女と少女は川へ向かう
「あの人は帰ってこないのかしら」
あれだけしつこく市に行けと言われた手前、行かなかったことを知られてはまずいと、安はお舟を少し離れたところから、なんとかけどられないように見張っていた。
しかし、それは骨が折れたし、飽きもした。結局早く帰ってきたことにした。今は、お舟とともに夕飯を食べていたところだった。
「香太様は用があるそうです。いつ帰って来はるかは知りません」
「そう……。なら、お安は先に寝ていてちょうだい。遅くなるかもしれないから」
素直に頷き寝入った安だった。お舟も静かに夫を待つばかりで静かな夜だった。
※※
少し寒気がして安は目が覚めた。夏が近づいたといえども、少しまだ肌寒い季節だからなのだろうか。安は身震いをして寝具を体に巻き付けた。
が、じきにそれにしても寒い。じっとしてみると、そよ風が体を撫でていくのが分かった。しかし、窓や戸は閉めて寝たはずだ。
カタリ。
音がして、風が止まった。誰かが戸を閉めてくれたのだ。その証拠にその人が去っていく衣擦れの音が聞こえる。
でも、誰が?
安はパチリと目を開いた。安の他にお手伝いはいるとはいえ、夜もこの家にいるのは安だけだったはずだ。
もしかすると泥棒かもしれないと思った安は、音を立てないように立ち上がると、少し襖を開けて外を伺った。誰もいない。となると気のせいだったのだろうか。
もう一度寝ようと思った安の耳に、誰かが土を蹴る音が聞こえた。
庭を誰かが走っているのだ。
安が細く襖を開けると、ぼんやりと人影が見えた。
長い髪が揺れる、ということは女だ。この屋敷にいる女で、あの背格好。
「お舟、様?」
なぜこんな時間に。安は急いで草履を突っ掛け後を追った。小走りで走る。
どこへ向かっているのかわからなかったが、じきに悟った。これは川へ向かっているのだ。あの夜のように。
嫌な予感がした。
でも、何をしに川へ。
安は、昼間のお舟の言葉を思い出した。
結局は浮舟になる。
浮舟。彼女は男らの思いに悩んで、悩んで、結局。
––––最後には川に入るの。身を投げるの。
安は息を呑んで足を早めた。お舟は川に飛び込む気だ。安は手を伸ばした。
しかし届かない。芳平が死んだあの日のように追いつかない。届かない。
人影が橋に向かって道を曲がっていく。チラリと見えた横顔で確信する。やはりお舟だ。
髪を下ろしていてもよくわかる。なぜって髪をいつも自分が結っていたのだから。頭には大抵、あの綺麗な、赤から白にあわく変わっていく櫛を挿した。
ああ、そうだ。これから起きることはあの日と同じだ。安は力の限り叫んだ。
「お舟様! 待ってください!」
あの日と同じにしてはいけない。お舟を死なせてはならない。安は必死だった。
あの日と違って今日は月が出ている。だから、お舟の顔がよく見える。悲しそうだ。本当はこんなことしたくないはずだ……。
顔が見える?
安は走りながら思い出した。
あの日、真っ暗で何も見えなかった。辛うじて芳平の白い衣が見えたかどうかだ。それが消えて、川に落ちる音がして……。そう、ドボン、と言う音だ。大きな音がした。
音を聞いて川に落ちたと思った。でも、落ちるところは見てない。結局、死体は上がらなかった。そして芳平の幽霊が現れた。喋った。そんな幽霊を出すやり方なんで分からなかった。……芳平の死は、あの小銭を宙から出すのと一緒だったのだ。
はっとみると、お舟の足が、欄干に載せられていた。舟が立ち上がった。安に向かって悲しそうに笑った。舟は芳平が死んだと思っているのだ。いとしい芳平に死んで会いに行こうとしてるのだ。けれども。
「芳平様は、生きてるはずや!」
安は叫んだ。舟は驚いて安の方を見た。
しかし、欄干の上のお舟の体は川へ倒れ込み始めていた。舟が思いとどまろうとしたところで、もう無理だった。
舟は手を回して元に戻ろうとしているが、もう体が傾いていくのを止められない。
安は悲鳴を上げて、しかし諦めることなく手を伸ばした。
ギリギリのところでお舟の手をつかむ。
よかった。このまましっかりつかんでいれば……。
いや、そう簡単には行かない。安の力では大人をつかんでおくことなどできない。よくて舟の手が滑って、舟が落ちる。そうでなかったら、つかんでいる安ごと落ちる。
安の足が滑った。
それに気づいて、お舟が手を放そうとした。しかし、安は手を離せない。
安はギュッと目をつぶった。自分が落ちるのは怖い。けれども、それ以上にお舟が落ちていってしまうことの方が怖い。自分を抱きしめてくれるたった一人の存在。
舟が手を振りほどこうとする。もう駄目だった。手を離すしかない。
手がふっと軽くなった。
安は悲鳴をあげた。
あと二話で終わりになります。




