ジャンとシャルル
小一時間後。
律儀に、桃色の表紙の小説を読み終えたシャルルは、げっそりとした顔でジャンに返して寄越した。
「いかがでしたか?」
「ジャン、いかがも何もこれは……理解できないところが多すぎる」
シャルルの意見はこうだった。
「そもそも、なぜ姫は王子に対してつっけんどんな言動をとるんだ。相手に好意を抱いているんだろう? 嫌われにいっているようにしか思えない。意味が分からない」
「シャルル様。それはいわゆる『つんでれ』というやつかと存じますが」
「寒帯の気候のことか?」
「それはツンドラ……いえ、そうではなく。話を戻しましょう。告白には順序があるということです。小説の姫は王子との恋を成就させるべく、段階を踏んでいるのです」
「この『焦がれる心』というのは実際のところなんなのだ? 文章の端々に出てきたが……」
ジャンは叫び出したい気持ちをぐっとこらえて言った。
「シャルル様も身に覚えがあるのではありませんか? 特定の女性にだけ感じる特別な感情です」
「特定の……」
「ご母堂ではございませんよ。そうではなく、例えば、レベッカ様に」
「れれれレベッカに!?」
わかりやすく動揺するシャルルをジャンは生暖かい目で見た。
「例えば、ローラが男性と食事に出かけたという話を聞いて、どう思われますか」
「どこの店で、どんな食事だったのか、美味かったのかと尋ねたい」
「それでは、レベッカ様だったらいかがでしょう。レベッカ様が他の誰か……貴族の男性と一緒に、仲睦まじく、二人きりで食事などしていたとしましょう。そして、その男が馴れ馴れしくレベッカ様の肩や手に触れたとして、どのようなお気持ちがしますか」
「……嫌だ」
シャルルは眉間にしわを寄せて、不機嫌をあらわにしていた。
「なんなんだ、人の妻にそういう態度をとるというのは法律的な観点から見て罪だ」
「例え話です。そして、その感情が独占欲であり、広義の意味での――恋愛感情です」
シャルルはぱちぱちと瞬きをした。
「恋愛? 俺が、レベッカに?」
「そうではありませんか? ご自分の思いやこれまでの行動を、よくよく振り返って下さいシャルル様。目的を達した後、すぐに離縁してもよかったのに、今もずるずると婚姻関係を続けているのはなぜですか。そして、仕事を今までに無い早さで終わらせて、毎週のようにレベッカ様と食事をしているのはなぜですか。今まで数人の使用人にしか立ち入りを許可していない裏庭の部屋に、レベッカ様をすすんで招き入れているのはなぜですか。女性をあれだけ忌避していたシャルル様が、レベッカ様には膝枕をしてもらっているのはなぜですか。さらには養子をとるというレベッカ様の提案に、拒否感も抱かずすぐに同意して――」
「待ってくれ。もういい……」
シャルルは片手で顔をおさえた。
頬にかあっと熱が集まっている。
ジャンは成功を確信した。
「自覚なさったということは一歩前進です」
「俺は……いや、そうだな……きっとそうなんだろう……レベッカを失いたくない」
指の隙間から、シャルルはすがるようにジャンを見た。
「どうすればいいんだ、ジャン。結婚はできたけれど、妻の心を得るために何をすればいいのか、俺は分からない」
ジャンは、内心で勝ちどきを上げた。
(その言葉が聞きたかったんです! シャルル様)
ジャンは、先ほどの恋愛小説の一巻を開いた。
「そのためにはいくつかのステップがあります。まずは『相手の気持ちを確かめる』こと。 レベッカ様がご自分に興味を持っているかどうか、事前に確かめることです。相手の言動やサインを注意深く観察するのです。案外、レベッカ様も同じ気持ちかもしれませんよ?」
「レベッカも……」
あからさまにテカテカ、ニコニコという言葉がぴったりな表情で微笑み出すシャルルに、ジャンは忘れずに釘をさした。
「妄想ではいけませんよ。レベッカ様が、シャルル様に対して、『もっと距離を縮めたい』と感じていらっしゃるかどうかをしっかり判断するんです。例えばデートに誘ってみて、OKだったら希望が持てますね」
「デート……?」
主従は見つめ合った。
部屋の中だが、一陣の風が吹いた気がした。
「シャルル様。念のため聞きますが、異性とデートをされたことは……」
「母親は含むか?」
「含みませんね」
「それなら、一度もないな」
ジャンは遠い目になった。
薄々分かってはいたが、社交界から遠ざかっていたとはいえ、適齢期の成人男性が一度も異性と遊んでいないというのはなかなか強敵だ。
この状態のシャルルを『エスコートのできる頼もしい成人男性』としてお育てしなければならない。
(クレマンさんは何をやっていたんだ!)
世話になっている上司への本音を吐露しそうになるが、ジャンは踏みとどまった。
「ええと。シャルル様。デートについては私と後日打ち合わせをするとして、ですね」
「ああ、頼む」
「そもそも、シャルル様はプロポーズなさってはいませんよね?」
「なんだ? 婚約や結婚の書状は返したぞ」
「そうではありません。政略結婚ではそうですが、恋愛結婚についてです。ほら、先の小説にもあったでしょう。恋愛関係になった王子と他国の姫は、互いに恋に落ちました。その後、王子はどうしましたか?」
「ええと……姫と手と手を取り合って海を渡り、互いの思いを語り合った」
「はい。そして、互いの好意を確認した王子はどうしましたか」
「あー……『姫に身分を捨てて結婚してくれないかと問うた』?」
「そうです。つまり、好き同士だったら『貴方が好きだから結婚してくれ』と告げるのです。それが恋愛結婚というものです」
「レンアイケッコン」
「異国の言葉のように言わないで下さい。では、問題です。シャルル様がレベッカ様と今後、恋愛関係になりたければ、どうすればいいか」
「……貴方が好きだと告げる?」
ジャンが正解の意を込めてうなずく。
その美貌が世間を騒がすヴァレリアン公爵シャルルの怜悧な双眼がキッと引き締まった。
彫像のような鼻梁が天を向く。
こめかみにすらりとした指先を当て、苦悩の表情すら絵になる公爵は、艶やかな唇を開いた。
「ジャン」
「はい」
「無理だ……」
シャルルは床にしゃがみこんでいた。
ものすごく苦しそうな顔をしている。
暴漢に襲われたときだって、ここまで苦しんではいなかった。
「レベッカに好きと告げることを想像したら、胃が急に痛くなってきた……」
ジャンはため息をついた。
これでは前途多難にもほどがある。
聖夜祭までに間に合うだろうか。
(ローラとエレーヌ次第だな)
優秀な執事ジャンのモットーは、他力本願であった。
その頃、ジャンの期待をよそに、女性陣は彼女たちなりの戦いを繰り広げていた。