ざまぁされそうでされなかった王子のその後の話
ロデウム王国第一王子であったアシュクロフトは、無事に戴冠式を終え王へと成った。
その妻にはルミナスが。
優秀なルミナスが妻になるからこそ、かろうじて王になっても大丈夫だろう……と思われていたアシュクロフトであったが、学生時代に起きたちょっとした事件の後でその評価はそれなりに良い方向へと転がった結果、彼が王になる事を露骨に反対する者は表向きはいなくなった。
そもそも先代の王とアシュクロフトの母にあたる側妃が色々とやらかした結果、その子であるアシュクロフトの評判は最初からダダ下がり状態であった。蛙の子は蛙。
しかしアシュクロフトは周囲の反応を幼い頃から目の当たりにしていたし、それ故に自分に向けられている目の厳しさもよく理解していた。
能力的には正妃の子である腹違いの弟シャムロックの方が圧倒的に優れているし、それもあって尚の事自分が不出来な存在である事を胸に刻み決して馬鹿な真似はしないようにと自制して過ごしてきた。
もしルミナスとの婚約がないままであったなら、将来的にどこかいいタイミングで臣籍降下して弟が王として君臨する国を良くするための手伝いができればいいけれど、果たして自分が役に立つだろうかと思っていたし、それならどこか別の国との縁を結ぶためだけの婿入りに利用できないだろうか、なんて考えていた事もあった。
アシュクロフトは勉強があまり得意ではないために、頭を使ってあれこれ考えても周囲が素晴らしいと褒めそやすような案なんて出せなかったけれど、それでも王族として生まれた以上何らかの価値はあるだろうし、それを上手い事利用できないものかと考えてはいたのである。
最終的に何故だか正妃がルミナスとの婚約を結んでしまったので、アシュクロフトは強大な後ろ盾を得てしまったのだけれども。
適当なところで王位継承権を剥奪でもされるんじゃないかと思っていただけに、アシュクロフトは内心でとても驚いたのをよく覚えている。
てっきりどこか適当なところで事故を装われるだとか、失脚させるような何かを起こすだとか。
そうやって邪魔者を消してしまえば、シャムロックが即位するのはとても簡単になる。
なんて思っていた事もあっただけに、後ろ盾になりえる相手を正妃が、というのに驚くのも無理はなかったのだ。
成程、まだ自分には利用価値があると思われているのだな、どういう風に価値があるかはわからないけど。
相手の令嬢が優秀だという噂はそこかしこで聞いていたし、ならば彼女が将来王妃となって国の采配を……という事だろうか。つまり自分はお飾りとして、万一何かあった時に全ての責任を負ってその首を落とされる役目か。
なんて、正妃とシャムロック、果てはルミナスが聞けば「違いますけど!?」と言うような事すら思っていたくらいである。
もしそうであったとしても、最終的に死ぬからとて努力の放棄は許されない。
あまりにも無能であれば、計画を途中で変更してやはりここで退場していただきましょう、なんて事にもなりかねないな、とアシュクロフトはどこまでも自分が死ぬ方向性で考えていたし、その発想によって勉強が苦手だろうともやりたくないと駄々をこねる事もなく日々真面目に生活していたのである。
最終的に傀儡政権にでもなるのであれば、自分の事はあまり構われる事もないだろう。
なんて思っていたけれど、しかし政略で婚約したルミナスは思いのほか自分を気にかけてくれた。
てっきり自分の邪魔をしないようにと言いつけてくるかと思ったけれど、しかしルミナスの言葉は将来王となるのであれば……と、自分の事を思った上での厳しい叱咤激励であったのである。
てっきり最終的に王家の血を残すという点で種馬扱いされて、子が産まれた後にでも前々から想いあっていた相手とかとくっつくのかもしれないなぁ、なんて思っていたりもしたけれど、しかしそういった相手は影も形も現れなかった。
元々容姿が優れていて、案外単純なアシュクロフトは一目見た段階でコロッと恋に落ちかけていたのだけれど、更には自分のためにあれこれ言ってくれるというのもあって、気付けば完全に恋に落ちていた。
こんな自分にはとてもじゃないが勿体ない。
彼女の隣に並び立つなんて大それた事は考えられないけれど、せめて足を引っ張らない程度までにはならなければ。
そう決意した日から、アシュクロフトはさらに努力を重ねる日々であった。
まぁ、大して優秀でもなかったので、その結果が目に見えてハッキリわかる事はなかったのだけれど。
そうこうしていくうちに、恋心はいつしか神聖視されて気付けば信仰へと変化していたのだが、まぁそれはさておき。
王族のくせに自己評価最低値を叩き出しそうなアシュクロフトは国王へとなり、日々自分にできる範囲で仕事に励んでいたのである。
周囲の側近や王妃となったルミナスが優秀すぎて、これ自分働いてるって言える? と思ってしまうのは仕方がない。
かといって完全なお飾りになるわけにもいかないので、自分にできる事はなんだってやっていく所存であった。
とりあえず学生時代に起きた事件によって、周囲の反応が変化した後は何だかんだ他の生徒たちからも声をかけられる事が増え、思った以上に友好的な関係を築く事ができ、更にそういった人たちから勉強する時に覚えるべき重要な点だとかコツだとかも教わった事で事件以前と比べればそれなりに成長したのではないかと思っている。
学生時代の成績は何をどう頑張っても平均だったのに、思えばあれから伸びてトップクラスまではいけなかったけれど、それでもそれなりに上位になったので、一応学力に関しては成長できたと言ってもいいだろう。
皆、何だかんだ親切だったなぁ、とアシュクロフトは思っている。
というか幼い頃と比べると今現在アシュクロフトの周囲にいる人たちは皆親切だ。
私は思った以上に恵まれているなぁ、なんて思いながらも、アシュクロフトは公務の一つである視察へと出かける事となったのである。
これが事件の幕開けなどとはこれっぽっちも思わぬまま。
城下町への視察。いくら治安が良かろうとも、だからといって国王が一人でふらっと出かけるわけにもいかない。勿論側近や護衛はついてくる。
そこに更に妻でもあるルミナスもいるのだが、えっ、この視察別に私いなくてもよくないか? と思ってしまうのも無理のない事だった。
まぁ、お飾りにはお飾りなりの役目がある。
いくらルミナスが素敵で非の打ちどころのない女性であったとしても、王家だとかの権力に対して良く思わない者は一定数いる。
そういった相手からすれば、ルミナスは敵と見られてもおかしくはない。
護衛もいるとはいえ、万が一という事はある。
もしもの時は自分も役に立たなければな……なんて思っているが、正直護衛からすれば貴方も護衛対象なんでやめて! と悲鳴を上げるだろう事は想像すらしていない。
いくつかの場所を見て回り、そうして最終的に辿り着いたのは孤児院である。
こどもたちと戯れてどうのこうのというよりは、そこに他に手伝いで集まっていた大人たちとのやりとりの方がメインなのだろう――とアシュクロフトは判断した。
視察と言われていたけれど、具体的に何をどうするかだとかは特に指示されていないのである。
人前で演説だとかをするならルミナスの方が圧倒的に適任だし、それ以外の事であってもとても頼りになる側近が言った方が確実なので。
アシュクロフトはそれらの発言に「うんうん」と頷いていればいいようなものなのだ。
まぁ人前に出て長々演説するとか、自分には向いてないからなぁ……と思っているのでアシュクロフトとしてもそれで構わないと思っている。
とりあえず邪魔にならないような場所にそっと腰をおろして、お偉いさんの話に耳を傾ける民衆の一人ですよ、みたいな雰囲気でもってアシュクロフトはおとなしくしていた。
ねぇ、ととても小さな声がしたのは、話に耳を傾けて割とすぐの事だった。
見れば、周囲の大人たちの視線から逃れるようにこっそりとこちらに来ただろう子が見上げている。
「どうかしたかい?」
あまり大きな声を出せばこちらに注目が移ってしまいかねない。だからこそアシュクロフトは声をかけてきた子と同じように内緒話をするような小さな声で聴き返した。
てっきり孤児院の子かとも思ったけれど、よく見れば小綺麗な服を着ているので手伝いにやって来た大人たちの誰かが連れてきた子なのかもしれない。
そこから視線を少し移動させると、その子の後ろの方でやけにはらはらした様子でこちらを見ている子供たちがいた。こちらは間違いなく孤児院の子らだろう。
「おにいさんもお城の人?」
「そうだよ」
王様? と聞かれなかったのは自分の服装がそれなりに良い物であっても、あからさまに王様ですというものではないからだろう。
正直な話アシュクロフトから見れば、側近の方が余程堂々とした立ち居振る舞いをしているし、普段国の権力者の顔なんぞ見る機会もない子たちからすれば、あちらの方がきっと王様にでも見えているのかもしれない。
「あのね、大人の人の話難しすぎてわかんないの。でも聞いたら子供が首突っ込むんじゃないって怒られるの。じゃあなんで子供の前でそんな話するの?」
ぷぅ、と少しばかり頬を膨らませて言う少女は、アシュクロフトの目にはとても微笑ましく見えた。
大人ぶりたいお年頃なんだろうなぁ、と思うとつい微笑ましさに笑ってしまいそうになるけれど、しかしそれをきっと目の前の少女は良しとしないだろうなとも思ったのでアシュクロフトは下がりそうになった目尻を何とか瞬きする事で誤魔化す。
「大人にも色々あるからねぇ……その気になれば子供のいない所でお話しする事もできるけど、その間大人がいないところで君たちに何かあったら大変だろう? それに毎回大人同士のお話のたびに大人の姿が見えなくなったら、大人は自分たちに隠れて何をしているのか、って探ろうとする子だって出てくるんじゃないかな」
そう返せば、少女は「確かに……」と納得してしまった。存外素直である。
「注意だけで済めばいいけど、話の内容次第では本気の拳骨を落とされる事だってあるかもしれないからあまりお勧めはしないかな」
「……一応、伝えておくわ」
自分たちに隠れて大人たちだけ何かいいことをしているに違いない! とか言い出さないだけ本当に素直だなぁ……なんて思いながらも、アシュクロフトはそうしておいてと軽く頷いた。
「じゃあ、あの話はどういう事? なんか大人は増税がどうだとか言ってるけど」
「あぁ、あれかぁ……」
まさにそれが今側近が周囲に説明している内容である。
確かにちょっと増税案が出ているのは事実だ。
とはいえ、別に王家が贅沢するためにだとかそんな理由ではない。そもそもそんな理由での増税をアシュクロフトの母ならともかく、ルミナスがするはずがないので。
「街の外に橋を作ろうって話が出てるのは聞いた事ある?」
「うーん、何か前にトムおじさんが言ってたような……」
誰だろうトムおじさん、とは思ってもそこは受け流す事にする。
「その橋を作るのにかかる費用を皆で集めようねっていうのが今回の増税のお話」
「橋? なんで? 別に今までなくても問題なかったなら、なくてもよくない?」
税金がかかるとその分生活費が圧迫されて~なんて周囲の大人たちの嘆きを少女は何度か耳にしていた。
このままだと、自分がもらえるお小遣いも減らされるかもしれないなんて言われて、それもあって少女は他人事として聞き流せなかったのだ。
そうだなぁ、と少女が話しかけた大人は少し考えた後、懐から手帳を取り出した。
そうして何も書かれていないページを開いて、そこにざっくりと書き込まれた図を覗き込む。
「ここが王都で、橋を作ろうって言ってるのはここ」
「うん」
「どうして橋を作ろうって話が出てきたのかっていうと、輸送ルートが大幅に短縮できるようになるから」
「輸送ルート」
言われた言葉をそのまま繰り返す少女に、アシュクロフトは少しだけ口の端を上げて微笑む。
「今まではこっちの道を通って王都に食料だとかが入ってきてたんだけど」
「うん」
「橋を作ってここを通れば、王都に食料が届くのに届ける先にもよるけど、大体三日から五日の短縮が見込めるんだ」
「三日から五日」
「そう。そうすると、前よりも新鮮な食べ物が届くようになる」
「新鮮な食べ物」
「それに、こっちの道の方が王都以外の町や村にも近いから、警備もしやすくなる」
「警備?」
「そう。こっちの道はね、大分迂回――ぐるって回り込むようにして通るだろう?」
「うん、そうね」
「荷を運ぶ馬車を操縦する人だとか飲まず食わずってわけにもいかないから、途中でその人たちが食べるご飯や水も運ぶんだけど、日数が短縮されるとその分余計な荷物も減らせるし、その分売りに出せる商品を前より多く運べるようになる」
「そうすると、前より多く届くから、すぐに売り切れる商品もこれからはもうちょっと手に入りやすくなる?」
「それもあるよ。あとは……あまり人の目の届かないこっちのルートはね、時々盗賊だとかが出るから危ないんだ。騎士団が定期的に見回りに出ても、そういう時は悪い人たちは隠れちゃうからね。かといってずっとそこに見張りを置いておくわけにもいかない。お家に帰れないのは困るだろう?」
「そうね……王都の入り口の見張り番してるサムのお父さんはちゃんと帰ってきてるけど、でもそんなところをずっと見張って帰ってこれなくなったら、サムもお母さんも寂しくて泣いちゃうかもしれないわ」
「でもこっちの橋を作ろうって言われてるところは騎士団もよく巡回するルートだから、何かあった時に手助けがしやすいのもある」
「困った時に誰かに助けてもらおうとしても誰もいないより、助けてもらえるかもしれない、っていう望みがあるってことね」
「そうだね」
「……でも、じゃあなんで今更なの?
だってここに橋を作っておいた方がいいなら、もっとずっと昔に作ればよかったじゃない。どうして今なの?」
少女の疑問はある意味当然のものだった。
やるならもっと早くにやっとけよ、とか、できるなら最初からやれ、となるのはある意味で当然の流れだ。
アシュクロフトは手帳の隣のページに、新たな図形を書き足した。
「昔はね、確かに橋があったんだけど、壊れちゃったんだ」
「壊れて、そのままだったの?」
「というか……橋がある時点でここに川があるのはわかるね?
昔はここの川、大雨が降るたびに氾濫してたんだ」
「はんらん?」
「たくさんの水があふれて、結果として橋が壊れちゃったみたいだよ。とはいえ、私が産まれる前の話だったから、本当に随分昔の話だけど」
「へぇ……え、でもじゃあ今は」
「それがね、この川の源流……こっちの山の方から流れてるんだけど、どうやら途中で流れが分かれたらしくて。こっちの湖に繋がったみたいなんだよね」
「うん……ん?」
「だから前みたいにここの川は大雨のたびに溢れるって事がなくなって、今なら問題ないだろうって色々と研究した学者さんのお墨付き。
それに昔の橋よりも今ならもっと頑丈なのが作れるだろうからね。それがあるからこその今なんだよ」
「ほほう」
「だから今、橋を作ろうって事になったんだ」
「なるほどね……わかった気がする」
大きく頷いた少女はよくわかった、とは言わなかった。あくまでも気がするだけという部分で、やはり自分は説明は得意な方ではないからなぁ、とアシュクロフトは内心で苦笑する。
「あのね」
「なんだい」
「その書いたやつ、もらえないかしら?」
「これを?」
「えぇ、今そのお話を聞いて、わたしはわかったと思うの。でも、他の子たちに上手に説明しろって言われたら、きっとできないわ。おにいさんみたいにわたしが地面や紙にそうやって書いて説明しようとしても、そこまで上手にかけないもの」
両手を組み合わせてもじもじさせつつ「ダメ?」なんて聞かれてしまえば、駄目とは言えなかった。
アシュクロフトはその場で手帳にたった今書いたページのインクが乾いて手につかない事を確認してから、丁寧にページから破り取る。
「どうぞ」
「ありがと」
てっきり少女はこれでこの場から立ち去るのかとも思ったが、しかし動く様子はない。
まぁ、見ればまだ大人たちの話は続いているようだし、もしあの中に少女の親がいるのなら勝手にどこかに行くわけにもいかないのだろう。
大人たちの話が終わらないならば……とばかりに少女は他にもあれこれ尋ねてきた。
恐らくは今まで大人に聞いてもきちんと答えてくれなかったものなのだろう。
貴族や王家に関しての質問は、それでなくても一つ間違えれば不敬とされかねない。
けれどそんな事までわからないうちは、その質問の何が悪いのかというものですらわからないのだろう。
少女はどうやら商家の子であったらしい。
この孤児院にはよく手伝いにくるのだとか。そうして後ろではらはらこちらを見ている子たちとお友達になったのだとか。
どうして王様や貴族の人たちは毎日贅沢してるのに、孤児院にはちょっとしか援助してくれないのはなんで? なんて質問が出た時は、アシュクロフトも思わず苦笑してしまった。
まぁ、金があるなら出せよという気持ちになるのだろう。特に親に養われていて、生活に困っていない家の子であれば猶更。
アシュクロフトはそれに対して、貴族や王族はお仕事をしているからね、とまず最初にそう告げて、孤児院にあればあるだけ援助したら、確かにこういったところで飢える子は減るだろうけれど、それと同時に何もしていなくても裕福な生活ができる場所と思われたら、貧乏な家の子たちはこぞって孤児院に捨てられかねない。
何もしなくても裕福な暮らしができるとなれば、経済的に厳しい家の子を仕方なく預ける親も出るだろうけれど、それ以上に子を産むだけ産んで育てるつもりのない相手が捨てていく可能性も高くなるのだ、と相手がまだ幼い少女なのでできる限りマイルドに伝える。
それに、働いている家の子よりも何もしていない子の方が裕福な暮らしをしているとなれば、孤児院の子に恨みの矛先が向かないとも限らない。
「孤児院はあくまでも一時的な仮宿でなければならないんだ。いつか巣立つ日が決まっている場所。成長した子が大人になって、孤児院に関わる仕事をするのはいいけれど、いつまでも子供気分のままいていい場所じゃない」
想像してみてほしい。
そう言えば、少女はじっとアシュクロフトの言葉を待った。
「例えば、君のお父さんがもうきちんとした生活をさせてあげられなくなったからといって、君を孤児院に預けたとする。そこは何もしなくても美味しいご飯も出るし、何をするにも困る事がない場所で、今まで以上にいい暮らしができたとする」
「……それは、寂しいわ。家族と離れたくないもの」
「孤児院にいる子たちのほとんどは親を病気や事故、事件に巻き込まれたりしてなくした子たちだから、会いたくても会えない事の方が多いよね」
「えぇ」
中には邪魔だから捨てた、という親もいるだろうけれどそれは口に出さなかった。
そうじゃない子まで、実際はどうだかわからないのだからもしかしたら自分がそうなのかもしれないと思うかもしれないのだ。下手な事は言うものではない。
「でもって、必死に働いてる親がいる子は、なんであいつらばかり贅沢な暮らしをしているんだ、なんて思ったとして。
仲良くは、できないよね」
「……そう、ね」
実際には大人の事情だとかももっとたくさんあるけれど、流石にそこまで赤裸々に語るわけにもいかない。
ともあれ孤児院は何もしなくても養ってくれる場所と思われてはならない所で、こんな所さっさと出て独り立ちしてやると思われるような場所でなければならない。
適度に世知辛い子供時代を乗り越えて、たとえのし上がる事ができなくても人並みに普通の幸せをつかむ事ができればいい方だろう。
少女も最初はどうして孤児院にもっとお金を寄付してあげないのかしら、と思っていたけれど、話を聞いていくうちに確かにそう言われてみれば……と思う部分もあった。
少女の親は商人で、確かに普通の家の子と比べれば裕福ではあった。けれども、何もしていない孤児院の子たちが自分よりいい生活をしていたら、果たしてこうして仲良くなれただろうかと思ってしまったので。
少女もいずれは両親のように商人として働いていくのだと漠然と思っていたけれど、何もしていない子たちの方が裕福な生活をしていたら、きっと働くのがばかばかしくなってしまうかもしれない。
少女にそんなつもりはなくとも、それ以外の誰かがだったら働かないで孤児院で養ってもらえばいいとずっと居座っていたとして。
子供から大人になっても働かなかったら、どんどん働く人がいなくなってしまう。
そうして大人も皆働かなくなったら、一体だれが養うためのお金を出すのだろう。
皆が皆そうなるとも限らないけれど、それでも孤児院で友達になったと思っているロイは皆で協力してやってる作業をよくさぼろうとしているし、ミンも自分が面倒だと思った事は体よく他に押し付けたりしている……というのを他の子から聞く。
きっとああいう子たちは楽を覚えさせたら大人になってもちゃんとできそうにないわ……と少女は失礼ながらもそう思ってしまったので。
他にも色々と誤魔化された部分は深く聞かない事にした。
色々と話をしているうちに、ようやく大人たちの話し合いが終わったみたいでざわめきが少し大きくなる。
「確かに夏の移送ルートの短縮は大きい」
「あぁ、折角運んでも暑さで駄目になる物結構あったからな」
どうやら橋に関しては大人たちも納得したらしい。
言われて、あぁそうか夏って暑い日は食材がダメになったりするってのもよく聞くものね……と思った。
「おにいさん、色々とありがと」
「どういたしまして」
「おにいさんきっと出世するわ」
「はは、それはどうも」
ちょっと困ったように笑うお兄さんに、しかし少女は何か変な事言ったかしら? なんて思いながらも話の輪の中にいた父親の方へ向かっていった。
もしアシュクロフトが典型的な嫌な権力者であったなら、割と最初の段階で命の危機であったのだが。
アシュクロフトはそもそも権力を振りかざすタイプではなかったし、それ以前に権力者然とした雰囲気すらなかったので。
少女の中ではべらぼうに顔の良い親切なお兄さんという認識だったのである。
そんなお兄さんがこの国の国王であったと知って驚くのは、もう少し先の話だ。
――ルミナスは側近の一人が説明しているのを聞きつつも、少し離れた場所で子供と話をしているアシュクロフトに注意を向けていた。
小声で話しているので何を言っているかは聞こえなかったけれど、それでも唇の動きから何となく把握はできる。令嬢時代に得た読唇術ではあるけれど、まさかこんな時に役立つ事になろうとは……と思いながらも内容を確認すれば、新しく作る予定の橋に関してであった。
側近が説明している内容を大分子供向けにしてある。
学生時代であったなら、きっとあんな風に説明できずにちょっとしどろもどろになっていたかもしれない。
それを思うと成長しましたわね……と母親のような気持ちになりかけてしまう。
いいえあの人は息子ではなく夫。
一応税金で橋を作ろうという話ではあるが、実のところ費用の三分の一はアシュクロフトの個人資産からも出る事になっている。なので、税金がちょっと上がるといっても国民の負担は本当にちょっとである。
下手に王族だけが私財を投じて作った場合、今はともかく将来の子孫でうっかりどうしようもないタイプの王が出た場合、その橋の所有権を完全に独占してしまう事もあり得るのだ。
そうすると折角便利だった道は王侯貴族専用みたいになった挙句民の生活に様々な影響が出て、最悪国が荒れる可能性もある。
橋一つで……と思われそうだが、歴史を紐解けば国が滅ぶ時の原因など案外どうしようもなくしょっぱかったりするので、民も橋を作るためのお金を支払っていますよという名目は一応作っておいて損はない。
折角便利になった生活が以前のように不便なものに逆戻り、なんて遠い先の話であったとして、自分に関係なくとも子や孫に影響が出るかもしれないとなれば他人事でもいられない。
そこら辺のあれこれを説明している側近は、若干面倒な言い回しをするけれど、しかし同時に人の心に訴えるのが上手いのもあって最初は渋い顔をしていた大人たちも今では割と納得の方向に傾いている。
側近やってなかったら、というか家から放逐されてたら詐欺師にでもなってそう。
とはこの側近の嫁のセリフである。この手の人間は野放しにするとろくな事にならないから、しっかり手綱を握っておいてくださいね、と学園時代からの友人でありこの側近の嫁になった彼女はそう言いながら笑っていた。いやそこは嫁が握るものでは、という側近の言葉は軽く流されたらしい。かなり早い段階で尻に敷かれている。
ともあれ、この一歩間違ったら詐欺師になってたかもしれない無駄に弁の立つ男の話もほぼ終わり、思っていた以上に反発もないまま和やかにこの場は終わりを迎えた。
本日の視察はここで最後なので、あとは城へ戻るだけだ。
だからこそ、ルミナスは孤児院から出て。
「死ねクソ権力者ァァァアアアアアア!!」
直後の事だ。
刃物を持って襲い掛かってきた男が突っ込んできたのは。
「ルミナス!」
そして次に聞こえたのは、自分の夫であるアシュクロフトの声。それから、軽い衝撃。
「アッシュ!?」
何が起きたのか理解が追い付かなかった。権力者に反発する者が一定数いるのはわかっていた。
だからこそ護衛と共に建物を出て、決して一人離れた場所にいたとかではない。
そもそも賊が襲うとしても、こんな周囲に人がまだそれなりにいて、建物を出た直後に襲ってくるとは思っていなかった。
襲うのであれば、例えば馬車に乗る直前――馬を驚かせば最悪馬車が使い物にならなくなるし、どうにか馬車に乗って逃げても馬が落ち着くまでは油断できない。普通に移動するならともかく、馬が興奮しおかしな移動の仕方をすれば馬も危険だし、最悪馬車が横転だとか、脱輪して使い物にならなくなる。
そうでなくとも、襲撃されると想定してもそれは今ここでとは思わなかったのだ。
ルミナスが刺されるという事態は防げた。
とはいえ、自分を庇って咄嗟に前に躍り出たアシュクロフトが無事には到底思えなかった。
護衛も一切動かなかったわけではないが、ルミナスを庇うのは僅かにアシュクロフトの方が早かったのである。思わぬ瞬発力に愛の力……なんて思いながらも護衛の騎士は襲い掛かってきた男を取り押さえる。
剣でばっさり斬ってもよいのだが、もし他に仲間がいるのであれば情報を引き出さねばならない。どんな手段を使おうとも。
複数で襲い掛かって来たのなら一人二人は見せしめに仕留めても良かったのだが、少なくとも現状襲ってきたのはたった一人であった。
「くそっ、離せ!」
などと男は身をひねってどうにか拘束から逃れようとしているが、護衛騎士の力が緩む事は一切ない。
襲撃してきた男と護衛騎士の力の差は、どう見ても歴然としていた。
「アッシュ、アッシュ大丈夫ですか!?」
まさか自分を庇ってなど、本当にするとは思わなかったルミナスは自分の前に立つ男に慌てて声をかけた。見れば男が持っていたナイフは、アッシュの身体に突き刺さったままだ。
抜かなければ、と思ったがしかし同時に抜いた時点で血が溢れて出血死という言葉も思い出し、思わず抜こうとして伸ばしていた手をひっこめる。
怪我をした時の応急処置のやりかたは教わったけれど、しかしナイフが突き刺さったままの状態でどうするべきなのかまではルミナスも教わっていなかった。教えられたのは、止血のやり方だとか――まぁ、切られた後だとかの場合である。
「ちくしょう……! 上のクソみてぇな奴を殺しゃぁちっとはマシになるかと思ったのに……!!」
男の怨嗟の声に、自分の前にいるアシュクロフトがどういった表情をしているのかルミナスには当然見えるはずもない。けれど、雰囲気で怒っているだとか、そういう感じでもないのは確かだった。
「お前が今刺した人物だが」
アシュクロフトのやけに落ち着いた声。
え、ちょっとアッシュ? 貴方今ナイフ突き刺さってるんですのよね? どうしてそこまで落ち着いているのです? いえ、慌てふためいてこの場で転がり藻掻けというわけではないのですけれど。
そんな風に思いながらもルミナスは自分の夫となった男が何を言い出すのか、思わず耳を傾けてしまっていた。
「は、なんだよ、護衛か。もしくは影武者様か?」
男が嘲るような声とともに、自分の視線の遥か上にあるだろうアシュクロフトを見上げようとしている。
「いや、正真正銘この国の王だ」
「…………は?」
「事実だ」
折角の襲撃が阻止されて、一撃かました相手はどうせ数多くいる騎士の一人だとか、はたまたお偉いさんの影武者あたりだろうと思っていたのだが。
アシュクロフトの言葉に男の脳みそは思わず理解を拒んでいた。しかし直後に自分を取り押さえている騎士の淡々とした声で現実に引き戻される。
国王。
この国の最高権力者といってもいい存在。
自分が本来狙うべき相手。
襲撃は成功した。
したはずだ。
それなのに、なんだこの空気……
痛みにのたうち回って無様に命乞いをするような事でもされていたなら、きっと男の心はもっとスカッとしていたに違いないのだ。ずっとそういう光景を想像してきたのだから。
下の連中になど見向きもせずに圧倒的上からの立場で、そんな存在を無かったことにしているような相手に追い詰められるような状況など想定すらしていないだろう相手が、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにさせてみっともなく命だけは助けてくれと乞うのだ。
そうなるはずだったのに。
そうなるべきはずだったのに。
何故この自称国王は平然としているのか。
いや、今はまだナイフが刺さった状態だからか。抜けば血が一気に溢れ、こんな平然とはしていられなくなるだろう。心臓を一突きできれば良かったが、しかし元々狙おうとしていた女を庇うように入れ替わったせいでこちらの狙いもずれてしまったため、ナイフは男の脇腹近くに刺さっている。
「お前は先程権力者を狙ったと宣言したも同然な事を叫びながら襲い掛かってきた。そして今、お前が手にしていた武器はこの国の王に刺さっている。
ある意味で、襲撃は成功したな。
今どんな気持ちだ?
これでこの国がもっと良くなる、とでも思っているなら先に言っておこう。
私が死んだところでこの国は何も変わらない」
あまりにも淡々としたセリフに、男は首を伸ばして上を見る。
逆光になってアシュクロフトの表情はよくわからないが、下々の存在に傷つけられた事に対する怒りだとか憎しみは感じ取れなかった。
ただ、あまりにも平然と今日はいい天気だなと言うくらいの、さらっとした言葉。
なんでだ、と男は無意識のうちにそう呟いていた。
「何故ってそんなの、私が死んだところで次のかわりが王になるだけだからな。王だけ挿げ替えたとしても、この国の政治をやっているのは王だけではない。人間だって指一本切り落とされたくらいじゃどうにかなったりしないだろう」
切り落とされる指次第では生活に大いに支障が出るが、別にそれで死ぬわけでもない。
王一人殺しただけで崩壊するような国であるというのなら、それはもう王がいてもとうに崩壊したも同然な国である。王が死んだ時点で最後の一押しをされたに過ぎない。そういった国であれば遅かれ早かれ滅亡していた事だろう。
アシュクロフト的には自分が死んでも代わりはいるもの、という意味で言っただけで別に何か重たい感じを出したわけではないのだが、男はそう受け取らなかった。
国を変えたいのであれば、今この国の政に関わっている者すべてをどうにかしなければ変えられないのだと。
たった一人でそれを成し得る事が果たしてお前にできるのかと。
そう、問われた気がした。
王一人仕留めた程度で満足するようでは、到底求める終着点に辿り着くなど無理だと言われた気がした。
なんでだよ、普通王様殺しゃあそれで勝ちだろ、と男は思ったがその言葉は口に出せなかった。
だって今、確かに自分は王を刺したのに、これっぽっちも勝ったと思えないのだ。
「……お前は、何をするべくして行動に出た?
自分が王になるためか? それとも誰かにそうするように言われたか」
すっかり戦意も消失した男にアシュクロフトはなんとなく問いかけていた。
犯行動機をここで明らかにしてくれれば、周囲で目撃している者たちにもそれらが耳に入るだろうしそうなれば下手な憶測だとかでありもしない噂が流れたりしないんじゃないかなぁ……という気持ちもあった。
流石にこの場で尋問するわけにもいかないだろうし、ここで話してくれない場合は然るべき場所へ連れていかれてそっちで尋問されるので、この場にいる者たちに今後詳細が明かされるかは不明。
そうなると人というのは面白おかしく捏造した噂なんてものまで作り出す。娯楽の一種のつもりだとしても、場合によってはあまりにも性質の悪い話は罰せられる事もあるのでできればやらないでほしいんだけどなー……とこれまたアシュクロフトはこの場に似つかわしくないのほほんとした思考で考えていた。
緊迫感とかは周囲がやってるから自分くらいはまぁいいだろう。とかどう考えてもそういう問題ではないが、本人的にはそんな感じである。
ナイフが刺さっているにも関わらず未だ堂々とした佇まいのアシュクロフトに、襲撃者である男はすっかり観念したのかぽつりぽつりと語りだした。
結果として。
税金横領している貴族が発覚し、そのせいでこの男は犯行に及んだことが判明。
彼らが必死に働いて収めた金がその悪徳貴族の贅沢に使われてこちらの生活はどんどん困窮していく一方。
挙句その貴族はさも自分もどうにかしているのだが……なんてお互い様のような雰囲気を出して、黒幕は王家にあり、みたいな言い回しをしたらしい。
だからこそ、そんな腐敗した王家であるならば倒すしかない、と覚悟を決めたのだとか。
……いや実際上に文句を募らせるまではよくある話だけど、そこで即座に行動に出るっていうのはなんというか……やろうと思ってもそう簡単にできる事ではない。
というか、最近すっかりその手の悪事に手を染める貴族は側近たちがほとんど駆逐してしまったというのに、なんとまだ生き残っていたとは……と逆にこちらが驚いてしまったほどだ。
ただ、アシュクロフトがちらりと側近や護衛騎士に目を向けると、彼らはとても大真面目な顔をしていたが、そこそこの付き合いになったアシュクロフトでも彼らが何を思ったかは理解できた。
「えーっ、まだネズミちゃんいたんだぁ。じゃあこれから追い詰めて遊べるねっ♪」
こんな可愛らしい感じで思っちゃいないだろうが、まぁ方向性はこれで合ってる。
その貴族終わったな……とアシュクロフトは心の中で黙祷を捧げた。
唆した相手の行動力が通常の比ではない程有り余っていたせいで、これから地獄が待っているのだから。
とりあえず、その貴族については今すぐ夜逃げでもしないと助からないだろうけれど、多分今現在こんなことになってるとは夢にも思っていないだろう。多分屋敷でいつものように贅沢な暮らしをして次にどう領民たちから税を搾り取ってやろうかと画策しているに違いない。
そういう意味で一番の悪はそいつという認識ではあるけれど、だからといって男がアシュクロフトを襲った事実は無かったことにはできない。
大人しく引っ立てられていったけれど、余計な抵抗もなくむしろアシュクロフトにすまなかったと謝っていったので、一応情状酌量の余地あり、とだけは側近に伝えておいた。被害者であるアシュクロフトがそう言っているのだから、流石に裁判も何もなしに極刑にはしないだろうと信じたい。
「アッシュ! 貴方なんでそんな平然として……怪我は!? 無理してませんか!?」
淡々と事を進めてしまったアシュクロフトに割って入るタイミングを完全に失ったルミナスは、事が一段落してそこでようやく怪我の状況を確認しようとした。
今すぐ医師を……いえ、こちらから直接赴いた方が……
などという考えが透けて見えるが、アシュクロフトは大丈夫、とけろっとしたまま頷いてみせた。
「大丈夫ってそんな」
「実は刺さっていない」
「嘘でしょう!? そんな深々と根本まで刺さってるくせに!」
「いや、でも、刺さったのは別の物で」
「物? 何か入れてあるのですか?」
「いやうん、えぇと……その、ちょっと暇になった時に手ずから作った女神像を」
「アッシュ? ちょっとそれ確認させてもらえるかしら?」
「えっ? いやでももうナイフ刺さって駄目になってるだろうし」
「いいから出しなさい」
「……はい」
そのまま服の中に隠すようにしてあった女神像を取り出そうにもナイフが刺さっていて邪魔だった事もあって、アシュクロフトはまずナイフを無造作に引っこ抜いた。
万が一自身に刺さっていたならばそれは間違いなく死にかねない行為に他ならないが、本当にアシュクロフト自身には刺さっていなかったらしく刃には一滴の血もついていなかった。
そうして次に出された女神像を見て、ルミナスはほっとした表情を浮かべたのも束の間――
「なんですかこれ! アッシュ! 前にも言ったでしょう!? わたくしを女神として祭り上げるのは禁止だって! めっ! やっちゃダメって言ったのにどうしてやったの!?」
ギャンッ! という効果音でもつきそうな勢いで叱りだす。
学園に通っていた時に、ルミナスを女神と称して信仰するのはやめると約束したはずなのに今しがたアシュクロフトの服から出てきたのは明らかにルミナスに似た感じの女神像である。木彫りであったが故にナイフが突き刺さり今は無残な代物になってしまったけれど。だが刺さったのは胴体部分で顔の部分は判別できる程度に原形をとどめているので、言い逃れをするのは難しかった。
「ル、ルミナスを女神として信仰する事はしていない……これは普通にこの世界の創造主たる女神を模した普通の女神像だ」
「いやすっげールミナス様じゃないですかこれ」
側近がひょいと覗き込んできて軽率にアシュクロフトを追い詰めるような発言をする。
出来良すぎだろこれ、なんて言ってるし割といつものノリなので今更不敬だぞ! とか言う事にもなりやしなかった。
「この世界の創造主たる女神だぞ、生半可な美しさのはずがない……最上の美を誇るはずだ。だが生憎自分の腕ではその女神の美しさを表せるだけの実力がなくて……そもそも世界一美しいとなるとどうしてもルミナスに似たものになってしまう……だが信じてほしい。これは決してルミナスではないんだ。
ただ、ルミナスに似てしまった女神像なんだ」
対するアシュクロフトも必死に弁明した。
弁明というか、まだ周囲に人がそれなりにいる中で、世界で一番美しいのはルミナスだよ、と宣言したも同然だが。
「う、うぅ……だったら不問にします。納得いきませんけれど! でも、貴方が無事だったので許しますわ」
「てかこれ木彫りですよね。え、陛下これマジで自分で?」
「あぁうん、彫刻は慣れなくて中々思い通りにできないけれど、最近どうにか形になってきてね。暇をみつけてコツコツ完成させていこうと思って持ち歩いていた結果、命を助けられてしまったな……これも女神の加護……!」
「女神って言いながらこっち見てたらさっきの説明苦し紛れの言い訳とみなしますけど。というか、いくらなんでも国王が身体張って盾になってどうするんですか!?」
「愛する女性に害が及ぶとなったらいてもたってもいられなかった。君のいない世界とか耐えられなくて……」
「貴方に何かあったらわたくしが悲しむとは思いませんの!?」
「それは……いや、その、すまなかった」
「次やったら三日は口きいてあげませんからね。お仕事に関する話も全部側近通じて連絡します。というか姿も見せません」
「それは困る! そんな、そんな事になったら……自室に飾っている肖像画に向かって延々と話しかけてしまいそうだから勘弁してほしい」
「自室に飾って……?」
「あ」
「ん? アッシュ? もうちょっと詳しいお話よろしくて? 自室の肖像画ってなんですの?」
夫婦として過ごす部屋とは別に個人の部屋もあるけれど、ルミナスはアッシュの私室に足を運んだことは何度もある。けれども、肖像画というものは見た覚えがない。
知らぬ間に画家でも呼んでこっそり自分の肖像画でも描かせていたのだろうか、と思ったが、そもそもそんな人物が城にやって来たならば間違いなくどこかから情報はルミナスの耳に入るはずである。けれどもそんな話は知らなかった。
「あ、陛下が前に描いてたやつっすね。完成してたんですか。え、ちょっと隠さないで見せて下さいよそれ」
「知ってたの?」
側近がまたもやアシュクロフトを軽率に追い詰めるような発言をするも、ルミナスにとってはナイスアシストであるので咎められる事もない。
「描きかけだった時にちらっと。あの時点でそうとううまかったから、完成したらちゃんと見たいなとは思ってたんですよね。ただ、陛下もそれなりに忙しい身なので完成までにはもう少しかかるんだろうなとも思ってたんですけれど」
「や、いやぁ……素人の描いたやつだからね、人前に出すものじゃないよ」
「見たいです」
「いやでも」
「アッシュ、駄目?」
「だ、めじゃない……デス」
「ヒュ~、さっすがルミナス様、自分が愛されて断られないってわかってて上目遣いで逃げ道塞ぐとか、容赦なくてサイコー」
「こうしてはいられませんわ。ナイフが刺さってなかったとはいっても襲われた事にかわりはありませんし、一応念の為診てもらいましょうね。そのついでにわたくしが貴方の私室に足を踏み入れるのは、その場の流れというものです」
「……その、所詮は素人の描いたやつだから、出来については」
「下手なら可愛い方です。本人すら誰? って言いたくなるくらい美化されてたらまぁ、何かしら言うとは思いますけれど」
さ、帰りますわよ。なんて何事もなかったみたいに言って、ルミナスはしっかりとアシュクロフトの逃げ道を奪うように腕をとって、馬車の中に乗り込んだのである。
孤児院周辺にまだ残っていた大人たちや、子供たちはその姿を見送って……
国王夫妻っていうからもっとこう、威厳に満ちた何かを想像してたけどあれただの新婚夫婦じゃないかい?
なんて。誰かが言い出したのを皮切りに。
熱烈な告白してたわね、なんて盛り上がるおば様方が早速事の次第を吹聴し始めたのである。多分明日には王都全体に広まっててもおかしくない速度でその噂は駆け抜けていった。
お貴族様や王族の方たちって、政略結婚とかで愛のない結びつきとか常識みたいなものだと思ってたんだけど……あの方たちはそんなんじゃなかったんだなぁ……なんて、貴族の生活なんてほとんど知らないふわっと知識しか持っていなかった人たちも、周囲に人がいるにも関わらずあんな風なやりとりをしているのを見て、案外王様たちもちゃんとした人だったんだなぁ……と、何故だか良い方向に認識したのであった。
まさかそんな風ににこにこほわほわした気持ちを向けられているなど、勿論当事者たちは知る由もないのだけれど。
――こうして一つの事件はそこまで大きな物になる事もなく解決した。
調べによって判明したのは、あの襲撃犯を凶行に及ばせた原因の貴族はアシュクロフトの母である先王側妃ゲルダと繋がりがあったという事だった。
とはいえ、そこまでしっかりがっちりと繋がっていたわけではない。
ゲルダは身分こそ貴族であったが低位であり、人より優れていたのは若い時の美貌くらいなものである。
けれども、味方を作るのが下手くそだったわけでもない。
いつか、アシュクロフトが王になった時に追いやられていたゲルダもまた返り咲き、そうなればその時には貴方にも見返りを、なんていうとても先の見えない話であったが、それでもその貴族はゲルダの手を取った。
とはいえ、あまりにも堂々と動けば間違いなくアシュクロフトが即位する前に側近たちによって行われた社会の膿を取り除くという暇潰しで一緒に排除されていただろう。
いうなれば、特に期待はしていないがそれでもいざという時に吸える甘い蜜は多い方がいい、という程度だった。
とはいえ、ゲルダはアシュクロフトが王位につく時点で先王とともにド田舎に隔離される事となったので、甘い蜜も何もという話になってしまったのだが。
あまり期待していなかったとはいえど、それでもゲルダにかけた金額はそれなりにあったらしく、その補填とするべく領地の税を不自然に思われないようにじわじわと上げていき、民に辛酸を舐めさせていた事で、今回の事件に繋がった――というのが真相だろうか。
ルミナスはアシュクロフトのせいではないと言っていたが、しかしアシュクロフトはそう思えなかった。
父でもある先王は、確かに女性で失敗した。けれどもその後は、一応国王としての責務は果たしていたのだ。王妃の助けがかなり大きくとも。
だから、アシュクロフトが王となる時にわざわざ王国の僻地とも言えるような所まで追いやる必要はなかったのではないか、とも思ってしまうわけで。
今までのようにゲルダを城の一画に閉じ込めたままであれば、あの貴族も事に及ばなかったのではないか……そうアシュクロフトはどうしても思ってしまうのだ。
とはいえ、閉じ込められたままであってもあの母には何故だかそれなりに信者のような存在がいた。あのままにしておいたら、いずれ厄介な事になる――そう思って先王と共に追いやった判断も、間違っているとは思えなかった。
とはいえ、先王は既に側妃であるゲルダへの愛などとうに薄れていたのもあって、勿論快諾するなんて事はなかった。先王と王妃の子であるシャムロックの方が王に相応しいと考えていた先王は、アシュクロフトが王位に就く際「これは王家の簒奪ではないのか!?」などとのたまっていたようだが、王妃に「いよいよボケましたか?」などと一蹴されていた。
アシュクロフトを王に、というのは確かに不安な部分もあったけれど、だからこそ王妃としてルミナスを選んだのだ。
そしてアシュクロフトは紛れもなく先王の子である。
既に愛していない女の産んだ子であろうとも。
王家の血筋であるのだから、王家の簒奪であるはずがない。
けれども、それくらいに動揺していたのだろう。
いつの日にかやり直せればいいと思っていた王妃と離れ、その逆に離れたいと思っていた相手とこれから先も暮らす事になるのだ。それらを回避しようにも、先王の足掻きなど王妃にとってはあっさりと封じ込めるものでしかなかった。
何の娯楽もないような僻地へ行かされると知ったゲルダの抵抗もまた酷いものではあった。
アシュクロフトに必死に助けを求めていたが、元々アシュクロフトはそんな母親を助けるつもりはなかったのだ。
幼い頃から周囲の大人たちによって聞かされていた言葉。確かにゲルダは美貌だけはある。けれど、味方は確かにいたけれどそれはどちらかといえば、彼女に傅きちやほやとするくらいしかできない相手ばかりで、権力で現状をどうにかしてくれるような相手までは手玉に取れていなかった。
そもそも、ゲルダの捕まえた最高権力者はたった一人、彼女の夫となった相手だ。
しかしその夫が退位するとなれば今までのような権力は使えなくなる。全くなくなるわけではないけれど、それでも今までのようにいかないのは確かだ。
そしてその夫は、気付けば自分の事を疎ましく思うようになっていた。
そんな相手と、これから先も共にいる? 冗談ではない。
だからこそ、ゲルダはアシュクロフトへ助けを求めたのだ。
だが、ゲルダをここに残せば彼女は自分に都合の良いように思いこみ、今までの鬱憤を晴らすかのように贅沢へと興じるだろう。それが自らの私財でできる範囲であればよいが、間違いなくこの女は民から集めた税金にも手を付ける。それがわかりきっているのに、ここに残すなどあるはずもない。
優秀な王になれずとも、民を裏切らない王にはなれる。
優秀な王などいなくとも、王妃が優秀なのだ。今更、政に関わる事もなかった側妃が表舞台に立てるような事などあるはずがない。
自らを助けてくれないと悟ったゲルダは、一転してアシュクロフトを罵った。
親不孝者! 産んだ恩を忘れて! 母に尽くそうという気はないのか!? お前など、お前など産むのではなかった!!
衛兵に引きずられていく中でも最後まで、ゲルダは罵り続けていた。
アシュクロフトはそれをただ黙って聞いていただけだった。
この時、ルミナスはてっきりアシュクロフトも傷ついたのではないかと思っていたのだが。
本人に話をしたところで、何ともないよなんて強がりを言わせるだけかもしれないとなれば話す先は限られている。
即ち、先代王妃となったシャムロックの母であるミレーヌと、その息子シャムロックである。
「いえ、兄上はこれっぽっちも傷ついていないと思いますよ」
ルミナスの話を聞いたシャムロックの結論は、即答だった。ミレーヌもそうねと頷いている。
「ですが、あんなでも実の母ですよ……?」
「とはいえ、幼い頃に余計な事を吹き込もうとしていたのもあったので、早々に引き離しましたもの。母親、という事実を認識していても、それだけでしょうね」
「ですよねぇ……だってあの人、自分と同じように兄上には好きな相手と運命的な出会いをしてくっついてほしいみたいな願望ありましたし」
「でもその願望、間違いなく相手はゲルダが選んだ相手であって、アシュクロフト本人の意思は反映されなかったでしょうね」
「子供は家のための駒、と言ってはなんですが、それに反発するような事をしておきながら誰よりもそう思っていたのはあの人ですし。自分のためなら我が子であっても利用し尽くすタイプでしたっけ?」
「えぇ、まぁそうなれば間違いなくアシュクロフトが王位に就く事などなかったでしょうけれど」
流れるようにポンポン言葉が飛び出てきて、ルミナスは思わず何度か目を瞬いてしまった。
「それにね、義姉様、兄上は婚約が決まったほとんど最初の頃から貴方の事を慕っていました」
「えっ」
前にも聞いた気がしたけれど、今になってまたその話をされてルミナスはほんの少しだけ戸惑う。
「兄上は間違いなく自分が好きになった相手を選んでるんですよ。政略ですけど」
「えぇ、自分の好きな相手と添い遂げる事が決まって浮かれていたわ。とはいえ、お勉強とかでいっぱいいっぱいでそれを表に出せる余裕はなかったようですが」
「でもそれ以外の時はいかに義姉様が素敵な方か、それはもうたっぷりと聞かされてきましたからね。せめて少しでも釣り合えるように、と日々努力を重ねていった結果最終的に信仰になったのは理解に苦しみますけど」
「一種のストレスからくる逃避行動だったのかしらねぇ……」
「ともあれ、自分の好きな相手なので兄上は満足してたわけです。そこで胡坐をかいていたら捨てられるのもわかっていました。
納得していなかったのはゲルダです。だって身分だとかを見れば、当時の母上みたいなものですから」
それはまぁ確かに、とルミナスも思った。
だから少しだけ、学生時代、あの学園で元平民だった男爵令嬢が夢見がちにもアシュクロフトと結ばれるつもりであれこれ頑張っていた時、もしかしたら……と思ってしまった事もある。ふたを開けてみればこれっぽっちも靡いていなかったけれど。それどころか直後に女神信仰の女神が自分であるとか言われて理解が追い付かなかったのだけれど。
「だからゲルダは時折アシュクロフトと話ができる時、貴方の事かなり悪く言っていたみたいでね……」
「まぁ、それはそれは」
ゲルダに嫌われていると言われてもルミナスとしてはでしょうね、としか言えなかった。間違っても好かれているとは思うはずもない。
それが原因でルミナスもちょっとだけ実はアシュクロフト様はわたくしの事やはり疎んでいるのでは……? と思うような事があったので。
まぁそこは誤解だったのだけれど。
「自分が好きで好きでどうしようもない挙句婚約者にまでなってくれた相手、愛を伝えられるなら今すぐにでも! となりかねなかった兄上に、その最愛の女性をぼろくそに貶す実母。
兄上の中での実の母親に対する心象は最悪でした。即位前に、一応父上とゲルダを田舎に追いやる話は兄上も聞かされていたんですけれど、一瞬の躊躇もなく賛成していましたから」
「知らぬは本人ばかりよね。せめて貴方の事を悪く言わずもうちょっと寄り添う姿勢を見せていたら、田舎追放作戦にちょっとくらい躊躇ったかもしれないのに」
「むしろ邪魔者がいなくなってこれで義姉様に危害を加えられる心配が一つ減ったってウキウキしていましたよ。心配は一つ減っただけで、絶対安全じゃないって部分がちょっとこう……」
シャムロックの言葉に、そこはもう手遅れですわとしか言いようがなかった。
「咄嗟とはいえ身を挺して庇われましたからね……あの時はわたくしも頭の中が真っ白になってすぐに行動に移れませんでしたもの」
「えぇ、兄上って昔から本当に変わらなくて……次もまた同じような事があったらやりますよ。間違いなく。護衛騎士にはもっとしっかり言い聞かせて二度とあんなことがないようにしないと……」
「昔から……?」
まるで前にもあったかのような言い方に思わず聞き返せば、シャムロックは困ったように眉を下げた。
聞けばシャムロックがまだ幼かった頃、それこそ物心がつくかどうか、くらいの頃の話だ。
自分に兄がいるとは聞いていた。けれども幼い頃のシャムロックはその事もあまりよくわかっていなかった。自由に会う事もできず、いると言われても見た事すらなかったのだ。
けれど、ある日会う機会が与えられた。
確かあれは、四歳になった頃だったか。
兄とは十年齢が離れているので、当時四歳だったシャムロックの目には十四歳のアシュクロフトはそれはもう立派な大人に見えた。
とはいえ、二人きりだったわけではない。
すぐ近くに護衛が控えていたし、使用人もいつもより周囲に多くいた……とは後になって思い返した時に気付いた事で当時は気付きもしていなかった。
普段よりも多い大人たちに囲まれて、兄と会ったのだ。
側妃の子と正妃の子。
まぁ確執ができていてもおかしくはない。
側妃と正妃がそもそも不仲――ゲルダが一方的に嫌っているだけなのだが。
王が退位する頃を想像するなら、王位につくのは年齢的にアシュクロフトだろうと思うけれど、それも確実ではない。もしアシュクロフトが自ら王位につくのにシャムロックが邪魔であると考えていたならば、ここで何かを仕掛ける可能性もある……と周囲の大人たちは要は警戒していたのだ。
それは当時、まだアシュクロフトの事をあまりよくわかっていなかったミレーヌも。
周囲の大人たちのそんな物騒な考えに気付かなかったシャムロックは無邪気にも兄に近づいて、きゃっきゃとはしゃいでいたけれど。足にしがみついても兄は邪険にする事もなく、よじ登っても怒らなかった。
四歳とはいえシャムロックはそれなりに賢い子だったので、前にこれを宰相にやったら軽く叱られたのを覚えていたが、それでも楽しかったのでまたやりたかったのである。
この人は怒らないかなぁ、なんて思いながら結構色々好き勝手やったのは今でも覚えている。
シャムロックの事を邪魔だと思ってこの際消してしまおうなんて考えていたら、絶好の機会が果たして何度あったのだろうか。周囲で見ていた大人たちはさぞハラハラしたに違いない。でもまだ何もしていないうちから、シャムロック様を危険な目に遭わせるなよ!? なんて言えるはずも勿論ない。
幼児の扱いに慣れていないのは周囲にそういった存在がいないから仕方のない話ではあったけれど、それでも今にして思えば、アシュクロフトはそれでもシャムロックが怪我をしないように注意してくれていたのだ。
実のところ王妃もその場に居合わせたかったのだが、流石に王妃までその場にいればアシュクロフトも何かに勘づくかもしれないと思っていなかった。だからだろう。シャムロックは幼子特有のテンション上がって調子にノリノリモードに突入したのである。
周囲の大人たちは特に何も言ってこないし、今こそが我が天下! とばかりにシャムロックはアシュクロフトを引き連れて庭園のあちこちを駆け回った。
四歳児の足と十四歳の足では歩幅が違うので、駆けるシャムロックの後をアシュクロフトはゆっくりとついていくだけだったが。
だがしかし、もう勢いづいて止まらないぜ! とばかりだったシャムロックだが、そもそも幼い子供の重心は足よりも頭にある。
成長とともに身体も大きくなるけれど、幼いうちは頭の重さを身体で安定して支えられないなんてのもあってか、油断していると簡単に転ぶ。
結果としてシャムロックは庭園の薔薇が咲き誇った一画に盛大に突っ込みかけた。
部屋の中で花瓶に活けてある薔薇は棘を抜かれたりしているけれど、庭園で咲いている薔薇の棘は普通にある。切ってからなら棘も簡単に除去できるが、咲いてる薔薇の棘を全部取るのは流石に無理があるので。
離れて見ていた大人たちが「あっ」と思った時にはもう完全に棘だらけの薔薇ゾーンに一名様ご案内状態だった。
けれども結果としてシャムロックは怪我をしなかった。
直前でアシュクロフトがシャムロックを抱えて代わりに自分が突っ込んだのだ。シャムロックはアシュクロフトに抱きしめられて、その拍子にちょっと一瞬苦しい思いをしただけで傷一つつかなかった。
代わりにアシュクロフトは沢山傷がついてしまったが。
シャムロック様に何かしないよう見張っておかねば……なんて思っていた大人たちであったけれど、この事態は想定していなかった。側妃の子ではあるけれど、アシュクロフトも間違いなく王子なのだ。
その王子が大怪我とはいかずとも、結構な数の傷をこさえている。
場は一瞬で修羅場になった。
幼いシャムロックも自分が何か危ない事になっていて、それを庇ってくれたのだ、と大分遅れてから理解した。
その頃にはアシュクロフトは怪我の手当てをと城で働く医師のところへ連れられていったし、シャムロックは控えていた護衛に連れられミレーヌの所へ戻る事となった。
そうして報告を聞いたミレーヌは、それと同時に言われたシャムロックの、
「にーさま、やさしい、すき」
という言葉でアシュクロフトへの評価を改めた。
自分だって我が子が危険な目にあったら、身を挺して守るつもりではいるけれどしかし果たして本当にその時に身体が動いてくれるかはわからない。
でも、アシュクロフトは確かに守ったのだ。
ロクに会った事もない年の離れた弟。そんなのほとんど他人である。
けれどそれでも、彼は自分が怪我をしてまでも庇ったのだ。
母親がゲルダであるという事実だけで、警戒していたのは確かだ。
幼い頃に余計な事を吹き込もうとしていたから引き離したけれど、それでも生まれ持った人間性がゲルダと変わらない可能性も捨てきれなかった。
一応面倒は見てきたけれど、シャムロックが産まれてからはそちらにかかりきりになってしまったし、もしシャムロックの事を邪魔者扱いするとなったら……という可能性は捨てきれなかった。
これがこちらの信頼を得るため、という可能性も考えたけれど、しかしあまり勉強が得意ではないアシュクロフトにそこまで考えが回るだろうかとも思う。
ともあれ、ミレーヌはシャムロックを助けてくれた礼は伝えねばなるまいと思い、手当てを終わらせ私室へ戻ったというアシュクロフトの元を訪れたのである。
シャムロックを庇った時、彼は痛いだとかの泣き言は言わなかったのだと控えていた護衛は言った。
けれど、部屋に足を運んで声をかけようとしたその時、ぐすっと鼻をすする音とともに、痛い……と明らかに泣いてるような声で呟かれたそれを耳にして。
ミレーヌは、アシュクロフトの事をあれこれ警戒していた事実にとても申し訳なくなったのである。
もし助けたあの場でそんな風に泣いていたら、つられるようにシャムロックも泣いたかもしれない。
そうなったら、余計にあの場を収めるのは大変だっただろう。
貴族である以上、それも身分が高くなればそれ相応に人の悪意に晒される事は増える。
だからこそ警戒するのは標準装備という部分もあるけれど、なんというかこの一件以降シャムロックがアシュクロフトと一緒にいたがるのでミレーヌもまたアシュクロフトの身近であれこれ教育をするようになった。シャムロックが産まれる前もたまに様子を見てはいたが、それでも側妃の子に王妃が近づけばよからぬ噂も出るのではないかと思って、教師だとかの人を派遣するにとどめていた。
けれども、この一件からあれこれ理由をつけてアシュクロフトがこちらにいても何もおかしくない、という風にしていって。
気付けば表向きは不仲を装っているけれどその実とてもアットホームな関係に仕上がってしまったのである。
そうして気付いたのだ。
アシュクロフトは周囲の悪意に晒されていても、特に何も気にしていないという事に。
とはいえ、それは有象無象が何か言ってる、とかそういう意味ではなく、自分に何かあっても優秀な代わりは沢山いるから、という理由から気にしていないという決して安心してはいけない理由であったが。
「――とはいえ、アシュクロフトが側妃のような人間性の持ち主ではなくどちらかといえば善良な人間であったのもあって、貴方との婚約を勧めたのですよ」
シャムロックの昔話は幼かった頃故に朧げな部分もたくさんあった。
それを王妃が付け加えていった結果、アシュクロフトは自分の知らない所で小さなころに泣いていた話をルミナスに暴露される形となったのである。
本当に、聞けば聞くほど勉強が苦手なだけで、それ以外の部分はむしろ貴族だとか王族に不向きなくらいでは? とも思ってしまったがそれでも自分が婚約者に選ばれた理由は納得した。
王子の婚約相手など本来はもっと早くに決まってもよさそうだったが、何分アシュクロフトは今まで優秀と言われるような部分もなく、将来王位につくのはシャムロックだと言われていたくらいだ。だからこそアシュクロフトの婚約者が中々決まらずとも、周囲の貴族は別に何も気にしちゃいなかったのだ。
いかんせん、彼の両親が若かりし頃にやらかしたあれこれのせいで彼の評判は最初から最底辺だったので。
そもそもの話ルミナスとアシュクロフトの婚約が決まったのは、二人が十四歳の頃だ。
つまりは、シャムロックとの一件があって、その後ミレーヌがアシュクロフトなら頼りになる伴侶を得れば王になっても問題なしと判断した後の事。
えっ、ここで王妃教育とかするの!? と確かに婚約を打診された時ルミナスは少しばかり驚いたけれど、まぁ王家にも何か考えがあるのでしょうとか思っていたし、学ぶ事に否やはなかったし、あとアシュクロフトの顔はルミナスには大変好みであったので。
芸術品を愛でるくらいの気持ちで王妃になろうとするなよ、と誰かから突っ込まれそうだけれど、家のための婚約に、といくつか当時話が上がっていた人物と比べればアシュクロフトの方が良かったのもあった。とても打算たっぷりだったのは仕方があるまい。
まぁ最終的に自分がアシュクロフトの顔を愛でるより、自分が何故か女神として信仰されるという事態にわけがわからなくなったりもしたのだけれど。結果オーライというやつである。
――さて、その後の話ではあるのだけれど。
勉強も得意ではないし、王族という血筋はさておき王として人の上に立つには少々……と昔から言われ、ついでにロクな特技もないのではと思われていたアシュクロフトだったのだが。
実は意外にも絵や音楽の才能はあったのである。
本人は彫刻は苦手だなんて言っていたが、それでも木彫りの女神像はかなり精巧な出来だったし、なんなら自室にこっそり自作したルミナスの肖像画はとんでもねぇ出来ばえであった。
普段は人目を避けるように布などがかけられていたので意外と気付かれなかったようだが、しかしその肖像画はまるで鏡に映った姿を閉じ込めたのではないかと思える程で。
薄暗い室内で、角度や高さなどを調整すればそこに本人がいると思われてもおかしくないくらいの完成度であった。本人としては素人の描いたやつだから……などと言っていたが、お前のような素人がいてたまるか、と一部の側近からは突っ込まれた程だ。
ルミナスも最初、布を取り払われたそれを見た時、鏡でも置いてあるのかと思って「いえ、鏡じゃなくて絵は?」と言ってしまった。よく見れば肖像画のルミナス以外の背景部分は室内とは異なる色合いだったにも関わらず。それでも普段鏡で自分の顔を見ているのと同じくらい違和感がなかったのだ。
アシュクロフトは自分の取柄なんて血筋と顔だけ、なんて前々から卑下するように言っていたがとんでもない。
これが特技でないのなら何だというのか。
その後になって、そういや楽器の演奏とかもできましたよね、なんて側近に言われてルミナスは思わず「そうなのですか?」と食いついてしまった。
淑女教育の際に一応楽器の扱いは学んだけれど、しかしアシュクロフトが楽器の扱いだとかを教わったという話はついぞ聞いた事がなかった。それ以前に当時は不出来な王子認識で、王族として必要な知識だとかをまず覚えさせねばならないために楽器だとかそういったものは後回しにされていてもおかしくはないし、何だったら覚えなくとも問題はなかったくらいだ。
アシュクロフトは実際楽器の演奏だとかを教わった事はなかった。
ただ、身近で演奏している人たちを見ていたくらいだ。
あまり複雑そうなやつは教わらないと無理かもしれないが、ピアノなら音階さえ把握すれば弾ける、と答えれば「陛下の特技ってまず普段の状態だと絶対わからないやつですよね」と側近に突っ込まれた。
否定はできなかったどころか、そもそもこれを特技と思っていなかったのでアシュクロフトは何も言えなかった。
試しにちょっと弾いてみてくださいよ、なんて悪乗りした側近に言われ、ついでにルミナスにも是非、と言われてしまえば断れるはずもない。
言われるままに鍵盤に指を置いて、心の赴くままに演奏する。
知らない曲ね、とまずルミナスは思った。
教育の一環でそれなりに有名な音楽は習っているし、それ以外も勿論教わった。
けれどもアシュクロフトの奏でる曲は間違いなく今まで一度も聞いた事のない曲である。
どこか心が弾むような、聞いていて何か新しい事が始まりそうな予感すらしてくるメロディになんだかワクワクした気持ちになってくる。
とはいえ、曲はやがて終わりを迎える。
もう少し聞いていたい、余韻に浸っていたい、と思ったがルミナスはあえて問いかけた。
「知らない曲でした。初めて聞いた曲ですけれど、一体なんて曲ですか?」
素敵な曲だった。
もしかしたら、あまり知られていない音楽家のものかしら。もしそうなら、他の曲も聞いてみたい。あとで調べてみようかしら、なんて思いながら聞いたのだが、アシュクロフトは少し困ったように首を傾げた。
もしかして、誰の曲か覚えていない、とか……? なんて思ったルミナスであったが、結果はルミナスの想像から少しばかりズレていた。
「えぇと、春の訪れに心を弾ませるルミナスをイメージして弾いただけだから……曲のタイトルとかはちょっと」
まさかの即興。
しかも自作。
「そこ普通有名な音楽家の曲とかにしません?」
風情も何もあったもんじゃない側近の言葉に、アシュクロフトはしかし、
「私はそこまで優秀ではないからな。記憶力だってそこまで良くはないし。有名な曲は確かに知っているけれど、細部まで覚えているわけではない。楽譜もなしに弾けば確実にボロがでる」
落ち着き払って反論した。
「いや、普通はさ、だからって即興で作曲して弾いたりしないんよ……そっちのがハードルたけぇから」
「いえ、そんな事より今作ったって事は楽譜も何もないのですよね!? 勿体ない。忘れる前に楽譜におこしましょう」
そしてあわよくばパーティーのダンスタイムなどで演奏してほしい。皆知らない曲に最初は戸惑うかもしれないが、けれども曲に身を委ねればきっとすぐに楽しく踊れるだろう。
まぁ、曲名は流石に春の訪れに心弾ませるルミナス、とかつけられると恥ずかしいので別のタイトルにしてもらえればな、とは思うけれど。
他にもあれこれとルミナスをイメージした、などと言って即興で弾かれた曲の数々によって、ロクに特技もない王と思われていたアシュクロフトの評価はこれによって変わっていく事になる。
数年後、芸術王アシュクロフトの名は周辺国家にまで知られるようになる……などとは、今はまだ誰も知らぬ話である。