エア・カンニング事件
新学期が始まってから一ヶ月近くが経過し、学校の窓から見える桜もすっかり葉桜に変わっている。
四時間目の理科の授業が終わる直前、私は前回実施していたテストの答案を生徒たちに返していた。
「近澤くん。近澤直文くーん」
名前を呼ばれ、教壇の前にやってきた直文くんに、私は笑顔を向ける。
「すごくがんばったじゃない、おめでとう」
静かな声でほめながら、100点満点の答案用紙を直文くんへ手渡す。直文くんはなんだか恥ずかしそうにしていたけれど、答案を受け取ると小さく礼をして、自分の席へと戻っていった。
「それじゃあ次は……次本さん。次本幸子さーん」
次の生徒を呼んでいるとき、私は一番奥の席に座っている倉木大斗くんが、直文くんへ何やら話しかけているのを見た。
この二人は近所同士の幼馴染で、小学校の高学年になってからは一緒にサッカーもやっている。そして何かにつけて競い合っているらしく、友達でありライバルのような関係なのだそうだ。どうやら今回は、テストの点数で勝負しているのだろう。
教師である私は当然、二人の点数については把握している。大斗くんも今回のテストはがんばっていたけれど、残念ながら満点には届いていない。
生徒たちに答案を返している間、私は不満そうな顔をしている大斗くんと、あまり嬉しそうに見えない直文くんが、なぜだか気になってしょうがなかった。
嫌な予感はしていたけれど、残念なことにそれは現実となってしまった。授業が終わってしばらくした後、生徒たちが給食の準備をしている最中に、その事件は発生した。
「佐々木先生、大変です! 直文くんと大斗くんがケンカしてます!」
いったん職員室に戻っていた私は、息を切らしながらやってきた次本さんに連れられて、教室へととんぼ返りした。
教室の中に入ると、グループごとに連結させた六つの机を挟むようにして、直文くんと大斗くんが向かい合っている。
「まだしらばっくれるつもりかよ、直文!」
「使ってない! 使ってないって言ってるだろ!」
お互いが怒鳴るように言い争っている。今にも取っ組み合いのケンカになりそうな勢いだ。他の生徒たちは困惑した様子で、二人との距離を取っていた。誰一人割って入れそうにない。
「どうしたの直文くん、大斗くん。何があったの?」
「あっ、先生! これ見てよ、直文のやつ!」
大斗くんが指差した机の上には、消しゴムや鉛筆、ノートの切れ端みたいなメモが置かれていた。ちらりと直文くんを見ると、彼は逃げるようにして視線をそらした。
「これって……直文くんの文房具?」
とくに消しゴムには見覚えがあった。直文くんがいつも使っているもの――空気が中に入っているから消しやすいって職員の間でも評判の、『エア・イレーザー』だ。
「そうなんだよ。直文が落としたペンケースから、偶然見つけたんだ」
「何が偶然だよ! そっちがわざとぶつかってきて、ペンケースも叩き落としたんじゃないか。最初からそれが狙いだったんだろ!」
「なんだと!」
「二人とも落ち着いて。どうしてこの文房具で言い争いになっているのか、聞かせてもらえるかな」
私がそう言うと、大斗くんが消しゴムを手に取って、ケースを引き抜いた。
普通なら、そこにはくすんだ先端とは真逆の真っ白な胴体が現れるはずだった。でも実際にあったのは、細かい文字でびっしりと埋め尽くされた……白黒模様だった。
「これもよく見てよ、ほら」
次に大斗くんが見せてきたのは鉛筆。そういえば、直文くんは普段シャープペンシルを使っているはずだ。
これ以上見たくない思いもあったけれど、やはり、鉛筆の胴体部分にそれはあった。黒い胴体に黒い極細のマジックかなにかで、文字が書かれている。パッと見、何も書かれてないように見えるけど、傾けたりすると蛍光灯の光の反射具合で文字が浮きあがってくる。
文字でびっしり埋まっているノートの切れ端のようなものについては……さすがに見るまでもなかった。
「先生、ぼくは……カンニングはしてません」
直文くんが、胸の奥から絞り出すような声を出した。それは私にとっても信じてあげたい言葉だった。
「してないわけないだろ! こんなの、どっからどう見てもカンニング道具じゃねえか! 給食のデザートがそんなに欲しいのかよ、ええ!?」
そんな願望をかき消すように、大斗くんの怒りの声が教室に響く。
「俺……使ってないっ……てんだろ!」
直文くんも言い返そうとしていたけれど、自分の立場があまりにも悪いことは自覚しているようで、言葉は詰まりがちで、目の端から涙が溢れそうになっていた。
「直文くん、大斗くん、とりあえず落ち着いて。後でじっくり話を聞かせてくれるかな」
とりあえず二人を説得して、お昼休みになったら私と一緒に改めて話し合うことに決めた。
ひとまず状況の落ち着いた教室で、私は生徒たちと一緒に給食を食べていた。私と一緒に食べる生徒たちのグループは毎週変わるのだけど、今週は直文くんのグループでも大斗くんのグループでもなかった。
「先生、大斗と直文は、テストで点が上だった方がデザートをもらえるって勝負をしてたらしいんだよ」
「わたし、直文くんの後ろの席だったけど、変なことしてるようには……見えなかったかな」
「大斗もいい点とってたらしいけどな」
他の生徒たちも二人のことが気になるようで、色々な情報を私に教えてくれた。私は話を聞きつつ、別のグループにいる直文くんと大斗くんの様子をうかがう。
大斗くんはいつもの調子で、他の子と会話をしながら食べていた。逆に直文くんは、誰とも話さず黙々と給食を口に運んでいる。他の子もなんとなく、直文くんに声をかけづらい雰囲気が見て取れた。
「直文って、なんであんなもんずっと持ってたんだ? 捨てりゃよかったのに」
「バカ。捨てて見つかったらバレる危険性が上がるだろ、だから持ってたんだよ」
生徒たちの中には、すでに直文くんがやったと決めつけている子も多かった。無理のないことかもしれない。あれだけ明らかな証拠が、他ならない直文くんのペンケースから出てきてしまったのだから。でも……当の直文くんは否定し続けている。
単に認めたくなくて意地を張っているだけなのだろうか、それとも他に何か――。
「あんなの必死こいて作るぐらいなら、普通に勉強した方がよくねえ? ああやって、細かい字を書き写す方がよっぽど面倒だろ」
「言えてる、マジで」
私の後ろにいるグループの男子生徒が、そんなことを言いながら笑っていた。
「もしかして……」
その時私には、ある別の可能性が脳裏に浮かんでいた。
昼休みになり、職員室の近くにある空き部屋を借りて、直文くんと大斗くんを連れて行った。自習室としても使われている部屋だけど、幸い、他の生徒たちはいなかった。
「もういいだろ、直文。俺と先生の三人だけなんだからさ、本当のこと言えよ」
入るなり、大斗くんは直文くんに自供を促してきた。直文くんは顔を下に向けたまま、何も言わない。
「大斗くんの言いたいことはよくわかるわ。直文くんが持っていたものはたしかに怪しいけれど、先生は直文くんが言うことも本当だと信じたい。だから、先生はお互いが納得できるように、急いで小テストを作ってきました」
「小テスト?」
二人が同時に疑問を口にした。
「直文くんには、今からこのテストを受けてもらいます。この前の理科のテストを、半分ぐらいに縮めた内容よ。掃除の時間になるまでには、十分終わらせられると思うわ」
「テ……テストを、もう一度やるんですか」
直文くんが困惑した眼差しを私に向ける。
「そりゃいい。このテストで取った点数が、直文が本来取るはずだった点数というわけだな」
大斗くんはこの提案に賛成のようだ。
「では、さっそく始めましょう」
答案を用意して、直文君が座っている机に差し出すとき、私はこっそり彼に耳打ちした。
「大丈夫よ。今度もきっと、満点が取れるわ」
直文くんの表情が、わずかに緩んだ。
テストが始まった後も、大斗くんは部屋から出ずに、じっと直文くんが解答する様子を見つめていた。今度はカンニングしても見つけてやるぞと、見張っているようだ。
「先生……終わりました」
予想通りのスムーズな速さで、直文くんは解答を終えた。私は答案を受け取り、その場で採点をする。
「直文くん、今回のテストも満点よ」
大斗くんが噓だろうと言いたげな顔をして、こちらに向かってきた。
「先生本当ですか!? 全問正解なんですか!?」
「ええ、そうよ。カンニングしてないのは、大斗くんがずっと見張ってたから、わかるわよね」
「う……」
その時、部屋の外でチャイムが鳴って、掃除の時間に流されるクラシック音楽が聞こえてきた。
「もうこんな時間ね、とりあえずこれで、直文くんの勉強の成果は大斗くんにもわかってもらえたと思うわ。あのテストで満点をとったのも、間違いなく直文くんの実力よ。さあ、そろそろ掃除の場所に行きましょう」
大斗くんはくやしそうな顔をしていたものの、何も言わずに部屋を出て行った。
「せ、先生。ありが……」
「さあ、直文くんも掃除に行こうか」
直文くんは自分の力で、不正をしていないことを証明したはずだった。だけど……直文くんの表情からは相変わらず罪人のような暗さが残っていた。
その翌日、給食の時間になっても、直文くんの様子は変わっていなかった。クラスのみんなにも直文くんの無実については、こっそり伝えている。なのに今日はグループから机を離して一人で給食を食べていた。
「直文くん、今日、隣いいかな」
できるだけ優しい声で、直文くんに語りかけた。直文くんは少し間を置いたけど、ゆっくり頷いてくれた。
食器とスプーンが触れ合う音が続く中、私はゆっくりと話を切り出す。
「直文くん、これから先生はあの事件について、先生自身が考えたことを言うわ。食べながらでいいから、聞いてもらえるかな」
せわしなく動いていた直文くんのスプーンが止まった。
「大斗くんが見つけた文房具やメモ、あれは直文くんのもので間違いないわよね。そして、細かい字で教科書の内容を書いたのも直文くん。でも――」
少し、呼吸を置く。
「使わなかったのよね、あの文房具」
かすかに、直文くんの体が揺れた気がした。
「あれを使わなくても、全部覚えてたから、満点、とれちゃったのよね」
「あ、うう」
反応を見て、あのカンニング道具が使われなかった理由が、ほぼ推理通りであることを悟り、それ以上の追及を避けることにした。
つまり直文くんは、カンニング道具を作ろうとして教科書の内容を何度も書き写しているうちに……その内容を覚えてしまったんだ。
だから、カンニング道具を作ってはいても、使ってはいない、という奇妙な言い訳をすることになってしまった。
直文くんにとっても、この満点はおそらく予想外だったはず。本来なら自慢したいぐらい嬉しかっただろうに……ペンケースの中へずっと抱え込んでいたのも、そんな混乱した気持ちの裏返しだったのだろう。
「直文くん、先生は直文くんが再テストでも満点を取ってくれてほっとしたわ。ちゃんと勉強をすれば、満点を取れるアタマがあるんだから。もう、あんなもの作っちゃだめよ」
「先生……ごめんなさい……!」
直文くんはスプーンを握りしめたまま、深く頭を下げた。私は、直文くんをなだめつつも、この奇妙な事件が解決したことで、少なからず安堵を感じていた。
「おい、直文」
すると大斗くんの声が聞こえてきて、彼は何かを持って直文くんに近づいてきた。心なしか、その顔はまだ納得がいかないように見える。
「大斗くん、もういいじゃない」
私がそう言ったのと同時に、大斗くんは直文くんの机に何かを置いた。今日の給食のデザート、プリンだった。
「勝ったほうがデザートもらえるって勝負だったろ」
「だ、大斗……」
「次は負けねーからな」
大斗くんはすたすたと自分の席へと戻っていった。
「きっと大斗くんも、認めてくれたのよ。デザートを賭けて勝負するなんて先生ちょっと感心しないけど、これは大斗くんからの仲直りの印よ」
直文くんは言葉に詰まっていたようだけど、彼は大斗くんの方を見ながら、同じように頭を下げるのだった。
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「なあんだ、結局そういう話だったのかよ、あれ」
あれから十年以上が経ち、学校近くのホテルで行われた同窓会にて、私と直文くん、そして大斗くんは久しぶりに顔を合わせることとなった。彼らは今でも、プライベートでの親交はあるとのことだ。
「もう今なら、全部言っちゃって良かったわよね、直文くん」
「いやあ、むしろ今の今まで黙っていてくれていたことに、感謝していますよ、佐々木先生」
「いわゆる時効ってやつだな」
直文くんは整ったスーツに身を包み、ワインの入ったグラスを傾けながら、穏やかに談笑している。
「まったく、すっかり弁護士様の雰囲気が身についてやがるな、直文」
そういう大斗くんも、今では着崩したシャツから筋肉が見える、日焼けした肌のたくましい青年だ。地元で消防士をしているらしい。
「地頭が違うってやつかなあ。結局あの後、何回テスト勝負しても直文に勝てなかったもん」
「ふふ、今思えばお前のおかげで自分も勉強ができるって気づいたようなもんなんだよ。カンニングの道具とはいえ、大斗に負けたくないからあそこまで念入りに書き込んでたんだ」
笑い話のようにあの事件を話す二人を見て、なんだか嬉しいような気分になる。
「そういえば大斗さ、あの時のお前は妙に負けを認めなかったよな。わざとぶつかって、ペンケースを落とさせたのもそうだし」
「あれな、俺には確信があったんだよ。直文は何かやってるって。実際には予想の斜め上だったんだが」
コップに入ったビールを飲みながら話す大斗くんに、私も思うところを言ってみた。
「大斗くんもあの時のテスト、いい点数だったものね。がんばって勉強したのに直文くんに満点出されたから、そうとう悔しかったんじゃないかしら?」
「そりゃ、悔しかったっすよ。だってあのテスト、俺はカンニングしてたのに、89点しかとれなかったもん」
私と直文くんは、思わず目を合わせる。
大斗くんはビールを飲み干すと、ちょっと悪い顔をしながら言う。
「残念ながら、時効っすよ。先生方」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。