お舟の異変
「お安、この櫛つけてくださらない?」
朝の身支度の時にお舟が言った。夏も近づき暑い時期だ。安は、舟の髪を綺麗に上げて髷を作っていた。
安は化粧鏡を確認しながら、慎重につけた。黒髪に紅がよく映える。しかし、白へと境目なく変わっていく細工も凝っているのだから、その移り変わりも少しは見えるようにしたい。
「どこかへ行きはるんですか?」
舟は笑った。憂えた顔の多かった近頃には見ない、穏やかな笑顔だった。
「いいえ。何もないけれど」
そう言うと舟は化粧台をひっくり返し始めた。
「お舟様?」
「安、今日は私は家でゆっくりするから、外へ買い物にでも言ってきなさい。今からお小遣いをあげるわ。余ったものもみんなあげるけど。使いすぎないでね」
そう言って、舟は今まで見たことはないほどの金、安の給金半年分はありそうな金を手渡した。
「最近、忙しかったから、その分のお手当も入っているわ。受け取ってくださる?」
押し付けるようにして渡すお舟を不思議に思ったが、安は素直に受け取った。
「本当に、今日は休みでいいんですか?」
「ええ。さあ、いってらっしゃい」
安は少し訝しく思いながらも、さっさと自室へ引き上げた。さて、今日はどうしようか。段助を誘って甘い物でも食べようか。
とは思ったものの、段助も今日は休みではなかったはずだ。絵師の見習いも暇ではないのだ。
先ほどもらった金を、使いそうな分だけ普段の袋に詰めると、安は立ち上がった。仕方がない。一人で行こう。そんで、金持ちになった気分で豪遊しよう。
部屋を出て、門へ向かおうとした安だったが、仏間にお舟の姿を見て足を止めた。いつもなら、朝お参りをしてそれで終わりなのに。なぜ、陽も昇ってから。
少し考えた安だったが、すぐに何か二人だけの特別な日なのかもしれないと思った。さっきの舟はたいそうめかし込んでいた。きっと仏間の芳平に見せたいと思ってのことだったのかもしれない。
好奇心から安は、気づかれないように少し襖を開け、覗き込んだ。
しかし、お舟は静かに手を合わせるばかりで、別段変わったこともないようだった。思い過ごしだ、そんな日もあるだろう。
気を取り直して門へ向かおうとした安だったが。
「お舟、とはよく言ったものね。最後は浮舟になってしまうなんて」
安は再び仏間の前ににじり寄った。お舟は、今朝安がつけたあの櫛を引き抜いて、見つめていた。
「いいえ、最初から浮舟だったのかもしれないわ。どちらに停まることもできずにさまよっていたようなものだから」
それから再びお舟は手を合わせ始めた。浮舟。安はその姿に何か儚さを感じながらも、言いつけられた通りに市に行こうと門へ向かった。
しかし、安はまだ市に行くことはできなかった。
「安。お前は今日休みだったのか?」
ちょうど、代官の仕事の合間に屋敷に戻ってきた香太に声をかけられたのである。
「お舟様が、今日は休みにしていいと」
「そうか……。今朝うなされていたから、まいっていないとええけど、元気そうだったか?」
「はい。なぜか身綺麗にしはるくらいでしたし、私にいつもより大分多くの金をくれはしました」
香太が眉根を寄せた。
「大分多くっていくらや」
「お給金半年分です」
香太は眉間のシワを深くした。
「いくらなんでも多い。何を考えてとるんや。今、舟はどこにいる?」
「芳平様の仏壇のある部屋に」
舟を少し叱ろうとしていたのか、きつめ声を出した香太だったが、仏間にいると聞いて不安げな顔になった。
「何か言ってたか。一緒にいたんか?」
「いいえ。一緒にはおりません。でも、独り言なら聞きました」
「どんな」
「最後には浮舟になってしまうと。私にはよくわからんけど」
しかし、香太は何かに思い当たったようだった。安の肩に手を置いて言った。
「すまない、安。やはり、休みはまた別の日にしてくれないか。今からお舟をしっかり見ていてくれ。いいな」
「香太様が自分で見てれば––––」
「俺は、行かんといけないとこがあるんや。手遅れになる前に」
言い置いてすぐに踵を返す香太はのっぴきならぬ様子で、慌てたように走って行った。安はそれを見送る他なかった。
豪遊はまた今度だ。安は再び屋敷に引っ込んだ。




