名もなき田舎に、かつての天才は生まれ落ちた
小さな産声が、埼玉県の山あいにある小さな病院の一室に響いた。
明けの明星が、東の空にうっすらと顔を出し始めた頃だった。
まだ世界が静寂の中にある時間。空も、人も、街も、すべてが微睡むようなその瞬間。
ただの地方病院で生まれたただの男児が、歴史の歯車を静かに軋ませたことに気づく者はいなかった。
彼の名は「藤原玲央」。
予定日より一週間早く、しかし健康そのものの体で生まれた赤ん坊は、両親からたっぷりの祝福を受けてこの世に降り立った。
その眼は、生まれた瞬間から世界を「測って」いた。
……いや、正確には。
この世界を、"再び"見ていたのだ。
玲央の中には、「かつての記憶」があった。
絵筆を握り、骨格を解剖し、城の防壁を設計し、空を飛ぶ装置を構想し――
そのすべてを記録し続けた、かの万能人の記憶。
ルネサンスの申し子。
機械仕掛けの幻を追った孤高の男。
すべての芸術と科学と哲学を内包した、かつての天才――"レオナルド・ダ・ヴィンチ"の記憶だった。
そのとき、玲央=レオナルドの心の奥底で、確かな歓喜が芽吹いた。
五百年ぶりの"視界"に、世界の質感は、あまりに豊かすぎた。
皮膚を伝う温もり。母の胸の音。遠くで唸る機械音。光。匂い。
この時代、この場所、この体――"これは発明の宝庫だ"。
世界は変わっていた。
かつての火薬は、プラスチックとICチップに姿を変え、
木製の製図板は、今や掌の中の小さな長方形に収められている。
(そうか、あの夢は予兆だったのだ)
彼が死の直前に見た光景。
頭上を音もなく滑る鉄の箱。異様な服を着た人々。壁に浮かぶ絵のような何か。
すべてが"これから来る時代"だったのだ。
(ああ……私は、未来に生きている)
それは彼にとって、"再誕であると同時に、赦し"でもあった。
未完成の発明。未熟だった美術。理解されなかった思想。
いまこそ――この世界で完成させよう。
彼は、産声を上げた。
周囲にはただの元気な赤子の泣き声としか聞こえなかったそれは、
彼にとっては、生涯二度目の「宣言」だった。
(私の名は、レオナルド。だが……今は、玲央。ならばこの名で生きよう)
玲央の人生が、はじまった。
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玲央――レオナルドは、赤ん坊の体で"再びの人生"を始めた。
かつての肉体と比べ、今の体はあまりにも非力だった。首も据わらず、手指も思うように動かない。言葉も発せず、自由に歩くことすらできない。
(おそらく……この状態は、数年は続くだろう)
だが、レオナルドは焦らなかった。
なぜならこの世界は、それでもあまりに魅力的だったからだ。
肌に触れる素材のバリエーション。ガラスの透明度。天井の蛍光灯の構造。
生後一ヶ月の彼は、視界に入るすべてを観察していた。
(電気の仕組みは……内燃か?否、感覚的にもっと複雑な――これは配電か?)
赤子としては常軌を逸した集中力で、玲央は世界をひとつひとつ分解し、頭の中で組み直していった。
声は出せなくても、理解はしていた。
母が抱くリズム、父が発する短い言葉の意味。彼らが"育児"という行為の中で、どのように彼を認識し、何を与えようとしているか。
(この社会は……赤子に対して非常に手厚い)
人々は哺乳瓶という器具を使い、ミルクという栄養を調合し、温度まで丁寧に管理して口に含ませてくる。
かつての15世紀では考えられない、緻密で優しい"育児の科学"。
(ふむ……この時代、人間の脳はこの扱いにより、より効率的に発達する可能性があるな)
玲央は目を閉じて、母の胸の音を聞きながらそう考えた。
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1歳を迎える頃には、玲央は「言語の構造」を完全に把握していた。
まだ話すことはできなかったが、脳内ではすでに二重言語環境が構築されていた。
古イタリア語の記憶と、日本語の語順・構文・音素のパターン解析。
身近な名詞から学び、音の相関をモデル化し、言葉を分類し始める。
(たった数百の音節と、助詞と活用でここまで豊かに意味を持たせるとは……!)
レオナルド=玲央は、"言語そのものに感動していた"。
言葉とは、思考の道具であり、発明の土台である。その基礎がこれほど洗練されている
赤子の身体は、思うように動かなかった。
握った指を開くだけでも時間がかかる。喉の奥から漏れるのは、感情ではなく生理的な反応としての泣き声。眼球は勝手に動き、焦点が定まらない。
それでも玲央――否、レオナルドは、"周囲を観察し続けた"。
この世界は、かつて自分が知っていたものとは似ても似つかなかった。
母親が手にしている細長い長方形の板。
そこから光が漏れ、絵や文字が浮かび、時には誰かと話し始める。
その機構がどうなっているのか、彼は"感覚と思考だけで分解しようとした"。
自らの手が使えない以上、彼にできるのは"見る"こと、そして"記憶する"ことだけだ。
(反応に遅延がない。光は均一に広がり、指の動きに従って瞬時に画面が変わる。これは……鏡ではない。透過でもない。つまりこれは……)
そんな思考をめぐらせていたある日、母親が彼をベビーベッドに寝かせながら、優しく笑った。
「玲央はほんと、よく見てるよね。……まるで全部、わかってるみたい」
図星だった。
(わかっている、と言っていいかはわからない。だが、記憶はある。論理もある。あとは、身体だけだ)
――早く、喋れるようにならねば。
かつてのレオナルド・ダ・ヴィンチは、言葉に執着する人間ではなかった。
描き、記し、造る。それが彼の言語だった。
だが今は違う。"この世界では、「言葉」がすべての入り口になる。"
テレビの中の人間たちがそれを証明していた。
喋る者は情報を伝え、理解され、注目を浴びる。
喋れぬ者は、ただそこにいるだけで「赤子」として処理される。
だから彼は、生後半年を迎える頃には"言語学習に全集中する赤子"になっていた。
――この世界の構文と音声記号を、すべて理解しよう。
耳で拾った単語を反復し、母音と子音の区別を感覚的に再構成し、語順や助詞の使い方を観察する。
言語習得に特化した脳の可塑性を、フルで活用した。
だがそれは、外から見れば"「とても静かな赤ちゃん」"という評価になる。
「玲央くんって、おっとりしててあまり泣かないね」
「ママに似て落ち着いてるのかな?」
「それより、あの目……人の目を見るっていうか、見透かされてるみたいで……」
親族の言葉に、母親はただ笑っていた。
玲央はその様子も、心の中に焼きつけていた。
(言葉は、単に伝えるためのものではない。"関係"を形作るための道具だ)
彼はそれを、まだ声に出せない中で理解し始めていた。
そうして、2歳の冬。
玲央は、初めての言葉を発した。
それは――「かあさん」でも「わんわん」でもなかった。
「……ひかり」
母がテレビをつけたとき、画面に広がったLEDの色彩を、彼はそう呼んだ。
母は驚いた顔をした。
言葉として成立していた。発音も、文脈も、明らかに理解していた。
「……いま、言った? ひかりって……」
玲央は、もう一度口にした。
「……ひかり、たくさん」
その日の夜、父親が帰宅するなり「うちの子、なんか詩人みたいな喋り方する……」と笑っていた。
だがそれは、詩などではない。
彼にとって、それは""観察の記録""だった。
それを、ようやく"伝えられる器"が手に入った。
そう思った玲央は、その夜、久しぶりに小さく笑った。
母はそれを見て、「やっと赤ちゃんらしくなってきたね」と言った。
玲央が最初に"絵"を描いたのは、三歳になった春だった。
保育園で与えられたクレヨンとA3サイズの画用紙。
ほとんどの子どもが、ぐちゃぐちゃと線を走らせたり、アンパンマンらしき顔を描いたりしている中――
玲央の紙には、"木"が描かれていた。
ただの木ではない。
幹の部分は複数の円筒が重ねられ、枝は放射状に等間隔で広がり、葉は二重螺旋のようにうねっていた。
「……すごいね、これ」
担任がそう言ったとき、玲央はただ首をかしげた。
「木、みたまま、かいた」
それは嘘ではなかった。
彼の目には、自然が「機構」として映っていた。
光の方向、枝の重なり、風の通り道、幹の内側の水の流れ――
それらを"記号化"して紙に再現する。それが彼にとっての"絵を描く"という行為だった。
担任は、なんとも言えない顔をして「すてきだね」と言った。
だがその声には、"理解と戸惑いがないまぜ"になっていた。
それでも、玲央の観察と表現は止まらなかった。
落ち葉を持ち帰り、虫眼鏡で葉脈をなぞる。
水たまりの波紋をスケッチし、その"振動の式"をノートに記す(つもりで落書きする)。
家では積み木を分解し、並び順によって強度がどう変わるかを記録し始めた。
父親は少し困惑していたが、母親は穏やかに言った。
「いいじゃない、玲央らしくて。ね?」
そして4歳のある日。
彼は初めて"設計"をした。
きっかけは、保育園の給食タイムだった。
スプーンでカレーをすくいながら、玲央は隣の子が何度もスプーンを落とすのを見ていた。
「てがすべるの。つるつるするの」
そう言った子の指は、小さく、少しむくんでいた。
食器と手のサイズが合っていない。それだけのことだった。
だが玲央は、帰宅後にスケッチブックを開いた。
そこには、"親指を支える小さな羽根のような支え"がついた子ども用スプーンの図が描かれていた。
しかも、その絵には"寸法が書いてあった"。
「約10cm、取っ手の直径1.2cm、支え部分0.5cm角、高さ3cm位置に配置」
そんな数字を、四歳児が鉛筆で記していた。
もちろん、誰もそれを"設計図"とは思わなかった。
親は「わー、面白い形だね」と言ったし、保育園の先生は「ロボットの部品かな?」と笑った。
玲央は、それを否定しなかった。
(否定されないことは、時に最も強い"許可"になる)
彼はそれを知っていた。
以降、彼のスケッチブックは"構造物"で埋まっていく。
傘に風を逃す弁をつける構造、
子ども用リュックに重心をずらすクッションを内蔵する仕組み、
回転しながら色が変わるおもちゃの改良案……。
だがその全てが、"本人の中だけ"で完成していた。
大人はそれを、まだ遊びだと思っていた。
それでも、彼は描き続けた。
なぜなら彼は――知っていた。
この世界には、"かつての自分が夢見たものの"すべてが揃っている""と。
ただそれを、"組み直す方法をまだ誰も知らないだけ"なのだ。
(ならば、それをやろう)
玲央は、今日も静かに鉛筆を握る。
スケッチブックの片隅には、逆さ文字でこう書かれていた。
──「これはまだ、落書きにすぎない」。
玲央が五歳の終わりに"事件"は起こった。
きっかけは、保育園での発表会だった。
毎年恒例の「おたのしみ会」。
園児がひとりずつ、自分の"好きなこと"を発表するという行事。
大半の子は、歌やダンス、ぬいぐるみの紹介などを選ぶ。
玲央の番が来たとき、保育士は正直、少しだけ身構えていた。
「玲央くん、今日はなにを見せてくれるのかな?」
彼は、何も言わずにカバンから一枚の模造紙を取り出した。
そこには、"何枚ものスケッチと短い文章がびっしりと並んでいた"。
タイトルは、ひらがなでこう書かれていた。
「ひこうきがそらをとぶしくみ」
絵は、風洞の断面図、翼の断面と気流の流れ、
空気抵抗を減らすための機体の傾き、プロペラと推進力の関係……。
子ども向けにわかりやすく描こうとした跡もあるが、
その情報量と構造の密度は、明らかに「保育園の自由研究」の域を超えていた。
保育士たちは一瞬、固まった。
玲央は、口元に少しだけ緊張の色を浮かべながら、説明を始めた。
「そらをとぶには、かぜが、つよく、はやく、はねのうえをとおるようにしないといけません」
「うえ」と「した」で風の速さがちがうと、"うえにもちあがるちから(=揚力)がうまれます"。
「それが、そらをとぶ、ひみつです」
彼はそう言って、スケッチの一点を指さした。
そこには、翼の断面図と、風の流れが矢印で描かれていた。
「これが、ぼくの、みたこと、かんがえたこと、ぜんぶです」
沈黙。
保育士たちは、どんなリアクションをすればいいのかわからなかった。
一番年配の先生が、ゆっくりと拍手を始めた。
すると他の大人たちも、子どもたちも、自然とそれに続いた。
「すごい!」「ほんとに飛べそうだね!」
「飛行機博士だ~!」
玲央は、その声に嬉しそうに微笑んだ。
けれど、その後の数日。
保育士たちの中では、"ちょっとした騒ぎ"が起きていた。
「……ねえ、あれって本当に自分で考えたのかな?」
「親御さんが一緒にやったんじゃない?」
「でも、ご両親は"何も手伝ってない"って……」
「いや、あのレベルは小学生でも無理よ」
「っていうか、"揚力"って言葉、どこで覚えたの……?」
玲央の母親は、家庭での様子を正直に語った。
「うちでは飛行機の話なんてしたことないんです。絵はたしかにずっと描いてましたけど……」
保育園はその後、自治体に軽く相談を入れた。
「知能検査をしてみてはどうか」という話まで持ち上がった。
だが、結局保育園側はそれを見送った。
理由は、母親のひとことだった。
「この子が"普通"でいてくれるうちに、できるだけ自由に遊ばせてやりたいんです」
その願いに、園長も深くうなずいた。
(……感謝します、かあさん)
玲央は、母のその言葉を、心の中で何度も繰り返した。
彼は、まだ「天才」と呼ばれることを望んでいなかった。
ただこの目で、もっと世界を見たかった。
この手で、もっとたくさん描きたかった。
彼にとって"創造"とは、"証明でも、自己顕示でもなく――ただの呼吸だった"。
その頃、彼は毎晩、夜空を見ていた。
星の位置をノートに記録し、月の形をスケッチし、
母親のスマホで調べた"金星"の周期を真似して紙に書き写していた。
自分が生まれたとき、東の空に浮かんでいた、"明けの明星"。
それは、彼にとって特別な星になった。
玲央の"最初の章"が、静かに幕を閉じた。
初投稿になります。
何も分からないまま書いたものを見てもらいたいという気持ちのみで投稿に踏み切ったものの、ジャンルとかが全く分からずこの設定になってしまってるのですが、ジャンル違いであればご指摘頂けると幸いです。