少し機嫌を損ねて
キーラにひっぱたかれて、彼女は階段を駆け上がって行った。
馬車に行けば、ケヴィンが用意を終わらせて待っていた。
「ケヴィン。出発だ。お前も早く馬車に乗れ」
「奥様は?」
「キーラは……行かない」
無表情で話しながらケヴィンの前を通り過ぎて「出発しろ」と言いながら馬車に乗り、マクシミリアン伯爵邸を出発した。
「リクハルド様!? その頬は……!?」
シリルと向かい合わせに座って待っていたルミエルが、赤くなった頬にすぐに気づいて驚いた。
「気にしなくていい」
「で、でも……っ、きゃっ」
動き出した馬車の中で、ルミエルが立ち上がり頬に手を伸ばしてくる。その手を掴んで止めた。動き出した馬車の中で、がたんと揺れる。そのせいでルミエルが前のめりに倒れそうになるのを支えた。
「ルミエル。大人しく座ってろ」
素っ気なく手を離すと、ルミエルがシリルをちらりと見ながら何か言いたげに座った。
「リクハルド様。今夜は……」
「ルミエル。子供の前だ。控えろ」
今夜は、来て欲しいと言いたいルミエルを制すると、ぎゅっとルミエルがドレスを握りしめて言う。
「……っ、その頬は、キーラ様ですね」
「……」
「キーラ様は、噂通りの方みたいですね。短気で攻撃的で……昔は、学院の講堂を壊したこともあるそうですよ」
「キーラは、魔力が高い。そのせいだろう」
「だからといって……」
ルミエルから視線を逸らして隣を見れば、シリルがまた眉間に眉根を寄せて睨んでいる。
「昨日から、その顔はなんだよ」
「キーラ様が来てません」
「少し機嫌を損ねた。帰ったら話す。だから、その顔はやめろ」
なんだろうか。子供に浮気を責められている気分になる。
「キーラ様……朝、泣いてました」
「あれはだな……」
悲しくて涙を浮かべていたのではない。しかし、子供には言いにくい。それをどう説明しようかと思うが、シリルはむぅっと怒った顔で悩んでいる。
「シリル。あれは、大人の事情だから、気にしなくていい」
「大人……ケーキがなかったから、怒ってますか?」
「はっきり言えば、大人はケーキでは怒らない」
ますます悩んでしまうシリルを見て、どこまで本気で悩んでいるのかと不安になる。すると、シリルが眠そうに欠伸をして目を擦った。
「なんだ。眠いのか?」
昨夜はキーラを待って夜遅くまで起きていたのだろう。そっとシリルを抱き寄せれば、一度こちらを見上げて寄りかかってきた。
「シンクレア子爵領は、まだ着かん。少し眠ってろ」
そう言って、シリルに上着をかければ、そっと目を閉じた。
「キーラ様。あの男の人のところに行かない?」
「嫌なことを言うなよ」
シリルの頭が膝のうえに転がると、そっと頭を撫でた。
「キーラはお前を好いている。どこにも行かない」
膝の上に頭を乗せて眠るシリルを撫でていると、ゆっくりと眠った。それを複雑な顔で見ていたルミエルが話しかけてくる。
「……キーラ様によく懐いているのですわね」
「キーラがルイーズからシリルを救ったからな。キーラは、1日中シリルのことばかりだ」
誰にも懐かない子供だったシリル。セアラの友人だったルミエルにさえ懐かなかった。理由もなんとなくわかる。ルミエルとキーラは、シリルへの対し方が違うのだ。
シリルと一緒に食事をして、庭を散策する。シリルのことばかりで、絶対に婚約者の自分のことは忘れていると思う。
しかも、王都に来てから、あのクリストフという男と腕を組んで歩いていた。思い出せば、また苛ついた。
「リクハルド様、今夜は……」
シリルを撫でている手が止まる。今夜の同衾の誘いに、冷たい眼でルミエルを見た。
セアラと婚約をしていた時から、ルミエルを交えてお茶会をしたりと三人で会うことはあった。そして、セアラが他界してから、ルミエルに誘われ相手をした。
「ルミエル。もう同衾はしない。これからは、距離感を考えてくれ」
「で、でも……っ、今の話だと、キーラ様はセアラみたいに他の殿方がいるのでは!? そんな人はリクハルド様には相応しくありませんわ!」
苛立つことを言われると、気持ちが冷ややかになる。シリルを見れば、すやすやと眠っていた。
「それは、君には関係ない」
「私は……」
「ルミエル。君とは恋人にはならないと、言ったはずだ」
それでもいいと、ルミエルは言っていた。それが、だんだんと呼び出す回数が増えていった。最初は気付かなかった。呼び出し全てが自分には届かなかったからだ。それも、魔法の契約書のせいだろう。
「そんなことよりも、セアラの手紙は他にはないのか? 俺が知らない遺品は?」
「……知りませんわ。遺品は、シンクレア子爵のものですし……」
今夜の誘いを断られて、ルミエルが不機嫌そうに顔をそっぽ向けた。セアラの遺品のなかで、唯一見つからないものがある。
__シリルの出産証明書。
そのせいで、シリルの父親の証明ができないでいた。
◇
リクハルド様たちがシンクレア子爵家へと出発した。だけど、私の心は穏やかではない。
トランクを両手に持って玄関へと向かっていると、邸に残っている下僕が慌てて声をかけてくる。
「お、奥様! どちらに!」
「家出ですわ」
「い、家出!?」
「では、ごきげんよう」
いかにも家出するような荷物を持ってにこりとして言うと、下僕が青ざめて手を伸ばしたままで固まった。
「お、奥様ぁーー!!」
そうして、馬車に乗ってマクシミリアン伯爵邸に家を出ていった。




