君は幸せ
みんなが当たり前と思っている不幸を、まるで世界で一番の悲劇みたいな顔で語る人を見ると、僕はいつも不思議な安堵を覚える。
ああ、この人はきっと幸せな人生なんだな、と。
彼は昼休みの休憩スペースで言った。
「昨日さ、電車に乗り遅れてさ。マジで最悪だったわ。」
眉間にしわを寄せて、深刻そうに、ため息までつけて。
僕は思わず飲んでいた水を喉の奥で止めた。
「最悪」って、その程度のことなんだろうか。
予定が狂うのは確かに不便だし、慌てる気持ちも分かる。
でも、それをわざわざため息混じりに“悲劇”として語れるというのは、なんて平和なことなんだろう。
彼は続ける。
「おかげでさ、朝のコンビニ寄れなくて、いつものおにぎり買えなかったんだよ。信じられないよな。」
怒りとも悲しみともつかない顔で、真正面から世界の理不尽を語るみたいに。
僕は黙ってうなずきながら、心のどこかで思っていた。
こうやって、小石を怪我のように語れるというのは、傷の少ない人生を歩いてきた証拠だ。
本当に痛いものを知っている人間は、痛みが喉元を通る前に、まず飲み込んでしまうから。
もちろん、彼を責めたいわけじゃない。
人はそれぞれの人生の中でしか、世界を測れないのだから。
彼の中では、朝のおにぎりを買えなかったことこそが、その日の最大不幸だったのだろう。
でも僕はどうしても思ってしまう。
その不幸を“語れる”ということは、人生が穏やかだという証拠なんだよ、と。
本当に深い傷を負った人は、たいてい言葉にしない。
語ろうとすると、胸の奥のどこかがまた裂けるのを知っているから。
だから彼が今日も「マジで最悪」と言いながら、コンビニの品揃えについて文句を言っている姿を見ると、
僕は心のどこかで、少しだけ救われたような気持ちになる。
ああ、誰かが“その程度”の不幸を世界一の悲劇みたいに語れる世界で、僕たちはまだ生きていける。
そう思えるからだ。




