お安、段助になぐさめられる
同心の努力も虚しく、結局、芳平の死は、狂気による死として片付けられた。
遺体も海に流れてしまったのか、探せども引き上げることはできなかった。
芳平が飛び込んだ時こそ取り乱していた舟だったが、そのあとは気を持ち直した。
夫を亡くした娘を案じる実親を安心させるためか、あるいはずっと傍で香太が慰めたおかげか、葬儀の間も涙を流すことは無かった。
百日供養も終えた頃。
ある朝安は、舟が位牌に向かって手を合わせているのを見た。芳平がなくなってからと言うもの、舟は毎朝、芳平の仏壇に手を合わせていた。そうして気持ちに折り合いをつけていたようだった。
しかし、今日はいつもと様子が違ったのである。
今日は舟が香太に会いに行くとかで、舟の着る着物やら小物を準備し終えて、安が舟を探しに行った時のことだ。いつもなら、もう化粧を一人で始めようとしているのに、まだ、舟は仏壇の前で座り込んでいたのである。
そっと舟の横に腰を下ろし、安はためらいがちに言った。
「奥様、準備が──」
「私はもう『奥様』ではないわ。あの人はもういないんだもの」
舟が厳しい調子で言った。
芳平が死んで、しばらく経った頃、つまり芳平がいないことに周りがある程度慣れてきた頃から、舟は奥様と呼ばれることを嫌がり始めた。
安はついうっかりして、今まで通り奥様と呼んでしまうのだが、その度に舟からきつく言い含められるのだった。
「──では、お舟様。香太様に会いはるんでしたら、そろそろ準備をいたしませんと」
舟は動かない。
いつもは朝からこんなにも落ち込んでいることは無かった。
大抵は何かきっかけがあるはずのものだが、安に思い当たることは無かった。
安は黙って舟の隣に座った。
「あの人がいないことが、こんなにも私には辛いものだとは、存じませんでしたわ」
絞り出すように舟が言う。
「そうでしょう。私には、お二人は一心同体、二人で一人と思っていました」
はらり、と涙がおち、舟の着物に染みを作る。
こんな時、どうすればいい?
いつもの安だったら、くよくよ悩んでもどうしようも無い。だったら前へ進むしかない、そう言っただろう。そうやって前をむいて、何か面白いことを探していく。
安はいつだってそうしてきた。その場その場を楽しく。
しかし、そう言ったところで舟の心に響くことはないことも、知っていた。
悲しみは自分一人で抱えるには大きすぎるものだけど、誰かと分かち合うことが難しいのだ。
「お舟様。とりあえず髪をお結いします」
舟は涙を袖で拭いながら頷いた。
何が正解なのか分からぬまま、何かを言わねばならぬ想いに駆られて、安は言った。
「喪も明けたのですから、色のある飾りでもおつけになって、気分を明るくいたしましょう」
表情も見せない舟は、それでも香太の下へ赴いた。
香太の住む長屋の戸をたたくと、すぐに中から男が顔を出す。大柄だった芳平よりは小柄だが、舟よりは十分大きな男である。
「香太様」
香太の顔を見ると舟の顔は少しほころんだ。
まだ芳平も舟も香太も若かった頃、彼らは出会った。
ちょうど、今の安と同じくらいの時分である。
舟は金回りの良い呉服屋の娘、香太は芳平のはとこでありながら分家筋で、下級の武士であった。
それが、親の仕事だか何かがきっかけで、芳平と香太は若干の身分の差がありながらも、大変仲が良かったのだ。
「舟はいつも泣き虫やなぁ」
舟の泣きはらしたような目を見ると、香太は眉をひそめ、それでいて優しい顔をした。
そこにお舟がひし、としがみつく。
「香太様」
お舟は、目に涙を浮かべていた。それを見て、香太は少し困った顔を浮かべながら、安に言った。
「安、お舟は私がみておくから、また後で迎えにきてくれないか」
安は黙って頷いた。長い付き合いの香太の方が上手に慰められるはずである。
することがなくなった安はその足で段助のもとへ行くことにした。
安も、いつもよくしてくれた芳平がいなくなってしまったことに、もう大分慣れてきた。しかし、やはり誰かといないと落ち着かないのである。
例の占いのあった社の近くの路地を通ってゆくと、絵師たちの住む一画がある。
段助の師匠の家だ。
段助の師匠は京で絵を学んできた人で、免許皆伝までしたようなのだが、いかんせん厳しいことで有名で、弟子も少なかった。
段助はそんな中とられた、優秀な弟子なのである。特に、物の形を書くことが得意だった。師匠には目が良い、と褒められているようだが、安にはよくわからなかった。
段助の長屋の戸をたたく。今日の段助は休みでここにいるはずだった。
「誰や」
中から段助の気の無い返事が返ってきた。何かに夢中になっているときの声だ。
こいつ、休みのくせにまた絵ェ練習しとるんやな。
親は絵に夢中で帰りたがらない段助をもどかしく思っているはずなのに、段助にとってはどこ吹く風。一等大切なのは絵。
「私や。安や」
「あいとるから、入れ」
安は無遠慮に戸を開けた。ムワッと墨と絵の具の匂いが広がった。
床一面に書き損じの紙が丸めて積み上げられている。その中に埋もれるように、背中を向けた段助がいた。頭はボサボサで、人を出迎える気はなさそうだった。
安は紙をかき分けながら進み、段助の隣に腰をおろした。段助はそれに構わず、集中していた。
どうやら半紙いっぱいに繰り返し線を引く練習をしているようだった。
筆に墨を含ませ、紙ゆっくり下ろす。そうしてしっかりと打ち込みを作った後に、スッと引く。
一心不乱に絵の練習をする段助の姿が、安は好きだった。
墨を取る。紙に下ろす。引く。墨を取る、紙に下ろす、引く。
筆を握る手には、多くのたこがあり、手の甲も少し筋張っていて、安は少し落ち着かない気分になった。
段助はこんな手だっただろうか。もう少し丸い、ぽちゃりとした手だったはずなのに、気づけば絵師の手に近づいている。
安はちょっと目を細めて、段助の顔を眺めた。出会ったばかりの頃は、少し丸顔のぼんやりした子だと思っていたが、目の前の少年は違う。口元は引き締まり、目も真剣で鋭い。何というかこう、段々と一人前の男に近づいているようだった。
「いつまで書くんや」
余計なことを考えてしまったのを誤魔化すように安は言った。時の流れを感じたようで、寂しく思ったのかもしれない。
「うん」
生返事をする段助。墨を取って引く。
「客が来たら湯くらい出しいや」
「うん」
墨を取って引く。
「それとも私は客やないんか」
「うん」
墨を取って引く。
安はため息をついた。こうなった段助はしばらくこちら側に戻ってこない。諦めて待とう。湯を沸かそうと、安は立ち上がった。
半紙が埋まる頃になって、段助が口を開いた。
「そういえば、安、水の色は何色やと思う?」
「はぁ?」
「水の色は何色? カワセミの色は何色?」
水、カワセミ。色。何の話だ。安は心底訳が分からず返事をする。
「何の話や」
「芳平様の絵ェの話や」
思い出した。いつかの日に芳平が段助の師匠に注文した絵で、段助に色を塗らせてくれると言っていた絵だ。
「水は青やないんか。カワセミやったら青と橙やろ」
段助は線の練習をした紙を片付けながら言った。どうやら練習は一段落ついたようである。
「まあもう、考えても仕方のない事なんや。芳平様はもうおらんから、あの絵はもう描かへん。お舟様はいらないとおっしゃられたから、あげる相手もない。金も返した」
段助は残念そうに首を振った。段助も芳平が好きだった。段助の絵が上達していくのを、いつも褒めていたからである。
「やっぱり、芳平様のことを思い出してまうもんは、ほしくないんやろなァ」
段助は独り言のように言った。安は頷いた。
「私には分かる。好きな人が死ぬ。こんな悲しいことはないんや。だからお舟様が落ち込んではるんもしかたない」
「舟様と芳平様はは昔馴染みでの結婚で、仲が良かったからなおさらや」
「……でも、やっぱりお舟様には前を向いて、また元気になってもらいたいんや。何か楽しいこととか、代わりになるような人がいれば、また前に進める」
安の言葉に、段助は少し戸惑ったように言った。
「……お安は親がいないんだっけ」
「そうや。私がまだ小さい時に死んだ。やけど、芳平様とお舟様が私を可愛がってくれたから」
安の母は、安が幼い頃に病で亡くなったのである。父も程なく同じ病で亡くなった。
まだ幼くして路頭に迷った安を、母の雇い主であったお舟が引き取ってくれたのである。
そしてそんな安を芳平も可愛がってくれた。彼らを親代わりに育ったようなものである。
「やったら芳平様のことを好きやったんか?」
「あたり前や。大事な人や。……やけど、お舟様は悲しすぎて思い出したくもないみたいなんや」
「と言うと?」
「お舟様は……芳平様のものをどんどん捨てはっとる。まだ、芳平様の手紙なんかは捨てとらんけど、普段目につくような衣とか……」
段助は目を瞬いた。普通、亡き人を思い出すための、よすがとして、遺品はとっておくことが常だった。それほどまでに芳平のことを思い出すのが辛いのかと驚いたのだ。
「……私は、芳平様の物がなくなったら、芳平様がいたことも、なくなってまいそうで嫌や」
絞り出すように呟いた安に、思わず、段助は言う。
「せやったら、芳平様が最後に頼んだ絵ェ、俺、描くよ。そんで、芳平様も満足するようなやつが描けたら、やるよ。いつになるか分からんけど。俺は安が悲しむのが―――」
「段助! ええ奴や」
安は思わず段助に抱きついた。
言葉を遮られたのと、突然安が飛びついたのとで、目を白黒させる段助。
そっと安を引き離し、少し咳払いをして段助は言った。
「形見にしいや。芳平様がおらんのは悲しい」
「うん……芳平様の形見に」
段助の部屋から出て、お舟を迎えにいく頃、安の心は行きよりも幾分晴れやかだった。