第60話 船上にて
第一章
冷たい灰色の空が広がる。
アレクシスは船の最後尾の甲板の上から、海を眺めていた。
大きな音ともに、激しく泡立てられた海水が、白く広がり、その波が船のはるか遠くまで続いていく。
タルールの亜熱帯に慣れた肌が、寒さにヒリつく。
船が起こしたうねりはやがて、波の一部に消えてなくなる。
アレクシスは翡翠の瞳に決意を宿して、身を翻した。
***
エアデーン王国の最南端、ヴォリアーシャ地方グレーンフィーン領の小さな港で、リゼットとエドウィンを降ろした船は、魔鉱の持つエネルギーを動力として、はるかジーラント帝国を目指して進んだ。
タルールからエアデーン王国の地形に沿うように、ずっと北上していた船は、大陸を南北に分断する国境の川、ダリヤーム川に入ると、その流れに逆らって進んだ。
季節は冬、あちらこちらに小さく砕かれた流氷が流れ着いている。
あと数日でダリヤーム川は凍ってしまい、航行不能となるらしい。
このまま順調に行けば、明日には帝都ドラゴグラードへ到着するという日の朝、船室の窓に、かつて見慣れた人工物が遠くに見えた。
アレクシスは、断熱コートを着て、氷点下の甲板に出て確かめる。
〈塔だ〉
星の入植者、古代エアデーン人が遺した最大の古代遺物である「星の塔」。
それが、帝都ドラゴグラードにもある。
アレクシスは、「星の支配者:ハイラーレーン」となって授けられた「神の指先」を動かしてみる。
塔にもし「神の石」があるならば、直接石に触れずとも、その情報に接続することが出来るはずだ。
……だが、帝国の星の塔からは、なんの反応もなかった。
──自分はこの星について、まだまだ知らないことだらけだ。
アレクシスはタルールに来たとき、ハイラーレーンの自分は、もう学ぶものはないと思っていた。
思い上がっていたかつての自分を恥じると同時に、まだ触れていない知識が塔に眠っているかもしれないことに、心ひそかに胸踊った。
***
船の食事室での晩餐も、今日が最後。
『予定外の事も色々起きたが、ダリヤーム川が凍る前に、タルール撤退が出来て良かった』
ヴィクトルはタルール撤退が自身の帝国への帰還で、もうすぐ無事に終わることに安堵した。
『お前はこの後、どうするつもりだ?』
と、アレクシスは尋ねた。
『そうだな、俺はペールしか出来ないから、プロのペール選手でも目指そうかな』
『そんなに兄貴が怖いのか?』
『どこまで知ってる? イヤな奴だな!』
ヴィクトルは、唇をとがらせ、拗ねてみせた。
アレクシスがカマをかけた情報の出所はオリガだが、オリガは知らん振りして、黙々と食事を続けている。
ヴィクトル・オレーゴヴィ・ジーラントは、帝国第三皇子。上に兄が二人いる。
長兄セルゲイ・オレーゴヴィ・ジーラントは、ヴィクトルと同じ亡き正妃、ヴィアンカを母とする第一皇子だが、珍しい「先祖返り」の皇子だった。
すなわち、ジーラント人の特性である「強靭な肉体」を持たずに生まれた。
今では巨大馬は何とか乗れるようになったようだが、高いところが苦手で翼竜には乗れないらしい。
その代わり、エアデーン人のように知識の探求欲は旺盛で、ジーラント人には珍しく、王国への留学経験もあるため、王国語も操れるらしい。
性格は良く言えば温厚、悪く言えば気弱で、皇太子争いからは早々に離脱していた。
現在は、ジーラント帝国の寒冷地で育つ農作物の研究を、独自で行っているらしい。
二番目の皇子は、イーゴリ・オレーゴヴィ・ジーラント。
先祖返りの第一皇子の誕生に危機感を抱き、後宮に送り込まれた第二妃リュドミラの産んだ皇子だ。
第二妃リュドミラは、正妃の死後、皇帝に即位したオレーグに合わせて皇后となった。リュドミラの兄マクシムは現在、帝国宰相を務めている。
タルールで亡くなったミハイルは宰相の息子であり、イーゴリにとっては従兄にあたる。
皇后リュドミラは、第一皇子とは違い、生粋のジーラント人の体質を持つ第三皇子ヴィクトルを、あからさまにライバル視した。
正妃である母を亡くし、後ろ盾を失ったヴィクトルは、タルールに「社会勉強」に出された。
皇后一派は、ヴィクトルが皇太子争いから脱落したと喜んだ。
イーゴリは現在、皇帝補佐として務めており、一番皇太子に近い皇子とされているが、まだ立太子はされていない。
……皇帝はヴィクトルの成人を待っている、という噂も流れる中で、今回、成人したばかりのヴィクトルが、撤退時に見せたその統率力、処理能力は高く評価された。
リュドミラ皇后率いる第二皇子派としては、脅威となる存在の帰還だった。
だが、ヴィクトルはそんな権謀術数が渦巻く世界に、興味はなかった。
『皇太子や皇帝など、なりたいという者がなればいい。俺はタルールで鍛えたペールが、どこまで本国で通じるか試してみたいんだ』
と、意気揚々と語るヴィクトルに、
『アレクシスはリゼを王国において、帝国のために、農作物の研究をしてくれるっていうのにな』
とオリガは、ヴィクトルの顔を見ず、呆れ気味に呟いた。
……冷たい沈黙が走る。
アレクシスは、話題を変えた。
『ヴィクトルの兄弟のミドルネーム、オレーゴヴィは、「オレーグの息子」という意味だよな? じゃあ、「エドウィンの息子」は帝国風に何て言うんだ?』
ジーラント人の男子は、伝統的に父親の名前を変化させて姓のように扱ったり、ミドルネームにしたりする。
『エイドヴィ、かな?』
『じゃあ、俺はアレクセイ・エイドヴィ・ルスラーンと名乗ろうかな』
『……よろしく、アレクセイ』
オリガがなんのためらいもなく切り替えて答えたので、ヴィクトルはギョッとした。
──アレクシスはまさか、こんな一瞬でオリガを暗示支配したのか?
『そう言う訳だから、ヴィクトル殿下もそのおつもりで。皇帝陛下、皇妹殿下にもその旨、宜しくお伝え下さい』
アレクシスは瞬きをゆっくりすると、帝国風の礼をし、席を立った。
翌朝、帝都ドラゴグラードに入港した最後の引き揚げ船からの入国記録に、「アレクシス・レーン・レナード」という王国人はいなかった。
アレクシスは完全に姿を消した。




