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川を飛ぶ子供の目  作者: 羊
7/8

川を飛ぶ子供の目 7


 納品業務が完了した旨を伝えに事務所へ行った時、水島さんは非常に機嫌が良かった。

「お疲れさん、お疲れさん」

 なんて笑顔で自分等の肩をバシバシ叩いた。

 すっかりお馴染みになったオフィス。水島さんと、後ろに立つナッパ。

「自分等よう働いてくれたわー。お陰でようさん売れたでぇ。あのドリンク」

 そうですか、なんて適当に相槌を打った。精一杯の愛想笑いを浮かべた。あのドリンクがいったい何なのかはやはり怖くて聞けなかった。

「あと、寺尾君やっけ? 君は向こうでも頑張ってくれたみたいで、旅館でも評判良かったぞー。また要望が来たら声かけるからな」

 そう言って水島さんは寺尾の手を取り握手をした。

 言われた寺尾の顔は酷く曇っていた。旅館でのいろいろなんて、思い出したくもないんやろなと思った。

「君等、CDは売れんかったけどこっちの仕事はばっちりやったなぁ。もうバンドなんて辞めて俺の下で働くか? 雇ったんで」

 なんて言って水島さんは笑う。

 これには流石に自分もカチンときた。頭にきた。見ると隣の寺尾も拳を固めていた。でも何もできない。ナッパもいるし、自分等はやはり非力だった。

「まぁ、またCD出したくなったら相談してや。俺もなんかお願いすることがあったら連絡するから」

 不気味な笑顔で水島さんは言う。

 それで意外にもあっさり解放された。

 夕方、十八時頃だった。外に出ると薄暗がり、青と黒の間の空。日常に帰ってきたという実感はまだ持てなかった。

「とりあえず終わったな」

 駅までの道、行き交う車のヘッドライトに照らされて、寺尾がポツリと言った。

「うん」

 そう言われてやっと自分も「終わったんだ」という気持ちになった。

「飲み、行くか? 久しぶりに」

「そやね」

 それで二人で目についた安居酒屋へ行った。寺尾と飲むのは二月の最終週、ストリート終わりに飲んだ以来だった。というかよく考えたら自分はあれ以来、酒自体を一滴も飲んでいない。ドリンクの影響からか、ここ数週間、酒を飲みたいという気持ちにまったくならなかったのだ。

 だから乾杯で胃に流し込んだビールはなんだか不思議な味に思えた。はいや、こんな味やったっけ? と思った。

「なんだよ、不思議そうな顔して」

「いや、酒久しぶりやったから」

「珍しいな、クソ飲んだくれのくせに」

「お前は飲んどったんか?」

「まぁー、旅館でな」

「あぁ」

 それ以上何も言えなかった。旅館という単語は寺尾にはタブーちゃうかな、と自分なりに気を遣ったのだ。

「なんか年明けてからいろいろあり過ぎて頭が追いつかねー」

 胡瓜と塩昆布を和えたやつを口に入れて寺尾は言った。じきにパリポリとそれを噛む音が聞こえる。

「まだ二カ月ちょいしか経ってへんのにな」

「てかレコーディングしてた頃すら既に懐かしいわ」

「あー、分かる。なんか二年くらい前のことのように思える」

 そう言って自分はジャケットのポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出して火を点けた。それで思い出したのだが、煙草を吸うことも久しぶりだった。

「な、一本めぐんで」

「あい」

 自分は煙草を一本寺尾にわたし、火を点けてやる。

「これからどうするよ?」

 頭上に煙を吐き出した後、寺尾が聞いてきた。

「正直まだ何も考えられんわー」

「まぁ、せやな。でも現実的に考えるとやっぱライブしかないよなぁ」

「また進藤君か?」

「まぁー、それはなー」

「何か振り出しに戻ってへんか?」

 自分がそう言うと、寺尾は少し真面目な顔をした後、吹き出すように笑った。寺尾の笑顔を久しぶりに見た気がした。

「せやな」

 なんてビールを飲む。

 自分も笑った。マジ、情けなくて笑えた。結局いろいろと擦り減らしてジタバタした挙句、まったく同じ場所に戻ってきたのだ。馬っ鹿みてぇ。

 安居酒屋はガスストーブが効いていて暖かかった。自分等と同じようなドブネズミ共がへらへらと笑ってる。灯油の匂いがする。ずっと大昔、死んだ婆ちゃんの田舎家を思い出した。枕にして寝転んだ座布団の肌感触とか、そんなこと。

「まぁー、またやり直しやな」

 そう寺尾が言った。

「そうやなー」

 自分はこの時、我バンドは何だかんだ言って危機を脱したな、と思った。ストリートの後もそうだが、正直、二月末はマジでちょっともうヤバいかもなぁ、と思うことも何度かあった。そういうのから何となく今は抜け出せた気がした。変な話、水島さんの試練のお陰で絆が強くなった気がする。

 二十三時を越える辺りで店を出た。街はまだまだ眠りにつく気は無いようで、昼間と同じくらい人がいんじゃねぇか? と思えるほどだった。

 自分も寺尾も電車で帰る。帰るったて自分はホテルだが。乗り換え無しで一本。寺尾が三駅、自分が五駅だった。乗り込んだ電車は座れなかった。はぁー、また電車か、と思った時に気づいた。そういえば納品業務はもう終わったのだ。明日からもうあの部屋に行くことも電車に乗ることも無いのだ。

「もうしばらく電車になんて乗りたくねぇ」

 自分が正直な気持ちを言うと寺尾は笑った。

「俺も」

 自分等の立つ正面には大きな車窓。街明かりが見える。てか流れてる。美しいなぁ、なんてありきたりな感情を抱いた。言うてる間に寺尾の降りる駅に着く。

「じゃあ、またな」

「また連絡するわ」

「おう」

 寺尾は片手を少しだけ挙げて電車を降りて行った。けっこう降りる人が多くて、ホームを過ぎ去る電車から奴の姿は確認できなかった。しかしまぁ、とりあえず帰ってった。家に。日常に。

 しばらくして自分も降りる駅に着く。

 改札を出ると何故か無性に腹が減った。それで自分はふらふらとこの前菊と行ったあの二十四時間営業のうどん・蕎麦の店へ行った。いらっしゃーい、と店はがらがらで、自分とあと一人、残業帰りのサラリーマンの二人しかいなかった。

 かけ蕎麦をすする。この前より出汁が甘い気がして、ちょいと良い気持ちになって瓶ビールを一本追加で頼む。見た目より重みのある透明のグラスに注ぎ、飲む。

 そしたら意外にも何故か冷静な考えが頭を巡った。めちゃ現実的な話。

 まず自分は納品業務を終えたことで無職になった。ペロペロ天国もいろいろあって辞しているし、ブラックカードも水島さんに返却した。完全に収入源も資金も失くした。完全なノーガード状態。そしてプーである。まぁー、そうは言うても自分は秋くらいまではプーであったわけやし、それ以前のプー歴もかなり長い。ベテランだ。だからノージョブなことに対してはあまり抵抗は無いのだが、困るのは現実的な銭の話で、自分等はいろいろあって今は一家ホテル暮らしで、これはブラックカードなしで菊の収入だけで持続していくことはまず不可能だった。そのため自分等はそう遠からずの間にあのホテルを出なければならない。それで、出るつってもただ出る、チェックアウトをすればいいわけではなく、ちゃんと新しい借家を抑えたりなど、いろいろ考えなくてはならないこともある。間違っても元いた借家には戻れない。てか、もうとっくにヤさん達の手によって崩壊してんちゃうかな。あの部屋は。さすがに三月とは言え公園にテント暮らしは冷える。と言うかまぁ、自分のようなドブネズミ一人ならまだいいが、菊は女の子で、流石に公園に野宿というわけにはいかねーよなぁ。だから、うん。考えねば、借家。これがまず第一歩やな。

 そして次に自分の身体のこと。つまりはどうやってドリンクの依存性から抜け出すかということである。正直、飲まないと身体が濁ってくる。どんよりしてくる。今日にしても夕方は飲んでいないのだ。その反動が来ていなくもないのだが、今日はまだ日常へ戻った喜びと酒の力で何とか持ち堪えていた。しかし、これが明日以降も耐えられるのかと言われると自信が無い。そしてドリンクはもう無い。全部納品してしまったから。はぁ……水島さんにあのドリンクを自分にくれないかと打診したところで、どうせ高額請求をされるのが関の山だ。繰り返しになるが金は無い。現実的に自分にドリンクを手に入れる手段はなかった。

 最後に音楽のこと。バンドのこと。しかし、これはまぁ、あまり考えなかった。とりあえずまたやっていこうと言う話になったのだ。あまり最初から悩まずにやっていこう。その方が良い曲を作れる。良い曲を歌える。

 店を出ると街は閑散としていて寒かった。時計を見るともう日付を超えた頃だった。歩いて帰ろう。

 そうだ、それで思い出したのだが(忘れていることが多いなぁ、何やか)あの自転車を、愛機をしばらく見ていない。どこへ行ってしまったんやろか。ペロペロに通勤したままになっているのか? 最後に通勤した時は拉致られたので店に置きっ放したが、後々、菊に取りに行ってもらったような気がしなくもない。でもその姿形を見てないなぁ。じゃ、何だ? ずっと菊が使ってんのか? いや、分からん。自分の勘違いかもしれん。でも、もしかしたらそうなんかもなー。帰って聞いてみようと思った。

 そんな気持ちでホテルに着く。部屋に入ると真っ暗だった。珍しい。いつも菊はこの時間ならまだテレビを観たりダラダラしているのに。寝たんか? まぁーそんな日があってもおかしくはないが。

「菊ー」

 呼んでも返事がない。

 それで寝ていたならば悪いなぁと思いながらも電気をつける。オレンジ色に照らされた部屋は、ズタズタに荒らされていた。

 は?

 状況が上手く頭に入って来なかった。最初、一瞬、菊が狂ったのかと思った。酷い生活に耐えかねて部屋を荒らしたのかと。しかし少し考えて、それは無いなと、自然と思った。てか、菊は部屋にいなかった。というか、誰もいなかった。

 洗面所の鏡も割られていた。映る自分の顔も粉々だった。自分は床に散乱した一欠片の破片を手に取ってみる。自分の右目の辺りの断片が映っていた。

 その時、頭に閃光が弾けた。

 これはまさか、と思い部屋を飛び出す。すると、ビンゴ! 部屋の前には以前もお会いしたことのある非合法的なお顔と身体つきをしたお兄さん方が御二人、自分を待ち構えていたかのように立っていた。

「あ」

 素っ頓狂な声が出た。

 一人の男がにゃっと笑い、強烈なボデーを自分に入れる。自分の身体はドリンクの影響ですっかり弱体化していた。や、そうでなくともこのパンチはあかんかったやろけど、崩れ落ち、先程食べたかけ蕎麦を盛大にホテルの廊下にリバースした。

 汚ねえなぁ。

 そう思ったのがこの夜の最後の記憶だった。



 気がつくと自分は以前もご訪問させていただいたことのある例の社長さんの事務所にいた。両手首を後ろで柱に縛り付けられており、足も同様だった。身体的ホールド。まったく動けなかった。眼前には自分を殴った男と懐かしいペロペロ天国の店長がいた。

「気がついたか?」

 男がにたにた笑いながら言う。無視するのもアレなので自分は頷いた。

 どれくらいオちてたんやろか。事務所の窓から陽が差していた。前に自分が破った窓も元どおりに直っていた。掛けられた時計を見ると針は九時を指していた。と、いうことは今は朝の九時か。自分が殴られたのは多分零時半頃やから、八時間半もオちていたことになる。や、いくらなんでもそれは長ない? これは多分、オちてる→睡眠に移行したんやろなぁ。それで八時間半って、なかなか自分も図太いな。なんて思った。

「とうとう捕まってもうたなぁ」

 男は言う。本当にその通りだと自分は思った。やっと水島さんの一件が解決したばかりだというのに。一難去ってまた一難。自分は恐怖より落胆の方がデカかった。いや、でもそうや、菊は? 菊はどうした?

「部屋にいた女はどこにいる? ここに来とるんか?」

 何故だか強い言葉が出た。自分は知らず知らずのうちに怒っていたのだ。菊に対しても同じように暴力を振るっていたのであれば、それは自分にとって許せることではなかった。

「あー、あの女なぁ。何やあれ、お前の女か?」

「何でもええやろ。今どこにおんねん」

「知らねぇよ」

 男は溜息をついて言った。

「知らねぇって、何やねん」

「逃げたんだよ。あの女は」

「逃げた?」

「そうだよ。しかも俺の仲間を刺して逃げやがった。とんでもない奴やわ」

「刺した?」

「果物ナイフでな」

「あー」

 菊ならやりかねない。

 何故か少し男に対して申し訳ない気持ちになった。そういえば前は三人組みやったのに昨日は二人組みやった。そういうことか。一人、菊が刺したんか。まぁー無事なら良かったが。その刺されたやつも無事ならええが。

「社長は夕方に戻ってくる。そしたらお前はもう終わりや。覚悟しとけよ」

 男は自分に言った。そして何やら用事があるようで、店長に自分の見張りを命じて部屋を出ていった。

 店長と自分だけが事務所に残った。店長。久々の再会やった。最後に見たのはボコボコにされてペロペロ天国の床に転がされていた姿。あれ、自分のせいなんだが。自分と田中君のせいなんだが。

「牧村君さぁ」

 店長は呆れたような声で言った。

「ダメだって言ったじゃん。女の子に手出したら」

「ごめんなさい」

「ごめんなさいって、そんな素直に謝られてもなぁ」

 そう言って店長は溜息をついた。

「店長、逃がしてくれませんか?」

 自分は聞いてみた。

「ダメに決まってんじゃん」

 やっぱそうやんなー。店長ならまだいけるかと思ったのだが。甘かった。その考えは甘かった。

「あのさー、今君を逃がしたらまた僕が奴等にボコボコにされんだよ? そんなん逃がすわけないよね」

「まぁ」

「てかさ、牧村君。僕は少なからず君等に腹立ってんだよ」

 店長は何故だか少し困ったような様子で言った。基本的に気の弱い人なのだ。でも言うてることは全て正論やった。

「田中君は相変わらず見つからないんですか?」

「見つからないねー。彼はもうだいぶ遠くまで逃げたんじゃないの。てか僕から言わせたらなんで牧村君はあんなことしといていつまでも近隣をうろうろしてんだって話だよ」

「まぁ、いろいろあったんすよ」

 なんか普通に話してる。

「いろいろって、知らないけど。そりゃーだっていつかはこうなるよ。見つかるよ。ちゃんと逃げないと」

「店長ー。頼みますよ。今回だけは逃がしてください」

「だから嫌だって。しつこいなー」

 やっぱあかんか。

「そうだ、モモちゃんは今どうしてるんですか?」

「モモちゃんなー。彼女はお店を辞めたよ。僕はそれ以来会ってない」

 モモちゃん、辞めたんか。まぁ、確かに本当に身篭っていたとして、そんな状況でペロペロしとるわけにもいかんから辞めるのは必然か。てか、どうなったんやろ、お腹の子は。

「実家にでも帰ったんじゃないの」

「あの子、実家ってどこなんですか?」

「知らない。てか牧村君こそ知らないの? 君等、付き合ってたんでしょ」

「まぁ、そうですけど。あんまりそんな話はしなかったですからねぇ」

「あ、そう。まぁ、それかあとはここの社長に匿われてるかだなぁ。あの社長、だいぶモモちゃんのこと気に入ってたみたいやから」

「あの社長かぁ……」

「夕方には帰ってくるよ」

 気が重くなる。自分は前回、あの社長をドライバーで殴って窓を破り逃げた。更に言うとその前に女を寝取っているのだ。ヤさんの社長さんにとって、殺害の判断を下すべき十分な愚行だと思われる。怒ってるやろうなぁー。てかヤさんとか関係なく怒るわな。そんなことされたら。

 それから店長も自分も何も話さずに向かい合ったまま押し黙っていた。窓から見える太陽が高くなり、だんだんまた降りてくる。トイレにでも行きたくなったらその旨を伝えて上手くいけば逃げ出してやろうかとも思ったりもしたのだが、一向にトイレ行きたい気持ちにならなかった。別に嘘をついても良かったのだが、この善良で気弱な店長に嘘をつくことは何となく憚られた。失礼ながらも騙せそうな感じやった。でも自分が逃げたらまたボコボコにされるんやろなぁ、と思うと可哀想やった。それで沈黙の中、不思議な時間が流れる。腹も減らない。

 ぼやぼやしてたら烏が鳴き出した。遠くの空、暮れだして。あーあ、なんて思っていたら事務所のドアが開き社長が帰ってきた。若い衆を二人も連れて、頭に包帯を巻いていた。自分を見てニヤっと笑う。

「おかえり。牧村君」

 それでいきなり自分の腹に蹴りを入れた。柱に固定された自分はモロにその衝撃を受ける。で、さらに蹴る。何度も蹴る。当たり前やけど、相当怒ってらっしゃるようやった。

「まったくナメた餓鬼やわ。おい、お前覚悟はできてるんやろな?」

 そう言ってまた蹴る。自分はラッシュを浴び苦痛にグッタリしていた。覚悟。覚悟って何?

 顔を上げると社長はドライバーを握っていた。自分が社長を殴ったあのドライバー。

 詰んだな、と思った。

 終わった。これは完全に終わった。

 その時、何故か自分の頭によぎったのはイルカショーの事。

 あれはずっと昔、まだ大学生の時分に水族館で菊と見たイルカショー。水面から跳ね上がるイルカ。飛沫。黒と灰の間の美しい身体が空中の輪っかをくぐる。観客が湧く。拍手喝采。

 自分はというと、正直くだらねぇ、しょうもねぇと思っていた。と、いうのは別にイルカという生き物や、ショーというポップな存在自体が嫌いなわけではなくて、実は自分はその数日前にけっこう自信のあったレコード会社のオーディションに落とされたばかりだったのだ。だから卑屈になっていた。ショー会場は屋外やのに禁煙で、それもまたイラついた。

「煙草吸ってくる」

 自分はいらいらと立ち上がった。

 横に座る菊も特段面白ーい、なんて感じでもなく、美術館の絵画を眺めるくらいのテンションで次々と技をキメるイルカを見ていた。

「はー? ショー終わってからにしいや」

「もうええわ」

 そう言って会場を出ようとしたのだが、ショー会場は週末なこともあり満員御礼で、通路にまで人が溢れており、身動きの取れない状態になっていた。これではとても外になんて出れそうにない。自分は諦めて座り直す。

 喝采を受けイルカ等は絶好調で、スイスイとプールとも水槽とも呼べるステージを華麗に泳ぎ、何か技を上手くキメる毎にご褒美としてバケツの中に入った小魚をもらっていた。むしゃむしゃ食っとった。

「菊、自分はな、生まれ変わったらあの小魚になりたい」

 自分はそのバケツの小魚を指差して言った。

「何? まだオーディションのこと気にしてんの?」

「ふん」

「気にせんでええやん。ええ曲やったんやから。今回は縁がなかってんて」

「ムカつくわー。あのオーディション」

 自分は不貞腐れた声を出す。眼前、またイルカが翔ぶ。

「ムカつくって、審査員がってこと?」

「いや、もうあのオーディション自体が」

「あぁ」

 菊は分かったような分かってないような、なんとも言えない声で言った。周りに合わせて、お情けって感じで小さく拍手をした。溜息。一日中どうしようもなく暑い夏休みの一日だった。

 で、なんで今そんなこと思い出すんか。

 フラッシュバック。

 走馬灯? いや走馬灯って普通死ぬ直前に来るんちゃうかったっけ? まぁ、ドライバーで頭部をクリーンヒットすれば即死やろうし、直前と言えば今直前なんかもしれんが、実際自分はまだ致命傷は負わされていない。だからまだ早くね? あ、それかフラグか? 小魚に生まれ変わるフラグ。転生。転生かー、いや小魚は嫌やな。いくらその時は自分が自分ちゃうくても。ご褒美としてイルカに食われて終わる生涯なんて切なすぎるやんけ。

 なんて考えていたら容赦のないフルスイングが自分の左腕を打った。

「あっ」

 くぐもった声が漏れる。今までに経験したことのないくらいの激痛だった。腕が痺れて熱い。でも全身にぞわっと寒気がした。

「連れてけ」

 社長はそう言ってドライバーをゴルフバッグに戻した。それで「へい」なんて社長の連れていた若い衆と店長が柱に固定された縄を解き始める。

 店長は哀れんだような目で自分を見てた。でも今はそんな視線もどうでも良くて、とりあえず腕の痛みが深刻やった。動かせんかった。あかん、これは折れてるかもしれん。

「おら、立て」

 と、若い衆は自分を無理やり立たせて歩かせた。どこに連れて行くのかと思ったら、案の定車だった。発進する。まぁ、それはそれなんやけど、すげぇ痛い。左腕。自分はまだ顔を歪めていた。

「痛いか?」

 助手席に座る社長が振り返り自分に言う。自分は力無く頷く。

「そりゃー痛いわ。なんせドライバーやからな。でもお前な、俺は頭やぞ。お前に殴られたんや。もっと痛いわ。てか当たりどころが悪かったら死んどったわ」

 自分は頷く。今はそれしかできなかった。

「まぁ、ええわ。もうそれは言いっこなしや」

 そう言って社長は笑う。

 それからどれくらい走ったやろうか、気がつくと車は山道を走っていた。両サイドは森で、木々は深く、陽も落ちて暗。遠くの方は闇に霞んで見えた。

「一番のお気に入りに手出した馬鹿がいたみたいで、そいつは噂では亀岡の山奥に生きたまま埋められたらしいよ」

 そういえば店長がそんなことを言ってたな。自分は横に座る店長をちらっと見るが、すぐに目を逸らされた。

 相変わらず車は山道を抜ける。ずっと登っているようだった。ということはここは亀岡か? 正直分からない。自分は亀岡という地に訪れたことはなく、保津川下りだとかトロッコ列車だとか、そんなことしか知らない。今車窓から見える夜森の景色からここがどこかなんて分かるはずがない。分かってたまるか。分かるのはただ、良い状況ではないということだけ。

 恐怖を覚えた。生き埋めってことはやっぱ生きたまま埋めるんやろなぁ。当たり前か。だから生き埋めか。生きたまま埋められるというのはどんな感じなんやろうか。こう、やはりだんだん苦しくなるんやろか。どれくらい生きられるんやろか。まぁ、もって一分、運良きゃ二分。そんな数分の差に何があるのかは分からんが。どうせ助かる見込みなんてない。

 もっかい音楽やりたかったなぁ。

 せっかくバンドも良くなってきて、いろいろあったがこれからという感じやったのに。悔しい。悔しくて死にたい。いや、死ぬのか。死ぬから悔しいのか。

 この前のように暴れて逃げるという気にはならなかった。完全に詰んだ。自分はもう諦めていた。すまん、寺尾。すまん、菊。せっかく生きたのにな。命、拾ったのに。

 車が停まる。いつの間にか道からも外れた完全な森の中だった。自分は若い衆に乱雑に外に放り出された。

「うーん」

 社長はそう言って辺りを見回し、

「あの木がええな」

 と一本の木を指差した。自分には別になんの変哲もない木に見えた。

 すると店長は頷き、社長がチョイスした木に自分を縛り始めた。店長のすまなさそうな表情とは裏腹にロープはがっちり固定され、少し動いてみたが、自分で解くことは不可能だった。またも身体的ホールド。

「悪く思わないでくれよ」

 店長がこっそり自分に言う。

「生き埋めじゃないんですか?」

「知らない。そんなんは社長の気分なんだよ」

「てか、なんなんですか? これは」

「多分だけどね、ここは熊とか狼とかが出没するって言われてる山域なんだ。だから、そのー、分かるだろ? ここにこんなふうに縛られてたらいずれそういう奴らが現れて……」

「餌になるってことですか?」

「まぁ、そう」

 ……。

 まさか現世でご褒美の小魚のように食われることになるとは思っていなかった。

「おう。準備できたか?」

 少し離れたところから社長が言う。小用を足していたようだった。

「はい」

 店長がそう言って自分の側を離れる。去り際、一瞬目が合った。ちくしょう。絶対化けて出てやる。

 社長が自分の前まで来る。

「牧村君、ここは熊とか狼とかが出没するって言われてる山域やねん。分かるやろ? そんな場所にそうやっておったらいずれ奴等の餌になって御陀仏や」

 その説明は二度目やったので特別な驚きはなかった。そんなドヤられても。

「さよならや、牧村君。もう会うこともない。だからこれでチャラや。モモのことも頭のことも」

 そう言って社長は笑いながら冷たくなった自分の頬をペチペチと軽く打った。

「じゃあな」

 社長が、若い衆が、店長が、車に乗り込む。エンジンがかかり、それは街中では何も感じない程度の音なのだが、こんな山奥では信じられないくらいの爆音に聞こえた。車が走り出す。ヘッドライトは行き先を照らして夜をなぞっていく。やがてそれすらも見えなくなった。残ったのは自分と森だけだった。闇。信じられないくらいに研ぎ澄まされた静寂。キーンと耳が痛かった。

「おーい」

 言うてみたが、自分の声は中途半端に響いただけで虚しかった。闇夜に吸い込まれてすぐに消えた。静寂が戻ってくる。

 そうや、ロープ。あの店長のことやから最終的には少し緩めに締めてて、もがけば解ける的な、助かる的なことをしてくれてるんちゃうやろか。そう思ってクネクネともがいてみたが、そんなことは無く、ロープはキチッと自分の身体を木にホールドしていた。仕事のできる男である。殺すぞ、ダボ。自力での脱出は不可能そうだった。

 名前も知らない森。絶望の中、周囲を見回してみるも、暗すぎて何がなんやらわけが分からず、静寂が身を包むばかりであった。揺れる木々は黒くて不気味。勿論人気は無く、今のところ獣等もいないように思えるのだが、実際のところ分からん。もしかしたら彼等はまだ、森に夜食が放たれたことに気付いていないのかもしれない。が、もしかしたら既にもう自分を取り囲んでいて、こうしている間にもジリジリと間合いを詰めてきているのかもしれない。凍えるほど寒かった。

 なおももがく。なんせ今自分にできることはそれしかない。一縷の希望。が、十分くらいやってみたところで疲れてもう止めた。どこか遠くで野鳥が飛び立つ音が聞こえた。

 詰んだ。

 空を見上げると嘘みたいに星が綺麗だった。満天つう感じ。それはもう、都会の空で見る星とはまったく質が違う。力強く、眩い。散りばめられた無数のダイヤモンドのようだった。はは。すっげぇな。美しい。寒いけど。

 それで自分は俯いて目を瞑った。

 もう眠ろう。

 眠ってしまって自分でも気付かないうちに餌になろう。多分、この状況ではそれが一番幸せな死に方だ。

 情け無いことばかりの人生だった。

 結局自分は、何も成し遂げられなかった。誰一人として幸せにすることができなかった。自分が生まれたことは世界にとって完全なるマイナス要因だった。自分は負けたのだ。何にかは分からんが、何かに。はっきりと負けたのだ。

 でも夢に対しての後悔は無い。これははっきりと言えた。音楽が好きだったこと、中学でギターを始めたこと、ガウチョというバンドを組んだこと。全てにおいて後悔は無かった。まぁ、結果、上手くはいかなかったが。特に、寺尾に対しては本当に中途半端な感じになってしまった。良い感じで「バンドをやり直そう」ってなったのはまだ数十時間前の話だ。悪い。そこは素直に思う。贔屓目無しであいつは良いベーシストや。もしかしたら自分じゃない誰かと組んでいたらもっと早くに成功していたのかもしれない。だとしたらそれに対しても悪かった。自分は奴と一緒にバンドができて本当に楽しかった。嬉しかった。

 そして、菊。

 菊を幸せにできなかった。

 可哀想な思い、ひもじい思いをたくさんさせた。キクイモのことにしてもそうだ。正直、それって人としてどうなん? ということにも菊はいつも付いてきてくれた。だからいつか、きっといつか幸せにしよう、や、絶対にすると思って自分は生きてきた。でももう、それも無理っぽい。すまん。今や自分は餌だ。獣の夜食だ。せめて生命保険にでも入っておけばよかったなぁー。自分が死んで菊にまとまった金が入って、多少なりとも豊かな生活が送れるようになるのであれば、餌として死すれどその死に多少の価値ありと思える。しかし自分はプーで、その日暮らしもママにならない身だったため、当然ながら生命保険になど入っていない。すまん。

 来世で会えたらきっと幸せにする。きっと。って、いや、ちゃうな。ちゃう。きっと来世ではもう会わん方がええんやろな。自分みたいな屑と、野良とまた一緒になってしまったら、また野のキクイモ等を食すような事態になってしまう。菊はもっと、生活とか金とか、そんなマトモをちゃんと持っている奴と幸せになった方がいい。現世で選べなかったいろいろなものを取り戻してほしい。そや、と言うか自分はもう死ぬんやから現世でもまだまだやり直せるじゃあないか。未亡人言うてもまだ三十過ぎなんやから。はは。菊、幸せになってくれ。顔も知らぬマトモな誰か、頼んだぞ。菊を頼んだ。

 俯いた頬を涙が伝った。

 それは無理矢理に瞼を押し上げて溢れる。自分は嗚咽を漏らして泣いた。長い時間をかけてしっかりと泣いた。

 泣き疲れてしまうと急にどっと眠たくなった。時間的にももう深夜であった。自分はもう、何もかもどうでもよくなっていた。

 真っ暗な視界。頭はどんどん曇になっていく。霧深い。ブラックアウト。さよならだ。本当のさよなら。孤独なさよなら。自分は終わった。さぁ、獣どもよ、食うなら食え。綺麗に食え。骨も残さずに食え。

 その時、懐かしい光が自分をさっと包んだ。それはあまりに強烈で、無意識のうちに自分は顰めっ面になり、僅かに残っていた涙が目から溢れた。

 突然のことで何が何だか分からなかった。自分は半ば本気でET的な、地球外生物がユーフォーで遠くの星から自分をお迎えに来たのかと思った。未だに謎の多い「人間」という生物を研究するため、サンプルに自分を選んだのだと。何故に一体自分なのかと。一瞬、寺尾と昔ノリで契約した有料の特撮チャンネルで見た初代仮面ライダーの第一話を思い出した。取り囲むショッカーみたいな宇宙人、実験台に拘束される自分が浮かんだ。

 それで空を見た。

 が、そこには円盤など無く、それで初めて自分が上からではなく横から照らされていたのだということに気付く。ヘッドライトだった。どこかで見たことのある車。あれは確か自分が最初に拉致られた時に乗せられた車だ。

 ん? と、いうことはヤさん連中が何らかの事情があって戻ってきたのか?

 やっぱ獣さんなどではなく自ら殺しておきてぇ的な心変わりをされたのか? ここまできてそんな心変わりある? まったく分からん。たくさんのハテナが頭を駆け巡った。止まった車、運転席のドアが開く。それで自分は驚いた。

「なんで……?」

 驚きでそんな言葉しか出なかった。

 モモちゃんだった。

「はは」

 そう言ってモモちゃんは小さく笑う。懐かしい笑い声。少し引きつっていたが。

「酷い顔」

 モモちゃんはそう言って氷のように冷たくなった自分の頬に触れた。自分は涙目で頷く。

「とにかく逃げよ」

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