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川を飛ぶ子供の目  作者: 羊
8/8

川を飛ぶ子供の目 8


 モモちゃんの運転する車が夜道を駆ける。山道は街灯一つなく、ヘッドライトの明かりだけを頼りに走った。道はうねうねで、かなり下っているようだった。

 車内はしっかりと暖房が効いていた。でも自分はどうしようもなく寒かった。身体の芯から冷え切ってしまっているようで、こんなに暖かな車内にもかかわらず身体の震えが止まらなかった。

「大丈夫?」

 モモちゃんはハイビームの照らす先を見据えながら言った。イメージはなかったのだが、車を運転するモモちゃんはなんだがすごく様になっていた。

「寒い」

「こんな季節にあんな森の中に縛り付けられてたら誰だってそうなるわよ」

 そう言ってモモちゃんは自分に向いていた暖房もこちら側に向けてくれた。

「ありがとう」

 と弱々しく礼を言う。

「てかそもそも助けてくれてありがとう。あの、モモちゃんが来てくれんかったらマジで死んでた」

「うん」

「でもなんであの場所が分かったん?」

「事務所から連れ去られるとこを見てん。それでこっそり車で後を追ったの」

「で、あの社長達が帰るのを待ってタイミングを見て助けてくれたってこと?」

「そうよ」

「何でそんな危ないこと」

「何でって……そんなこと聞かないでよー」

 モモちゃんはガッカリしたような声だった。

 自分は女心というものに関しては(も)滅法ダメで、どうにも分からんくて、でも今これは何やらそういうデリケートなアレに触れとるんやろなぁ、ということだけはかろうじて理解し、返す言葉が出ずに黙っていた。

「あのねー、ちょっと考えてよ。牧村さんのことどうでもいいって思ってるんやったらこんな危ない橋渡ったりせえへんって。私やって死にたくないんやから」

「う、うん」

「あ、まだあんまし分かってないやろ?」

「いやー、そんなことないよ」

「嘘や。目、泳いでるもん。牧村さんほんま嘘下手やわ」

「あ、そうかな?」

 そうやと思う。自分でも思う。

「はぁ。牧村さんはどう思ってたんか知らんけど、私、牧村さんのこと、けっこう本気で好きやってんで。やー、好きやったと言うか今も好きや」

「マジ?」

 自分は驚いた。驚きで少し身体が温まった気がした。なんせ自分は何もかも中途半端で、いろいろなことに失敗し、その結果先ほどまで森中に拘束され獣の餌になりかけていたような男なのだ。モモちゃんのような若い女の子にそげなこと言われるなんて本来あり得ないはずなのである。

「これ、夢?」

「何が?」

「あ、いや。嬉しい。嬉しいけどなんで? 自分みたいな奴のどこがええんか分からん」

 するとモモちゃんは少し考えて、

「私も分からん」

 と言った。で、割とすぐに、

「あ、でも音楽は好きやった。ギター弾いてるのかっこ良かった」

 と付け足した。自分としては良い回答だった。

「あ、そうや。てかモモちゃん、身篭ったって聞いたけど。それはマジなん?」

「うん」

 モモちゃんは自分の目を見ずに言った。

「ほんまやで」

 やっぱほんまなんや、と自分は現実を目の当たりにしてつい黙ってしまった。こういうところがあかんのだ。

「大丈夫よ。もう堕したから。心配せんとって。もう全部終わった話よ」

「そうなん?」

「うん。社長に言われて。仕方ないわよ。私、一応社長の愛人やったんやし」

「あぁ」

 聞いてはいたが改めてモモちゃんの口から聞くと衝撃がある。やっぱ自分と社長は兄弟やったんや。

「ちょっとー、そんな顔せんとってよ。お互い様やろー。牧村さんやって結婚してること私に言うてなかったんやから」

「知ってたんや」

「知ってたわ。割と早い段階で携帯見たから」

「あー」

「何よ、あーって。何か他に言うことは?」

「ごめん」

「ほんまそれやで。結婚してんのに若い女の子妊娠させたりして。牧村さんってほんま屑やんね」

「うん」

 否定のしようもない。

「ま、しゃーないわね。それでも好きになってもうたんやから。私も悪い」

 そう言ってモモちゃんは少し笑う。

「や、モモちゃんは……」

「牧村さん。私な、今も社長の愛人なんよ」

「うん」

「妊娠した時に愛人を止めるって選択肢もあったんやで。でもそうしなかった。牧村さんとの子供堕して社長の愛人に戻った。何でやと思う?」

「……社長のことも好きやったから?」

「アホか!」

 そう言ってモモちゃんは自分の頭を思いっきり叩いた。

「ごめん」

「いや、ごめんって言うか。牧村さん、全然分かってないなぁー」

 モモちゃんは溜息混じりで言った。

「何というか、ごめん」

「いいよ、そんなに謝らなくて」

「うん」

 大きなカーブを曲がると急に住宅街に出た。山道を抜けたのだ。深夜なのでほとんどの家は真っ暗だったが、確かにある生活の痕跡。生きた。帰ってきた。

「私が社長のところに戻ったのは、牧村さんが全然私のこと本気じゃないのが分かったからよ」

 信号で停まったところでモモちゃんが静かに言った。

「それは……」

「だってそうやろ? 奥さんと別れて私と一緒になる気あった?」

「……ごめん」

「あー、もう。いちいち謝るなっての!」

 そう言ってモモちゃんはまた自分の頭を叩いた。でも本気で怒ってはいないようで、笑っていた。

「仕方ないよ。好いた惚れたの話なんやから。そんなこともあるわ。てか牧村さん、私のことモモちゃんモモちゃんって呼ぶけど、それ私けっこう嫌やったんよ」

「あのー、明美ちゃん」

「あっ、覚えてたんや!」

 モモちゃんは驚いていた。

「うん。覚えてた」

 自分がそう言うとモモちゃんは笑って、今度は自分の頭を撫でた。どこか知らない街を車は行く。自分等以外、他に誰も走っていなかった。

「で、これからどうする気なん? 今まで隠れてたところにはもう戻れないやろ?」

「せやなぁ。とりあえず菊と、や、嫁さんと逸れてもうてるから、一度嫁さんの実家まで行ってみようと思ってて」

 自分は菊に、もし何か緊急事態が発生したらとりあえず実家へ帰るように言っていた。今は間違いなく緊急事態なわけで、菊が無事ならおそらく実家に帰っているはずだ。

「奥さんの実家はどこにあるん?」

「確か福井やった気がするんやけど」

「やった気がするって明確な場所は分からないん?」

「いや、福井やった。はず」

「福井のどこよ」

「それはー、あ、確か携帯にメモってる」

 上着のポケットを探る。が、入れていたはずの携帯が無い。なんでー、って多分若い衆に取られたんやろう。

「無いの? 携帯」

「無い」

「えー、あかんやん」

 自分は溜息をついて反対側のポケットに手を入れる。するとそこにはくしゃくしゃになった煙草と身に覚えの無い万札が二枚入っていた。

 え? 何これ?

 で、ちょっと考えて行き着いたのは、これは多分店長やろなー、という結論。おそらく木に自分を縛り付けている時、罪滅ぼしの供養のつもりやったんやろ。あの気弱な店長の考えそうなことだ。しかし助かった。これでとりあえず福井までの電車賃は出せる。

「とりあえず京都駅に向かってくれん?」

「ええー。大丈夫なん、そんなんで?」

「うん。京都に着くまでに思い出すよう頑張る」

「そんな感じで行き当たりばったりやから痛い目見るんやで」

 モモちゃんは呆れたように言う。まったくその通りだった。

 国道に出て東へ走る。ここまで来ると自分等以外にも走っている車が多数いた。排気ガス。生活の匂い。なんだか安心した。

 車中、自分はこの二カ月のドタバタ劇のことをモモちゃんに話した。

 レコーディングの金の工面、水島さんのこと、その後のライブのこと、けっきょくCDを売り切れず、怪しいドリンクの運び屋まがいのことをやらされたこと、そのドリンクを盗み飲みしていたら依存性があり身体がおかしくなったこと、連れのベースはよく分からん旅館に出稼ぎに行かされてケツを負傷して帰ってきたこと、そしてそんなイザコザが終わってホッとしていたその夜に社長等に拉致られたこと。すべてを話した。

 それを聞いたモモちゃんは盛大に笑った。

「笑いごとちゃうよ」

 自分は少し怪訝な顔をした、

「ごめん、ごめん。でもなんか、あまりにも全部あかんからさー。不憫で。逆に笑ってもうたわ」

「ほんまに大変やってんでー」

「そうやろうなぁ」

 と言ってモモちゃんはまだ隠れて笑っていた。自分はそれに気づいてなおムスっとする。

「ごめんって。で、そのドリンクの依存はもう大丈夫なん?」

「あー、そやね」

 確かに自分はもう丸二日ほどドリンクを飲んでいないが、なんとも無い。飲みたいとも思わない。むしろ絶対にあんなもの飲みたくないと思えるほどであった。いろいろあったからなぁ。荒療法であったが、自分は無事ドリンクの依存性を抜け出せたようだった。

 で、その時ついでに思い出した。

 ついでと言ったらアレやけど、菊の実家のこと。その最寄駅の名前を思い出したのだ。良かったー。助かったー。京都までには思い出すなんて自分で言っておいて、実はまったく自信がなかったのだ。結果思い出した駅名が本当に福井なのかは分からんが、ちゃうかもしれんが、でも良かった。

「モモちゃん、思い出した」

「あ、奥さんの実家?」

「うん」

「良かったやん」

「良かった」

「でも、モモちゃんちゃうやろ」

 そう言って自分を小突く。

「明美ちゃん」

 京都駅に着いた時、あたりはまだ薄暗かった。

 人も少なく、時間的には未明。夜と朝の間、やや朝寄りという頃合いだった。

 月明かりとも街灯とも分からない光が運転席でシフトをPにしたばかりのモモちゃんの表情を照らす。この車を降りたら自分は電車に乗って東へ行く。まぁ、それは良いのだが、多分もう二度とモモちゃんと会うことは無いと思う。そしてそう思うとまた言葉が出なくなる。あかんのだ、自分は。本当にあかんのだ。

「なぁー、何か喋ってや」

 モモちゃんが口をヘの字にして言った。

「ありがとう。ほんまに感謝してる」

「それだけ?」

 そう言われても自分としてはどうしていいか分からず、「あ、ここはアレか、キッスか」と思い、仕掛けると、「いや、そういうのんちゃうから」と一蹴された。やっぱ、女心って分からん。

「あの自転車もらってもいい?」

「自転車?」

「うん。牧村さんお店に置きっ放しにしてたやろ?」

 愛車のことか。てか、モモちゃんの家にあったんか。

「構わんよ。好きに使って」

「大事に使う。牧村さんの形見にする」

「や、死んでないって」

 自分がそう言うとモモちゃんは運転席から身を乗り出し軽いキスをした。微笑んで。自分はやはり女心というやつが分からなかった。

「さよなら」

「うん、ありがとう」

「奥さん大事にしなよ。牧村さんみたいな人と結婚してくれる人なんて珍しいよ」

「分かってる」

 モモちゃんはクスっと笑った。自分の知ってるモモちゃんの笑み。多分、この先ずっと自分の中に残るであろう笑顔。

「じゃあね」

 モモちゃんの翻った手のひらとともに車が出る。

 残された自分は一人ぼさっと、手ぶらで駅のロータリーに立ちすくんでいた。未明の風が冷たい。モモちゃん。本当にありがとう、ほんでごめんなと心の中でもう一度言った。

 それで自分は薄闇の道を駅までとぼとぼと歩いた。先ほど開店したばかりであろう切符売り場の係員は愛想の悪いおっさんだった。行き先の菊の実家の最寄り駅名を言うと少し驚いた顔をされた。おそらく皆、そんなところへ行ったりしないのだ。自分は示された切符を買う。

 改札をくぐりホームまで出てみたものの、始発列車まではまだ少し時間もあり、やることもなくベンチに座って透明な黒の空を見上げていた。雲一つ無い。明けたら多分快晴やろなぁ。なんて思った。

 寒いこともあり、眠くはならなかったのだが、ここに来て自分は強烈な空腹感に襲われた。何か食べたい。ベンチから立ち上がって改札へエスカレーターを上がっていく。それで改札の隣にあるコンビニでおにぎりを買った。三個も。シーチキンマヨネーズと、海老マヨネーズと、明太子出汁巻玉子。

 ホームのベンチに戻っておにぎりを食べだした時、三分の二がマヨネーズ系なことに気づいた。まぁ、別にだから何というわけでは無いんやけど。そしてこの明太子出汁巻玉子は美味かった。珍しいやつやなー、なんてくらいの感覚で買ったんやけどこれが侮れない。良かった。で、おにぎりを三個も食べたらさすがに満腹になった。自分は普段は小食で、コンビニのおにぎりなんて食べれても二個が限界である。それが今日はどうしようもなく腹が減っていて三個も。

 そもそも空腹感なんてものを感じること自体が久しぶりやなぁー。自分は少しずつだが身体が普通に戻ってきつつあるのを感じられて嬉しかった。そういえば、忘れていたがいつの間にかドライバーで殴られた腕も痛くない。折れてなかったんやなぁ。良かった。

 満腹になりベンチでうつらうつらとしていたら始発列車がホームに入ってくる。古くさくて、あまり綺麗な電車ではなかった。眼前に停まる。当駅始発なので誰も乗っていなかった。

 乗り込んで四人掛け席に座る。ぱらぱらだが自分以外にも電車に乗り込む人はいた。電車はじきに走り出す。

 京都の街がだんだんと離れていく。や、離れていっているのは自分の方か。景色を取り残して自分は行く。車内は暖房が効いていて暖かかった。それで自分は眠くなった。すぐにでも目を閉じて眠ってしまいたかった。でもそうしなかったのは向こうに見える空がゆっくりと明け始めてきたから。自分は車窓からそれを見ていた。

 濃い橙が黒を裂いて生まれてくる感じ。境目はネイビー。宝石みたいだった。じわじわと橙が溢れ出す。それは街を染める。家を染める。自分を染める。

 また一日が始まる。当たり前の毎日が。小学生はきゃあきゃあと学校に通い、勤人は死んだような目で会社へ行く、主婦は昼下がりに買い物に出かけて夕飯の献立を考えながら雑誌を立ち読んだり、エッチな方は連れ込みホテルで不倫でもするんやろか。ほんで営業マンは性懲りもなく街中をウロつくやろうし、運び屋は電車に乗る。怪しい商品を持って。半グレやヤさん達は今日も何か悪いことをするし、警察はそれに目を光らす。バンドマンはライブをしたり曲を作ったり、日銭のためにバイトをしたり、だらしのない奴はまぁー、安居酒屋で野良ったりするんやろな。そんな一日がやってくる。あの山脈の向こうから力強く。屑みたいな自分だってそれに含まれている。朝日。サンシャイン。

 自分はシートに沈み込み、随分久しぶりの深い眠りに堕ちていった。



 聞いたこともない駅のホームの聞いたこともない、でもちょっとチェーン店ぽい立ち食いうどん屋で肉うどんを食べている。美味くも不味くもなかった。普通だった。

 正午過ぎ。

 朝一でおにぎりを三つも食べたにもかかわらず、自分の腹は昼にはきっちりと減っていた。不思議だった。なんせ自分はこの午前を丸々電車で眠っていただけなのだ。なんやというのか。自分の身体は急に食に目覚めたようだった。

「ごっさん」

 と、パートらしきオバハンに礼を言い店を出ると空はすっかり曇天だった。京都を出たあたりでは確かに晴れていたのだが、寝て起きた頃には不穏な雲が散らばっているのがちらほらと見え、今や完全に灰が空を覆っていた。

 菊の実家まで、あと少しというところまで来ていた。路線図から見て、あと一本電車に乗れば一時間足らずで着くのではないかというところだ。

 自分はホームの端に移動して煙草に火をつける。くしゃくしゃの煙草は吸いづらかった。でも自分はそんなことで文句を言えるような立場ではないのだ。吐く煙は雲と同じ色で、何か同化していくように消えた。

 すると後ろから、

「ちょっと、お兄さん」

 と声をかけられた。見ると初老の駅員さんだった。

「どしたんすか?」

「どしたんすかじゃねぇよ。ここ禁煙だよ」

 ちょっと怒っていた。

 見ると、確かに向こうの柱に「ホーム内全面禁煙」とある。

「すいません」

 自分はそう言って煙草を消した。初老の駅員さんはぶつくさと何かを言いながら改札の方へ歩いて行った。まーたく、怒られてやんの。いい歳してダッセェ。バツが悪くなって自分もその場を離れる。すると言うてる間に乗ろうと思っていた電車が来た。

 乗り込むと電車はすぐに駅を出る。案の定電車はガラガラだったので、自分はまた車窓からぼぉーっと外を見ていた。絵に描いたような田舎景色だった。家も疎らで、目に見えるほとんどが田畑、あと山だった。

 何かが視界をチラつく。窓に当たる。

 雪だ。

 三月やのに雪かぁ。なんて思っていたら、雪はどんどん強くなる。濃くなる。気付けば辺りはすっかり雪景色になっていた。自分は雪国に足を踏み入れたようだった。これが菊のよう言ってた雪国かぁ。話半分に聞いてたけど、思ってた以上にマジやな。

 電車に乗ってちょうど一時間後、目指していた駅に着いた。イメージの中でだけ浮かんでいたその駅名が看板にちゃんと書いてある。気付けば単線で、自分以外は誰も電車から降りなかった。駅はすっかり雪に埋もれていた。寒かった。昨夜縛り付けられた森林よりもずっと寒かった。

 ホームに立つと見渡す限り白だった。雪が強く、目を開けているのが辛かった。

 改札をくぐると何もない雪に覆われた田園。ファー。軽トラが一台停まっており、それに菊がもたれかかっていた。ニット帽を被り、厚着をしていた。

「マジで日本にこんなところがあるなんてなぁ」

 自分は降る雪に負けないよう声を張った。

「乗り」

 菊はそう言って運転席へ回った。

 自分も肩にかかった雪を手で払って助手席に乗った。

「よく分かったな」

「何が?」

「いや、この電車で来るってこと」

「そんなん知らんよ。ただ、何かあったら実家にって言うてたからそろそろ来るかなって思って待ってたんよ」

「一日中?」

「うん」

 菊は平然と言った。それで車を出す。凄い雪で前がほとんど見えなかった。が、菊は別に気にするでもなく運転していた。

「すげぇ雪」

 自分は正直な感想を言った。

「そう?」

 そう言った菊は片手を上着のポケットに入れて運転していた。

「だって前見えへんやん」

「まぁー、この辺の道は覚えてるから大丈夫よ」

 そういう問題か? と自分は思ったんやけど、何も言わなかった。

「悪かったな、いろいろ」

「うん」

「怖かったやろ?」

「怖かったって言うか腹立ったわ。何なん? あいつら」

「まぁ平たい話、ヤさんと言うか、そういう類の方々」

「人がドラマ観てて良いところやのにずかずか入ってきてさ。ほんま腹立った」

「あ、そう言えば刺したって聞いたけど」

「あぁ、うん。ちょうどりんご剥いてるとこやったから。でも果物ナイフやで。刺した言うても」

「そっか」

 果物ナイフ言うても刺しどころが悪かったらヤバいやろと思いつつも、何も言わなかった。てか、元を正せばすべて自分の所為なのだ。何も言える立場じゃない。無事でいてくれて良かった。

「実家ってここから遠いん?」

「三十分くらいかな。あ、いや、言いすぎた五十分かな」

「そっか」

「あれ? 来るの初めてやっけ?」

「初めてやって」

「でもうちの親には会ったことあるやろ?」

「あー、うん。それもけっこう前やけどな。大阪で一回だけ会った」

 多分、大学を出るか出ないかくらいの時分だ。そう言えば結婚するとかどうかとか、そんな話すら一切していない。結果、内縁的な中途半端加減やし。何か気まずいなぁー。今になってそんなことを考える。

 菊の言う通り五十分くらいかけて道を行ったところで、ポツンと建った平屋が見えた。降り積もった雪の向こうに窓から家明かりが溢れる。

「あそこ?」

「そうよ」

 開いた駐車場に軽トラが入っていく。田舎なだけあって敷地はかなり広かった。

「さー、着いたで」

 そう言って菊はさっさと車を降りていった。ちょい、ちょい待ちいや、なんて自分も後を追う。

「ただいま」

 と、引き戸を菊が開け、自分もそれに恐る恐る続く。しばらく何の反応もなかったが、ちょい経ち奥の部屋から「はーい」と女の人の声がした。で、菊は靴を脱いで上がっていくので、仕方なくそれに続いた。ちょっとは自分に気を遣ってほしかった。

 数年ぶりに会った菊のお母さんは昔とあまり変わりなかった。台所に立ち、野菜を切っていた。鍋からは湯気。食い物の温気。

「よく来たわね」

 お母さんはそう言って自分に笑いかける。菊によく似た笑顔。暖かそうな赤いエプロンをしていた。

「ご無沙汰してます」

 自分は頭を下げた。

「ゆっくりしていきなさい。あ、そうや、菊、お父さんが呼んでたわよ」

「あ、そう」

 菊はどうでも良さそうに言った。

「多分居間でテレビ観とるから」

「うん」

 それで居間へ行くと確かに菊の親父さんが新聞を読みながらテレビを見てた。いや、もしかしたらテレビを見ながら新聞を読んでたんかもしれんが。そのへんは分からんが。

「遠くまでご苦労やったな」

 親父さんは煙草の灰をテーブル上のガラスの灰皿に落としながら自分に言った。親父さんも前に会った時から全然変わっていなかった。角刈りで、強面ではあるんやけど身体つきは全体的に華奢だった。

「お久しぶりです」

「なんか私のこと呼んでたって聞いたけど」

 自分の言葉に菊が被せる。

「あぁ、雪が強くなってきたからな。ちょっと畑の様子が気になって。菊、車出せ」

「別にええけど」

 親父さんは立ち上がると片足を引きずって玄関の方へゆっくり歩いて行った。それで思い出した。菊の親父さんは足が少し不自由だった。

 それで自分は、

「ちょっと私の部屋で待ってて」

 と、菊の部屋へ案内された。

「うん」

「適当にテレビでも観ててや」

 そう言って菊は襖を閉めた。少し経ってから車が出て行く音がした。菊と親父さんが多分、畑に行ったんやろう。

 菊の部屋は、もちろん初めて入ったんやけど、何というか一言で言うと若い女の子の部屋っぽくなくて、何というか良くも悪くも古風やった。古臭い漫画、ひどく日焼けしていて、おそらく古本屋で全巻セットででも買ったのであろうものが棚に並び、ミニーとかミッキーの縫いぐるみとかではなくよう分からんコケシが二つ、しかも倒れていた。何や、菊らしいなぁ、と思ってコケシを起こしてやり、乱雑に積み重ねられた雑誌の山から一冊を抜き出すとビデオボーイやった。自分が中学時代によく読んだエロ本。はは。これでよう抜いたなぁ。コンビニで立ち読みしたなぁ、なんて。懐かしい。でもなんでこんなもんがここにあんねんな。

 なんて、部屋の中を詮索するのは知った仲とは言え流石に失礼かと止め、自分は勉強机的なやつの椅子に腰掛けて、言われた通りテレビを観ようと思った。

 チャンネルは自分の思っていたのと違いちぐはぐやった。思っていた番号を押しても「受信しません」的な案内が出る。ここが正確に何県か知らんが、おそらくチャンネルの体系が違うんやろなぁ。

 そう思ってチャンネルをコロコロ転がしてると、宇宙警察ギャンレイ。ロボコップ風のシルバーのボデーに旭日章のパクりのような額のマーク。ふぇぇ、懐かしい。自分が幼少の頃に熱中した特撮やないか。

 夕暮れ時、なんでギャンレイの再放送がこんな時間にやっているのか。当時からそない強烈に流行っているわけではなかった。でも自分は好きやった。ファー。ポーズとか、よう真似たな、昔。自分は懐かしくなって、ついついギャンレイに見入ってしまった。雑な再放送だからか、次から次へと連続で放送されていた。一話終わり、はぁ、終わったぁー、と思っていたら二、三のCM後にまたピィーン、という鋭い電子音の後に「宇宙警察ギャンレイ!」と複数の男女の多重ボイスにロゴマークがばちこんと出てきてオープニングが始まりまた次の話になる。ふぇー。ギャンレイの世界、どっから湧いてきた連中かは知らんが、悪人グループがおり、彼らはどうしてもこの世界に嫌がらせをしたいようで、毎回些細なことに因縁をつけて街行く人々にどう考えても嫌がらせとしか思えないようなみみっちい悪事を働く。割と大雑把に。で、案の定ギャンレイに見つかって成敗されるのだ。うわー、なんつって。爽快。出てくる怪人もストーリーも、自分は何となく記憶していた。たまらなく懐かしかった。興奮した。

 そうこうしているうちに菊が帰ってきた。

「何観てんの?」

 菊はテレビ画面に一瞥をくれて、溜息をついて言った。

「ギャンレイ」

「何それ?」

「知らんか? 昔やってた特撮」

「知らん」

 菊は自分が勉強机の上に置きっぱなしにしていたビデオボーイを手に取り、しばらく眺めたが興味無さそうに棚の適当な場所へ戻した。

「ご飯できたらしいで」

「あ、うん」

 それで居間へ行くと食卓にはもう鍋がぐつぐつと出来上がっていた。頬が染まる暖房の感じ。平テーブルに胡座をかくなり親父さんに瓶ビールを勧められた。あ、すんません、すんません。なんて自分はそれを受ける。

 煮えたつ鍋は田舎やからか、異常に野菜が美味かった、甘かった。驚いた。「美味いっすねー」なんて、煮ただけの野菜がこんなに美味いなんて、と自分が感動していたら、菊と菊のお母さんはそんな自分を見て盛大に笑った。

 親父さんは自分にどんどん瓶ビールを勧めてくれる。固い人ではあるが、酒が好きで、しかし酒に対しては自分もかなり修行してきた身で、負けなかった。最終的に親父さんが先に酔って、

「おう。お前、菊のこと幸せにできるんかよ?」

 と自分の肩をバシバシと叩いた。自分は苦笑いする他なかった。野キクイモのことなんて死んでも言えない。

「お風呂、先入りなよー」

 と、菊が片付けの最中言ってくれた時、親父さんはすでに壁にもたれて腕組みしたまま寝入っていた。自分は付けっ放したテレビのバラエティ番組をぼんやりと見ており、展開を追い、たまに笑ったりしていたところだった。

「ええの?」

「なんで?」

 菊は不思議そうな顔をする。

「いや、だってお父さんもまだ入ってないから」

「あー、ええよ。そんなん。気にせんとって」

「そう?」

 それで風呂に案内されたのだが、なぜか菊は屋外に出て、あ、外通るんやぁー、なんて思っていたら驚くことにドラム缶の風呂が庭にあった。

「マジで?」

 一応都会育ちの自分は強烈に驚いた。

「は? 何が?」

 そう言って菊は不思議な顔をするから、何か、あんまり言うのは失礼なんかぁ、と思い、驚いたは驚いたが、あぁ、そうね。的な感じで何も無かったかのように自分は服を脱ぎ出した。

 浸かった風呂は暖かった。ドラム缶の底にはすのこが敷いてあり、試しに周囲に触ってみたが、そこまで熱くはなかった。いつのまにか雪も止んでいた。

 湯船、気持ちが良かった。深く溜息をつく。

「湯加減はどう?」

「あぁ、良い感じ」

「そう。私も入ろうかなー」

 そう言って菊は服を脱ごうとする。自分は慌ててそれを制した。

「待て、待て。すぐそこに両親がおるんやぞ」

「え? 別にええやん。たまに一緒に入ることあるやん」

「そうかもしれんけど、今日はあかん」

「ふぅん」

 菊は脱ぎかけたジャケットの前を閉め、再び服を整えた。

 まったく。眼前、眺める景色は見渡す限り白だった。雪。山肌は白兎の背中のようだった。

「これからどうすんの?」

 菊がドラム缶の淵に頬杖をついて自分の目を見て聞く。

「これからって?」

「これからは、これからやん。全部解決したわけちゃうんやろ?」

「まぁ」

 立ち昇る湯気が白かった。湯から出た肩は冷たかったが、浸かった半身とのそのギャップは悪い感じではなかった。

「てか、何でそんなことになったんかとか、そういうのは聞かんの?」

「別に。どうせまた馬鹿なことしたんやろ。そんなん聞いたってしょうがないやん」

 菊はマジで興味無さそうに言った。

「うん」

「それで、どうすんの?」

 確かに、自分にはこれからがある。ダニーハサウェイは三十三に散った。佐藤伸治も。しかし自分は? まだ散ってない。ここにいる。湯に浸かっている。

「バンドやるよ。戻って寺尾と」

 まだ、あんまり深く考えていたわけではない。でも今そう思ったからそう言った。

「うん。それでええんちゃう」

 菊は少し安心したような表情やった。口元は小さく笑んでいた。

「例えまたヤさんに追われたとしてもそれしかないからなー」

 自分はそう言って浴槽の湯でばしゃばしゃと顔を洗った。

「そんないつまでも顔なんて覚えてないやろ。いざとなったら名前変えてやればえやん。ミュージシャンとかそういうの多いやん? な、MMとかさ」

 菊が真面目な顔で言う。多分、M=牧、M=村と言いたかったんやろう。

「それ、ええやん」

 自分は笑った。

「しかし千枚売り切れんかったなー、CD。今更やけど」

「でも七百枚は売れたんやろ。十分すごいやん」

 菊にそう言われて、初めてそれはまぁ確かに、と思えた。忘れていたが元々は五百枚の予定だったのだ。

「また、歌ってや」

「うん」

 せやなー。というかこう言うと菊に失礼かもやけど、誰にも言われなくても自分は多分歌うと思う。これからもずっと。例え、あかん言われても、だって何度も言うが、自分の人生はそれしかないんやから。ボロボロにされてもそれしかないんやから。でもまぁ、もしかしたら今後、その在り方は変わっていくかもしれん。だって自分には菊がおるから。多分、ずっと。や、いてほしいと思うてる。で、菊を不幸にはできん。それはマジで思う。

 でも歌う。自分は。それが好きで好きでたまらんから。そういう人生も無しちゃうやろー。てか、ここにある。あるんやて。笑いたきゃ笑え。無気力なダボ共が。自分はいつまでも上を目指す。

 遠くの山肌に降り積もっている白を酔った目で見つめていたら、「汝、夢を持て、一芸に秀でろ」という自分が通っていた市立小学校の校長が卒業式で言うた言葉を何故か思い出した。素晴らしきかな。それは、実に素晴らしきかな。はは。

 自分の吐く何気無い息は白になって上空に消える。や、でも消えてない。実は、全然消えてない。

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