第106話 義弟トビー
第二章
貿易省では七月から九月にかけ、交代で二週間ほどの夏期休暇が取れる。リゼットとジェニファーは、二人同時に八月の中旬から休むことにした。
ジェニファーは故郷のポートダリヤームに帰ると言っていた。
リゼットはレイマーフォルスの別荘にいる伯父夫妻に会い、二日ほど過ごしてから、新グレーンフィーン伯爵となったジャック一家を訪ね、そこで一週間ほど過ごす予定となっていた。
今回、初めての一人での里帰りで、リゼットは緊張していた。
犬のバロンをリュック型のキャリーケースに入れて背負い、大事なものを詰めたショルダーバッグと、お土産の詰まった大きなトランクを手にし、王都エアデーリャ駅に向かった。
この時期、皆が一斉に夏期休暇を取るので、駅は大変混み合っていた。
リゼットは、予め買っておいた切符を手にし、グレーンフィーン領のあるヴォリアーシャ方面へ向かう汽車に乗りこんだ。
そして、そのまま揺られること半日、終点となるヴォリアーシャタウン駅に降り立った。
タルールの全てを溶かすような暑さに比べれば、まだマシな夏の暑さのはずだが、断熱マントがないので体感温度は変わらない。
荷物で塞がれた手では、日傘を差すことも出来ず、リゼットの額には、早くも汗が浮かんでいた。
ここから馬車で二時間ほど行くとレイマーフォルス家の別荘、さらにそこから一時間ほど行くと、グレーンフィーン領だ。
汽車の中は空調設備もあり、うとうとと眠ることが出来たが、今からが一番体力のいる、気を張らねばならない行程だ。
覚悟を決めたリゼットは、レイマーフォルス領行きの乗り合い馬車を探そうと歩き出した。
その時、後ろから「おい」という声がしたような気がした。
だが、自分に向けられたものとは気付かず、ホームを歩いていると、今度は気のせいではなく、「チッ」と舌打ちの音が聞こえた。
「リゼット・グレーンフィーン!」
突然、自分のフルネームを大声で呼ばれたので、リゼットは驚きに背筋がピンっと伸び、「ハイィっ!」と返事をして振り返った。
リゼットの後ろには、春先に会ったグレーンフィーン家の跡取り息子、トビー・グレーンフィーンが、相変わらずのふて腐れた顔をして、腕を組んで立っていた。
「わざわざ迎えに来てやったのに、無視するたぁ、いい根性してんな、お前!」
「ト、トビー!? 迎えに来てくれたの?」
ありがとう、と続けるリゼットのお礼の言葉を無視して、トビーは彼女の持つ大きなトランクを奪い取り、馬車の待機場に向かって歩き出しながら言った。
「……レイマーフォルスの大旦那が、お前を迎えに行けって言うから……」
リゼットの顔に、ほんの少し影が差した。
「ごめんなさい。私のことで貴方にも迷惑をかけてしまって……」
伯父はリゼットと、この義弟となったトビーをくっつけたがっている。だからリゼットを迎えに行くよう命じたのだろう。
だが、リゼットの先を歩くトビーは、立ち止まると少し振り返り、不機嫌そうな声を上げた。
「何で到着日をこっちにも連絡しない! 俺たちは家族になったんだ。頼れ!」
……家族。
リゼットには、そういう発想が全くなかった。
「う、うん、ごめんね。ありがとう!」
驚いたリゼットは、そう言うのが精一杯だった。
──家族。私たちは家族……。
トビーに言われた言葉を、リゼットが小さくかみしめている間に、トビーはズンズンと先に行ってしまった。
その後ろ姿を追いかけ、リゼットも小走りになって付いて行った。
トビーは父親と一緒に早くから漁の手伝いをしているだけあって、エアデーン人にしては、筋肉のついたガッチリとした体型の少年だ。
リゼットの重いトランクをものともせず、どんどん先を歩いて行く。
トビーは乗ってきた一頭立ての軽装馬車にたどり着くと、その荷台に手早くリゼットのトランクを載せた。
そして馬車の座席に乗り込むと、上からリゼットに手を差し出した。
リゼットは少し戸惑いながらその手を取り、引っ張り上げてもらって、トビーの隣の席に座った。
トビーは、馬に舌鼓で前進の合図を出して、馬車を発進させた。
***
一人っ子のリゼットに出来た義弟……。
トビーの肌はよく日に焼けており、髪は焦げ茶色、瞳も黒に近い焦げ茶色だ。
リゼットは、色白で金の髪、灰青色の瞳。父は恰幅が良かったが、リゼットは線が細い。
結局、古代技術を用いた血縁関係の検査はされなかったが、二人はどう見ても血の繋がった従姉弟には見えない。
リゼットは、ふて腐れたようなトビーにどう接して良いか分からず、動き出した馬車には気まずい沈黙が流れていた。
気まずいと感じているのは自分だけかも知れないが、リゼットは膝の上に置いたキャリーケースの中の、バロンに助けを求めた。
「ねぇ、ちょっと止めてもらってもいい? ずっとキャリーケースの中にいたから、バロンを休憩させてやりたいの」
「バロン?」
リゼットは「この犬の名前よ」と言いつつ、キャリーケースの上に付いた小窓のような蓋を開けると、バロンがひょっこり可愛い顔を出した。
鼻をしきりに動かし、見知らぬ場所の臭いを嗅ぎ取ろうとしている。
「へぇ、犬を連れてたのか! 大人しいもんだな!」
リゼットの思惑通り、トビーの表情が緩んだので、リゼットはホッとした。
トビーは駅のある中心街から郊外に少し出たところで、馬車を沿道に止めた。
リゼットはバロンに素早くリードを着けてケースから出してやり、水をやったあと、少し日陰を歩いて排泄をさせてやった。
トビーはその様子を興味深げに見ている。
「へぇ、犬のフンとか、お嬢様なのに拾えるんだな」
「飼い主のマナーよ。当然でしょ? それに、貴方もなってみて思うでしょ、グレーンフィーンは名ばかり伯爵なのよ?」
「違いない」
そう言ってトビーは笑った。
笑うと年相応の少年らしさが出て、可愛らしいと思えた。
彼のその顔を見て、リゼットはやっと自分が年長者だと実感出来た。
***
二人を乗せた幌付きの小さな馬車は、レイマーフォルス領に続いている並木道を進んだ。
沿道に植えられた樹木が落とす影が、夏のまぶしい日差しを遮り、頬に当たる風の熱さを和らげてくれる。
それからの道中、トビーとの沈黙が怖くて、リゼットはずっとトビーに話しかけた。……リゼットが沈黙が怖いのは昔からだ。
ずっと不機嫌そうに見えていたトビーだが、リゼットが上手に話を聞き出すと、少しずつだが、色々と近況を教えてくれた。
……新グレーンフィーン伯爵となってからも、相変わらず漁に出ているジャックのこと。
……トビーは母親ネリーと祖父ジョンに、伯爵領の経営について学んでいること。
……弟や妹たちは、自分の部屋ができて喜んでいたのに、結局同じ部屋で寝ていること……。
リゼットも王都での暮らしをトビーに話した。
……仕事は通訳で、王国語の書類を帝国語に訳したり、その逆もあり、やりがいがあって楽しいこと。
……書類を訳す仕事は、最初タイプライターの扱いに苦労したこと。
……口頭で訳す仕事は、早口で、訳す暇なく喋る相手に苦労し、本当に頭が沸騰しそうになること。
……最近では、先輩の助言もあって、聞きながら同時に訳せるように練習していること……。
……プライベートでは、シェアハウスに黒光りする害虫が出て、同居人の友人が全く助けにならず、結局一人で決死の覚悟で挑み、泣きそうになりながら、処理したこと……。
リゼットの話を黙って聞いていたトビーが、そこで口を挟んだ。
「黒光りする害虫ってなんだ?」
キョトンと尋ねたトビーに、リゼットは、
「うぅっ。その名は言えないわ!」
と答えた。
……なんでこの呼び方で通じないのだろう? トビーはあのおぞましい害虫が平気なのだろうか?
リゼットは自分で話を振っておきながら、その名を言いたくないし、聞きたくもなかった。
だから、トビーが
「あ、分かった!」
と、その名を言おうとしたので、リゼットは急いで、
「ああぁ! 言わないで!」
と自分の大声を被せ、慌てて耳を塞いだ。
そんなリゼットを見て、トビーは声をたてて笑い、リゼットもつられて笑った。




