空箱を贈られたので、毒杯を所望します。
王国きっての軍事力を持つ、ジュミール辺境伯家。8人兄弟の末娘として産まれたイアサントには、物心付いた時から、一心に愛する存在があった。
全員が類稀なる才を持つと言われるジュミール辺境伯家の名に恥じず、幼少期から全力でその才を発揮していたイアサントは、6歳で同い年の第三王子の婚約者となった。
第三王子の婚約者となったイアサントは、より積極的に活動し、次々と功績を立てていった。
「ジュミール辺境伯令嬢の献身に報い、褒美を与えようと思っておる」
その結果、12歳という若さで文官として働き始め、16歳で大規模な貿易改革を成功させた。
国王は大層喜び、義理の娘となる予定のイアサントの為に王族だけの茶会を開き、その場で褒美を与えることを伝えた。
「何でも言うが良い。物でも地位でも、出来る限り叶えよう」
煌びやかなドレスも宝飾品も、より権限のある地位も、イアサントの功績を考えれば与えて当然のものだったからだ。それでも、何でもと口にしたのは、純粋にイアサントの尽力に感謝しているからだ。
そんな、国王の想いが伝わったのだろう。イアサントは柔らかく微笑み、小さく頭を下げた。
「それでしたら陛下、お願いがございます」
「なんだ?」
イアサントは、微笑みを崩さないまま、芯のある、しかし穏やかな声音のまま言葉を紡いだ。
「私に、杯をくださいませ」
赤い毒がなみなみと注がれた、透き通るガラスの杯を望んだのだった。
◆
時は、3日前に遡る。16歳の誕生日もしっかり働いていたイアサントは、夕方、食事の場で誕生日を祝われていた。
珍しく家族全員、8人兄弟が揃っての団欒の時間に、控えめにノック音が響く。父である辺境伯が用件を尋ねると、メイドは悪い知らせではありません、と前置きしてから告げた。
「イアサント様、第三王子殿下から贈り物が届いております」
「誕生日の贈り物か。殿下もマメだな」
第三王子はイアサントの婚約者である。なので、誕生日の贈り物をすることは至極真っ当なことである。辺境伯は嬉しそうに、早く箱を受け取るよう娘を促した。
だが、しかし。メイドから贈り物の箱を受け取った瞬間、イアサントの手から首筋にかけて、ぞわりとした悪寒が走った。
「これは……」
丁寧に包装された箱は、イアサントの手に収まる大きさだ。だが、それにしても、軽い。
嫌な予感がして、イアサントは無言で箱を閉じていたリボンに手を掛ける。そして、そっと箱の中を見て、絶句した。
「大きさからして装飾品か。……イアサント?」
何の反応も示さない娘に、辺境伯は、すかさず問いかける。感動しているのではない。何か、異常な事が起こっている、と父親の勘が告げていた。
「お父様……」
イアサントは、静かに首を横に振ると、空の箱を差し出した。何も、装飾品を守る為の布も、手紙も添えられていない、ただの空箱だった。
「空箱を贈るとは、殿下は何を考えて……」
和気藹々とした雰囲気から一変、重い沈黙が流れる。第三王子の真意はわからないが、何か良くないことだけは全員が理解していた。
実際は短い、けれども、その場の全員にとっては十分過ぎる沈黙を破ったのは、イアサントだった。
「私は、用済みのようです」
抑揚のない声だった。どういうことだ、と低い声で問う長兄に、末妹はそのままの意味です、と返した。
「殿下は、私を処罰したいのです」
3日後、イアサントは王宮の茶会に招かれている。そこで婚約者からの贈り物を身に着けていないとなると、理由を問われることは間違いない。
それはそうだろう、と母と3人の姉は頷いた。お茶会での社交は戦いでもある。婚約者からの贈り物を身につけていないとなると、不仲を疑われることは想像に難くない。
そして、タチが悪いのが、イアサントがどう返事をしても立場を悪くすることだ。
「贈り物が無かったと言えば、そのようなことはないと言われるでしょう。あったと言っても入れ忘れたのに嘘をついたと言われます」
「どう転んでも処罰される、と」
素直に答えても、誤魔化しても、第三王子が罪に問えば、イアサントを処罰する事が可能なのである。
勿論、贈り物を入れ忘れていた、だとか、冗談で空箱を贈っただけで当日贈り物を貰う、という展開であれば全く問題はない。
しかし。
「陛下たちの前では表に出していませんでしたが、殿下は私との婚約を、不満に思っていらっしゃいましたから」
イアサントと婚約者である第三王子の関係は、お世辞にも良好とは言えなかった。
幼少期から必要最低限以上に関わることはなく、義務的に顔を合わせても会話は殆どない。偶に口を開いても、出てくるのはイアサントへの不平不満だった。
「だが、お前は……」
「それでも、私は婚約者として尽くしているつもりでしたし、殿下も受け入れて下さると思っておりました」
イアサントへの不満はあっても、それを上回る功績を常に立て続けていた。だから、第三王子以外、国王陛下達からの評価は高く、予定より早く嫁ぐことを望まれているほどだ。
「王子妃教育も、宮廷での仕事も、誇りをもって行っておりました」
一方、婚約者である第三王子は、王族として必要な能力は備えているものの、兄である第一、第二王子に比べると秀でた能力はない。
とはいえ、与えられていた貿易事業には精力的に取り組んでいたようなのだが。
「この度の功績も、殿下からすれば一層私を疎ましく思う原因だったのでしょう」
「イアサント……」
その貿易事業が傾きかけていることに気付き、イアサントが大規模な貿易改革案を出した。結果、改革は成功し莫大な利益が産まれたのだが、第三王子からすれば面白くないだろう。
「近頃、侯爵家のご令嬢が殿下に近付いているとの噂もありました」
イアサントへの不満が最高潮に達している今、他の、イアサントよりも爵位の高い女性に声を掛けられれば、よからぬ事を考える可能性はある。
それでも、その心を繋ぎ止められなかったのは婚約者として力不足だったからだろう。イアサントは静かに床に視線を落とした。
「お前のせいではない」
「ありがとうございます」
幾ら考えたところで、第三王子から切り捨てられたことは事実だ。その上で、三日後のお茶会に向けて動かねばならない。
イアサントは細く長く息を吐き、自分を優しく見つめる家族、一人一人と順に目を合わせた。
「お父様、お母様、お兄様、お姉様。我儘を、聞いていただけないでしょうか?」
「おまえは……」
イアサントの顔を見て、家族達は、溜息を吐きたくなった。その顔は、可愛い末っ子が自分の意見を通したい時にする顔だからだ。
そして、末っ子は一度決めたら絶対に自分の意見を曲げない。あらゆる手段を尽くし、頷かざるを得ない状況を作り出すのだ。
「どうする?」
「言っても無駄だろうな……」
「この顔のイアサントに勝ったことないでしょ」
「僕も兄上たちも無理です」
我儘の内容が、自分たちにとって受け入れ難いものなのは理解している。それでも、説得は無理だろうと4人の兄は早々に諦める。
「お姉様……」
「妥協案は出せませんか?」
「…………今回は無理でしょうね」
兄達よりは強かな3人の姉も、今回ばかりはどうしようもない、と首を横に振る。イアサントと一番歳の近い、2歳上の三女が目に涙を溜めるが、イアサントは困ったように微笑むだけだった。
「お母様」
「言っても、貴女は聞かないでしょう。女として、王族に嫁ぐ者としての、覚悟があるでしょうから」
「はい」
好きになさい。震える声だが、確かに、母からの許可を得たイアサントは、最後の砦、一家の長である父親に向き直る。
「お茶会の日までに、全て準備いたします」
「そういう話ではない」
「お願いします、お父様」
他に、方法がないことはご存知でしょう。告げる言葉は、残酷なまでに正しかった。家長である父親には、家を守る義務がある。
例え、イアサントが傷付いても、他の子供が助かるのなら、辺境伯家を繋げられるなら。その方法を選ばなくてはならないのだ。
「…………おまえは、本当に、聞き分けのない子だな」
「みんなに甘やかされて来ましたので」
イアサントは、家族に愛されて育ったので、家族を愛している。だが、それ以上に愛する存在がある。その為なら、家族が望まぬ手段も選ぶのが、イアサントなのだ。
結局、自分の意見を通したイアサントに、家族達はどうしようもなく思いながら、順番に彼女の細い体を抱きしめた。
◆
それから3日後、イアサントは、母と姉達が選んだドレスとアクセサリーを身につけ、父と兄達に連れられ王宮に来ていた。
残念ながら、招待されたのはイアサントだけなので、家族達が会場に入ることはない。
一人、会場に入ってすぐ、イアサントに声を掛けたのは、国王だった。
「久しいな、ジュミール辺境伯令嬢」
「陛下、ご機嫌麗しく……」
流れるように淑女の礼をとるイアサントに、国王は笑って楽にするよう伝えた。
「堅苦しい挨拶は良い、今日はそなたの為の茶会なのだから」
このお茶会は王族だけの非公式なものだ。今は未来の家族として接してほしい、と言われ、イアサントは頭を上げた。
「此度の提案は実に見事であった。貿易事業が大幅に好転したことで国全体が潤うであろう」
「ひとえに皆様のお力添えあってこそです」
「その立役者たちも、そなたが推挙した者ばかりであろう」
イアサントの特技の一つが、人材発掘である。12歳で働き始めてからの4年間で、埋もれていた才ある人材を次々見出し、重要な役職に推薦した。
推薦された彼らは、イアサントに恩義を感じているため、彼女の改革に協力してくれたのである。
和やかに二人が話していると、少し離れた場所から鋭い声が上がった。
「父上!!」
「殿下」
「コンスタント、婚約者の迎えに来たのか?」
第三王子、コンスタントである。現れた息子に、国王は穏やかに問いかけた。しかし、第三王子はイアサントを一瞥すると、すぐに国王に視線を戻した。
「父上、お話があるのです」
「少し待て。今日はジュミール辺境伯令嬢の功績を称える場なのだから」
お前と話す時間は、別で設けよう。そう告げる国王に、第三王子は引き下がらなかった。
「そのイアサントに関連する話があるのです」
「ジュミール辺境伯令嬢に?」
「はい。ですので、彼女も交えて話をさせていただきたく」
ああ、今から始まるのか。イアサントはそっと、ドレスの裾を握った。大丈夫。家族に迷惑は掛けないよう、準備はしてきた。深く、息を吸った。
「イアサント、お前、私が贈った髪飾りはどうしたのだ?」
第三王子と、国王の視線がイアサントの頭に向けられる。イアサントの濡羽色の髪を飾るのは、後頭部で髪を結っているシンプルな青のリボンだけだ。
「髪飾りか?」
「ええ。誕生日でしたので、髪飾りを贈ったのです。今日の茶会に着けてくるものだと思っていたが、どういうことだ」
尋ねる国王に、上手くいったとばかりに第三王子が捲し立てる。最後に、鋭い口調で責め立てられ、イアサントは溜息を吐きたくなった。
「それは……」
「まさか売り払ったのか? 第三王子妃として必要な品を?」
「そのようなことは、決してございません」
人にどういうことだと尋ねておいて、返事を聞く気は全くないらしい。貰っていないのだから、売り払うなんてできるはずもない。ついでに、誕生日祝いの品は別に第三王子妃として、必要不可欠なものではない。
雑な非難に内心呆れていると、困っていると思ったのか、国王が二人の間に割って入った。
「よせ、コンスタント。偶然、今回のドレスと合わなかっただけかもしれぬ」
今回のお茶会は非公式とは言え王宮で行われるものだ。当然、イアサントは茶会の知らせが来るとすぐに新しいドレスを仕立てた。
ドレスの色は事前に第三王子に伝えていないので、急に髪飾りを貰っても困るのは事実だ。
「それだけではありません、第三王子妃として与えられている資金を使い込んでいるという話もあります」
「あれは、貴方の……」
「貿易にも口を出して、私の予定していた会議を取りやめにしたとも聞きました」
一方的に捲し立てる息子に違和感を抱いたのだろう、国王が手を2度叩き、無理やり話を遮った。
「よせ、コンスタント。祝いの場を壊すでない」
国王は、第三王子を小さな声で窘めてから、全員に向けて声を張り上げた。
「皆が揃ったところで、茶会を始める前に伝えておきたいことがある」
第三王子に絡まれている間に、第一王子や第二王子、王妃も揃っていたらしい。王子はそれぞれパートナーをエスコートしており、仲睦まじい様子が窺える。
自分達とは大違いだな、とイアサントが考えていると、国王はイアサントを安心させるように微笑んだ。
「此度の貿易改革が、我が国に与える恩恵は計り知れない」
貿易に口出しした件の誤解を解いてくれるつもりなのだろう。
「ジュミール辺境伯令嬢の献身に報い、褒美を与えようと思っておる」
それと同時に、本日の本題を切り出した。先に第三王子に空箱の件を出されて不利になるかと思ったが、どうにか有利な流れに戻せそうだ。
「何でも言うが良い。物でも地位でも、出来る限り叶えよう」
「それでしたら陛下、お願いがございます」
「なんだ?」
イアサントは、微笑みを絶やさないまま告げる。先程まで一方的に責められていたにも関わらず、いやに穏やかな様子に第三王子が顔を青くする。
「イアサント、何を……」
「私に、杯をくださいませ」
「杯だと……?」
貴族であるイアサントが、王族に求める杯は一つしかないだろう。だが、祝いの場にあまりにそぐわぬ単語に、思わず聞き返したのだろう。
イアサントは冷静に、求めるものを明確に告げる。
「はい、陛下。毒杯を賜りたく」
「ジュミール辺境伯令嬢、何を考えて……」
動揺する一同の中、真っ先に口を開いたのは国王だ。流石に経験を積んでいるだけあり、即座にイアサントの真意を問いただす。
「そのために、先にコンスタント殿下の発言に、お答えしたいと思います」
そうすれば、私が毒杯を求める理由にも納得頂けるかと思います。落ち着いた様子のイアサントに、国王は小さく頷き続きを促した。
「まず一つ目、髪飾りなど、私は頂いておりません」
じろり、と視線が第三王子に向けられる。流れが、自分に向いてきいてることを感じながら、イアサントは言葉を重ねる。
「我が家に届けられたのは、空箱のみ。つまり、殿下は私に、用済みだと仰りたいのでしょう?」
「コンスタント、真か」
「…………」
第三王子は答えない。国王は、一度話を最後まで聞くことにしたのだろう。イアサントの言葉を遮ることはなかった。
「本来でしたら、私の返答を以て罪に問う予定だったのでしょうが、丁度良い機会なので先に伝えさせていただきました」
空箱の真意に気付かぬような王ではない。第三王子の異様な剣幕と、いきなり毒杯を求めたイアサントの態度から真実であると判断したのだろう。
「資金の使い込み、でしたか。あれは貿易改革の前、商人達と顔を繋ぐために使いました。勿論、その後の取引で使用分以上の資金を回収しております」
「使い込んだのは事実なのだろう?」
第三王子の婚約者として与えられている費用を、貿易改革の為に利用したのは事実だ。本来の用途ではない為、普通なら許されないが、今回はその限りではない。
「陛下にもご相談の上で行ったことです。予算調達が間に合いそうになかったので、一時的に立て替えただけです」
ですよね、と視線で問えば国王は静かに頷いた。あの時は第三王子の貿易事業が失敗し掛けていたので緊急で纏まった金額が必要だったのだ。
「とはいえ、これまでの会話からわかる通り、私と殿下の関係性は破綻しております。ですので婚約解消を申し出たいのです」
「それは、理解はできるが、何故毒杯を……」
陛下ならご存じでしょうに、とイアサントは微笑んだ。純粋な婚約解消を望んだとしても、意味はないのだ。
少なくとも、イアサントの願いは、それだけでは叶わないのだ。
「残念ですが、私は王子妃教育も終えております」
既に王家以外が知ってはいけない事実を知っているのだ。国王は、イアサントが王族に嫁がないならば、機密を守る為に死を命じるしかないのだ。
「コンスタント」
国王が、冷たい声で第三王子を呼ぶ。このままでは立場が危うい。そう察した第三王子はイアサントを鋭く睨んだ。
「……お前が」
「はい」
「お前が悪いのだろう!!」
最後の機会だからと、対話に応じようとしたイアサントに、第三王子は逆上した。わかりやすい責任転嫁である。
だが、第三王子最大の罠であった空箱は既に回避したのだ。本来の実力を考えれば、イアサントと第三王子では口喧嘩にもならない。
「何が悪いのですか?」
「は?」
「兄君達の婚約者よりも身分が低いことですか? 女なのに政に口出ししていることですか? 貴方の方針に反対したからですか?」
「そんなもの……」
兄よりも下に扱われていることも、イアサントが文官として働いていることも、その働きが評価されていることも。第三王子が不満に思っていることは知っていた。
図星を突かれた第三王子が下を向く。小さい頃から変わらない、思い通りにいかないことがあった時の癖だ。
どうしようもない人だ、とイアサントは眉を顰めた。
「それとも、私が、貴方に対して何の感情も持っていないからですか?」
「貴様、馬鹿にするのも……!!」
「最後は冗談です。最近、とある侯爵令嬢とお近付きになっているようですね。彼女に唆されましたか?」
その言葉に、第三王子は弾かれたようにイアサントを見遣り、王族らしからぬ大声で否定した。
「違う!! 彼女はお前のように政ばかりを考えている訳ではない!! 純粋に、私のことを慕って……」
「駄目ですよ、殿下。彼女はいけません」
侯爵令嬢と第三王子の想いが純粋なものでもそうでなくとも、関係のないことだ。
どちらにせよ、イアサントは二人の関係を阻止するのだから。
「何故お前に決められなければならない!!」
「どうして、私が貴方の婚約者かお忘れですか?」
「それはお前が辺境伯家で、親が父上に頼み込んだから……」
「前半は正解ですが、後半は間違いです。派閥の関係上、私しか居なかったのですよ」
単なる辺境伯家という条件なら、ジュミール辺境伯家でなくとも良いのだ。第一王子の婚約者は他国の姫なのだから、それこそ侯爵家の令嬢でもよかった。
それなのに、イアサントが選ばれたのには、正当な理由があった。
「ジュミール辺境伯家は絶対中立なのだ、コンスタント」
代々辺境伯家は、政争に関わらず国境を守る為、派閥としては絶対中立を宣言しているのだ。ジュミール辺境伯家以外にも爵位のつりあう家は存在するが、第三王子と合う年頃の娘はイアサントだけだった。
逆に、中立のイアサントが第一王子か第二王子の側妃になることも、派閥の関係上、都合が悪いことになる。
「貴方が懇意にしている令嬢のご実家は極端な革新派です」
「そんなことで」
「それを軽んじる貴方は、いずれ、より大きな問題を起こすでしょう」
王族として、貴族の力関係を制御することは重要な仕事だ。王位を継がないとは言え、狸爺たちに利用されるわけにもいかない。
「ですから、陛下。私と、殿下に、それぞれ毒杯を賜りたく存じます」
「そういうことか……」
第三王子は、無能ではない。兄王子2人と比べれば秀でたところはないが、なんでもそつなく熟す。今回の貿易事業も、相手国で発生した流行病がなければ成功していただろう。
ただ、思い込みが強いところと、嫌いなものへの攻撃性が高すぎることが欠点だった。それも、イアサントが補助すれば問題ないと判断されていたが、そのイアサントを嫌い、排除しようとした。
今回の件は、様々な要因が重なったが故の過ちだが、王族として致命的で、取り返しのつかない失敗だった。
「ご安心を。私の仕事については、全て引き継ぎを済ませております。父の同意も得ておりますので、ジュミール辺境伯家が王家を裏切ることはございません」
だが、都合がいいことに、今は王族と最低限の侍従しかいない非公式の茶会だ。今、この場で2人が毒杯を賜っても、対外的な発表で誤魔化すことは容易だ。
更に、イアサントは家族の説得も終えているため、懸念事項である辺境伯家との関係悪化は心配しなくても良い。
イアサントの準備の良さに、国王は擦れる声で問うた。
「ジュミール辺境伯令嬢、一体、いつから……」
「殿下の婚約者となった日から、王族に嫁ぐ者として覚悟しておりました」
微笑むイアサントの瞳に、恐れや怯えという感情は見えない。何故なら、彼女にとって最も恐るべきことは別にあるからだ。
一方で、第三王子は毒杯という言葉に動揺を隠しきれていなかった。
「イアサント、悪い冗談はやめろ!!」
「大丈夫ですよ、殿下。王家の毒杯ならば、苦しまずに済みます」
第三王子に胸ぐらを掴まれても、イアサントは淡々と言葉を返す。対照的な2人の態度に、国王は深く溜息を吐いた。
「コンスタントは、其方に、そのような覚悟をさせる程か……」
第三王子はイアサントを突き飛ばし、国王に縋り付いた。倒れ込むイアサントに目線もくれず、自身の助命を嘆願する。
「父上!! 冗談ですよね? 私に毒杯など……」
「愚かな……。だが、ここまで歪んだのは我々にも責任がある」
もっと早く、欠点に気づいていれば。関係性の修復を始めていれば。ここまでの事態を引き起こすことはなかったかもしれない。
だが、もうどうしようもない。
「…………二人に、毒杯を与えよう」
国王が、確認するように、静かに王妃を見遣る。視線を向けられた王妃は、眉を顰めたまま、諦めたように首を横に振るだけだ。
第一王子も、第二王子も、同じように首を振り、婚約者2人は王子に寄り添うだけで、何の反応も返せなかった。
誰も、反対はできなかった。
「本気ですか、父上!!」
叫ぶ第三王子に、国王が、怒鳴り返した。その顔は苦虫を噛み潰したように歪んでいた。
「自分の責任であろう!! 其方の間違いを正し、支えてくれるはずのジュミール辺境伯令嬢を蔑ろにしたのだから!!」
今迄、怒鳴られたことなどないからだろう。第三王子がピタリと動きを止める。
「婚約を結んだ時に言ったはずだ!! 彼女の意見を取り入れ、王族としての責任を持てと!!」
「私は、自身の仕事はこなして……」
王族としての仕事はやっていたと主張する第三王子に、国王は呆れたように言う。
「其方に任せていた貿易事業は失敗寸前だっただろう!! 救ったのは、ジュミール辺境伯令嬢だ!! 他の仕事が円滑に回るのも、彼女が推薦した側近のお陰だ!! だから、こうして祝いの場を設けたというのに……」
貿易事業の失敗自体を責めるつもりはなかったのだろう。だが、失敗を挽回したイアサントを排除しようとする愚かさは、許容することができなかった。
「…………もう良い。杯を、下賜しよう」
何を言っても無駄だとわかった以上、会話を続けても失望するだけだ。そう判断した国王は、低い声でそう告げた。
入り口に立っていた侍従が、そっと扉の外へと消えていく。
「ありがとうございます、陛下」
「お考え直しを!! 父上!!」
完璧な礼をとるイアサントと、諦め悪く国王の腕に縋る第三王子。国王は静かに、第三王子の身動きを封じるよう指示を出す。
見ていられなくなったのか、このことを知る人間を減らすためか。第三王子の腕をそれぞれ掴んだのは、兄王子2人だった。
「兄上!! 何を……」
第三王子には目もくれず、銀の盆に載せられ運ばれてきた杯に、イアサントは静かに手を伸ばす。透き通るガラスの杯を掲げ、美しく微笑んだ。
「陛下、お慈悲を賜ります」
イアサントに、躊躇いはない。これが最善であると、理解しているから。すぐさま杯を傾けようとするイアサントに、国王が声を掛ける。
「ジュミール辺境伯令嬢。何か、何でもいい、言いたいことはないか?」
第三王子にだけ毒杯を与えても良い。その言葉に、イアサントは少し考える素振りを見せた。しかし、彼女の答えは全く違うものだった。
「私と殿下に充てられていた予算を、隣国で発生している流行病の対処法の研究に充ててください。薬が開発できたら、関税で掛かる額以外は、国内で流通させる額と同じ金額で売って頂けますか?」
貿易を行う以上、いずれ国内にも流行病は発生するだろう。先に薬を作り、国内での流行を抑える。その上で隣国に薬を渡せば恩を売れるし、上手く交渉すれば関税を下げることができるかもしれない。
「…………ああ、約束しよう」
最後まで、自身のことではなく政を優先するイアサントに、国王は自身の両手を強く握り、頷いた。
イアサントは、床に座り、煌めく赤い液体を目を細めて眺めた後、一気にそれを飲み干した。そっとグラスを置き、胸に確かな熱を感じながら、ゆったりと目を閉じた。
◆
白い、ぼやけた天井を視認したイアサントは、やけに回らない舌を動かし、小さく呟いた。
「…………私、は」
頭には靄が掛かっているようだが、確かに毒杯を飲み干したはずだ。状況が理解できないイアサントは、何とか動かせる視線を左右に忙しなく向け、その先に、椅子に座る金髪の人物を見つけた。
その人物は、イアサントの視線に気付くと立ち上がり、近寄ってきた。
「目が覚めたか?」
「貴方は……」
何処かで、見たことがある。必死に思い出そうとするイアサントに、その人物は微笑んだ。
「久々の王宮で迷っていたら、こんなことになっているとは」
暫く王宮から離れていた、金髪の人物。金髪は王家の特徴なので、王族であることは間違いない。年齢はイアサントと大して変わらないから、20代前後だろう。
その条件に当てはまる人物は、1人だけ。
「テオドール様……?」
王弟、テオドール。国王と歳が離れている彼は、今は24歳だったか。第一王子と年齢が近く、争いの原因になってはいけないからと他国で遊学していたはずである。
イアサントと顔を合わせたのは、彼女と第三王子との婚約が決まった10年前が最後だろうか。優しげな顔の印象は変わっていない。イアサントは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「兄上から事情は聞いた」
「そう、ですか……」
最後に声を掛けてくれたのだろうか。優しいこの人らしい、とイアサントは目を閉じようとする。
「その上で、解毒薬を飲ませた」
「…………今、何と?」
その言葉に、イアサントは一気に目が覚めた。ぼうっとしていた頭も、急に動き出して少し痛いくらいである。
「毒杯を飲む必要が無くなった、と言ったのだ」
「それは……」
「賢い貴女なら、言わずとも理解できるとは思うが。……言葉にすることが大事だからな」
そういえば、イアサントは王弟殿下の結婚について、特に聞いたことがなかった。第一王子の立場が確立するまで待っているのだと思っていたが、まさか、候補すらいなかったのだろうか。
「ジュミール辺境伯家、イアサント嬢。私と結婚してくれないか」
イアサントに、断る理由はない。王家に嫁げないなら他に道はないと判断していただけで、積極的に死を選びたいわけではないからだ。
機密事項の心配がないのなら、まだ、国の為に働けるのなら。その手を取らぬ理由はなかった。
「貴女との間に、愛を育めるかは断言できない。だが、私は貴女を尊重し、その才を存分に発揮できる環境を約束しよう」
殆ど会話をしたこともないので、愛がないのは当然である。別にイアサントは愛を求めているわけではないので問題ない。
それよりも、約束の後半部分、イアサントの愛を認めるその言葉は、何より深く心に響いた。
「………最高の、口説き文句でございますね」
イアサントは、国を愛している。だから、文官としても第三王子の婚約者としても全力で働いていたし、第三王子が国の害となると判断すれば居場所のなくなる自身と共に排除しようとした。
権力に固執する訳でもないが、権力があった方が国の為に出来ることも増える。優秀な妻が欲しいだけかもしれないが、仕事があるのは喜ばしいことである。そう考えれば、王弟テオドールはイアサントにとって最良の相手である。
そっと手を重ねたイアサントに、テオドールは柔らかく微笑んだ。
「時間をかけて、私を愛してもらえるよう努力することを誓おう」
「…………私も、貴方の気持ちに応えられるよう、努力致します」
一番に愛するものは変わらずとも、上手くやっていけそうな予感に、イアサントは目を細めて微笑んだ。
史実で好きな人物のお話を元にした短編です。
宜しければ他の作品も読んでいただけると嬉しいです。
2024.6.25 誤字修正しました。ご指摘ありがとうございます。