彼はチビと一緒に堀の底へと下りて行った。
この堀の底も草が繁っていたが全体的にそろそろ元気がなくなっていた。またバッタやトカゲは見当たらずコオロギなど鳴く虫が多かった。それでもチビは嬉しくなったらしく、虫どもを追いかけまわして遊び始めた。腹が減ったと言っていたのに、やはりチビはチビだ、そう考えながら彼はどこまでも走って行くチビを追いかける。巨大建造物のすぐ下から離れて行くと正面にまた石垣が立ちはだかった。どうやらこの堀が直角に曲がっているようだ。チビはこの曲がり角を左の方へ行き、見えなくなった。彼はやれやれと思いながら後を追う。その時けたたましい猫の叫び声がとどろき、疾走するチビの姿が前方を横切った。驚いているとそのあとから首の長い四肢の巨体が走って来た。見たこともないものだ。以前自分が野良の時、人間が大きな犬を連れているのを見たことがある。今度のはそれよりも一回り大きい。しかも脚がとても長くて細い。我々から見るとあれで走ったらポキリと折れそうで心配になる。しかし大丈夫の様だ。さて逃げていたチビの方は石垣まで追いつめられるとするするとよじ登り、ある高さまで行くとそこに座って追跡者をシャーと威嚇する。その巨体のものは鳴くことはせず鼻を鳴らしながら前脚で石垣の石をさかんに蹴とばしている。その足を見ると構造が猫族のようではない。どうやら我々のようにこの石垣を上ることはできないらしい。あのチビなかなかやるものだと彼は思ったが、感心してばかりもいられない。堀の底で狩りをするためにもあの大きな奴と和睦しなければと考え、彼自らそちらの方へ歩いて行った。
そして後ろから、もしもしごめんなさいと話しかけた。その巨体は石を蹴るのをやめると顔を横に向けた。こいつは顔の側面に目が付いている。だからこんな横着なことをしてもこっちがよく見えるのか。そう納得していると相手はゆっくりとこちらに向き直り、次の瞬間猛然と突進してきた。彼はきゃっと悲鳴を上げて慌てて逃げ出した。結構な迫力である。ただ彼の走力も大したものなので追いつかれることはない。ところがそのまま走っていると前方にも一匹同じようなのが立っている。彼は、これはまずいと判断し急遽右折、急斜面の石垣を駆け上った。適当な高さのところで止まり、見下ろした。大きな奴は、今回は石を蹴ることなくこちらを睨んでいるようだ。彼は、自分達には害意はないと釈明する。猫族の言葉が通じていないだろうことはよく分かっているが、何とかなるだろう。そのうち向こうも面倒になったのか、さっき見たもう一匹の方へ静かに歩いて行った。やはりあいつは我々に積極的な敵意を抱いているわけではないらしい。彼は確信するとスルスルと石垣を下りて二匹の方へ近づいて行った。するとまたさっきの奴が向かってくる。彼もすぐに先ほどの石垣上に避難し、再び上から釈明をする。暫く彼をながめていた大きな奴は根負けしたように戻って行く。そしてまた彼は下りて行って……と繰り返す。仕舞いには二匹に近づいても大きな奴は彼を追い払おうとはしなくなった。
それから彼は二匹の周りをうろうろしたり、相手を見上げてみゃぁみゃぁと話しかけたり、より良好な関係を目指した。ついには座っている(彼に向ってきた方ではない)大きな奴にひっついて寝そべるなんていう図々しいことまでするようになった。それでも追い払われることはない。このようにして堀の底を自由に動き回ることが出来るようになった彼は、当初の目的である狩りをすることにした。獲物だが、勿論そこいらを飛び跳ねている虫たちでもよいが、実はあの大きな奴との追いかけっこの最中に彼は目敏くも石垣の隙間に時折ネズミが潜んでいることを発見していたのだ。早速そのうちの幾つかを探索しすぐに二匹ばかり捕まえてしまった。大きな奴は両方とも座って興味深そうにながめているばかりだった。彼は獲物を口に咥え、身振りでお邪魔しましたと伝えた。向こうの方も頷くような素振りを見せた。それで安心した彼は石垣を登って行った。
堀の上に出ると二匹の猫がいた。一匹は一緒に来た牡の子猫であり、もう一匹は見知らぬ老牝猫である。ネズミを、しかも二匹も咥えているものだから彼がふがふがしていると老猫が、この子から聞いた、お前が二の丸の婆からの使いの牡猫か、自分が御深井丸の婆だと言った。長老は自分のことや相手のことを婆と呼ぶようだ、彼は思った。そして口に咥えたネズミの一匹をチビの前に、もう一匹を御深井丸の長老の前に置いた。それから、お初にお目にかかる、自分は二の丸の長老から頼まれてこの子猫を送って来た、よろしくお願いしたい、これはほんの手土産でと言った。長老は喜んでくれた。これは有難い、何しろここは人間の援助が届かないところなので食料は全てこんな年寄りであっても自前なのだ、それにしてもお前は大した猫である、あの鹿どもと仲良くなってしまうとは信じ難い、理由は不明だが昔から我々と堀底の鹿とは仲が悪かった、そのためあそこには獲物が多くいるということが分かっていても獲りに行くことができなかった、そこでお前に御深井丸の猫族と堀底の鹿族との関係改善を試みてもらいたい、長老は言った。彼は、あれは鹿というものなのか、面白そうだからやってみようと承諾した。長老は、期待している、お前なら出来るような気がする、ところでこの子はしっかりした子だ、御深井にやって来ていきなり長老はどこだと呼び始める、自分はここだと出て行くと、これこれしかじか事の仔細を要領よく説明しここに連れて来てくれた、立派なものだ、自分もこれから育て甲斐があるというものだ、ではさて、折角の新鮮なネズミの肉だ、遠慮なくいただくとしよう、長老がそう言って彼の土産を食べようとすると、ない、チビが長老の分まで食べてしまっていたのだ。お腹いっぱいで寝そべっているチビを見ながら、成程しっかりした子だ、彼が言うと、長老は笑った。
こうして彼はチビがここでの生活に馴染むまで、長老の生活を助けたり猫族と鹿族との友好関係を築く活動をしたりするため御深井丸に滞在することとなった。段々寒くなってくる頃だったが、この場所は夕方から朝までは人間が全くいなくなる、そういう面では暮らしやすいところであった。またここには以前外から水堀越しに眺めた建物があり、間近から見てみると案外大きい。ここで彼は推理をする。自分があの時ながめた位置関係からして、この建物を右後ろに見て進んで行けば三の丸の長老がいる場所が見えるのではなかろうか。そこでぶらぶら歩いて行ってみた。すると途中狭い通路があり、その向こうに西の丸と呼ばれている一角があった。水堀にのぞむ石垣の縁へ行って見下ろしてみる。そこからは彼が考えた通り三の丸の長老の住処がよく見えた。
この二つの土地が彼の今回の拠点となった。ここで生活するにあたって食料を容易に確保するためにも、やはり二の丸と本丸とを隔てる堀底に住む鹿族と猫族との良好な関係が不可欠であろうと思われた。そこで手始めにチビを連れて再び堀底に向かった。勿論前もって、怖くなっても威嚇することは禁止だと言い聞かせてはいた。ところが下に下りたって目を閉じて静かに座っている二匹の鹿に近寄ると、この間彼らに突進してきた方が目を開ける。それを見てチビが身構えてシャーとやるものだから、この鹿の目つきが険しくなった。彼は慌ててチビを宥め最寄りの石垣を登った。そしてその途中の石の上で、チビの頭を前脚でぽんぽんと叩きながら鹿に向かって身振りと鳴き声で謝罪した。鹿はそのまま目を閉じた。これを見て、今日はこれだけにしようと堀を出た。また彼は、鹿というのは猫族なんかより断然賢いのではなかろうかと当初から思っていたが、その考えは正しかったと確信した。
その後彼はゆっくり時間をかけて猫族と鹿族の関係改善に取り組んだ。チビから始まって取りあえず子猫から、それから大人の牝猫、最後に大人の牡猫という順番で慣れさせていく。おそらく昔猫族の方から何か良くないことをしたに違いない。だからこちらから変なことをしなければ鹿族から攻撃してくることはないわけだ。彼の思惑通り、猫達が鹿族にちょっかいをかけたりしなければ堀底でも行動は自由だった。それどころか子猫などは時々座っている鹿にぴったりとくっついて昼寝をしたりしている。これで当面は良い狩場が確保できたというものだ。しかしきっとそれも暫くの間だけだろう。我々猫族がいつまでも大人しくしていられるわけがないのだ。
こうして鹿族との和睦がなると、彼は長老に報告をした。長老は大変喜んでくれた。また同時に非常に感心もした。自分が生まれるずっと以前から険悪だった鹿族との関係修復をいともあっさりと成し遂げたのだから、というわけだ。しかし彼は、この友好関係は長くは続かないかも知れない、やらずもがなの行為を好き好んでする我々猫族の性格を鑑みると、肩をすくめてこう言った。長老は声を立てて笑った。そしてますます興味を持ったらしく、彼のこれまでの半生について訊ねてきた。彼は、この問いは間違いなくこれまで何度か繰り返されてきたことだ、そう思った。しかし尊敬すべき老猫の言葉である。しっかり答えなければならない。そこで彼は、努力してこれまでの自分の過去を思い出しながら長老に話して聞かせた。老猫はやはり興味深げに聞いていたが、話が終わると一つ大きく頷いた。そして、お前の持つ優れた能力はきっと家猫時代に培われたものだろう、おそらく生まれつき持っていた能力なのだろうが、共に暮らした猫達、それからお前を飼っていた人間達、それらとの関わり合いの中で磨かれてきたものであるに違いない、それにしてもお前がその家を飛び出してしまったことはいかにも不運だった、やむを得ないことだったかも知れないが、ところがその不運が我々御深井丸・西の丸の猫達にとっては幸運なことになったというのは少々皮肉なことである、こう言った。これを聞き彼は、家猫の生活についてお詳しいようだが、と訊ねてみた。長老は、自分はもともと家猫だった、物心ついた時から人間の家にいた、だから早くに子供ができないようにされていたようだ、そこで長い間安穏に暮らしていた、だからお前が突然家の外に行きたくなった気持ちもよく分かる、しかし自分の場合は自ら家出をしたわけではない、ある朝目が覚めたら見知らぬ公園にいたのだ、きっと捨てられたのだろう、それから色々あってここに流れ着いた、果ては長老と呼ばれるような身分になってしまった、こう語った。
彼はこの話を聞いて、この長老も随分とすごい経験を積んだようだと考えた。そこで、暫くここに滞在したい旨を伝えた。長老は喜んでこの申し出を受けた。そして、ではお前には名が必要になる、先程言ったようにお前にとってこれまで最も大事であった時は家猫時代であったのだから、家猫をやっていた場所にちなんでセンゲンと名乗るがよい、こう言った。日々の生活に追われ、過去のことをどんどん忘れて行く彼は、軽い既視感を覚えながらもこの命名を受け入れた。彼はこうして長老から様々なことを学びながら、鹿と仲良しのセンゲンさんとしてこの地で暮らすことになったのだった。
* * * * * * * *
本当にいろいろなことがあったなぁ―――彼の心持ちはこんなだったのかも知れない。始めは努めて過去を思い出そうとしていたのだが、いつの間にか記憶の方が勝手に頭の奥底から湧き上がってくるようになったのだ。その間彼の脳裏を色とりどりで賑やかな無数の印象が流れて行った。しかし生憎と現在の彼の周囲は暗く静かな空間であって、しかも厳しい冷気に包まれている。豊かな回想によって愉快になりほっこりとした彼の心は、残念ながら思い出の想起が途絶えると直ぐに冷え込んでしまったようだった。
眠気も次第に増してくる。うつらうつらしているとそれはそれで大変心地良い。しかし彼は今まで過去の記憶を楽しんできた。そしてそれはまだ彼が経験してきた事柄の全部ではない。どうせ思い出すのなら全てを回想し切った方がよろしかろう。彼は眠気に負けそうになる自分を叱咤するように、もう一度頭をもたげてなぉぉぉんと一声鳴いた。彼が発せられた自分の声に満足していると、扉の向こうでまた何か物音がしたように感じられた。彼は耳を澄ます。すると中から今度はニィと微かな鳴き声が聞こえたような気がした。彼はさらに耳を澄ます。しばし無音、しかし暫くすると再び物音とともにニャァという小さな鳴き声、彼は満足げに笑った。空耳ではなかったのだ。この家は保護猫を預かるところであるから、新しい保護猫たちがやって来ているに違いない。
彼は彼らの幸福を願うように玄関扉を見上げた。彼のこれまでの経験からすると、やはり野良猫生活は辛い日々であった。夏は暑さにうだり冬は寒さに凍える、雨に打たれ風に怯える、いつもひもじい思いをしきれいな水も満足に飲めない。変なものを食べて腹を壊す奴もいたし毒虫にやられて身体中の毛が抜けて皮膚がただれている奴もいた、その挙句にカラスに喰われる、人間になぶり殺される、大きな動物に飲み込まれる、クルマに轢かれる、腹が減って野垂れ死にする、寒空の下凍え死ぬ‥‥‥彼はたまたまそういう運命を免れてきた。多分もうすぐこの中の最後の運命が彼を襲うことになるだろうが、そんなことは彼には関心のないことだった。これまでのことを思い出してきた彼の関心は、彼の後輩たちのことであった。
だから時折家の中から聞こえて来る猫の鳴き声の断片は、その内容は聞き取れないものの彼にとって心地良いものであった。その声を聞きながらもう一度彼は自分の経験の残りの部分を思い出そうとした。
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そろそろ冷たい風が吹き始めた頃、御深井丸で生活していた彼は長老から呼び出された。やっていた仕事を終えて出かけて行くと、お前をこの城の城主とすることにした、二の丸、三の丸の婆達と決めたことである、そのための儀式を行なうから今日の真夜中本丸に来るようにとのことであった。彼は面食らった。それはどういうことか、城主とは何か、彼が聞き返すと、お前のこれまでの目覚ましい働きぶりを我々が評価したということだ、城主とは殿様のことである、と言う。長老達が評価したら何故その殿様とかにならねばならぬのか、分からない。そこで、その城主、殿様というものになるとどうなるのか、そのための儀式というのは一体何なのかと更に訊ねた。長老は、殿様とはこの城の猫達の上に君臨するものである、他の猫達の手本となるべきものである、だから別段これまでと何ら変わるものではない、肩書のようなものだ、儀式では先ずこの城の命名を行なう、勿論この城に住む我々猫族にとっての名である、お前が城主になるのであるから人間が付けた名で呼ぶのは不都合であろう、名はかつて実在した最も偉大な猫に付けてもらうことにする、ここから水堀を隔てた向こう側に公園があってそこに口寄せが出来る巫女猫がいるのであるが、その牝猫に過去の偉大な猫の魂を召喚してもらおうというわけだ、城の命名後お前を正式に城主として任命することになっている、今日は体を休めておくがよい、それではよろしくと言った。意味不明な言葉がてんこ盛りで何が何だか分からなかったが、一々問いただすのも面倒なので大人しく、了解したと伝えた。
夜空の月の位置から頃合いを見て、彼は初めての本丸へ出かけて行った。これまで行ったことはない。昼間はいつも人間が沢山いるし、夜は門が閉まっている。その気になれば門を越えたり、鹿の住む深い空堀の底からよじ登って入ることも可能だが、野良猫仲間も住んでいないことでもあるしそうまでして入る気も起こらなかったのだ。ただその夜は別だった。何しろ長老達に呼び出されたのだから。彼は西の丸から門を越える経路を選び静かに侵入した。しかし入ったはいいが中も広い。おまけに以前御深井へ来るとき見た高く巨大な建物や高くはないがやたらと広い建物などが多くあり、苦労して長老達を探すことになってしまった。
それでもある一角の雑木林のようなところに集まっているのを発見した。そこには三匹の長老と一匹の年増らしき三毛猫がいた。これが巫女猫であるらしい。長老は口寄せをするとか言っていたが何をするのかさっぱり分からない。長老達は歓迎してくれた、そして三毛猫を紹介する。その説明によると、口寄せというのは主に死者を呼び出すものである、やって来た死者は口寄せをするものの耳を借りて生者の話を聞き取る、そして口を借りて生者と話をする、だから口寄せと称するのであろう、このような能力を持つものが一般的に巫女と呼ばれる、本日は、いや明日になってしまうかも知れないが、この三毛が口寄せの儀式を行ない、かつてこの世に実在した最も偉大な猫の魂を召喚しこの城に、我々にのみ意味を持つ或る“名”を与えてもらわんとするものである、とのことだった。
説明が終わると早速召喚の儀が始まった。三毛巫女はナァオナァオと鳴きながらうずくまり、その周りを三匹の長老達と彼が均等に取り囲んで座る。そのうちに段々鳴き声が大きくなり巫女は頭を上げる。同時に鳴き声もミャァウミャァウに変わりゆっくりと半身を起こした。そして今度は前足を高く差し上げて、ミャァニャウミャァニャウと大きな鳴き声を発し始める。彼が訝しんでいると突然両前足の爪を出し、ミャミャァミャミャァミャミャァニャーゴ!と絶叫した。次の瞬間、その叫び声が本丸中にこだまする中、巫女はへなへなとへたり込む、驚いた彼にはそう見えた。ところが直ぐに巫女は体を起こすと前を見据え前脚をそろえて堂々と座った。その表情は明らかに先程までのものとは違っている。長老達は厳粛な面持ちでその様子をながめていたが、三の丸の長老が先ず口を開いた。
―――貴方がかつてこの世に生を受けた猫達の中で最も偉大な猫であるのか。
―――そんなことは知らぬ。死後の世界でのんびりと暮らしておったらいきなり連れてこられた。一体何事であるか。
次に二の丸の長老が訊ねた。
―――我々は、かつてこの世に実在した最も偉大な猫の魂を召喚するようこの三毛巫女に依頼した。貴方が選ばれたのなら間違いなく最も偉大な猫の魂だということだ。
―――それならそれで構わない。お前たちの好きにするがよい。ただ妙な頼み事などされても困る。所詮は一介の猫なのだから。
そこで御深井丸の長老が訊ねた。
―――それでは貴方が生前どのような猫であったのかを是非お聞かせ願いたい。
―――ふん、遥かな時空を越えてこの時この場で、自分の過去を追憶し他人様に語る、か。折角お招きに与ったのだ、それも一興かも知れぬ。特別面白くもない話だが聞いて行かれよ。吾輩の名はムル、十九世紀初頭のオイローパァで生を受けた牡猫である。一応人間に飼われておった家猫だ。大抵家の中に居て、主人に撫でてもらいながら喉を鳴らしたり昼寝をしたり、冒険の類いとは全く縁がなかった。外に出ることは出来たので夜屋根の上で月や星を眺める程度であった。しかし頭の中では様々なことに思いを巡らせていた。考えることは自由なのだ。身体を動かして行動する際などに生じて来る多くの障害が一切ない。そのため吾輩の頭の中には常にいろいろな思考が豊かに流れていた。このことが吾輩の顔に現れていたのかも知れない。というのも家の主人が吾輩をモデルに大部の本を書いたのだ。この主人というのは実に変わり者で、当時は大審院判事をしていたがその傍ら小説を書く、のみならずそれ以前は幾つかの劇場で音楽監督をやっていたという話であるし作曲家も兼ねていた、小説の方もそのころから書いていたらしい、とまあ一種の天才なのであろう。この主人が吾輩を主要な登場人物とした小説を書いたのだ。わざわざそんなことをしたということは、吾輩の表情に現れていた豊穣なる思想を読み取っていたに違いない。とは言え偉大であるのは主人やその作品なのであって吾輩に直接関係はない。そういうわけだ、従って残念ながらお前たちのご期待には沿えないのではあるまいか。
―――いやいや、そんなことはない。今の言葉から貴方が偉大な猫の魂であることがよく分かった。偉大さの本質は外に現れてくるものだけではない。精神に宿るものなのだ。
―――その通り、貴方は実在の猫として文学作品にその精神を描かれたと見受けられる。長靴を着用している猫も有名であるが、あの猫には実在のモデルがいたわけではない。
―――私も同意見である。偉大なる文学作品に描かれたのは貴方の精神であると言えよう。従ってその文学において貴方の偉大な魂が現れているのだ。
―――そう言われると吾輩も悪い気はしない。それにしてもこのようなあまり上等ではない感情は死んでも直らんようだ。しかしまあそれも心を持つもの、死すべきものにとっては致し方のないこと、勘弁していただきたい。ところで本題であるが、お前たちが吾輩を呼び出したその理由をお聞かせ願おうか。
―――そのことであった。実は貴方にここ、この城に我々猫族のための名を付けて頂きたいのだ。この度あそこに控えている牡猫が、この城に住む野良猫達のために成したこれまでの多くの功績によりここの城主となることになった、そのため新たに猫族のための名称が必要になったのである。
―――ほう、それは目出度い話だ。祝意を表することとしよう。それにそのような要請ならお応えもできようか。ところでこの城であるが、人間が建てたものでもあるし、その当の人間は何と呼んでいるのか。
―――この町の名そのままで呼んでいる。異名としては金鯱の城であるとか‥‥‥
―――きんこ?ゴルデナァ・シュヴェルトゥヴァール‥‥‥面白い名だ。そのまま採用してもいいとも思われる。しかし新たな名が必要なのであろう。
―――その通りである。あくまでも我々にとっての名、猫族の象徴となるべきあの牡猫が城主となるに相応しい名が必要なのだ。
―――ふむ、それならシュヴェルトゥヴァールではちと都合が悪かろう。猫族が全面に出るような、あの牡猫に相応しい、象徴‥‥‥ではこれもそのままになってしまうが、吾輩の国にブルク・カッツという城がある、この名を借用するのは如何であろう。この城はラインという河のほとりにあるのであるが、吾輩が北からここへ来るときに見かけた河がラインと非常によく似ておった。これも何かの縁であろう。
―――ブルク・カッツ、猫城、確かにそのままであるがいい響きだ。
―――しかも簡素で無駄がない。洗練されてもいる。
―――左様、わび・さびに通ずる趣味の良い命名だ。
―――気に入っていただければ有難い。ただ、一つ異論が出るやも知れぬ。城主が牡猫であるのに何故ブルク・カータァではないのか、というものだ。しかしこれは、元がそういう名であるからとしか言えぬ。またものの呼び方は多様だ。例えばオイローパァでは船のことを“彼女”と呼ぶ。同型艦のそれぞれを姉妹艦と呼ぶし、最初の航海は処女航海だ。これが優美な客船ならよろしかろうが、無骨な軍艦であっても同様なのである。吾輩の死後、ある大きな戦争があった時一隻の戦艦が孤立してノァヴェーゲンのフィヨルドに閉じ込められたということがあった。この戦艦は敵対する抵抗勢力から“北方の孤独の女王”と呼ばれていたのだ。たしかにこの戦艦はなかなか美しい船だったが。それにしても軍艦だ。要するに何を言いたいかと言えば、この牡猫が城主であったとしてもブルク・カッツでよろしいだろうということだ。
すると三匹の長老達が、異議なし、ムルよ、城の命名とこの牡猫の城主への任命を、と唱和した。偉大な魂ムルは厳かに声を発した。
―――それでは、吾輩が猫族を代表してこの城をブルク・カッツと命名する、そしてこの牡猫をブルク・カッツ城主に任命する。この命名と任命は古来より伝わる不文律に基づいて行なわれ、我々猫族の名誉をその担保とするものである。ではこれにて、さらば!
突然、ミャミャァミャミャァミャミャァニャーゴという鳴き声が轟いて三毛巫女がばったりと倒れた。その周りで夜空を見上げながら長老達がミャァウミャァウ、ミャァニャウミャァニャウと鳴いている。彼はただただ呆気にとられていたのである。
さて、こうして彼はこのブルク・カッツの城主、つまり殿様になった。殿様になって何か変わったのか。何も変わらなかった。これまでと同じように城内に住む野良猫達の暮らしの手伝いをしていた。ただ以前は三の丸、二の丸、御深井丸とそれぞれの地域ごとに活動していたが、殿様になったからには城郭の全域を回らなければならない。これはなかなかの忙しさだったが、既に野良猫としての感覚を取り戻していたものだから器用にこなしていった。それにこうしたことが、彼には全く苦にはならなかった。親猫のいない子猫を保護し長老のもとへ届けその保育に手を貸す、病気になったものがいれば何かと面倒を見る(ただ一旦病気になった野良猫は大抵助からなかったが)、怪我をしたものも同様、授乳子育て中の牝猫には上等の獲物を選んで持っていく、危険なカラスが現れる所では哨戒をしつついざとなったら実力行使で追い払う、争いごとがあれば仲裁に行く、不幸があればお悔やみに行き必要があれば助力する、等々。中でも鹿族との関係改善が重要だった。彼自身は鹿からの信頼を得ていたが、他の猫達はすんなりとはいかない。特に子猫がいけない。この悪戯者達は良くないこと、いらぬことを好んでやりたがるのだ。それでも彼がそのたびに注意をして、その行動を改善させていった。猫族は何でもすぐに忘れるので、何回も繰り返し教え込んで体に覚えさせていったのだった。
そうしているうちに涼しかった風が冷たくなってくる。日の出が遅くなり夕暮れが早まってくる。夜など随分と冷えるようになる。時折灰色の雲が太陽の光を遮るようになる。冬がやって来たのだ。こうなると彼の仕事も忙しくなってくる。それでも最初の頃はお定まりの食料の確保だった。これは左程難しい問題ではなかった。ここには鳥が多くいたのだ。以前野良をやっていた街ではカラス、ハト、スズメくらいしかいなかったが、ここにはこれまで見たこともないような様々な鳥が沢山いた。途方もない大きさの鳥もいたが(流石の彼もそれを狩ろうとはしなかった、逆に狩られそうだったから)、中くらいの鳥も多くいたのでしばしば一羽ずつ失敬していたのである。しかし冬も段々深まってくると別の大きな問題が現れてきた。それは今度の冬は特別寒いのではなかろうかということだ。行く先々の年寄りがそういう懸念を口にする。それで彼は三の丸、二の丸それぞれの長老に聞いてみた。すると二匹ともその通りだと答えた。今年の冬は確かに厳しい、無事乗り切れるかどうか自分自身少々心許ない、二匹ともやはり同じようなことを言った。
そんなある日の早朝、彼は御深井丸の長老から呼び出しを受けた。行ってみると長老が厳しい表情で出迎えた。わざわざ来てもらったのは他でもない、長老は深刻な口調で語る。この冬の寒さが尋常でないことは先刻承知のことと思う、特に夜の冷え込みだ、これまでは何とかしのいできたが今日の夜の寒さはとんでもないことになりそうなのだ、下手をすれば死ぬものが多く出る、二の丸、三の丸の婆にも確認したが同意見であった、そこで殿に頼みたい、このブルク・カッツに住む全ての猫が今夜避難することのできるところを確保してもらえまいか、これが長老からの依頼だった。尊敬する長老の言葉であったし、内心彼も心配していたので直ぐに引き受けることにした。そしてこれが今日の朝のことだったのである。
彼は先ず三の丸に出かけて行った。長老に挨拶しこの地域の状況を調べる。長老の住む辺りは人間の設置してくれたシェルターがあり問題ない。人間の官庁街の方へ行ってみると、こちらの方も神社というものを中心にかなりの数のシェルターが用意されている。猫達の数を確認し、足らない分は猫なら侵入可能な小さな建物を捜し出して補った。この建物の中には何かの紙の束が沢山積まれていたので、いざとなったらこれを引き裂いてその中にもぐり込み暖を取ればよい。次に二の丸の方へ行く。長老への挨拶を済ませこの地域の状況を調べた。最初に猫数を確認する。それから調査に移る。ここは真中に大きな建物があるところと水堀に面したところに分かれていた。大きな建物がある方はシェルターが多く準備されているし、避難可能な小さな建物や大きな建物の階段下など適当なところがあった。また水堀に面した方は茂みが多くあり、床下にもぐり込めそうな小さな建物がいくつかあったのでこちらも猫数分大丈夫である。最後に御深井丸に行って、先ず長老に二の丸、三の丸の状況を報告した。どちらも避難所の数は足りているという話を聞いて長老は安堵した。そして彼は御深井丸と西の丸の調査に入った。すでに二か所を調べてきたので、手慣れたものだ。猫数の把握から避難場所の確認まで手早く行なった。ところがここで問題が起こった。二匹分足りなかったのだ。ここは元々人間が持ってきてくれるシェルターが無かった。理由は分からないが、無いものは仕方がない。ほうぼう探し回ったが避難場所は全く見つけられない。二の丸、三の丸の方も猫匹分ぴったりしかなかった。この時点でもう夕方は間近になっていた。確かにこの広い城の中を駆け回っていたのだから時間がかかるのもやむを得ないだろう。しかしこの二匹分を何とかしなければならない。強い寒さがやってくる時間がいつもより早いような気がする。彼はいろいろと考えてみた。そしてふと、あの鹿族と交渉する際に一匹の鹿にくっついてみたことがあった、そしてその体は大変に暖かかったということを思い出した。これは鹿のところに避難させてもらうしかないのではなかろうか。彼は二匹の子猫を連れて石垣を下り、堀底の鹿の小屋まで行った。鹿二匹はもう小屋の中で身を寄せ合って休んでいる。もしかしたら鹿は賢いだろうから、今晩の厳しい寒さのことを予測しているのかも知れない。彼は鹿に頼んでみた。身振りで今日は寒いということ、それから二匹を前に出してこいつらも寒いということ、だから今夜あんたらの傍で寝かしてやってくれないかということを一方的に伝えた。それから子猫らを二匹の鹿の間に押し込んでみた。鹿は黙って入りやすいように隙間をつくってくれた。子猫は初めのうちは少し怖がっていたが、鹿達の間に入った途端ミャゥーンと鳴きそこに体を沈み込ませた。余程暖かいのであろう。安心した彼は鹿に礼を言って帰ろうとした。すると気の強い方の鹿が、お前はどうするのかというような目つきをした。そこで彼は、大丈夫というような顔でにぃゃっと笑った。
こうして彼は城主としての務めを果たした。今度は自分の番だ。時折雲間に現れる太陽は赤い。けれど寒さはますます厳しく、冷たい風まで吹いてくる。どこかに避難場所を見つけなくてはならない。しかし城の中には彼の居場所はない。彼は外堀を越えてみた。ところがそこにはクルマが走り人間達が行き交う道路と背の高いビルが沢山生えている寒々とした場所だった。三の丸にもあった神社と呼ばれる場所があったが、そこに設置されたシェルターには全て先住猫がいた。そこは諦め他を当たろうと歩き回ってみたが発見できなかった。結局丸一日こうしていたわけで、彼はすっかり疲れてしまっていた。そうしてとぼとぼと歩いていると、いつの間にか、三の丸の長老の住処近くに来ていた。彼が最初にこの城へやって来たところだ。彼は少し休もうと最寄りの石垣をよじ登りその上で休憩した。そこで雲の小さな切れ間からのぞいている夕陽の赤い光を見ながらぼんやりしていると、昔長老から聞いた話がぽつぽつと思い出される。そしてその微かな残光がふっと消えた時、彼は思い出した。彼が家猫として暮らしていた家が、夕焼けの方角でありそんなにここから離れてはいないという話を。そこで彼は立ち上がり石垣を下りると覚えておいた方向へ歩き始めた。そろそろちらちらと雪が降り始めていた。それがつい先ほどのことであった。
* * * * * * * *
彼は眠かった。体が心底冷え切っていたせいかあまり寒さも感じない。しかし眠かった。この眠気を覚まそうと、これまで自分の過去を苦労して思い出してきたのだ。そしてとうとうその回想は終わった。後は眠くなるばかりである。彼は目を閉じる。腹ばいになり前脚をたたんでその上に頬をのせる。あの時本丸に降り立った偉大なムルは死後の魂であった。ここで眠り込んでしまえばその死というものが自分のもとに訪れるということを彼は感じていた。だから眠気に抗ってきた。とは言え猫族である彼が死そのものを怖がっていたわけではない。ただ死の直前、多くの恐ろしいことが起こるものである。彼がこれまで見てきた多くの野良猫達の最期の様子からしてもよく分かる。だから猫族は死をもたらす恐ろしいことを恐怖するのだ。しかし今は違う。ただただ眠いのだ。恐ろしいことは何もない。怖がる必要はないわけだ。
彼は過去のことを全て思い出し終えた。すべきことはもはや何もない。そろそろ休息すべきだろう。そう考え、彼は睡魔への抵抗をやめ眠りにつこうとした。すると今までざわざわしていた玄関扉の向こう側から、猫達の鳴き声がこれまで以上に大きく響き始めた。そしてその声は彼の名を、いろいろ勝手に付けられた彼の多くの名を呼んでいるようなのだ。サクラさん、オシキリさん、ジョーシンさん、センゲンさん‥‥‥、どれもこれも彼の昔の呼び名である。彼は苦笑した。そしてこう考えた。こいつらはやはり保護猫達であるに違いない。かつての自分のように、かつての野良猫達が人間の地域猫団体に保護され、この家に収容されたのだ。しかも連中の多くが、かのブルク・カッツに住んでいた猫達であると見える。自分の名を覚えてくれていたようだ。ならばあいつらには是非とも幸せな家猫になってもらいたい。やはり野良猫は辛いものだから。
彼の複数の名を呼ぶ声が快く響く。その心地良さの中で、うとうとしつつ野良猫時代や家猫時代における猫の仲間達のことをぼんやりと思い浮かべた。そしてこの時彼はふと考えた。―――自分はこれまで同族のことしか眼中になかった。人間は恐怖の対象か便利な世話人かのどちらかでしかなかった。ここで家猫だった時も姐さんやチビ達ばかりに目が行き、人間は空気のようなものであった。それでもこの家の人間は、毎日食事やきれいな水を用意してくれたしウンコやシッコの世話もしてくれた。夏は涼しく、冬は暖かくしてくれた。けれど連中への見返りは何もなかったではないか。こう考えると随分済まないような気がする。せめてちゃんと愛想くらいしてやればよかった。残念だ―――
これは奇跡と言ってよいかも知れない。猫族たる彼がなんと、後悔をしているのだ。家の庭にはかなりの雪が積もっていた。相変わらず家の中では猫達が鳴き騒いでいる。彼はその子守歌のような猫達の鳴き声に包まれながら、最後にみゃぁと一声小さく鳴いて目を閉じ眠りにつく。その時だった。家の中から明らかに猫のものではない大きな物音が響き、彼が驚いて薄目を開けると玄関扉のガラスがパッと明るく輝いた。勿論そんなに強い光ではなかったのだが、これまでが真暗だったものだから彼の目には大層眩しく見えたのだ。おかげで眠気は吹っ飛んでしまった。その時、のび?という人間の声がして型ガラス越しに大きな人間のシルエットが黒々と現れた。彼は思わずその影を見上げる。ガチャリと玄関扉を開錠する音がした―――
もしかしたら奇跡が奇跡を呼んだのかも知れない。




