忘れていはいけない出来事
士官学校がある都市の名前はシュバイン。王国各地へ繋がる交通の要所ということもあって、商業都市として賑わっている。街中を歩くと王国各地の品々が屋台で軒を連ねていた。
人の流入も多く、一日中、賑やかな都市ではあるのだが、人が多い分、犯罪の数もそれなりに多かった。
俺が王の時代には多少、治安は改善したとは思うが、犯罪自体を無くすことは出来なかった。思い返せば。俺が士官学校に通っていた時代が一番治安が悪かったと思う。
治安が悪いといっても、日中の街中で犯罪が起こるわけでもないので、街中は活気と明るさに満ちていた。
俺は出店で買った焼き串を食べながら、記憶の底にあるシュバインの街中の光景を思い返していた。青春時代を過ごした都市なので思い入れは強い。寮の食堂のメニューが苦手な食材だった時は街に夕食を食べに来たり、休日はよくトルテと遊びに来ていた。街の人の手伝いをすることもあったので、見覚えがあるような顔がちらほらと横を通り過ぎていく。
記憶とは違う建物、人物が街中にないかと観察しながら歩いていると見覚えのある二人の後ろ姿を見つけたので脇道に隠れた。
ラティウスとトルテだ。
確か記憶通りなら、俺達は基本的に夕食を外で食べていた。理由は寮の食堂で食べているとグリオット以外の貴族からの嫌がらせが面倒だったからだ。席を退けと言われるのはいい方で、夕食を台無しにされた記憶もある。一々相手にするのも大変だし、食事が食べれないのは、もったいないので外で食べるようになっていた。
散々な思い出しかないなと思う。
道を歩く二人の足取りに迷いはなく、一直線にある飲食店に入っていった。
飲食店の看板には『エッケンキッチン』と書かれていた。
「エッケン……そうだった。行きつけだったな」
忘れていたのが、不思議なくらいに看板を見たら記憶が蘇ってくる。『エッケンキッチン』は家族代々で営んでいる飲食店でオーナー兼料理人の父親と給仕をする母親、そして姉妹が看板娘として働いていた。
懐かしい味を食べてみたいという欲求が湧き上がってきたが、部屋に運ばれてくる料理があるため、ここで食べるわけにはいかない。
今日は食事を少し遅めの時間に出してくれるようにとお願いしているが、今、食べてしまっては部屋での食事を全て食べることは出来ないだろう。
部屋で出される料理は高級食材を使っているだけに残すのはもったいない。
今回は『エッケンキッチン』の料理を食べるのを諦め、次回、食べるのを目的に街に来ようと決意する。
せめて店内の様子だけでも見ようと覗いてみると、夕食時が近いこともあって、既に店内は賑わっており、母親と姉妹が忙しなく走り回っていた。
「あっ……」
思わず頭を抱えて座り込んでしまう。
昔の記憶とはいえ、忘れていることが多すぎる。そして忘れてはいけないことを今の今まで忘れてしまっていた。せめて、エッケンの名前を見た段階で思い出しておかないといけない事件を忘れていた。
近いうちに『エッケンキッチン』の姉妹である姉のクローセと妹のリヒテが誘拐され、クローセが命を落としてしまう事件が発生する。
クローセは貴族の嫡男達が遊びと称して行った悪魔召喚の儀式の犠牲になってしまった事件だ。
当時の俺とトルテは親交があった『エッケンキッチン』の姉妹が行方不明になったと知らされて、捜索をしていた。そして姉妹を誘拐した貴族の屋敷に乗り込んで、姉妹を助けようとしたのだが、力及ばずクローセは助けられなかった。リヒテだけはなんとか助け出せたが、それもクローセが自分を犠牲にしての結果だった。
俺とトルテが自分達の無力さを痛感した苦い事件だ。
これほど大事なことを忘れているとは情けなく思う。
自分自身に起こっていることだけで、許容量が限界だったと言い訳は出来るが、過去に戻っていると認識した時点で起こってしまった悲しい事件を思い出すべきだった。
「何が起こるか知っているなら、クローセさんを助けられる。いや、それは……どうなるんだ」
クローセさんの命を助けられる可能性はある。何が起こるか知っている上に、今の俺はフォレノワール公爵家の人間だ。貴族達の遊び自体をやめさせることも出来るだろう。
しかし、俺の知っている歴史ではクローセさんは亡くなっている。彼女が生きていた場合、未来はどうなる。
飲食店の女性一人と考えれば、それほど歴史には関わってこないかもしれない。士官学校卒業後はこの街にあまり顔を出さなくなった。『エッケンキッチン』自体は俺が生きている間は存続していたはずだ。妹のリヒテが跡を継いで営んでいるというのを聞いたことがある。
一人の人生だ。誰にどのような影響を与えるのか、想像が付かない。
何が起こるか分からないからと、救えるかもしれない生命を見捨てるのかと葛藤する。
クローセさんが生きていることで、もし別の誰かが、本来、死ななくて良かったはずの人間が死んでしまったら。それが原因で歯車が狂ってしまって、悪い歴史になってしまったらと考えてしまう。
国王だった経験があるせいで、考え方が一個人の幸せではなくて、国の幸せのためにどうするべきかとなっている。
駄目な考え方だ。
どうする、どうすると考え込んでいると声をかけられた。
「あの……大丈夫ですか?」
心配する優しい声に振り向くとクローセさんが座り込む俺と視線を合わせるように膝を折ってそこに居た。
「っ!?」
「気分が悪いのなら、お店の中で横になりますか?」
クローセさんは透き通るようなブロンド髪をした柔和な女性だ。歳はこの頃のグリオット達よりも三歳ほど年上だったと思う。たった三つの年の差とは思えない落ち着きがあり、包容力があった人だ。妹のリヒテが太陽のように元気で活発だっただけに対象的な看板姉妹として、それぞれに街中で少なからずファンが居た。
若いラティウスはクローセさんのファンだった。身近に居なかった大人びた女性に惹かれる年頃であった。
クローセさんは幼子をあやすように俺の背中をさする。彼女の掌から体温がじんわりと伝わってくる。彼女が生きているという当たり前のことを感じとり、涙が溢れてきた。
感情が混乱しているせいもあって、涙脆くなっている。
「泣かないで、ごめんなさい。背中が痛いのに触ってしまった?」
「……い、いえ、大丈夫です。ご心配なく」
涙を拭い去って、立ち上がるとクローセさんに軽く頭を下げて、早足でその場を去る。人だかりが出来始めたので、目立ちたくないという気持ちもあったが、今はこれ以上、クローセさんの近くにいるのが辛かった。
見捨てようと一瞬でも考えてしまった彼女の側にいるのが、心臓が張り裂けそうなほどに辛く、痛かった。
逃げ込むようにして自分の部屋に戻った俺は風呂場に向かうと、服を着たままに冷たいシャワーを全身にかける。
体中の熱を少しでも早く冷やしたかった。
「……」
体と頭が冷えたことで、気持ちがだいぶ落ち着いてきた。
シャワーを止めて、服を着替えると部屋に戻って椅子に座る。
懐かしさや後悔の感情はまだ心の中でわだかまりを続けているが、今後のことを考えなくてはいけない。
昨日まではグリオットとして生活し、いずれ起こる国王暗殺未遂に備えつつ、俺が転移した原因の究明をするという行動方針としていたが、他にも対応しなくてはいけない事柄を見つけてしまった。
クローセさん、いや、彼女以外にも、俺はこの先の未来で事故、事件に巻き込まれて死んでしまう人を知っている。クローセさん以外に思い出せる人物ではアントルもそうだ。他にも何人か思い出せていないだけで、数多くいる。
その人達を俺は助けられるかもしれないのに見捨てて、俺が知っている未来へ進むように行動しなくてはいけないのか。
「そんなことは……できない」
知っている未来を守るか。現在、生きている人達を選ぶか。
どちらか片方だけしか選べないなんて、誰にも言われていない。
だったら、どちらも選ぶべきだ。知っている未来をより良い未来することが出来るはずだ。
俺がグリオットの身体に転移している理由は、もしかしたら後悔していた過去をやり直すために、神様とかが機会をくれたのかもしれない。単純に俺の若い頃の身体に転移していないのは不思議ではあるし、原因究明は続けなくてはいけないが、今は過去をやり直すためと思い込もう。
「……やると決めたからには具体的にどうするかだな」
クローセさんとトルテの姉妹が誘拐される具体的な日程までは思い出せていない。加えて誘拐を主導していた貴族の嫡男達についても記憶が曖昧だ。
何十年も前の事件の詳細を覚えているというのは、ある種の特殊技能がなければ無理だ。
「素行が悪そうな貴族の嫡男を探ってみるか」
都合がいいことにフォレノワール家は貴族主義の家だ。こちらから遊びに興味があるように噂を流しておけば、平民を道具としか思っていないような奴らなら向こうから接触してきてもおかしくはない。
明日から噂をどのように広めていこうかと考えながら、そろそろ来るであろう夕食を待った。