第99話 婚約破棄
第一章
冬の夜空に浮かぶ月は、どこか遠い。
遠くの恒星からの反射光は
この星の夜空をあまねく照らしている。
熱帯の緑深きタルール、寒帯の雪深きジーラント。
……そしてここ、温暖になるよう守られたエアデーン。
土地ごとの風景は全く異なるけれど、
星のどこにいても
見える月のかたちは同じ……。
遠くジーラント帝国にいるアレクシスを照らしているのと同じ月が、リゼットを照らしている。
アレクシスとの婚約を破棄し、結婚相手を探しているリゼットを……。
***
「……ット、リゼット! ねぇ、貴女聞いていて?」
「……は、はい! いえ、あの……。すみません、聞いてませんでした」
王都エアデーリャのとある夜会で、窓の外に浮かぶ月を眺めていたリゼットは、素直に謝った。
今日の夜会の女主人からの問いかけに、伯母のアンナが代わりに答える。
「申し訳ございません、キャスバーグ夫人。おっしゃる通りですわ。養女は今はセイレーン・アレクシス様の婚約者ではなくなったんですの。恐れ多いことですし、グレーンフィーン伯爵家もまた特殊な祝福を引き継ぐ家ですから、その存続は重要だと夫が申しましてね。陛下にも、エドウィン殿下にも、婚約を辞退させて頂きたいと願い出まして、了承されたのですわ」
リゼットは、古代種とも呼ばれるグレーンフィーン家の、特殊な祝福をその身に宿す、最後の一人だった。
もうすぐ十八才になるリゼットは、「亡命王子」と呼ばれているアレクシスとの婚約関係を解消させられ、新たな結婚相手を見つけるため、社交を再開させられていた。
***
昨年十月、ジーラント帝国への短期留学から帰国したリゼットは、同じく留学したジェニファー・シンクレールが働く貿易省に入省した。
それと同時期に、行方不明とされていたセイレーン・アレクシスの現在までの動向が、王国内でも報じられた。
セイレーン・アレクシスは十四才でタルール国に渡り、タルールで育つ農作物に含まれる毒を解明した後、ジーラント帝国で農作物の品種改良に携わり、さらに新しい魔鉱脈の発見に貢献したことがヴィクトル第三皇子により公にされた。
セイレーン・アレクシスの活躍は、ここエアデーン王国においても、驚きをもって受け止められた。
特に新魔鉱脈の発見は、魔鉱の供給量の減少問題に悩んでいたエアデーン王国にとっても朗報だった。
それからさらに取材が進められ、アレクシス王子は駐タルール王国大使であった故ロナルド・グレーンフィーン伯爵の一人娘のリゼット・グレーンフィーン嬢と婚約関係にある、と報じられた。
……この夏に、帝国に留学した彼女と再会し、婚約者として数回連続でダンスを踊るなど、その二人の関係は、母であり皇妹であるミランダ殿下も公認で、継続中らしいと。
その報が伯父であり養父であるサミュエル・レイマーフォルス前子爵の知るところとなったのは、報道から一ヶ月経った一月のことだった。
ヴォリアーシャの領地から出てきたサミュエルは、リゼットに相談することなく、エドウィンに婚約破棄を申し入れ、国王オリヴァールに婚約は無効となった旨の手紙を送った。
エドウィンがいくら息子の味方をしようにも、女性側の家長、つまり、現在のリゼットの養父であるサミュエルが反対だと言えば、覆るのが王国貴族の婚約だった。
リゼットにセイレーン・アレクシスとの婚約破棄が知らされたのは、すべての手続きが終わった後だった。
***
「そんな! 婚約はお父様にアレクシスが申し込んで、お父様も承認したものだったのに、伯父様は勝手だわ!」
滅多に声を荒げないリゼットが、半泣きで伯父サミュエルに食って掛かった。
「ロナルドはグレーンフィーン伯爵家の存続に無頓着な男だった。格は全く劣るが、グレーンフィーン家とて、絶やしてはいけない古い家系なのに、何を考えていたんだか! それにそもそも、アレクシス殿下は王族、しかもセイレーンなのだから、格下のグレーンフィーンの婿になどと、恐れ多い話なのだ! まぁ、ロナルドもセイレーン・アレクシス様のおかれた微妙な立場を知らなかったから、承認出来たのだろうが……」
「……微妙な立場?」
リゼットは首を傾げた。
「恐れながら、ハイラーレーン・エレオノーラ様は、まだ後継のハイラーレーンをご指名になっていない。これがどういうことか分かるか?」
「いいえ……」
リゼットは王族の特別な祝福について、全く知らずにタルール時代を過ごしていたが、アレクシスがセイレーンだと知ってから、ある程度のことは教わった。
ジーラント人を暗示支配できるのが「星の制御者:セイレーン」で、成人した次代のセイレーンの中から選ばれるのが「星の支配者:ハイラーレーン」。
ハイラーレーンは、ジーラント人のみならず、エアデーン人も暗示支配ができるようになるという。
「現在セイレーンは、オリヴァール陛下、マグノリア殿下とアレクシス殿下の三人。オリヴァール陛下はエレオノーラ聖王陛下と同年代だから除外される。マグノリア殿下がハイラーレーンになった場合は、王統が再びハイラーレーンに統一されるだけのこと。何の問題もない。だが、アレクシス殿下がもしハイラーレーンになられたりしたら?」
「アレクシス……様は、ジーラント人のように暑いタルールでも寒いジーラントでも活動できるし、翼竜にまで乗れるのに……」
「そうだ。ジーラント人の特徴を持つハイラーレーンなど、今の王統であるオリヴァール陛下や、その側近の方々にとっては脅威でしかない。エドウィン殿下がまだ十四才だったアレクシス様を国外に置いて、亡命させていたのはそこにある。国外にいれば、成人を迎えてもハイラーレーンとなることはない」
リゼットは愕然とした。
アレクシスがタルールからジーラント帝国に渡ったのは、食料問題の解決方法を見つけるためだけではなかった。アレクシスの側にも、王国に帰れない事情があったなんて……。
サミュエルはため息をついて、
「私はね、リゼット。亡きシャーロットの忘れ形見のお前には、平凡に、幸せな結婚をしてもらいたいんだ」
と、リゼットに優しく語りかけた。
だが、それも一瞬で、すぐに厳しい口調に戻り、
「髪を切った時に交わした約束を守りなさい」
と彼女にキッパリと命じた。
「とにかく、社交をして結婚相手を見つけなさい。自分で見つけられないのなら、私が決めた相手と来年の十九才になる春に結婚させるから、そのつもりでいるように!」
と言い置いて、アンナを付添人として王都に残し、領地に帰っていった。
こうしてリゼットは、アレクシスとの結婚に何の覚悟も無いまま過ごしているうちに、彼の婚約者ですら、なくなってしまったのだった。




