能の帰りに
さて、芳平や段助が好むは絵であったが、江戸の将軍が好むは能。
幕府に取り入る大名たちはこぞって能を習い、歌ったのである。
町では当然、謡いを教える人や、舞を教える人が多くいた。
大名ではない武士も、町人も皆、能に馴染があったのである。
ある時、香太の友人が能を内輪で披露するとかで、それの付き合いで、お舟と安も観に行くことになった。
とはいえ、安は人形浄瑠璃や歌舞伎なんかの世間の話題を芝居にしたものの方が好きで、観ながら何度もうつらうつらしてしまっていたのだが。
香太は友人のところで話し込むから、と言って、二人を先に返していた。
かつての香太の家の近くの友人で、見知った場所である。
夏も近く日もまだあったから、案内人もなく、本当に安とお舟の二人きりの帰り道だった。
「安、今日の話は少し難しかったのかしら」
「そんなことありません」
「でも、寝てしまいそうだったやない」
見られていたのだ、と安はきまり悪い顔をした。
「だって、変なお面つけた人が、ゆっくり変なこと言うてるだけやし。言ってることがわからんかった」
それを見てお舟がコロコロと笑う。
「さっきまでやっていたお話は、紫の物語からきているのよ」
安は首を傾げる。お舟はさすが、金持ちの娘で武士の妻なだけあって、よく物語を読んでいるのである。
いまいち、わかっていない安に向かって舟は言った。
「源氏の物語とも言われているわ」
「それなら知ってます。素敵で、身分の高い男の人が女の人を取っかえ引っかえする話ですね?」
確か、と安は思い起こした。段助の師匠が今度描く絵は、源氏の物語の絵だと。
それは何だ、と聞けばそんなことも知らないのかと呆れながらも、教えてくれたのだ。
舟はコロコロと笑った。
「いいえ、取っかえ引っかえじゃないわ。ちゃんと、そこには優しさとか、思いやりとか、それだけじゃなくて、苦しいとか悲しいとか、人の情け全てが描かれてるのよ」
「源氏とか言う人は、何人もの人と結婚するのに? 心があるなんて思われへん」
安が唇を尖らせると、舟はため息をついた。
「例えば、その男の人――源氏が求めているのはいろんな人じゃないわ。ただ一人、初恋の人のことよ。でも手に入らなかったから代わりを探しているの」
「そんなん、最低やないか」
「そうでもないわ。その代わりにしていた人――最後には、紫の君を大切に思っていたことに気がつくのよ。もう紫の君を失って、取り返しはつかなくなってからだけど。」
舟は微笑んでいるだけだった。
しかし、と安は考えを巡らした。
舟がしていることは今まさにそれなのではないだろうか。
香太をかつての芳平の代わりにしているのかもしれない。
香太も芳平と同じで優しいから……。
いや、それ以上に優しくお舟に接しているかもしれない。
慌てて安は言い直した。やはり、安にとって舟は大切な人で、悲しませたくはないのである。
「でも……。何か代わりを求めることは誰にだってあります。私も……お舟様と芳平様を自分の両親のように思っていました」
「安! 嬉しいことを言ってくれるのね」
舟はそっと安を抱き寄せた。こうして腕に包まれたのは久しぶりだった。昔はよくしてくれたものだったが、自分が大きくなるに連れて、自然となくなって行ったのだった。
けれど、この温もりは昔のお舟と何ら変わりも無かった。
「お舟様。芳平様と香太様のことで何かお悩みになって––––」
「いいえ。そんなことではありません。決して」
安をパッと突き放すようにして体からはなした。どうやら、自分に悩みを話してくれるわけではないようだった。
安は少し寂しく思ったが、仕方なく、源氏の話に戻した。
「では、源氏の物語の中で、何か好きな話はあるのですか?」
「ええ。最後の部分のお話。今日の能の部分よ。源氏の息子たちの世代の話。一人の女性を巡って二人の男性が取り合うのよ」
お舟はやはり、沈んだ調子のままだった。それを見て安は努めて明るく言う。
「私も、二人の人に言い寄られてみたいなぁ。ええなぁ」
「安はそう思うのね」
お舟は微笑ましそうに言った。かつてはお舟もそう思っていたのだろうか、かすかな憧れを顔に浮かべているようだった。
「選ぶと言うことは、決めないといけないのよ。どちらが好きか」
お舟はそれまでゆっくりと歩いていた足を止めて、安の方を向いた。
「二人に取り合われた女性は、どちらが好きとも決めることができないのよ。どちらか一方といるときはその人が良いと思っても、いざ、もう一人に会ってしまうとそちらが良いと思ってしまう」
「そんな……。好きか嫌いなんて、すぐに分かるものなのに。こんな正反対なこと、あるはずない」
「それが、はっきり区別できるものじゃないの」
舟は安の顔を覗き込んだ。
「安は、段助のことをどう思う?」
「好きや。大好きな友達や」
「そんな気持ちでずっといられたらいいわね」
寂しそうなお舟の顔が、黄昏時の光に包まれる。
この時分の光は柔らかくて心地よいけれど、それも束の間。暗い夜へと向かう光だ。
不意に安は不安になった。
「お舟様?」
「誰が好きなのか分からない。最後には川に入って、そして全てを忘れるのよ」
舟はじっと安の顔を見つめた。
「好きなのよ。きっと。でも––––」
「お舟」
後ろから突然声がして、舟はびくりと肩を震わせた。安が振り返ると香太だった。
どこから聞いていたのだろうか。
しかし、香太はただ一言、もう一つ用事ができたから、まだ遅くなる、と言っただけだった。
そう言って踵を返した。
後数話で終わります。
評価、ブックマーク等ありますと、励みになります。




