指輪と木曜日
仕事前の朝である。
「きゅうこん?」
と尋ね返すシャルルをジャンは諦念をもって眺めた。
仕事に向かう紳士的な出で立ちは一分の隙もない。だが、なぜかジャンにはこの氷の美丈夫であるはずの主人が、時折いたいけな幼児に見えるのだ。
ジャンは思った。
主人は明らかに、テュリプなどの『球根』だと思っている。
「そうではありませんシャルル様。求婚。プロポーズのことです」
「ほう。誰がだ」
「シャルル様が、レベッカ様にですよ」
「なぜだ? もう我々は婚姻関係を結んでいる」
キリッとした顔で言い放つ美貌の公爵に、ジャンは手元のシトロン水をぶっかけてやりたくなった。
(そうじゃないんだなあ〜)
だが、爽やかな朝である。起きて朝食を済ませ、部屋に戻ったばかりの主人に、さすがにそれは無礼極まりないと理性が働き、なんとか踏みとどまった。
「シャルル様。失礼を承知で申し上げますが――レベッカ様とシャルル様は、かりそめの結婚でございます」
「なぜだ。法的な書類だぞ。きちんと公的なサインもある。だからレベッカと俺は夫婦なのだ。だったらどうして再度プロポーズをする必要が……」
ジャンがいよいよ水差しを壁に投げつけようかと思ったその時、滑るように入ってきた人物がいた。
「いくら法律で縛ろうともすり抜けていくのが女性の心ですよ。おはようございます、シャルル坊ちゃま」
「だから坊ちゃまではないと言っている、クレマン。もう俺は成人してしばらく経つぞ」
不服そうにシャルルが言った。
「恋愛の『れ』の字も分からぬ者がどうして成人したといえるでしょうか」
ズバッとクレマンが斬り込んだ。
思わず言葉に詰まったシャルルを、クレマンは更に追い詰める。
「ジャン。はっきり言えばいいのですよ。あまり法律に胡座をかいていると、レベッカ様に嫌われてしまいますよ、と。これくらい言わないと通じませんよ、ジャン。さてシャルル様、こちらが本日の鞄と貴重品です。では失礼いたします」
と、代わりにシャルルの夜着を持って去るクレマンは風のように去った。
あくまでスマートで、エレガントなヴァレリアン家の筆頭執事である。
後に残されたジャンは、うっすら涙目で呆然としたシャルルのフォローに尽力することになった。
「レベッカ様に指輪を贈りましょう。シャルル様」
馬車に乗り込みながらジャンは提案した。
今日の御者はジャンではなく、別の者なのでシャルルとジャンはゆっくりと話せる。
仕事場へ行くときは主従ではあるが、仕事の話をすることも多いので、このような形のことが多い。
「先祖代々の指輪ではなくて、シャルル様とレベッカ様お二人だけの特別な指輪を作るのです」
「それで、レベッカは喜ぶだろうか」
「喜びますとも!」
「そうだろうか」
不安げなシャルルに、ジャンは力強くうなずいて言った。
「シャルル様、差し出がましいことを申しますが、今日の仕事が終わったら、宝飾店へ行きませんか」
ローラとエレーヌにレベッカ様の指のサイズはきいている。
後はお膳立てをするだけだ。
頼む、と言って頷いたシャルルにジャンはにっこりと微笑んだ。




