自宅と歓談
執事ジャンは観察していた。
そもそも、一流の給仕に必要なのは鋭い観察眼だ。一流であればあるほど、それを悟られない。相手にプレッシャーを与えず、ほとんど見ていないようで、全てを把握しているのが一流なのだ。と、かつて新人だったジャンは、ヴァレリアン公爵家家令のクレマンに教わった。
つまりは、ジャンの観察眼は人並み優れていたということである。
だからこそ、ジャンはこの食事が始まってすぐ、ある『異変』に気が付くことができたのだった。
(……おかしい。シャルル様の食事のペースが明らかに遅い)
ジャンは傍で控えながらシャルルを見ていた。
いつでもサーブができるように、2人にしては広い食堂の大きくて豪華な長テーブルの端に、シャルルとレベッカは腰掛けて向かい合っている。
確かに、食事は普段よりもほんの少し豪華だ。
公爵家の食事は、洗練された雰囲気と美味しい料理に満ちている。たった二人の夕食のために、広大なダイニングルームに整然と配置された豪華なテーブルが待っているのは当然のことなのだ。
テーブルクロスは上質な赤い布で覆われ、その上には丁寧に装飾が施された食器や、ぴかぴかに磨かれた銀色のカトラリーが輝いている。真ん中には香りの抑えられた、それでいてぱっと目を引く白いオルキデの花が挿してあるのだが、あくまでも脇役としての存在感で、主役の二人の食事を彩っている。
高さのある花のアレンジメントの影には、キャンドルの灯りがちらちらと揺れ、優雅な雰囲気を醸し出している。
しかし、ヴァレエリアン公爵シャルルがこんな程度で驚くわけがない。
庶民育ちのレベッカはともかく、生粋の貴族として生きてきたシャルルは――いや、これは彼の長所であり、同時に短所でもあったが――贅沢・豪奢・特別といった、庶民が恐れおののくような環境でも平然としていられる心の臓を持っているのだった。
だが。
そのはずなのだが。
今日のシャルルは、明らかにいつもよりも落ち着きが無い。
それは他の人間には分からないような変化だったが、傍付きの優秀な執事であるジャンには、主人の異変をすぐに感じ取ることができた。
新鮮で彩り豊かなサラダには、様々な種類の高級なチーズやパテが用意されている。それらは美しい盛り付けで、さらにはシェフオリジナルのソースがかけられており、シャルルの好物なのだった。
だけれど、今日は余りにも進みが遅い。
フォークでチーズを突ついては、少しばかり口に運び、置く。
その後はグラスを持っては、飲まずに置く。
と思いきや、また一口飲んでみては、置く。
さらに、フォークを持っては、ぼうっとして、何も食べずに置く。
これらの意味の無い行動を、いい年をして繰り返し学習もせずに先ほどからずっとやっている男が、自分の主人だ。
ジャンはこめかみが痛くなった。
原因ははっきりしている。
豪華な酒も、贅沢な食材も、国宝級の壁の絵やアンティークの彫像も、シャルルには何の動揺も与えない。唯一、彼を動揺させているとすれば、今までと明らかに変わった点のみに絞られる。
そして、悲しいことに、男であるジャンには理解できた。
否、理解できてしまった。
(レベッカ様のドレス、絶妙ッ!)
ピンクベージュの柔らかな生地からこぼれ落ちてしまいそうな、豊満な箇所。
だが、一方でこれまでの過酷な環境と菜食中心の生活によって形作られた、すらりとした腹や腕の肉付き。酒によってほんのりと赤らんだ桃色の頬。上気した肌からの匂い立つような色気。
うるんだ瞳。ちらりとのぞく紅い舌と、ぴったり合う同じ色のルージュ。
シャルルはレベッカを見ながら、時折ぼうっとしては、思い出したように食事をする。
「あー……レベッカ。今日はその、なんというか、雰囲気がいつもと」
「え? なんですかシャルル様? ごめんなさい。こちらのお酒がおいしくて、ききのがしてしまいましたの」
「い、いや、なんでもない。なんでもないんだが……いつものドレスとは、また、違うのだな?」
「そうなのです。エレーヌが準備をしてくれたのです。こんなに高級なものを……見て下さい、胸元に小さな宝石がちりばめられているのです。見えますか」
「見えるッ……いや、いや、見えない! 違う、見てはいない! 断じて見ていないが」
「見えないですか?」
「いや、見えるのだが、なんというか、見てはいけないような気がするというか」
「シャルル様? ふふ、おかしなことをおっしゃるのですね。ぜんぶシャルル様の物ですのに」
シャルルが硬直した。
(これは……まずい、シャルル様が! 何とは言わないが、なんとなくまずい!)
ジャンは危機を感じていた。
(レベッカ様は、財産という意味合いで『全て』とおっしゃったのですよ、シャルル様! シャルル様! しっかり! まだメインディッシュどころかスープにもたどり着けていませんよ!)
シャフとの綿密な打ち合わせの結果、今日のメインはローストされた最高級の仔羊が、香り高いハーブとスパイスで調理されている。デザートには、シェフの巧妙な技術が光る洗練されたスイーツが用意されているはずだ。
だが、そんなものは、それよりも美しい者の前ではかすんでしまうのだろう。
(パンの代わりにケーキを出したって、今日のシャルル様じゃあ気付かないかもしれない)
と、ジャンは思った。
(リードするどころか、このままでは精神年齢五歳児のシャルル様が、レベッカ様の色気にあてられてしまう……エレーヌ、腕がいいのは認めるが、やりすぎなんだよ!)
後れ毛をついっと指で撫でたレベッカが、悩ましげに息を吐いた。
「なんて美味しいのでしょう……」
うっとりと、上気した頬で足の細いグラスに微笑みかけるレベッカは、ジャンたち第三者から見ても、それはそれは女神のように美しかった。
シャルルがフォークを落とした。
カランという音を聞きながら、ジャンは新しいフォークをカトラリー入れから取り出した。
歩くお色気放出天然令嬢に、いたいけな青年を殺す、魔のドレスを着させたメイドを恨みながら。