作戦と始動
執事のジャンから、改めて話があると言われたとき、シャルルは首をひねっていた。
ジャンとしては、なぜこの人は勉強はできるのに天然なのだろうと理解できない部分ではあるのだが、同時にそれはこの完璧な公爵の魅力でもあった。
ジャンにとってのシャルルは絶対的な主人だった。
それはこれまでもこれからも変わらない。
ヴァレリアンに仕える貴族として生まれてきたジャンは当然のようにシャルルの執事になった。
だが、執務室のカウチソファに腰掛けたシャルルは、向かい側のソファをジャンに勧めた。
控えめにジャンが腰掛けると、シャルルは神の傑作のような美貌を曇らせて言ったのだった。
「正直に言って、ジャンに負担をかけている部分はあると思っていた」
今度はジャンは首を傾げる番だった。
そういうことを話したいわけではない。
「執事というにはジャンにはかなり多くの仕事をさせてきたが、ジャンは文句も言わずによくやってくれている。いや、よくやりすぎているといってもいい。お前が優秀だから俺も任せすぎてしまっていたと思う……いや、思っていたが、そこに甘えていた。反省している」
「はい、すみませんシャルル様。そういうことではありません」
「ん? 何だ? 待遇の不満かと」
ジャンはため息をついた。
報酬ならもう十分すぎるほどもらっている。
そうではない。
そうではないのだ。
何を隠そう、法律学校の際の首席はジャンだ。
次点だったシャルルは、ジャンに裁判官の補佐としての仕事を命じた。
執事兼補佐として仕事をしていて、忙しさこそ感じてはいるものの、不満に思ったことはない。
「私が申し上げたいのは、レベッカ様についてのことです」
「レベッカ?」
「シャルル様とレベッカ様の、このたびのご結婚についてです」
「結婚?」
数時間前まで、税率がどうだとか、強制競売だとか、自筆証書遺言だとか、様々な法律用語を並べ立てていた人間とは思えない。
初めての言葉を聴いた5歳児でも、もう少し大人びた目をしているのではないか。
邪気の無い成人の瞳にあてられて、ジャンは一瞬ひるんだが、心を決めて言った。
「ええと……率直に申し上げて、このままではまずいのではないかと」
「まずい?」
5歳児の瞳に不安が少しばかり垣間見えた。
ジャンは、法律学校で褒め称えられた頭脳をフル回転させて、次の言葉をひねり出した。
「ええ。そうです。シャルル様はレベッカ様となんやかんやでご結婚されましたが、実際のところ、離縁するつもりはあるのですか」
「離縁!? ……いや、ないが」
ですよねー。
と、言いたいのをこらえて、ジャンは落ち着き払って言った。
「ですが、レベッカ様はそう思われていないかもしれません」
「何ッ!?」
シャルルがガタッとソファを立った。
(いや、普通に考えたら分かりそうなもんなんだけど……)
優秀だが人の良いジャンは、育ちの良い人間特有のおっとりした冷静さで、動揺したシャルルをしっかりと見据えた。
「一般的に貴族の男女というのは、家どうしの取り決めで結婚を決めます。ですから、シャルル様とレベッカ様は現在婚姻関係にあります。これはよろしいですね」
「ああ。求婚、婚約、結婚式という流れだが、今回は両家の取り決めにより花嫁自身に資産を支払うようになっているはずだ。つまりは家・穀物倉・所有地・家畜……衣類や装飾品など。国民法54条に記載されているな」
ジャンはうなずいた。
そうなのだ。
こういうところはそつがない主人だ。
だが、今回ジャンが指摘したいのは国民法についてではない。
「では、シャルル様。政略結婚をした夫が妻の心を完全に手に入れるためにはどうすればいいでしょうか」
「心?」
(だめだ! 5歳児の瞳に戻ってしまった!)
しかし、この時諦めかけたジャンの脳裏に、先日の使用人たちの秘密会議のことがパッと浮かんだ。
そうだ。あの時、ローラとエレーヌと誓ったのだ。
(今年の聖夜祭までに、シャルル様とレベッカ様を本当の意味での『夫婦』にする)
床入りとはいかずとも、せめて恋愛というものを知り、自覚し、そして両方の想いが通じ合い。
願わくはシャルル様が自信をもって告白できれば。
ジャンは自分自身を奮い立たせた。
「シャルル様。レベッカ様とこれからも一緒に過ごされたいとお思いですか」
「変なことを聞くんだな。当たり前じゃないか」
(自覚の無い5歳児だった……)
こうなれば最後の手段だ。
ジャンは桃色の表紙の本を、ジャンはそっと執務室のマホガニーの重厚な机の下から取り出した。
「でしたら、手始めにこちらの本をお読み下さい」
エレーヌ秘蔵の王道の恋愛小説である。
あっけにとられているシャルルに、ジャンは言った。
「これからのシャルル様に必要な知識がもう一つございます」
男として、これは自分にしかできない。
ジャンは固い意志をもって、決意していた。
結婚と恋愛とは違うのだ、ということを、主人に伝えなければいけない。