涙と本音
ポロポロと零れ落ちたのはシャルルの本音だった。
「レベッカは離れたいのか?」
「そんなことは」
「俺はレベッカと一緒にいたい。なぜ離縁なんて言うんだ?」
あれだけカッコいい言葉を考えていたというのに、シャルルの口からはもう子どものような言葉しか出なかった。
レベッカは戸惑いを蜂蜜色の瞳に浮かべた。
まさかシャルルが泣くなんて思わなかった。
成人男性の涙は恥だとされている。見てはいけないものを見てしまったような気がしたけれど、長い睫毛の隙間から染み出してくるような水滴はやけに美しく見えて、目が離せない。
レベッカはつとめて冷静に言った。
「シャルル様、私達が契約を交わしたときにお約束したはずです。あくまでもこれは契約なのだと。シャルル様は戸籍上、私を奥方としてアデルを養女にする。私はシャルル様を狙ったエミリーの罪を暴き、アデルを聖女としました。今やシャルル様は戸籍上は聖女の養父です。私のお役目は終わりました」
「嫌だ」
まるで駄々っ子だ。
「シャルル様、ですが」
「嫌なんだ……レベッカがいなくなるなんて嫌だ。レベッカは俺のことが嫌いなのか?」
レベッカは言葉に詰まった。
(嫌い……なわけはないわ。むしろ)
濡れた目でひたすらにこちらを見つめてくる可哀相な美丈夫を誰が断れるだろうか。
「そんなことはありませんわ」
「俺はレベッカが好きなんだ」
それは計算も計画も何もない、ありふれていてありきたりな、平凡な告白の言葉だった。
だけど、そのてらいのない単純さがむしろレベッカの胸の奥へ真っ直ぐに届いた。
「ええ」
万感の思いを込めてレベッカは言った。
シャルルはどういう思いで好きと言ったのだろう。
母親や教師を慕うような、好意なのか。
それとも。
別の種類の感情で?
レベッカの頬に赤みがさした。
「レベッカとずっと結婚していたい。隣にいてくれ。離縁なんて言わないでくれ。俺は、レベッカに相応しくなるように努力する」
「まあ、シャルル様!」
レベッカは驚いた。
「娼婦のような淫らな女だと後ろ指を指されていた私を、救ってくれたのはシャルル様ですよ。私こそシャルル様には相応しくないのです」
今度はレベッカの本音が溢れた。
「優秀な裁判官で、公爵家を背負って立つシャルル様に相応しいのは、由緒正しい家柄の令嬢です。私のような付け焼き刃の張りぼてのような没落貴族ではいけないのです」
実家は没落した。
他ならぬレベッカ自身の手によってだ。
貴族の命題が家を守ることだとするならば、レベッカはいわば反逆者だ。
公爵夫人の肩書きを手に入れている今、レベッカを悪しざまに言う者はいない。が、この先はどうなるか分からない。シャルルに迷惑がかかるならば、いっそすぐにでも離れた方がいいのではないかとレベッカは思っていた。
だが、そうしなかったのは、これまでずるずると共に過ごしてしまったのは、未練があったからだ。
「レベッカがいいんだ」
と、シャルルは言う。
(ああ、この人は本当にずるい)
塵芥のレベッカの迷いごとを、単純な一言でさっぱりと洗い流してしまう。
難解な熟語や法律用語を並べ立てて仕事をしているくせに、こんなときになって子どものような語彙しか出てこないなんて、わざとやっているのだろうか?
レベッカは、腹立たしいような気持ちさえ入り交じって、シャルルを見つめた。
ゆっくり腰を下ろしてソファに座り直し、レベッカはあらためて隣のシャルルを見た。
涙の跡がきめの細かい頬の皮膚を濡らしている。置いていかれる子どもや犬猫のような、寂しさと不安に満ちている瞳。
ぽたり、と、シャルルの涙が手元に落ちて、白い箱にあたった。
「それは?」
とレベッカが尋ねた。
「これは……指輪だ。レベッカにプロポーズしようと」
「プロポーズ?」
シャルルに渡されて、レベッカは箱を受け取り、開けた。華奢な花の彫刻の入った、綺麗な細工だ。
「結婚して欲しかったんだ。今度は書類上じゃなく、俺自身と」
シャルルは、すん、とはなをすすった。
「俺はもっと格好良くレベッカにこれを渡して、恋愛小説のようにレベッカを口説いて、俺と揃いの指輪を互いにはめて、そして君のことをめろめろにさせるつもりだった」
「めろめろに……」
「でも、失敗してしまった。俺は君に離れられるのが怖くて、情けなく不様に泣きながらすがっている。ばかみたいだ。分かってる。でも、俺はどうしてもレベッカが好きで」
シャルルの次の言葉は出なかった。
涙はぴたりと止まり、目は見開かれた。
ふわりとした柔らかな感触が、シャルルの口の端から離れた。
蝶が花から飛び立つくらいの静けさで。
シャルルの頬と口端の間の柔らかな場所に、間違いでなければ、触れていたのはレベッカの唇だ。
「ありがとうございます」
と、レベッカは少し大人びた顔で微笑んだ。
「つけて下さいますか」
シャルルは言われるがままに、震える手でレベッカに指輪をはめた。
完璧にぴったりだった。
「素晴らしい指輪ですね。私には勿体ないです」
「そんなことはない。指輪に君が勿体ないくらいだ」
「何を言っているんですか、シャルル様は……とても嬉しいです。ありがとうございます」
「喜んでくれて俺も嬉しい。それで、レベッカ」
「はい?」
「さっきの、あの、口端、唇、口……いや、結婚、そうだ。結婚を続けたいんだが。君と」
「ええ、シャルル様」
「いいのか?」
「私の方こそお聞きしたいです。私でいいのですか?」
「レベッカがいいんだ」
花のほころぶようなレベッカの微笑を、シャルルは心底抱きしめたくなった。
が、シャルルの強固な理性と、これまでの女性への免疫力のなさが、そうさせなかった。
ただ、二人はどちらからともなく手を繋いだ。ソファに並んで座りながら、指輪のはまったレベッカの指先と、それよりもあたたかなシャルルの指先とを、重ね合わせていた。
どちらも何も言わないまま、ゆっくりと時間が流れていた。
世の中には本人たちは知らないほうが幸せな事象もある。
ここで、もう一組、同時刻にがっちりと手を握りあった二名が存在した。
裏庭の小部屋の外は冷え込み、霜がおりかけていた。暖炉の火のある室内とは違い、常人では耐えられない寒さに彼女たちは耐えていた。
なぜなら、コートの内ポケットに、鉄と塩で作った特殊な温熱装置を仕込んでいたからだ。火を使う火師集団率いるエレーヌの実家で偶然にも発明された新型器具らしい。
硝子ごしにそっと室内を覗き見ていたエレーヌとローラは、ここまでの経緯をずっと観察していた。声こそ聞こえないまでも、昼に少しだけ開けていたカーテンの隙間から覗いていたのだった。諜報部隊が有名なローラの実家では、子どもが遊びでやる『ちょーほーごっこ』の延長に過ぎない。
実家の太い二人ならではの所業である。
言い方を変えれば、力の無駄遣いということになるのだが。
そういうわけで、レベッカとシャルルが穏やかに室内で仲良く平和に手を繋いでいたその時、ローラとエレーヌはがっちりと互いに爪をたて、東洋に伝わる伝説の筋肉戦士リキーシ顔負けの力で手を握っていた。
そうでもしないと夜の裏庭で、雄鶏のように絶叫してしまう。
(ついにやったわ!)
(うわああああ両想い!)
(した!キスした!口じゃないけど!)
(わああああああああああ)
叫び声を堪えながら、庭の草の上をごろごろ転がったり、腹ばいになってエビぞりジャンプをしたために、その日のローラとエレーヌは分厚いカシュミールの高級コートを夜露でびしょびしょに濡らすはめになった。
なんちゃって両想いですが、まだじわじわ続きます。クリスマスくらいに完結します!(予定)




