お安お舟の異変を語る
芳平の両親も、お舟の両親も心配をしていたが、お舟と香太の結婚は案外良い生活であった。
香太の家も、別段気にすることも無いようだった。それもそのはず、香太はその才を買われ、これを機に芳平の仕事を受け継ぐことになったのだから、香太の実家も願ったり叶ったりなのである。
しかし、安には思うところがあるようだった。それも当然。安には大人の機微など難しくてならなかった。
安は、お使いでばったり段助に出会った。これ幸いとばかりに、段助にこぼす。
「お舟様、香太様と結婚なさったけれど、私は最近、あんましうれしないんや」
「なんでや」
「お舟様は、芳平様の奥さんだったんやで」
「でも、仕方のないことやったんやろ? 安もそういっとったやないか」
「せやけど。あんなにお舟様が香太様と仲がええと、芳平様が可哀想や。あんなに、お舟様に一途やったのに」
安はこぼす。
「香太様も悪いお人や。お舟様の心を変えてしまって。お舟様もや。芳平様の奥様やったのに」
安は段助の方をみた。
「私はわからんのや。舟様が何を思っとるんか」
安は、ついこの間の出来事を話し始めた。
※※
芳平の月命日のことだった。
この毎月のお経にも少しずつ慣れてきていた時分である。
僧侶を呼んで線香をあげ、香太とお舟、そして安はともに仏壇に手を合わせていた。仏前には、それなりの食べ物を用意して、生前芳平が好きだった甘味も供えていた。
坊主が帰った後のことである。お舟が呟いた。
「あの人、春が好きだったわ。ちょうど今の暖かくなってくるような時期よ」
「……そうだった」
香太も片付けの手を止めて頷く。
「昔、みんなで山菜を取りに行ったことがあったでしょう。ほら、あなたがどうしてもフキノトウを食べたいって言って。もう時期は遅かったのに」
香太は、ああ、と気のない返事をした。近頃の香太は舟が芳平のことを話すたびに少し嫌そうな顔をするのだ。好きな女が違う男の話をするのは、気分が悪いのだろう。
「私は歩き慣れない山で足に傷を作ってしまって……。そうしたら、あの人が背負ってくれた。しかもその後も、治ったって言っても何度も私の家まで訪ねてきてくれた」
「……あいつは優しいから」
「そう、優しかったのよ。優しかった」
どうも雲行きが怪しかった。お舟の語気が荒くなる。
「優しかったから、いつまでたっても親の言いなり。あの人たちが、やれ金が欲しい、ものが欲しいといえば、私に頼み込んでばかり。町じゃ、香太、あなたが貧乏だなんて言われているけど、そんなことないわ。芳平様だって似たようなものよ。あの浪費癖のある義父たちが、使ってばかりで、全くたまらないのよ」
言いながら、お舟はこぶしで床をどん、と叩く。お舟の声も気づけば、大きなものとなっていた。
「あの人が本当に私を好きだったのか、わかったもんじゃないわ! お金が欲しかっただけ。私だって本当は––––」
「芳平のことを悪く言うな!」
香太がお舟をかき消すように言った。
「なら、なぜ芳平と結婚した。最初から––––」
香太はそこまで言って、しまった、と言うように口を閉じた。次に口を開いた時には、いつも通り、穏やかな声になっていた。
「お舟、疲れているんや。もう、すぎたことは仕方がない。ここまできてしまったんやから」
「あなたは、優しいのね……。あの人みたいに」
「それをやめろと言っている」
何かを抑えたような香太の声に、お舟はうなだれた。
「もう戻れないのね。これからは、あなたと行くのだから」
※※
話し終えた安に向かって、段助はあのなぁ、とため息をついた。
「お安、お安がお舟様たちンこと気になるんはわかる。けど、あんまりそんな、家ン中のことホイホイ話したらアカンやろ」
「何でや。段助にしかこんなこと話せんのに」
「誰がどこで聞いとるか分からんやろ。俺の部屋ならともかく」
「でも」
不満げに安はもう言わない、と約束をした。自分の奉公する夫婦は、あんなに好きな夫婦だったのに。二人は何だか、後ろ暗いことがあるようで、嫌な気分は募るばかりだった。
同時に、あんなに好きだった二人を疑い出した自分に嫌気もさしていた。
いくら優しい舟を見ても、黒い疑いがもくもくと湧いて出てくるのである。本当に舟は、芳平のことを忘れてしまったのじゃあないだろうか。それとも。
「舟様、あんなに芳平様と仲良かったのに。今じゃ、親の言いなりで、意気地なしな人だったって。お舟様、芳平様のこと、ホンマは好きじゃなかったんやないかって思ってしまうんや。好きじゃなかったんなら、そりゃ、嫌いってことや。芳平様だって、本当は悪い人やったんやないかって思えてきてしまうんや」
段助は黙って安の手を握った。そこからじんわり熱が広がる。暖かい手だった。
「お舟様のことは、俺は安ほどわからん。でも、安に、芳平様が優しくしてくれたんは変わらんやろ」
低い落ち着いた声で段助が言う。
「うん」
「お舟様が、安に良くしてくれるんも、ホンマのことやろ」
「うん」
「今やって、俺にこうやって話てんのも、お舟様が、安の寄り道に目ぇつぶっとるからやろ。お小遣いもくれて」
「うん」
「な、やったら、安は、芳平様とお舟様の優しいとこをちゃんと覚えとればいいだけなんやないのか」
それでもなお、落ち着かない安に、段助は少し声を高くして、明るく言った。
「優しいといえば、俺の師匠とは大違いや! 師匠はすぐ怒るんや。俺が悪い訳やないのに! この前な、師匠が絵の具を作るための鉢を持って来いって言うたんや。俺はハイ言うて、ちゃんとこう、準備して持ってたんや」
段助はご丁寧にも、絵の具をすりつぶす鉢の形を手で作って見せた。安はチラリと見て鼻を鳴らしただけだった。気を取り直して段助は続けた。
「でな、師匠の部屋まで行ったら、丁度師兄が師匠のご飯の器を下げててん。でも俺、それに気が付かんでぶつかってしもて」
安が目で続きを促した。
「で、ガッシャーンと行ってん。師匠大慌てで出てきてな、段助! お前、何大切な絵の道具壊してるんやって。でもな、割れたんは絵の具の鉢やなくて、師兄のもっとった食器の方や。俺のこと見とったんとちゃうのに、なんで俺が怒られなあかんねん。ちゃんと見んと分からんのに、決めつけんといて欲しいわ」
「日頃の行いが悪いんやな」
安はたまらず、と言った調子で呟いた。どうやら安の調子が戻ってきたようだった。段助はそれに満足したようで、普段なら手が出るところを、ンなわけあるか、と言葉を返すだけに留めた。
「安。そろそろ帰るやろ。送ってくよ」
※※
「じゃあ、安、また」
段助が手を振る。ここはかつての香太の家の近く。芳平が死んですぐの頃、よく通った場所だ。その通う相手はもう通うまでもなく、お舟と一緒に住んでいるのだが。
安も手を振ろうと手をあげた、その時。
今、何かが目のはしで掠めた気がした。そちらをぱっと見て、安は目を強く擦る。そうして、よく見るとネズミであった。
「なんだ」
そう思って歩こうと思ったが、自分が気になったことはそんなことではないように思った。
ネズミが出てきたのは細い路地の間からだった。少し気になってその路地を覗き込む。
誰かの家のかまどが見える
かなり大きめの、土で固めたようなかまどだ。その上には、きちんと重そうな鍋が乗っている。
ところが、じっと見ていると、じわり、と鍋が浮き上がったように見えた。
「段助、あれ」
安の口から出た声は、どうしようもなく震えていた。まさか。




