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川を飛ぶ子供の目  作者: 羊
6/8

川を飛ぶ子供の目 6


 三月一日。三月っていうとまだ肌寒いが、イメージ的にはもう春って感じやんな。卒業式シーズンつうか。街は春休みの大学生で溢れとる。雪を払い跳ね上がる草花。顔を出す生命。

 自分はと言うと、寺尾と並んで水島さんの前、土下座をしていた。冷たいオフィスの床にしっかりと額を付けていた。

「どゆこと?」

 水島さんの静かな声が頭上から降ってくる。

「すいません」

「すいませんじゃなくて、どゆことって聞いてんねん」

 水島さんの容赦無い蹴りが自分の肩に入る。

「おう、顔上げろや」

 そう言われたから自分も寺尾も顔を上げる。正座。反省の表現。表現者。

 ソファに深く腰掛けた水島さんは煙草を吸っており、一目で御立腹と分かるような表情だった。

「それで、結局何枚売れたんや?」

「七百枚ちょっとです」

「あかんやないか!」

 今度は寺尾に蹴りが飛んだ。寺尾は後ろに吹っ飛び、テーブルに頭をぶつけたが、すぐに起き上がり自分の横へ戻ってまた元の正座スタイルに戻った。覚悟を決めたつもりでもやはり恐ろしいのか、肩が震えていた。

「あんなぁ、お前ら俺に千枚売れる言うたよな? 電話で。なぁ。確かに言うたよなぁ?」

 後ろに立つナッパに聞く。ナッパ頷く。

「それが終わってみたら売れてませんってどういうことやねん。お前らが売れる言うから俺、ツレとかにも千枚売れたって言うて回っててんぞ」

「すいません」

「すいませんで済むかよー。あーもう、マジ悲しいわ。信頼してたのに裏切られた感じ」

「すいません」

 二人、必死で頭を下げた。

 でもダメだった。

「ちゃんと責任取れよな」

 やっぱりきたか。予想はしてたけどさぁ。自分は拳を固めてうな垂れた。

「あの、責任っていうと、その、やっぱり玉ねぎなんでしょうか?」

 あまりの恐怖からか寺尾が聞いた。アホか、いらんこと聞くなっての。

「玉ねぎぃ?」

「玉ねぎみたいに人の皮を剥いて殺すって」

「そんなことあったか?」

 水島さんはまたナッパに聞く。これにはナッパも首を傾げた。

「分からん。覚えてないけど、もしかしたらあったかもしれんな。なんや、それが希望なんか?」

「いや、いや、勘弁してください」

 寺尾は激しく頭を下げた。

「アホ。まぁ、殺しはせえへんわ。今時、死体処理すんのも大変なんやぞ」

 その言葉に自分等は少し安心をした。それと同時に自分はもしかするとあの社長も自分を殺すまでは考えてなかったのではないか、と何となく思った。

 それで水島さんは立ち上がり誰かに電話をかけだした。

「あー、ども。まいどっす。あのー。この前、ええ。言うとった例の。そうそう。そうなんすよー。ええ、はい、そう。今日すぐいけますよ。ええ、じゃいつものところで。はい、はい。じゃあ」

 電話が終わる。

「行こか」

 水島さんはそう言って自分等を見て笑んだ。

 車に乗せられる。

 運転はナッパで、助手席に水島さんが座った。自分と寺尾は後部座席だった。

 自分はこのような車での拉致はつい先日に経験済である。で、今回の拉致と前回の拉致の違い。何よりまず、ホールド感が違う。ホールド感っていうんかな、こういうの。まぁ、何って言うと、自分等は後部座席に二人、縛られるわけでもなく乗せられており自由だった。比べて前回の拉致は屈強な男が自分の脇を固めており、身動きが取れず、ホールド状態であった。

 何なんやろか、この人達の余裕は。なんせ自分も寺尾も身体は自由なのだ。だから信号待ちか何かで車が停まれば、自分等は後部座席のドアを開け散り散りに逃走、なんてことも不可能ではない。

 しかし自分はそれをしようという気にはならなかった。

 もしそのように強引な逃走をして失敗した場合、確実に水島さんの更なる怒りを買うからである。それはおそらくお仕置きのランクアップに直結する。それだけは絶対に避けたい。とりあえず命だけは拾えそうなのだから。

 現状況、つまり水島さんは自分等の行動を恐怖で制限しているということなのだろうか。いわば精神のホールド。ヒェー。恐怖で行動を制限って、それもなんか小説で読んだことある気がするなー。なんやっけ。

 そんなことを考えていたら目的地に着いたようだった。今回は失禁しなかった。

 たどり着いたのはどこかの大きなビルの裏だった。そこに明らかに場違いな黒塗りの車が一台停まっていた。状況から推察すると、おそらく水島さんが電話で話していた相手があの車の中にいらっしゃるのではないか。そしておそらくその方も少し、いやもしかしたらかなり非合法的な方なのではなかろうか。

「ちょっとここで待っとけや」

 水島さんにそう言われたので、自分等は大人しく後部座席で待機した。

 水島さんとナッパが車を降りると、黒塗りの車からも男が二人降りてきた。小柄な男と大柄な男。小柄な方はもう初老と言ってもいいくらいの年齢で、大柄な方はナッパに負けず劣らずの大男だった。案の定、どうみてもマトモな職業の方々とは思えなかった。水島さんと談笑してる。

「やべぇよ。あれはやべぇよ」

 隣で寺尾がぶつぶつと呟く。

「ヤ系の人やろか?」

「明らかにそうやろ。あの感じ」

 コソコソとそんなことを話していたらドアが開いた。そこにはナッパが立っており、親指で「降りろ」と自分等を促した。素直に降りる。

 それで自分等は二人して黒塗りの車の男達の前に並ばされた。小男は自分と寺尾の顔を交互に眺めた。時にフムフムなんて言うて、口元はやや笑み、非常に気色が悪かった。

「どーすか?」

 水島さんが聞く。

「んー、そうねぇ」

 男は散々悩んだ挙句、「こっちかなぁ」と寺尾を指差した。寺尾は「え、俺?」みたいな表情で何が何だか分からない感じだった。そりゃそーだ。何の説明も受けないままとりあえず指名が入ったのだ。そんな顔にもなる。

「おめでとう。頑張れよ」

 と水島さんが笑顔で寺尾の肩に腕を叩いた。

「じゃ、行こうか」

「あの、行くってどこへ?」

 動揺する寺尾。小男はその質問には答えず、寺尾を車の後部座席に乗せてさっさと行ってしまった。黒塗りの車が角を曲がり見えなくなる。

 寺尾が連れて行かれた。

 あまりにも唐突で自分はキョトンとしていた。

「さ、自分も行くで。乗り」

 そう言って水島さんは再び自分を車に乗せた。すぐに車は走り出す。

「あの、寺尾はどこに連れていかれたんですか?」

 自分はたまらず聞いた。

「え、あいつ? まー、お勤めって言うんかなぁ。んー、小旅行よ、小旅行。大丈夫、さっきも言うたけど殺しはせえへんって。まぁ、ちょっと人格は変わってまうかもしれんけどなぁ」

 なんて言って水島さんは笑う。まったく笑えないし、まったく分からなかった。人格が変わってしまうやもしれない小旅行とは?

「というか、この車も今どこ向かってるんですか?」

「まぁー、焦るなよ。落ち着き。自分にもな、しばらくちょっとした仕事をお願いしようと思うねん。だってそうやろ? 自分等千枚売る言うて売れへんかってんから。自分等のライブとかCD作るん、けっこう金かかってんぞー。売り切らんかったんやから違約金も加えてちゃんと返してもらわなな。ははは」

 何がははは、なのだ。

 で、結局車は元いた水島さんの事務所へ戻ってきた。

「じゃ、俺はちょっと用事があるから後は頼むわ」

 そう言って水島さんはさっさと何処かへ行ってしまった。展開について行けてない自分がオドオドしているとナッパが、

「行くぞ」

 と言った。図体通りの野太い声。思えばナッパの声を聞くのはこれが初めてだった。

 案内されたのは事務所の近隣にあるレンタルルームだった。部屋の中にはもの凄い量のダンボールの小箱が積まれていた。

「ここは……?」

「あまりいろいろなことを聞かない方が身の為だと思うが」

 ナッパは表情を崩さずにそう言った。多分、おっしゃる通りだった。

「ここにある箱を毎日指定の駅の指定のコインロッカーへ持って行け。指示はこの部屋のポストに毎日入れておく」

「毎日ですか?」

「この製品が売り切れるまでだ。安心しろ、おそらく二週間程度で終わる」

「は、はぁ」

 そう言って箱を見る。明らかに非合法的な雰囲気を醸し出していた。

「あの、ちなみにこれは……」

 自分が言いかけるとナッパは軽く自分を睨んだ。おそらく何度も同じことを言いたくなかったのだろう。

 が、しかし直ぐに表情を崩し、箱を一箱開けて中を見せてくれた。小瓶に入ったドリンクが並んでいた。濃い茶色の瓶で、中の様子がよく分からない。一見、栄養ドリンクのように見えるのだが、おそらく違うのだろう。ラベルは貼られておらず、それが四本×六本で二十四本セットになっていた。

 ナッパはその中から一本だけ瓶を取り出して自分にわたした。おそらく飲んでみろということやろう。

「え、いや……」

 躊躇した。自分は屑ではあるのだが、これまでの人生、薬物との関係だけは一線を引いていた。

 しかしナッパの飲んでみろ威圧感は半端なかった。続・精神のホールド。とても断れる感じではなかった。なので自分は仕方なくそのドリンクをいただいた。

 これはあかん。

 ファーストインパクトで思った。

 凄まじい味だった。明らかにあっかんダーティーなエネルギーの溶解物。舌が痺れた。キツいアルコールのように胃が焼ける感覚がある。直ぐに吐き出したかった。しかし、そんなことをして良いはずもなく、自分はこれを気合いでなんとか飲み切った。堪らずうぇってなる。

「まぁ、最初は大概そうなる」

 ナッパが静かに言って何やらメモを自分に手渡す。

 見ると、幾つかの駅名とそれぞれにコインロッカーの番号だと思われるナンバーが記載されていた。

「今日の分だ」

 それで自分は件の箱を手にメモに書かれた駅を目指す。在来線に乗って、ドアのところに立ち、車窓から流れる景色を見てた。非常にのどかだった。抱えた箱が意外と重く、早くも腕がダルくなっていた。

 ナッパからは必ず駅単位で箱を持ち運ぶように言われていた。つまり、一駅納品したら一度あの部屋に戻り、ピックアップしてからまた次の駅に向かうという流れだ。最初自分はそれを聞いた時、面倒やなぁ、と正直思ったのだが、間違いだった。そもそも複数箱を同時に持ち運ぶことなど不可能だった。ナッパならできたのかもしれんが。

 指定された駅で在来線を降り、指定されたコインロッカーに箱を入れる。箱を入れたロッカーは何か変だった。と、いうのも、鍵が付いていないにも関わらず開くのだ。普通こういったロッカーは鍵が付いていない=使用中で開かないはずなのである。でも開く。そして箱を入れて再度閉めると今度は開かなくなる。数件回ったが指定されたナンバーのロッカーはどれも同じ仕様になっていた。一応他のロッカーも見てみたのだが、他は通常仕様であった。明らかに指定されたナンバーにだけ何かしらの細工が施されていた。

 自分は最後の納品を終えた後、箱を取りに来るであろう人物を盗み見てやろうと考えた。それで今時珍しい公衆電話の陰に潜み、十分程度待ってみた。が、止めた。そんな人物を見たところで自分にとって何の得にもならない。あのドリンクの感じからして、どうせヤさん関係かトチ狂ったジャンキー、間違いなく非合法的な組織オア人物であろう。そんな方たちとは基本的に関わり合いになりたくない。

 納品が終わったら指定の電話番号にワンコールしろと言われていた。自分は言われた通りに電話をかけ、一日の業務を終了した。

 そして在来線に乗り、驚くことにホテルまで帰ってきたのだった。扉を開けるとベッドの上で菊がストレッチをしていた。

「おかえり」

「うん。ただいま」

 一時は絶望し、諦めた日常へ、自分は生還したのだ。半ば信じられなかった。なんだか身体が二、三センチほど浮いているような感覚だった。

「どうやった? 大丈夫やった?」

「うん。まぁ、何とか。生きてる」

「お咎めなし? お金のこととかいろいろ」

「あー、ちょっとしばらく仕事を手伝うことになった。っていうか今日からやってんけどな。まぁ、そんな感じ」

「へー、良かったやん。それで済んで。何か怖い人やってんやろ?」

「うん。まぁ、そやね」

 自分はそれだけ言うと、ふらふらと洗面所に入っていった。壁一面の鏡。自分が映っていた。酷い顔だった。生気がなかった。

 ほんまにこれで良かったんか?

 確かに生きた。でも明日から自分がやることは間違いなく犯罪である。明日っていうかそれを自分は今日既にやってきたのだが。ワズ。つまり自分はもう犯罪を犯したのだ。犯罪者なのである。お咎めがコレということは、あのドリンクはやはり相当ヤバい代物なのだろう。もし取り引きにミスやトラブルがあったら、水島さんはそれを全て自分の責任にするつもりなのだ。そして自分が納品するドリンクは必ず誰かを不幸にする。それは間違いない。

 で、それでいいのか?

 ほんまは自分はあのドリンクを全部叩き割ってやるべきやったんちゃうんか? 愛機の赤色ストラトキャスターでよー。んで、あのドリンクの匂いが充満した部屋で歌ってやるべきなんちゃうんか。水島さんによー、ナッパによー。その他、悪い奴らによー。こんなことあかんでって、さぁ殺さば殺せって歌ってやるべきやったんちゃうんか。それが自分がずっと信じてた音楽なんちゃうんか。音楽にはそういう良くないことを否定する力があるって思ってたやん。いつも思ってたやん。

 自分は、誰かを不幸にしてまで生きたいのか?

 なんて鏡の向こうの自分に自問自答した。そんなことを考えるのは生まれて初めてだった。

 が、それだけだった。

 自分はやはり小物で、翌朝、言われた通りにあの部屋へ行き、前日同様に箱の納品に勤しんだ。

 情け無い。ほんまに情け無い。

 自分はやはり小物だった。口では何と言おうとやはり命可愛しで何もできない稚魚だ。この分じゃ例え音楽で売れててもじきにレコード会社からの指示通りに売れ線の、ラブポップ的な、君に出会えて良かった~オ~イェイ、haha、愛が全てさぁ~nanana的なものを書いてたんやろなぁ。生きたくて、仕方なしみたいな自分を殺した思考になってたんやろなぁ。

 自分は自分という人間に落胆した。正直、ここまでの屑だとは思わなかった。

 そんな暗い気持ちで三日目の夜、自分は何故だか無性にあのドリンクをリピートしたいという気持ちになった。抑えられなかった。あかんと思いつつも瓶を開け飲むと、これがこの世のものと思えないくらいに美味かった。なんだか自分がなんでもできる人間になれたかのような、そんなアッパーな気持ちになれた。それから毎日、自分はドリンクを盗み飲むようになった。



 忘れていたわけでは無いが、自分のことでいっぱいいっぱいで、忘れていた。寺尾のことを。納品業務開始から五日目のことだった。

 仕事終わり、ダメ元で電話をかけてみたら意外にもツーコールで寺尾は出た。

「お前、大丈夫か?」

「あぁ、牧村か。お前こそ大丈夫か?」

 寺尾は何故だか召されたような、優しい声色だった。

「こっちはまぁ、大丈夫っちゃあ大丈夫やけど。とりあえず生きとる。お前今どこおんねん?」

「何か、旅館」

「旅館?」

「うん、旅館。温泉旅館的な」

「そんなとこで何してんねん」

「なんかもう、自分でも分からん」

 そう言って寺尾は笑った。それで自分は直感でヤバいなと思った。

「だ、大丈夫か?」

「だからなんかもう分からんねんて」

 寺尾は笑うのをやめない。

「おい。笑うなっての」

「なー、ほんま。まぁ、大丈夫。ちょっとケツが痛いけどな」

「ケツ?」

「うん。あ、牧村悪い。指名が入ったらしい。行ってくるわ」

「あ、うん」

 それで電話が切れた。

 ケツが痛い? 指名が入った?

 少し過ぎった単語もあったが、なるべく考えないようにした。と、とりあえず生きてて良かった。

 納品業務自体は順調だった。箱は毎日減り続け、当初の半分くらいになっていた。少し筋力が付いたのか、腕も当初ほどはしんどくはない。毎日、順調に不幸になる人間を増やしていた。ははは。ははは。はは。

 罪の意識は半端なかった。そしてそれはそのままドリンクの摂取量に繋がった。今や自分は朝晩、日に二本、あのドリンクを摂取しないと生きていけない身体になっていた。

「痩せた?」

 夜、洗面所で並んで歯を磨いている時、菊に言われた。

「えっ、そう?」

 と言って鏡を見て驚いた。

 頬がこけて痩せ細っていた。それだけでなく目元にはクマが濃く、顔色も泥のようで、「誰や、お前は?」と思った。

「お酒ばっか飲んでないでちゃんとご飯食べなあかんで」

 そう言って菊は洗面所を出ていった。

 自分は鏡の前に立ち尽くした。あかん。明らかに自分の身体に今あかんことが起きている。ストレスが溜まってる? まぁ、それもある。しかしこれはおそらくあのドリンクが原因だ。あれはどう考えても一日に二本飲んでいいような飲料物ではない。普通のエナジードリンクでも一日二本飲むのは良くないんやから。

 堕ちていってる。

 自分は、どんどん堕ちていってる。上に上がろうと必死でもがいていたのに、どんどんどんどん堕ちている。身体中から力が抜け、自分は洗面所の床に蹲ってしまった。

「どしたんー?」

 自分がなかなか部屋に戻らないから、菊が様子を見に来た。

「ほんまに大丈夫?」

「分からん」

「分からんって何や。しんどいん?」

「うん。まぁ、しんどいはしんどい」

 菊は溜息をついて、

「ちょっと外歩きに行こか」

 と言った。

「あんま出歩きたくない」

「もう一時過ぎやで。こんな時間に誰も探したりせえへんて。ヤさんも寝てるて」

 深夜一時過ぎ。いつの間にかもうそんな時間なのか。

「行こうや」

 結局菊に押し切られて、二人外に出た。

 厚手のコートを羽織りマフラーを巻いたが今夜はまだ寒い。春やのに。終電も終わり人も殆どいない駅前。吐く息が白かった。肩を並べて歩く。

「寒いな」

 何となく無言やったので、隣の菊に言うてみる。

「言うほどやろ」

「菊は寒いの強いよなぁ」

「そりゃー、雪国育ちやからね」

「慣れてるんやな」

「それよりさ、お腹空かん?」

「いや、あんまり」

 菊は自分のコートの背中を平手で打った。

「ほらー、そんなんやから痩せんねんて。最近ちゃんと食べてへんこと知ってるで」

 確かに二月の最終週あたりからほとんどまともな食事を取っていなかった。納品業務を始めてからは尚更だった。あのドリンクを飲むと活力は湧くが、食欲はまったく出なかった。

「蕎麦でも食べようや」

「蕎麦? また何で?」

「あっちの方に割と安くて美味しい蕎麦屋さんがあるのよ」

「へぇ、行ったことあんの?」

「うん。一回だけやけど」

 てかこんな時間に空いてんのかよーと半信半疑で行ってみたのだが、何のことない。どこにでもある二十四時間営業のうどん・蕎麦屋だった。入る。

「かけ蕎麦二つ」

 カウンターに座り菊が注文した。

「いつ来たん、ここ?」

「いつやろ? 忘れたけど」

 外をバイクの爆音が通り過ぎる。千切れるようなマフラー音。菊の言葉の最後の方は聞こえづらかった。

「あ、そう」

 なんて適当に言うてる間にかけ蕎麦が出てきた。早かった。立ち昇る湯気。ネギがぱらぱらとオンしただけのシンプルなザ・かけ蕎麦だった。一杯二百八十円也。それを、すする。

「な、美味しいやろ?」

 蕎麦をすすりながら菊が言う。

「まぁ」

「まぁ、ってなんやねん中途半端やな」

「年越しに菊が作った蕎麦の方が美味いわ」

「おっ」

 菊が蕎麦を食べる手を止めて笑った。

「そんなこと言うなんて珍しいやん」

「だってほんまにそう思ったから」

 自分はそう言って蕎麦をすする。

 隣で菊はまだ愉快そうに笑っていた。

「そんな笑わんでええやん」

 自分は少し怪訝な顔をする。

「いやー、料理褒められるなんて今まで一回もなかったから。ちょっと嬉しかったわ」

「そうかぁ?」

「そうや」

 そうなんかなぁ。まぁ、もしかしたらそうかもしれん。美味いと思ってるんやけどね、いつも。声に出して言っているかと言われたらあまり自信がない。

 温かい蕎麦が身体に沁みる。久しぶりに生きた心地がした。ありがとうって思った。

 それで手を繋いでホテルまで歩いて帰った。街明かりもほとんど消えた午前二時過ぎだった。



 電車に乗って移動していると、如何にこの世の中には様々な種類の人間がいるかが分かる。そしてそれらが不意に交錯する。もうそれは悪戯としか思えない、そんな何かが在来線には溢れている。それがよく分かる。

 交錯する人々。

 例えば今日も、いちゃいちゃとくすぐり合う、ちょいヤンキーチックな大学生のカップルがおって、その向かいに高尚そうな坊さんが座っていた。やがて坊さんはカップルのいちゃいちゃに気付いてしまう。んで、どうも気まずいから気にしまい、気にしまいと思っているようなのだが、ついつい気になってチラ見してしまうという何とも言えない様を偶然目撃した。坊さんは本当に気まずそうで、脳内では多分「南無阿弥陀、南無阿弥陀」なんて自身の邪念を振り払うように何度も唱えてるんやろなぁ、なんて自分は思った。そんな交錯。な、悪戯やろ?

 そんな中、かく言う自分は「浮かない顔で箱を持った人」なのである。異端だ。多分皆、自分みたいな奴とは交錯したくないと思っているだろう。当たり前かもしれないが、浮かない顔で箱を抱えて電車に乗っているような奴は、自分以外に一人もいなかった。てか、いたらおそらく同業者だろう。間違いなく。

 納品先は近いところもあれば遠いところもあった。電車の中ではやる事もなく、座れれば座ったのだが、かと言ってうたた寝をするわけにもいかず、外の景色や虚無を見つめていた。

 しかし毎日毎日何時間も電車にただ乗っているというのはやはり暇で、景色なんかも日々画期的には変わらず飽きてくるし、虚無なんて味の無いガムを噛んでいるようなもので、流石に自分も疲弊した。

 基本的には一日に最後の方、おそらく朝に飲んだドリンクによるドーピング効果が切れかけてくる時分がピークに辛くなる。

 そんな時、自分は周りの会話を盗み聞いた。自分の半径二メートルくらいに意識を集中してそのテリトリー内の情報を集めるのだ。少しだが気が紛れる。

 例えば先日、自分の前に立った予備校生と思われる二人組の話。

「この前飲んだエナドリがさぁ」

 予備校生Aはくすんだ目をして言った。おそらく受験勉強であまり寝ていないのだろう。お世辞にも頭が良さそうには見えなかった。

「なになに?」

 と言う予備校生B。こいつもまた馬鹿そうだった。

「や、すげぇ美味かったんやけど、コップに出して見たらめちゃくちゃ毒々しい色でな」

「ひゃー、身体に悪そう」

「せやねんなー。引いてしまったわ。全部飲んだけどさー」

「飲んだんかい。それってアレか? もしかしてこうれいにんじんのやつ?」

「あー、うん。多分それ、こうれいにんじん」

「やっぱなー。やっぱこうれいにんじんだよなぁ。そういうエナドリは」

 こうらいにんじんだよな、多分、それ。自分はよっぽど教えてやろうかと思った。

 てか、自分はもっと毒々しいドリンクを知ってるよ! 飲んでるよ! 言いたかった。言わんけど。でもそんなことを考えているうちに降車駅に着いていた。

 またもう一つのケース。

「腰がなぁ……痛いんよ、ずっと」

 中間管理職らしき禿げたおっさんやった。

「腰すか」

 若手のエースっぽい部下が応える。

「そう、腰」

「それってヘルニアじゃないすか? 病院行った方がいいっすよ」

「ヘルニアかぁ、そうなんかなぁ。何というか、軟骨がなぁ。なんかアレやねんなぁ」

「あぁ、軟骨ね」

「うん。軟骨やねんなぁ」

「軟骨すかー。病院行きましょうよ」

 なんて軟骨、軟骨言うから無性に軟骨の唐揚げが食べたくなった。でもそんなことを考えているうちに降車駅に着いていた。

 なんて、そんな具合。

 そして今日の夕方、自分はまた同じように限界を迎え、早く戻ってドリンクをかっ込みてぇなぁ、なんて思いながらまた周囲の情報を集めていた時の話。

「配信限定やけどめっちゃ話題になってるらしいで」

 隣に座った女子高生やった。二人組で、どうも音楽の話をしているらしかった。

「なんてバンド?」

「ミニットやって。女性ボーカルでカッコいいの」

「へぇ、どんな感じ? 見してよー」

「動画も配信してるから見てみ」

 そう言って彼女は友達に片耳のイヤホンをわたす。携帯を横向きにして動画を再生した。

 自分はイヤホンがないので当然音声は聞こえないのだが、バレない程度に身を乗り出して動画を覗き込んだ。

 歌っている女性ボーカルはこの前会った中村の彼女だった。

 ライブ映像らしく、ステージでの彼女は非常に艶かしかった。エロい。絵になるボーカルだった。そして、ということはと思い更に食い入るように見ると、やはりドラムは中村だった。良い顔をしていた。自分の後ろで演奏していた時よりもずっと、ずっと。

 あのストリートで会った日、新しいバンドでレコード会社から声がかかっていると中村が言っていたのは本当だったのだ。

 そう言えばレコーディングをしているとも言っていた。それを早速配信して話題をかっさらっているとは。しかもライブハウス周りのアンダーグラウンドでではなく、通学の女子高生達が生きるメジャーな世界で。

 何なんだこの差は?

 自分はバンドを組んでもう十数年以上も経ち、熟練。それが先日やっとの思いでレコーディングしてCDを作って売ったにもかかわらず、その売りが目標値に達せずに今こうやって罰を受けている身。片や中村はレコード会社を後ろ盾にホイホイと階段をステップアップしていき、メジャーワールドでクソ生意気に配信なんてしとる。自分は、自分は、中村なんかより数千倍努力している自信がある。

 才能。

 その差とはつまりは才能なのか。不意に頭によぎった。持って生まれた才能なのか。中村にはそれがあり、自分には無いのか? それは、それを考えることだけはマジで怖い。自分は揺れる車中で震えた。凍えたように震えた。

 才能。自分にも無いと困る。才能が無くとも努力で何とか、なんて次元は自分はもうとっくに越えていた。

 自分は中村に嫉妬した。恥ずかし気もなく激しく嫉妬した。悔しかった。羨ましいという気持ちを止められなかった。

 気付いたら電車は止まっており、周りには誰もいない。見回りの車掌さんに「終点ですよ」と告げられた。



 翌朝、いつものようにドリンクを取りに部屋へ行くと、寺尾がいた。突然のことで一瞬状況が飲み込めなかった。しかし次の瞬間、感動の嵐が自分を包んだ。

「寺尾」

「牧村」

 自分等は固く抱擁を交わした。もう一度生きて会えるだなんて奇跡のようだった。

 寺尾は案の定泣いていた。泣き虫なのだ。基本が。でもそれで自分は寺尾が寺尾のまま、大きく人格が変わってしまってはいないことが分かって安心した。前の電話の時のような危うい感じはなかった。少し痩せたようだった。

「ケツは、ケツはもう大丈夫なんかよ?」

「牧村、俺、俺な」

 そう言って寺尾はえづいた。それで自分は、

「や、いい。もうええよ、何もかも。大丈夫。やから何も言わんでいい」

 と寺尾を制した。

「牧村ぁ」

「大丈夫やから、泣くなっての。んで、ここに来たのは水島さんの指示か?」

「あぁ、昨日旅館から帰ってきて水島さんの事務所に送られた時に明日からここで牧村の仕事を手伝えって言われた」

「そうか」

 自分は正直、もう許してやれよと思った。怪しい旅館で怪しい仕事をさせておいて、更に怪しいドリンクの納品業務までやらせるなんて。自分はここにきて初めて水島さんに対して怒りを覚えた。

「仕事内容は牧村に聞けって言われたけど、いったいどんな仕事なん?」

 それで自分はここの仕事内容を寺尾に教えた。

 本当は教えたくなかった。本当は自分だけでこの仕事をこなし、自分だけでその罪を背負いたかった。傷付いた友に更に傷を負わせたくなかった。

 でもここに寺尾を派遣してきたのは水島さん自身で、自分が今下手に寺尾を庇うことは、自分ももちろん、結果的には寺尾自身の立場も悪くするのではないかと思ったのだ。

「で、この箱の中身はなんなん?」

 話を聞いた後、寺尾が聞いた。当然の疑問であった。

 自分はナッパが自分にしたように、一箱を開けて中身を寺尾に見せた。

「お前、これは……」

 寺尾は即座にドリンクの放つ非合法的なオーラに気づいたようだった。

「分かってるよ。何も言うな」

「お前、これをずっと運んでたのか?」

「あぁ」

 寺尾はそれ以上は何も聞かなかった。

 で、そうしている間に今日も納品に行かなければならない時間なのだが、自分の身体はドリンクを入れておかねば生きていけない身体なので、寺尾にバレないようこっそりとドリンクを盗み飲んだ。

 が、あっさりバレた。

「お前、まさかそれ飲んどるんか?」

「……飲んどる」

「いつからや?」

「運び始めて割とすぐ」

「こんなん飲み続けてたらマジで死ぬぞ」

「分かってる。でもどうしても止められんくて」

 寺尾はまた泣きそうだった。でも押し殺して、

「とりあえず早く全部運び終わろう。その後のことはその後に考えよう」

 と言った。自分は頷く。

 変な話だが、寺尾は例の旅館の仕事を経て、少したくましくなったようだった。

 それから五日後に部屋にあるダンボールをすべて運び終えた。納品業務が終わったのだった。

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