シトロン水とヨーガ
それは朝食の時の出来事だった。
茶や珈琲よりも、水を好んでいるレベッカのために、優秀な使用人たちはシトロンという果実を切って水差しに入れている。銀の水差しからはいつも新鮮な水がレベッカのために注がれる。
そして、シャルルは眠気覚ましに珈琲を愛飲していた。
それは水面に葉が一枚落ちるような、音も無い僅かな差異だった。
しかし、ローラは気付いたのだ。
最近、シャルルは珈琲を飲む前にシトロン水を飲んでいる。
優秀なメイドであるローラは、指摘もせずただ自分の仕事に忠実だった。
その日も水差しを持ち、朝食をとるシャルルとレベッカに給仕をしていた。
レベッカがふと顔をあげる。
朝日が長いまつげに当たってキラキラと輝く。
ローラは思わずうっとりと見とれた。
使用人たちの奮闘もあり、レベッカはこの屋敷に来たときに比べて、見違えるように健康的になった。
そして、レベッカが健康的になればなるほど、彼女の美貌が磨かれていった。
これまでろくなものを食べてこなかった体は、栄養を摂取してふっくらと柔らかそうに膨らんだし、肌や髪のつやが出て、表情も余裕のあるものに変化した。
もともと天性の美貌に恵まれていたレベッカを、宝玉のようにメイドたちは磨き上げ、そしてそれは成功を収めていた。
「あら、シャルル様もシトロン水をお飲みになるのですか」
と、レベッカは微笑んだ。
その瞬間、レベッカの周りにブワワワッとロゼッタが咲き乱れたような気がした。
優秀なローラは幻覚を見たものの、立ち直って表情を崩さずに水差しを持ちながらじっと控えていた。
「ああ」
と、短く言ったシャルルは長い指でグラスを上にあげた。
透明なクリスタルにうつるのは銀にも近い灰色の髪。
同じ色の瞳は怜悧だが、尖った氷のような冷たい美しさだ。
嫉妬や羨望ゆえに、根も葉もない噂を立てられて放置しているシャルルだが、それでもこの美貌のために一定数の令嬢から言い寄られては断り続けてきた。
「レベッカ……が、よく飲んでいるからな」
「私が? ああ、確かに飲んでいますが……お好きなお味ですか?」
「そうだな。好き……な味だと、思う。味がな。うん。味が」
「私もこれが好きなのです。よかった。シャルル様と好みが似ているなんて」
レベッカはにっこりと笑った。
邪心のない子供のような表情が、世の中の男を骨抜きにする艶やかなプロポーションと合わさって、何ともいえない魅力になっていた。
金色の髪と目のレベッカと、銀色の髪と目のシャルルは、あたかも対の存在のようだ。
まるで絵画の一枚のような風景を切り取ったこの瞬間。
レベッカは艶やかに唇の下に指を当てて、言った。
「おそろいですね」
血も涙も無い裁判官と名高いシャルルの頬にふわあっと赤みがさす。
「……そうだな」
照れくさいのを隠すように、シャルルはグイッとシトロン水を飲んだ。
この上下する青年の喉に抱きつきたい令嬢はごまんといるのだが、レベッカは可愛らしい子供でも眺めているかのように、ふふふ、と笑むだけだ。
ローラはヴァレリアン夫妻を見ながら、細く長い息を静かに吐いた。
最近、古書を眺めていて、東洋のヨーガと呼ばれる呼吸法を知った。
この呼吸をすると出産のような激烈な痛みにさえも耐えられるらしい。
今こそ、その時だ。
仲良くおかわりを要求したシャルルとレベッカに、ローラは鉄の意志でもって、優雅に水差しを傾けた。
「……と、いうわけです」
とローラは話をしめくくった。
「私があの日、ヨーガの呼吸を知らなかったら、まずかったです。もう水差しを床にたたき付ける寸前でした」
「それは大変だったわね」
エレーヌは心からの同情を込めて言った。
「まさか水を飲むだけで、あんな空気になるなんて思いませんよね?」
「確かにな」
とジャンが同意する。
ローラは3つめの焼き菓子の包みをバリバリとはがしながら言った。
「私、お二人のことはもちろん、使用人として敬愛していますが、最近見ていると、わーって叫び出したくなるんですよ。なんというか……」
「もどかしい」
エレーヌが引き継いだ。
ローラはうなずく。
「それです。そして、シャルル様はともかく、レベッカ様はこの婚姻関係はもうすぐ解消されると思ってらっしゃいます。残り少ない日々を楽しもうとしている姿が幸せそうなのですが、寂しそうでもあって」
「そうね。毎日ため息をついてらっしゃるものね。自覚はないみたいだけど」
「待て、それはおかしい。書類上ではもうお二人は夫婦だろう? シャルル様は、俺に向かってはっきり『婚姻を解消するつもりはない』と明言された」
と、ジャンが言った。
「だからぁ、シャルル様はジャンには言えるのよ。どうせレベッカ様には伝えてやしないわよ」
エレーヌはジャンに反論する。
「まさか……ご本人にプロポーズはさすがに……いや……確かに……そうかもしれない」
「でしょ? シャルル様は7歳っていうのはそういうことよ。どれだけ仕事ができるか知らないけれど、そ・う・い・う・と・こなの。私だって昨日、庭で見ちゃったのよ。思わずトゲだらけのロゼッタの茂みに飛び込みたくなったわ」
エレーヌは語り始めた。