川を飛ぶ子供の目 5
一週間が始まる。月曜日。マンデー。
自分は昔、少しの間だが働いていた時、この月曜日というものが嫌で嫌で仕方がなかった。特に朝。それはもちろん働き始めという意味で、せっかく週末を楽しく過ごしたいのに、あー、もう働くんかよー、ちゃー、また労働かよー、と叫びたくなるのを抑えて満員電車で寿司になった。あれはもうだいぶ昔の話だが、その時の重たい気持ちは今でも覚えている。
しかし本日、二月二十五日の月曜日。そんな労働時代よりもずっとずっと重たい気持ちでホテルを出た。二日酔い気味の頭、太陽の光は暴力だった。下に降りると、寺尾はもう来ていた。
「おはよう。じゃ行こうか」
「あぁ。てか、やっぱほんまにやるんやな」
「当たり前やろ。CD売らなヤバいんやから」
「いや、まぁ、そりゃそうやけど、改めて考えるとこんなことして意味あるんかなぁ、って」
「まぁ、冷静に考えたらできひんこともあるけどさー。あんなー、言うけど半分はお前のアイデアやからな」
「そうなんやけどさぁ」
先日の水島さんからの電話以降、CDはネット販売で五枚売れただけだった。それで残り一週間、これはマジであかんと、どないしてCDを売り切るか、自分と寺尾は綿密に打ち合わせをした。昨晩、また自分の滞在するホテルで。
最初、まったくアイデアが出なかった。
それでダメだ、ダメだ、と近隣の酒屋で買ってきた一升瓶に手をつけて以降、徐々に固く結ばれていた頭の紐が緩んでいき、やっとアイデアが浮かび出した。それが瓶半分を飲みきったあたりにはもう洪水と化して、いい調子になり、翌日は朝から仕事だからと飲酒量をセーブしていた菊に「書記やってぇや、多分何も覚えてへんから。ははは」なんて言うてメモを取らせ、それをわざわざホテル下のコンビニでコピーまでさせて、自分と寺尾で一枚ずつ持って、昨夜は御開きになった。
それで半裸の状態で迎えた今朝、ズボンのポケットでくしゃくしゃなっていたそのメモを見て、自分は情けなくて死にたくなった。
内容は以下だ。
一、都心の大型レコードショップのアイドルコーナーのCDと自分等のCDを入れ替える(パッケージはアイドルのままにする)
二、ストリートライブを行い手売りする。
三、祭りの露天商に混じって手売りする(その際、非常に御利益のあるもので、高名な風水の先生にも認められたCDだということにする)
四、大晦日にカウントダウンライブで見た売れ線バンドのデビュー前のレア音源として売る。
五、めちゃめちゃ便利なソフトウェアやということにして売る(ウイルス除去系が理想!)
六、いっそ水島さんに買ってもらう。
七、インディーズマニアが集まるレコード屋前で押し売りをする。
八、飲屋街で酩酊しているおっさん達に押し売りをする。
九、ネット販売にて、「お得な五枚セット!」ということで値下げして売る(今ならもう一枚付けちゃう! 的なことをしても構わない)
十、ダメ元でCDをラジオ局に送り、パワープッシュしてもらう(上手くいけば爆発的に販売数が伸び、増プレスしなければならないやもしれぬ)
はぁ。
突っ込みどころは満載なのだが、まず一、犯罪である。犯罪であるにもかかわらずレコードショップのレジから売上を回収する手立てもない。これではただ単なる嫌がらせである。ローカルの場繋ぎのニュースにちょこっと出て世間に馬鹿を売るだけである。
で、三、四、五、詐欺である。犯罪である。しかもどれも売れる気が、成功する気がまったくしない。誰が祭りの露天商でCDなど買うというのだ? 例え御利益があると言われても、自分ならそんな胡散臭いものなど買わずに確実に御利益があると思われる御守り等のグッズを買う。金額が余ればおみくじを引く。しかし(ウイルス除去系が理想!)って、マジで酔人の思考とは恐ろしいと思った。
で、六は即玉ねぎやろうし、七、八の押し売りというのもどうも法スレスレな気がして気が進まない。「押し」ってとこがどうも恐喝臭いし。「押し売り」って犯罪なんかなぁ、自分はその辺疎いのだけれども、良くはないよね。多分。九は最早理解不能。だいぶエレクトした案である。冷静な頭を持った今では「同じCDが何枚もあったって意味ないじゃん」と一蹴できる。やはり酔人の思考は恐ろしい。しかしたまにアイドルのCDなんかを何枚も何枚も買う人がいると聞く。ああいうのはまぁ、音楽ではない別の何かを買っとるんやろなぁ、と思う。余談ではあるが。最後に十も、現実的には厳しいよなぁ、というのが正直な感想。そして二はリアル過ぎて逆に不気味だ。
「とりあえずどうする?」
そう言って自分は機材車の助手席に乗り込む。
「どうするって、お前はストリートやろ」
「え、そうなん?」
「昨日言うてたやんけ」
「お前、よう覚えてんな」
「いや、正直あんま覚えてないけどメモにそう書いてあった」
それで見せてもらった寺尾の持つメモには確かに二の項目に○牧村とあった。
「てか、お前ギター持ってないやん」
「あ、ほんまやな」
「何やねんなー。弾き語りやからアコギ持ってくる言うてたやん」
「え、そんなこと言うた?」
すると寺尾は再度先程のメモを見せる。○牧村の下に確かにアコギ! 弾き語り! とあった。
「あ、てかそもそもアコギは家やわ。ホテルにはエレキしかない」
「別に家まで取りに帰るで。車やし」
「いやいや、ちょっと家はマズいねん」
「何で?」
「いや、まぁ」
「まぁ、って。てかお前さ、会った時から思ってたけど、その髭とヅラは何やねんな」
「あ、これな」
自分はチョビ髭のつけ髭とアフロのヅラを着用していた。これは菊に買ってきてもらったライブ以外で止む無く外出する時用の変装アイテムだった。
「お前さー、やっぱ何か俺に隠してへん?」
「まぁ、うん。すまん。正直隠してる。隠してるんだが、ちょっとまだ聞かんといたってくれ」
「はぁー、やっぱりか。ええわ、もう。聞きたくもない。どうせロクでもないことなんやから」
「すまん。ほんでアコギやけど、確かお前も持ってなかったっけ?」
「あー、古いやつならあるけど」
「それ貸して。悪いけど」
寺尾は溜息をついてハンドルを切る。
それで寺尾の家に寄ってアコギをピックアップした。古い、ボロのギター。自分は助手席に座ってこれのチューニングを行なった。このギターは学生時代から寺尾が持っていたギターで、かつての旧友に再開したような、なんだか懐かしい気持ちになった。
「ほな、適当に駅前で降ろすで」
「降ろすって、二人でストリートやるんちゃうの?」
「だって弾き語りならベースいらんやろ。俺は他を当たってみる」
「他ってまさかあのメモの?」
「そう」
「やめとけってー。犯罪紛いの方法ばっかやったやん。パクられるぞ」
「やかましい。変装してホテルに身を隠してるような奴には言われたくないわ。まぁ、流石に詐欺とかはやらんよ。怖えし。レコード屋の前とかで地道に手売りしよかなぁ、と思ってる。二手に分かれた方がええやろ」
「お前、偉いなぁ。よし、それでいこう」
それで自分は適当な繁華の駅前で降ろしてもらった。右肩にはアコギ。左手には二百枚のCDの入ったスーツケース。
往来。自分は明らかに浮いた人だった。
さて、ストリートだ。
ストリートに立つなんていつ以来やろか。学生の時分以来か。忘れたが。自分はとりあえずスーツケースを開いてCDのパッケージが見えやすいように並べた。よし、と。
アコギを構える。
えー、何から行こか。冷静に考えたら自分の音楽はロックって言うか、パンクって言うかという感じなので、あまりストリート向きではない。でもこの際そんなことを言うてる場合ではない。雑踏。自分の前を右へ左へ人々が行き過ぎる。いつの間にか酔気は頭から消えていた。いやにすっきりしている。
自分はアルバムの一曲目から順番にアコースティックバージョンで演奏を始めた。
サムゲタン、熱し
サムゲタン、熱し
やっぱ、熱し
そういえばモモちゃんと田中君とユウちゃんと飲みに行った時、この歌の歌詞を朗読したらみんな笑ってたなぁー。はは、懐かしい。あれは確か十二月の頭くらいやったけかぁ? 懐かしい。まだ三カ月ばかり前の話やないか。なんか遠い昔のことみたいに思えるなー。
モモちゃん、どうしてるんやろ。もう会うことはないって社長には言われたけど。無事やとええんやけどなー。
ん。
てか、今思い出した。
社長の奴、何か身篭ったとか言うてなかったっけ?
いや、言うてた。確実に言うてた。いろいろあって埋もれてしまってたけど、確実に言うてた。
で、身篭るというと自分はあのー、妊娠のことを思い浮かべるのやけど、それで合うてるかな?
合うてるよね。多分。使わないもんね、それ以外に身篭るなんて言葉。ねー。
って、えええええええ。モモちゃん、妊娠しとったんか。てか、させたんか。自分が。マジ? マジで?
正直、まったく心当たりがないわけでもなかった。自分は確かに数回、テンションが上がってノーガードでモモちゃんを抱いた記憶があった。あり得る。うわー、マジかー。これは大変なことになった。尚更今、何処で何をしているのだろうか。大丈夫だろうか。社長に匿われているのだろうか。それならばまぁ、大丈夫なのかもしれないが、そうなるとコンタクトを取るのは難しいなぁ。絶望的と言ってもいいくらいに。やー、でも自分の子を身篭ったモモちゃんをあの社長はどう扱うのだろうか。想像つかねー。心配である。
てか、あー、そや。それ、菊に何て言おう。やっばいなぁ。これは流石に怒るやろなぁ。でも大事なことやから言わんわけにもいかんし。ファー。気が重い。
ところで、もしも本当にモモちゃんが自分の子を妊娠していたとして、生んだとして、で、どうすればいいのだ? どうなるのだ? おめでとーう、なんつっても自分は子供など育てることはできない。菊もいるし。と、なるとやはり養育費というか、金の話になるんやろか。金で解決なんて、そんなことを考えるのは下衆だが、屑だが、現在の実生活から考えるとどうしてもそうなってしまう。と思う。が、しかし問題はその金も無いということ。自分の現生活ですらままなっていない状況やのに。八方塞がりやないか。
しかし、だからと言って放置するわけにもいかない。何か考えな。ほんまに身篭っているなら、お腹の子は待ってくれないのやろし。
何故こうも問題という問題が自分の前にばかり立ち塞がるのか。まぁ、全て身から出た錆ではあるのだが。ファー。
そこで自分はフト思考から外れて我に返り、知らぬ間にストリートでアルバムの四曲目までを無意識に歌っていたことに気付く。街行く人は通り過ぎ様、ちらちらと自分を見た。まるで奇怪なものでも見るかのように。自分はその視線に少なからず傷付いた。CDが売れる感じは皆無だった。
七曲目までを歌い切り一度止まってみる。
とりあえず今はCDを売ろう。モモちゃんの話はそれからやわ。そう思った。切り替え。
すると二人組のまだ若い大学生時分の男達から声をかけられた。
「あの、ガウチョのボーカルの人ですよね。今の曲、聴いたことあります」
「あ、ありがとう」
「やっぱそうや。髪型違うから最初分かんなかったっすよー」
「はは」
それで話を聞いてみると、彼等は自分等の音楽が好きで、何回かライブにも足を運んだことがあるらしい。街ではかなりレア度の高いガウチョファンであった。それとなく「CD買ってやー」なんて言うてみたが、「もう買いましたよー」「そっかー」なんて、嬉しいのだが残念な気もするという複雑な感情を抱いた。「ストリートなんて珍しいっすねぇー」握手した後言われた。まさか今週中にCDを売り切らな玉ねぎにされる状況だなんてカッコ悪いことをファンに言えるはずもなく、「ちょっと気分を変えたくてね」なんて言うて誤魔化した。二人は自分とここで会えて、素直に感動しているようだった。
「ライブ、あと二回で終わっちゃいますよね」
「うん。今週でいったん終わり」
「また近いうちにやってくださいね」
「ありがとうー。きっと来てな」
それで彼等は自分の前に座り、数曲弾き語りを聴いて帰っていった。
彼等が帰った後、自分は自分の心が少し暖かくなっていることに気付いた。CDはまだ一枚も売れていない。しかし今日、ここに来て良かったなぁ、と思えた。自分の音楽を聴いて喜ぶ人に自分の音楽を届けられた。これは片想い的、一方的な自分からの発信ではなく、求められている、ウォントされていてそれに応えるということで、いわばギブアンドテイクの成り立ち、自分のような売れっ子ではない人間からしたらそれはありがたくて仕方がないことだった。
それでまた歌った。
アルバムを最初から最後まで、終わったらまた一からと、何ループしたか分からんが歌った。たまにだが、足を止める人がいた。数枚だがCDも売れた。が、自分は途中からもうなんでもよくなっていた。楽しかったのだ。単純に。
それで、いつの間にか辺りは夕暮れ。
不意に遠くの空の夕日が信じられないくらいに赤いことに気付く。
それは如何にもまた一日が終わっていく、という感じで。メルトダウンしていくように、心に赤がじわっと染みた。自分はアコギを弾く手を止めて立ち尽くす。街行く人々は普通にしているが、皆これを見て何とも思わないのか。
頃合いからして、そろそろ寺尾が迎えに来てくれるんじゃないかなぁ。腹も減ってきたし。少し疲れた。
それでその時、アルバムのラス前の曲を歌い終わったところだったので、これはキリよくラストまで行くかー、と思い最後の一曲を歌い始める。
Bメロを歌っているあたりで少し離れたところから一組の若いカップルが足を止めて自分を見ているのに気づいた。
なんだ、何処かで見たことのある顔やな、なんて思っていたのだが、よく見ると男はあの中村だった。
はっきりと目が会う。はっ、としてこちらに近づいて来る。自分も歌うのを止めた。
「牧村さんですよね?」
紛れもなく中村だった。連れている女の子にも見覚えがあった。サークルの女の子だった。
「おう」
自分は少し強気な声で言った。
「何してるんすか? てか、髪型変えました?」
「何って、見ての通りストリートだよ。髪型は、まぁ、変えた」
「牧村さん、ストリートってキャラじゃないでしょ」
鼻で笑うような感じで中村が言った。少し腹が立った。というか、思い出した。自分はこいつのことが嫌いだったのだ。
「買えよ」
スーツケースからCDを一枚出して突きつけた。
「もう、聴きましたよ。サークルの先輩が持ってたから」
「どう思った?」
「どうって?」
「感想だよ。なんかあんだろ。ついこの前まで自分がドラム叩いてたバンドなんやから」
「あぁ、まぁ良いんじゃないすか」
「なんやその中途半端な感想は」
「いや、感想言えって言うから言ったんじゃないすか」
「もっとあるやろ」
「じゃ、もっと正直に言いましょうか? 確かに歌詞もメロディーも面白かったです。でもそれだけ。そんな感じですかね」
中村は少しムッとした感じで言った。
「それより牧村さん、俺、新しいバンド組んだんですよ。この子、あ、俺の彼女なんですけど、この子がボーカルで」
そう言って中村は隣に立つ彼女の肩に手を置いた。金に近い茶髪の、美人だが少し派手な女の子。サークルにいたことは覚えているが、ボーカル? 自分は彼女が歌っているところを見た記憶が無い。さっきから挨拶も含め一言も話さない無愛想なので、声すら想像できない。血統書付きの猫みたいな目で自分を見てた。
「年末から本格的に動き始めて、年明けからちょこちょこライブしてるんですけどね、いきなり観に来てたレコード会社の人に声かけられちゃって。早々に音源作ってほしいって言われてるんですよー。それで今レコーディングしてるんですけど」
締まりなく笑みをこぼしながら中村が続ける。自分はお前等とは違うと、そう言いたい気な笑みだった。
「出来上がったら一枚あげますよ。元メンバーのよしみで」
「いらねぇよ。テメーのテクニックだけのクソドラミングなんて聞きたくないわ」
「それ、負け惜しみにしか聞こえないすよ」
その一言で完全に頭が沸騰した。アコギを置き、自分は中村の首元を掴む。
「離せよ。負け犬」
「誰がお前なんかに負けるかよ」
しかし、凄んでみたものの自分は非力で、体格的にも完全に中村が優っており、自分はあっけなく力まかせに振り払われた。そのまま後方に飛んで尻餅をつく。
「牧村さん、確かにあんたにはセンスがあるよ。それは認めたるわ。でもなー、それだけで、あんたの音楽には華が無いんだよ。たがら売れない。だからいつまで経ってもアングラな固定客しか付かないんだよ。そこから成長しねぇんだ。バンドも、あんたも。だから、いい加減気付けよ。そのまま続けたって無駄なんだよ。いや、もしかしてもう気づいてるんじゃないすか? 気づいててやめられないんじゃないすか? でも、ダメなもんはダメなんだよ。中途半端に音楽にしがみつきやがって。目障りなんだよ。いい加減諦めろよ。クソが」
そう言って中村は尻餅をついている自分の胸を蹴った。自分はさらに後ろに飛んだ。あまりに沸騰して、起き上がった勢いで中村に殴りかかった。のだが、しかし、いなされる。自分は力量を当て損ない再びバランスを崩して前方、情けなくアスファルトに手をついた。
「あんた、とっくに終わってんだよ」
中村は吐き捨てるように自分の背中に言った。
心臓を貫かれたような様な気持ちだった。自分はとっくに終わっている。もしかしたらそうなのかもしれない。その考えは心の中にはずっとあった。でもなるべく考えないようにしていた。
「ねぇ、もう行こうよ」
女の声。背を向けているから定かではないが、状況から考えておそらくあのボーカル彼女の声だろう。悪くない声。本当に良いボーカルなんかもしれん。身体中から力が抜けた。
去り際、中村がまた何か自分に言ったような気がしたが、よく聞こえんかった。自分はそのまま仰向けになり、冷たいアスファルトに背をつけた。空はいつの間にか漆黒。繁華の空。星一つ見えなかった。
「何や、何や。どうしてん?」
数十分後、機材車が到着した際も自分はそのままアスファルトで仰向けになっていたため、寺尾は驚いた。手を差し伸べ自分を起こす。
「誰かと喧嘩でもしたんか?」
「喧嘩。喧嘩ね。まぁーそうなんかもな」
「なんやねんないったい」
「CD売れた?」
「あぁー、十枚だけやけどな」
寺尾の声は少し落ち込んでいた。
「お前は?」
「五枚」
「一日かけて二人合わせて十五枚か」
自分等は並んで駅前の噴水の縁に腰掛けた。この季節、水は無かった。干からびていた。
帰り道を行く翳りゆく人々の表情。空虚としての繁華。深い闇。CDとアコギは機材車に片付けた。身一つ。二人で二つ。しかし孤独だった。一緒にいるのに酷く孤独だった。それは世界の中での孤独。自分等のやってきたことは何一つ後世には残らない駄で、音楽家としての自分等の存在は世間から見るとちっぽけな石ころ。むしろ石ころとすら呼ばれないくらいの小石で、もっと早くにただの音楽が趣味なおじさんとして死んでいれば楽だったのかもしれない。口には出さないが自分はそんなことを思った。それくらい気持ちは沈んでいた。吐く息は白。多少の差はあれど、隣で煙草に火をつける寺尾も多分今同じようなことを考えている。自分にはそれが分かった。
もうやめようか、とどちらかが言えば、それでもう今終われると思った。正直、けっこう本気で。
それも仕方ないのかなぁ、とも思う。何をどうしても歳を取るし、世間に対して真面目にならなければいけなくなる。脈々と受け継がれる生活のループ、サイクル。そういったものはそんな真面目な気持ち、行いが支えているものだと思う。当たり前の人が当たり前に努力したその賜物なのだと思う。ここらで自分もそのループに入る。それも一つの選択肢だった。
だけど自分は言えなかった。やめよう、なんて言えなかった。
気づいたら寺尾は泣いていた。
「煙草が目にしみたか?」
「うるせー」
寺尾が自分の頭を叩く。
絶望が、そんなような黒がもやもやと悪煙のように自分等を取り囲んでいた。はっきりと目に見えた。それでも自分はどうしてもバンドをやめたくなかった。
「飲みに行こか」
何となく出た言葉がそれだった。
「は?」
寺尾は少し笑った。泣き笑いだった。それ、なんか女みたいやなと自分は思った。
「酒飲もうや。一日中歌ってたから喉乾いたわ」
「金も無いくせに」
「ブラックカードがあるやん」
「何や、CD売れへんから吹っ切れたんか?」
「いやー、でも泣いても笑ってもライブはあと二日やしなぁ。もうやれるだけやったろやぁ、なんてそんな気持ちやわ、今は」
「それって吹っ切れてるってことちゃうの?」
「え、そうかなー?」
「はは」
「やっぱ音楽ってええよなぁ」
「何やねん、急に。恥ずいこというなや」
「そう思わん?」
「まぁ」
「どんなに苦しんでも何故か嫌いになれん」
自分は煙草の煙を寒空に盛大に吐いた。
それから駅前パーキングに機材車を置き去りにして安居酒屋でしこたま飲んだ。もう、これでもかっていうくらいに。ビールって冬でも美味いね。寒くても美味いね。でも寒い時は熱燗も美味いね。やっぱ美味いね。なんて、板わさや肉団子をつまみに飲んだ。笑った。笑えない今を笑った。意外と音楽の話はあまりしなかった。
酩酊状態でホテルに帰ったのは未明四時やった。さすがに菊も寝ていた。
トイレで吐いて床で寝た。
最終ライブの日。開演前。客入りはもう始まったようだった。
今日のライブハウス、初めてのはずなのだが何故だか妙に懐かしい気持ちになった。それで自分は前に誰かのライブでも観に来たんやっけかなー、なんて思い出そうとするもまったく思い出せず、バックヤードで愛機の赤色ストラトキャスターのチューニングをしていた。
寺尾が部屋に入ってくる。
「物販、どうやった?」
「怖くて見てねぇ」
寺尾はそう言って溜息をついた。物販は菊がやってくれているのだ。
「そうかー」
「客入りは悪くなかった。まぁ、俺等が目当てかは分からんけど」
今日は我バンド以外にも二バンド出る。巷では割と人気のある二バンドだった。
「うん。ちょっとコンビニ行ってくるわ」
そう言って自分は立ち上がった。
会場を出て向かいにあるコンビニに行く。あまり客がいなかった。このタイミングなので、もしかしたら自分を知っているファン的な人に会うかなぁ、なんてことも少し思っていたのだが、そんなこともなさそうだった。
自分はまず雑誌コーナーに行く。芸能人の噂話を取り扱う雑誌を手に取る。自分は屑で下衆なので、こういった噂話は大好きである。誰それと誰それが付き合ってるらしい、不倫した、誰それにはこんな趣味がある、挙句、誰それが煙草を吸っただなんて、よう考えたらマジでどーでもいい話である。だからと言って自分の人生には何も関係ないこと。まぁ、関係ないから楽だし、こうして楽しめるんやけどね。
しかしそんな噂話をされる芸能人にもちゃんとファンと呼ばれる人達がいる。そういう人達はやはりこういう記事を読んだら傷ついたりするんやろなぁ、信じてたのにっ、なんつって。自分はあまり熱狂的に誰かのファンになったことは無いので正直その気持ちはよく分からんが。まぁー芸能人ってそういう人達がいるから飯を食っていけるんだよなぁ、なんて。そんなことを思いながら雑誌コーナーを離れる。
コーヒーと煙草と、あと駄菓子を買ってコンビニを出る。喫煙所で封を開けて早速煙草をふかす。抜けるような晴天だ。空の青は頭上、ずっとずっと高く、見上げるとそれは永遠のようだった。空気が冷たい。コーヒーは思っていたよりも甘かった。少し気持ちが落ち着いてきた。
ライブやー。
緊張する。でも楽しみだった。
三十円のチョコレートで腹を満たす。
もう一本煙草を吸う。
しばらく近隣をぶらぶらして帰ると、もう一組目のバンドが始まっていた。
「遅えー。どこ行っててん」
寺尾はベースを指で弾きながら言う。
「悪い。コンビニ」
「それにしては遅かったな」
「ちょいぶらぶらしてた」
「言うてる間に出番やぞ」
「うん」
寺尾の隣で進藤君もバチで膝を打って気持ちを整えていた。思えばこの一月、彼もよく頑張ってくれた。
「進藤君、いろいろありがとー」
「どうしたん、突然」
進藤君は少し驚いて言った。
「いや、だって今日で一区切りやし」
「あぁ」
そう言って笑う。
進藤君はまさか自分等が今危機的状態に陥っているだなんて想像もしてないやろなぁ、てか寺尾もいわば巻き添えか。自分か。原因は。
「頑張ろな」
「うん」
それでライブが始まる。
スポットライト。や、そこまで高級なそれちゃうけど、眩しい。自分に灯が当たる。ギターを鳴らす。思いっきり歌う。歌う。
約二カ月、いろいろなことがあった。水島さんに助けてもらったりとか。そこからいろいろと物事に拍車がかかった。いらん心配も増えた。でも元を正せば自分はただ、売れたかった。音楽で売れたかった。成功したかった。それだけだった。てか未だに本質はそれしかない。
ライトの熱気が心地良い。
「牧村、MC、MC」
数曲の後、寺尾が小声でステージの上、自分に呼びかける。はっ、として自分は頷いた。
振り返ると進藤君も笑んでいた。
薄闇の中、オーディエンスは皆、自分を見ていた。自分の一言を待っていた。ライブハウスの一番後ろに菊を見つけた。偶然。向こうも気づいたのか、無表情ながらも小さく手を振る。
自分はマイクを掴んだ。
「あー、その、何というやろうか。自分は例え何があろうとも音楽を一生やめたくない。そう今思ってる」
その場のノリでオーディエンスが「ウェー」なんて言う。手を挙げて。それは自分が思っていたリアクションと少し違った。いや、かなり違った。ピィーイ、なんて誰かの口笛が会場に響く。
「あー、あの、話続けるけど、まぁ、だってそれが人生なんやから。自分のね。カッコつけてるわけでもなんでもなく、それ以外、音楽以外に自分には好きなものなんて何もないから。あのー、ガチで。リアルに。だからその、結局何をどう誤魔化しても音楽で成功しないことには自分は幸せにはなれない。例えばサラリーマンになって成功しても、起業して当てても、そんなもんは自分が望んだものじゃない。だから売れたい。それしかない。それが自分の人生。そう思ってる。あー、てか他の皆さんはそのへんどう考えてるんすかね? 何となくサラリーマンになって、仕事して、出世して、転勤って言われたら嫌で、もう面倒っちいから会社辞めちゃったりして、それっていったい何のために生きてるんすかね? これから何がしたくて、どうなりたくてとか。そういうの、ちゃんとあるんかな? ごめんやけど皆、何も無いように見える。自分には。ただ単に流れてるだけのように見える。でも、もしかするとそれは皆無いんじゃなくて無いように見せてるだけなんかもしれない。皆、実はそれぞれ内に熱いものを抱いていて、それを隠しながら仕事したり、家事したりしとるんかもしれない。それやとしたら、それは大人やなぁ、って思う。心から凄いなぁ、って。そんなこと自分にはできない。自分は泥臭く、這いずり回ってやっていくことしかできない」
シーンとした会場の中、誰かが「かっこいいよー」なんて言うた。軽薄そうな男の声だった。またピィーイ、なんて誰かの口笛。
「かっこいいわけないやん」
自分が普通に返すと少し笑いが起こった。
「皆とのギャップっつうか、そういうのは感じる。今だって感じてる。音楽が好きで、趣味で聴いたり、ちょっとカバーしたりして、弾き語ってみたりして、それで終われればどんな幸せかって思う。ほんまに。皆、普通にそうしてるんやけどなぁ、CD買ったりダウンロードしてみたりして。これを自分でも作りたいとか自分もこうなりたいとか考え出すからこんなことになってまうんやな。そういうことは才能のある誰かに任せておきゃええのになー。うん。でも駄目なんよ、自分はそれでは納得できない。多分、止めろって言われても曲を書く。性懲りもなく歌う。例え何言われようと。踏みにじられようと」
自分はだんだん何が言いたいのか分からなくなってきた。オーディエンスもさすがに静まっていた。でも嘘はなかった。発した言葉は全部本当だった。
「そういうことだよ」
バツが悪くなって言う。それでやっとオーディエンスも「お、おぅー」みたいな感じになった。
寺尾と進藤君を見る。二人とも笑顔で頷いていた。嬉しかった。それで自分はまたギターを掻き鳴らす。愛機。赤色ストラトキャスター。リズムが重なる。ベース、ドラム、キック、スネア。歌。手を挙げるオーディエンス。
これがずっと、この先もずっと続いていってくれればええのになぁ。自分は声の限り歌った。声の限り叫んだ。