愛称と週半ば
クレマンは廊下の明かりと手元のランタンの光に照らされた、クロエの顔を見て言った。
「いや、ね。この間、エレーヌに手を出そうとした男が酷い目にあったのを思い出して」
「ああ、あの不届き者。なんと言いましたかね。エレック?エロック? なんだったかそんな風な名前の奴でしたね」
クロエが合点した。
後から分かった話だが、公爵夫人のクローゼットの整理をしていたエレーヌを見て、『恋』というよりも『劣情』を抱いたらしいその愚かな男は、エレーヌを隣の物置に押し込めてコトに及ぼうとしたらしい。
だが、エレーヌ曰く、『胸元に手をかけた瞬間、虫でも見るような顔でエレーヌを見た』らしい。
聞き取りの最初こそ心配をしていたクレマンは、聞き取りを進めるうちに、噴き出しそうになった。
が、家令の威厳で笑うのを辛うじて堪えた。
エレーヌはつり目がちな目を更にキッとつり上げてこう言った。
「ねえ、そんなふうに乱暴に口説いて、あたしがあなたを好きになるとどうして思ったの? 信じられないわ。ってあたしは言いました。あの男が胸元を見ていたので、あたしは『左胸にいつも入れているあれ』を見せてやったんです。ええ。あの――」
と、エレーヌは少し言い淀んだ。
「護身用のちょっとした爆薬を。安心してくださいクレマンさん。うちの実家が作ってる安心安全な花火ですよ。中身は子どものおもちゃレベルなんですけど、クレマンさんもご存じだけど、うちの両親たちってほら、ちょっと過保護でしょう? だから、見た目だけは手榴弾のように仕上げてあるんです。で、あたしが物置の灯りのランタンのところに手を伸ばして、『今すぐその汚い手を離しなさい。さもないとこの物置ごと吹っ飛ぶわよ』って言ったら、顔を真っ青にさせて逃げていきました」
勝ち気なだけでなく、落ち着いたメイクをしていても派手な顔立ちのエレーヌは昔からやっかみを受けるのには慣れているらしい。優秀で実家も大きいエレーヌは、派手な美人で、男からもアプロ―チを受けることが多かった。
領地に散在する火師集団を率いるエレーヌの実家は、貴族とはいえ、いわゆる『血の気が荒い』性質の人たちが多い。火薬の産地なのだ。祭典での花火も、あるいは戦闘のための火薬も、火と名がつくものを全て扱っている。そのためなのか、身を守る術に関して、年々彼女のやり方は荒っぽくなっている気がしなくもない。
とにもかくにも、使用人を管理できずすまなかったと、あの日クレマンは家令としてエレーヌに謝罪をしたのだった。
ただ。
「相手が悪かったなと思ったのですよ」
「か弱い淑女が狙われたのですよ、クレマン! そんな言い方は不謹慎ではありませんか」
「ええ、そうですね。すみません。仰るとおり。でも、今日は面白いことが分かりましたよ」
クレマンは回収した酒瓶をクロエに見せた。
「これは……坊ちゃんたちが飲んでいたカンパニアじゃないですか? どうしてまた、空き瓶を」
もしや、とクロエは目を見張った。
クレマンは首を横にふる。
「いえ、クロエ。中身は無事ですよ。毒味係が飲んで確認しましたからね。そうではなくて、問題なのは瓶の方です」
「瓶ですって?」
立ち話も何ですから、とクレマンはクロエに部屋へ入れて貰った。
『事務室』と形容されるのにふさわしい簡素な物置部屋には書類が置いてある。
隣接するのがクロエの私室だ。
独身貴族を貫いているクロエの部屋は花や品の良いインテリアでまとめられている。
メイド長のクロエに個人的な相談をしにくる使用人もいるため、クロエは自室に小さな丸テーブルと椅子を置いていた。
クレマンは淑女への配慮として、ドアを開けたまま、入り口に近い方に座ろうとした。
だが、クロエは扉を閉めた。
第三者にあまり聞かれたくない話かもしれないと直感したのだろう。
こういうところはさすが、公爵家のメイドだとクレマンは思う。
クロエは小さなティーカップに茶を淹れながら言った。
「それで? このカンパニアがいったい何だっていうの」
「カンパニアはそれぞれの領地によってランク付けされていますよね。葡萄畑を管理するマルーニ地方から認められた畑のみがカンパニアの生産者を名乗ることができる」
「存じていますよクレマン。私も一応、ヴァレリアン公爵家に長く勤めておりますから。じれったいから早く言って頂戴。いったいあなたは何にひっかかっているの?」
クレマンはクロエに瓶を見せた。
「ラベルのここに生産者の名前がありますね。生産年月日も。カンパニアは天候が良く条件が良かった年には大きく貴重価値が高まる。馬車一台分くらいの値段になることもあります」
「ええ。それがどうかした? ここはその辺りの貴族の屋敷とは違います。ヴァレリアン公爵家なのですよ。そんな高価なお酒の一つや二つ、今更驚きやしませんよ」
「違うのです。クロエ。逆です」
「なんですって?」
「1X62年のカンパニアは、はずれの年です。この時は天候不順で葡萄の出来が酷く悪かった。数十年に一度の凶作とも言われました。特にマルーニ地方は大打撃を受けました。さらに、これは老舗ではなく、近年出たばかりの新興の生産者でほとんど歴史がない。質の良いカンパニアは高価ですが、これは微妙なところですね。安酒ではないが、決して高価とはいえない。評価としては良くて中級程度でしょう。ですからつまり、ここから導き出される結論としては」
「あのマルーニの若造が――公爵家を舐めているということね」
クロエは、メラメラと燃える炎のように静かに怒りをたたえていた。
クレマンは、ティーカップの中の茶が沸騰しかねないと思ったが、話を続けた。
「ということで、先週末がローラが帰ったときに書状を持たせてあります」
「ローラ……ということはグーロン領の諜報団ね」
「そうです。マルーニ伯爵領を調べるように頼んでいます」
「貴方は相変わらず仕事が早いのね。クレマン。ちょうど私は明後日、聖堂へ出かけます」
「週の半ばは慰問の日でしたね。他のメイドに任せてもいいのに、貴方が行くのですか?」
「マリーに会ってきます」
「旧知の間柄とはいえ、大聖女様を下の名前で呼ぶのはいかがなものでしょうか」
「私たちの間柄なのだから良いのよ。それに、マルーニ伯爵のことをマリーにも伝えておかねばなりません。このヴァレリアンに喧嘩をふっかけてきた不届き者がいると、知り置いて頂かねば」
公私混同とか職権乱用とか、そんな類いの熟語がクレマンの頭をよぎった。
聖堂の最高権力、あの大聖女マルローネをマリーと気安く呼ぶのもどうかと思う。
だが、賢明なクレマンは突っ込みを避けた。
「さて、どう出ますかね……」
良質なカンパニアとチーズで作られたような立派な体格。マルーニ伯爵のでっぷりとした頬肉と愛想笑いを浮かべた表情を思い出しながら、クレマンは一人呟いた。




