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妻のお舟、夫を心配する

明るいとも暗いとも言えない、黄昏時。

芳平(よしひら)の家のとある部屋に女子が二人。

一人は(やす)。もう一人は芳平の妻の(ふね)だ。艶やかな髪を持ち、気品あふれる美しい女だ。


芳平が市で占いを受けた日の三日後、つまり芳平がいなくなるという日のことである。


「ねえ、お安や。あの人が市でどなたかと言い争いしてはったとか。安は何か知っておりますか?」


舟がぽつり、と安に尋ねた。鏡を覗き込んでぼんやりと自分の顔を見つめていたのである。


「それは……」


旧知の人に会いに行くだとかで、めかしこんで朗らかな顔で外に出ていた舟だったが、今は心なしか顔色が悪い。きっと出先であの噂をきいたのだろう。


「あの人が今日の夜にいなくなってしまうと聞きましたわ」


舟は手鏡に向かって髪を触った。

たおやかで白い手が、艶やかで黒い髪と対照的だ。髪を傷つけないようにそっと櫛を外す。


櫛は簡素な見た目だが、素晴らしい色味であった。

外から見える、上の部分は深紅だが、髪に刺さる目の部分は少し白っぽくなり、色の境目は見事にぼかされている。

艶やかな舟にぴったりの櫛。

舟はそれをじっと見つめた。夫の芳平にもらったものなのである。


芳平は酔った時には必ずと言っていいほど自慢をしていた。

お前を大切にする、と言って髪に挿した時、自分の妻がいかに優しく笑ったのか。

使い込めば使い込むほど深い赤が引き出される塗り。二人の愛の証だ。


きっと今、舟は夫の身を案じているのだろう、と安は思った。


「……奥様。それはただの占いです。そんな、気にしはることなんて」


そうなのだ。いくら当たるとはいえ、たかが占いなのである。

外れることだってある。

安はそう言って舟の気をそらせようとした。


「お安はこの櫛をどう思う?」


唐突に舟が聞いた。戸惑う安。


「綺麗な紅だと」

「そう……。紅、ね」


舟はにっこりと笑った。がどことなく悲しそうな顔である。

安は自分の答えが気に入らなかったのかと不安になり、慌てて言葉を継いだ。


「とても綺麗だと思います。奥様も大切にしはってるんでしょう?」


「大切よ。もちろん大切に思っているわ。これはあの人が私のことをよく分かっているからこそくれたものだと思っているわ」


こちらを向いた女の顔は奇妙に歪んで見えた。


「お安。あの人を見張りましょう」


定まらぬ目で安をみる。強い力で安の腕をつかむ。


「奥様?」

「あの人の事をずっと見張っていれば何かがあっても止められるわ」


つかむ力の強さの割に声はか細く、その釣り合いの取れぬ様子に、安は黙って頷くことしかできなかった。


※※


食事時の芳平は何も気にせず、いつもと変わらぬ様子だった。

むしろ久々の妻の手料理に舌鼓を打ち、幸せそうに見えた。


それに構わず舟は硬い表情で聞いた。


「この前の大鳥の社での市で、一悶着しはったのですか」

「ああ、大したことやない」

「なんでも、占いをした者を切ろうとしたとお聞きいたしました」

「切りはしておらん」

「しかし、あなたが亡くなってしまうだとか」

「くどいぞ」


舟はため息をついた。


芳平は凡庸だが人の良い人として知られていた。しかし、それはあくまで代官として。

外で見せる姿と、気の知れた身内に見せる姿とでは大きく違うことは、人間よくある事である。

土田の介を切ろうとした時に垣間見られたように、ひょんなことから怒る、短気な面も持ち合わせていた。


舟はそのことをよく知っていた。

時に芳平は頑固にもなる。こうなった時に何かを言ってはいけない。


子供の頃、芳平にはいつも一緒にいるはとこがいた。

芳平よりも貧しい男であったが、よく努力をする男だった。

香太(こうた)だ。

兄貴分の芳平と弟分の香太。そして、そこに舟も混ざっていた。

彼らはたまに喧嘩をしていた。他のものに対しては優男で通す芳平であったが、特に気を許したものには強く出てしまいがちなのである。

そして、そんな芳平に折れるのはいつも香太だった。


芳平は繰り返し言った。


「何もない。お前の気にすることやない」


半ば自分に言い聞かせ、本当は不安に思っているのをかき消そうとしているようにも見える。


「ですが……」

「いつもの酒だ。酒。悪いことは忘れるに限る」

「では、お安に頼みますわ」


お舟が隣の部屋に下がった安に声をかけようと立ち上がった。

それを芳平が制する。


「いや、たまには私が自分でやろう。酒はどこにしまってある? まだ残っている酒はないんか」


珍しいこと、と舟が怪訝な顔をしたが、素直に答えた。


「酒はいつものところに……。そういえば香太さまが酒をくださいました」

「香太が? 来とったんか?」


芳平が何かを思い出すような顔になった。


「えぇ。あいにく、あなたはいらっしゃらなかったし、ほら、親戚といえど、夫のいる人のところに長居するのも外聞きが悪いとお思いになったのでしょう。すぐに、帰ってしまわれました。久しぶりにお会いしましたが、お元気そうで、少し懐かしくなりました」

「そうか」


芳平は言葉少なに答えた。


「折角でございますから、また今度、三人で集まりましょう。ほら、昔、こどもの頃はあんなに、いつも一緒にいたのですから。香太様も喜びます」

「そうやな……。で、酒はどこにあるんだ?」


お舟はため息をついた。いつも、香太の話をすると嬉しそうに喜ぶのに。

このありさまでは占いのことを忘れさせるのは、無理そうだった。


「目立つところに置いてありますから、よろしければそれもお飲みを」


芳平が一旦外に出て酒を取って戻ってきた。

香太のくれた酒と、普段飲んでいる酒だ。

さァさァ、と舟が器に注ぐ。ふわり、と豊潤な香りが広がる。

普段と同じように酒を口に運ぶ。そうしていつも通り上機嫌になってゆく。


「お舟、お前ものむか?」

「私は良いですわ。芳平様がいただいた物ですもの」

「そうか……」


芳平は残念そうな顔になった。


「美味いから、お前にも飲んで欲しいんだが。仕方ない。私がすべていただこう」

「……それだけ飲めるのなら、今日死んでしまうとは考えられませんわ。ほっといたしました」


ちょっとしたことから、安心を得たいのだろうか。

舟は次第に緊張を解いていったようだった。

芳平は飲みすぎてか、眠くなってきたらしい。

寝言のようなはっきりしない口調でいう。


「──どうしてもと言うのであれば、見張りでも立てれば良いんや」


舟は朗らかに笑いながら言った。


「えぇ、そういたします。きっと、何もありませんでしょうけれど」

ほんまに何もないんか?おいおい?

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