川を飛ぶ子供の目 4
積み上がったそれを見た時、先ずはその存在感、物量に圧倒された。
一枚を手に取る。その手は微かに震えていた。パッケージには黄色地にオオイヌノフグリのイラスト。自分が書いた。その上に赤で「GAUCHO」の文字。十年以上やっている我バンドの名だ。それが千枚目の前にある。
「GAUCHO」
一、サムゲタン
二、多々良場
三、発汗性
四、愛というなら
五、スポイト・ロスト・バージン
六、BGM
七、夜染のテーマ
八、温水プールの憂鬱
九、勤人
十、オオイヌノフグリ
十一、みかん
「できた」
振り返って言ってみると菊は笑顔で頷き、寺尾は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「そんなに泣くなやー」
自分は笑う。
「だってさ、嬉しいやん。自分等のやってきたことがこんなしっかり形になって。これから大変やけど、とりあえず今までずっと音楽やってきて良かったなぁ、って思う」
その気持ちは痛いくらい分かった。
「初回のライブはいつやっけ?」
菊が聞く。
「明後日」
「そっか。たくさんお客さん入るといいね」
「うん」
レコーディング、アルバム発売、そしてレコ発ライブツアー、ツアーって言っても近辺のライブハウスのみやけど、とにかくその流れって何やミュージシャンぽいなぁ、なんて。いつか売れたらそんな流れもルーチン業務になって、最初のこんな感動も忘れていくんかなぁ。やー、自分はそういうことは忘れずにいたいなぁ。なんて思って煙草に火をつける。
流石に我が家も寺尾宅も狭屋なので千枚のCDを置いておくようなスペースはなく、近所で貸し倉庫を借りた。もちろん例のブラックカードで。それでライブに行く時にはそれを持って行かなければならないので機材車兼ということで車も借りた。もっちろん例のブラックカード。
そしてやはりライブ会場の手売りのみで千枚を売り切るのは厳しいと判断し、別途ウェブでの販売もできるようにした。これは昔の印刷会社時代のツテで知り合いのウェブデザイナーに特設のサイトを立ち上げてもらった。多少金も積んだ。ブラックカード様様。受付、発送等の運用はとりあえず菊に任せた。また、無理を言って寺尾のバイト先のレンタルビデオ屋にも特設コーナーを設けてもらった。流石はバイトリーダー。
さて、整った。
後はもう、売るのみだ。
自分の音楽を聴かせるのみだ。
それでライブ初日。
自分はステージに上がった。その瞬間驚いた。
喝采。
マジ喝采。
背伸びしたステージの上。
水島さんが集めたカカシ野郎がどれほどを占めるのかは知らんが、オーディエンスは、ライブハウスは、賑わっていた。
揺れた揺れた。自分の歌に、ビートに、会場が揺れ、音楽で世界が変わった。「ファー」なんて。寺尾のベースも冴える。自分は自分が世界の全てを塗り替えた人間かのように手を挙げる。歌を歌う。ギターをかき鳴らす。
音楽が奏でる魔法を自分は信じたい、なぁ。
「えた•ひみんやとか、大富豪やとか富豪とか、都落ちやとか、ジョーカー二枚やとか、そんな階級はここにはない。皆、平等院鳳凰である。ファッションとかそーゆうのももういらんくて、御託で、良いものは良い、自分はそういう世界でだけ評価されたい。認められたい」
自分はそんなことをMCで言うた。
興奮していた。頭がスパークしていて、多分他にもいろいろ言うたと思うのだが、あまり覚えていない。
ほんで驚いたのが、手売り・ウェブ販売合わせてなんと一週目に四百枚も売れた。
これには自分も寺尾も狂喜乱舞した。
ビビったー。
ビビって、二人、高級焼肉をビールで鱈腹やってしまった。レコ発ツアー三日目の夜。ファー。ブラックカード。鱈腹。飲んで食うた。
あろうことか酔って水島さんに電話した。後から思い返すと背筋が凍るのだが。自分も寺尾も気が大きくなっていたのだ。四百枚売れた旨を伝える。何て言われたのかは酔っていて全然覚えていない。
そして自分等の作ったCDは、少なからずすぐに噂になった。
今や懐かしいサークルの運営管理から、あのクソ生意気なポールスミスのジャケットからメールが来た。「お金は要らないから是非、我サークルのイベントに出てほしい」なんて。我バンドが来れば集客が望めると思ったのだろう。見事な掌返しだ。この前までは金を返さぬ自分に対し、携帯留守電に散々な罵詈雑言を入れていたくせに。イベントに行ってデカい顔をしてやろうかとも思ったが、残念ながら水島さんの設定したライブスケジュールと重複していたため丁重に断った。一枚だけCDを送った。皆で聴けよ、と上から目線のメッセージを添えて。
「良い感じやね」
焼肉帰り、自転車の後ろから菊が言った。ミントのガムを噛んで、風を切って、暗い家路を走る。
「売れ行き?」
「それもあるけど、ライブも。良かったよ」
「ありがとう」
自分の頬が朱に染まるのが分かった。菊に褒められると素直に嬉しかった。菊はずっと我バンドを一番近くで見ていた。結成当初も、綴が抜けた辛かった時期も、中村が入っていたギクシャクした時期も、今も。
そして今や自分と一緒にいることにより、我バンドが売れるオア売れないに自身の生活の半身を委ねているのだ。
「来週も楽しみやね」
そう言うと菊は愛車を漕ぐ自分の背中にそっと身を寄せた。こんなことは珍しかった。
「うん」
もうすぐだ。もうすぐ裏山のキクイモに頼る犬猫畜生同然の日々から抜け出せる。待っていてくれ、菊。自分は何も言わんかったが、背中の菊にそう強く思った。
しかし絶望は、一歩一歩自分の方、足元へ滲みよっていたのであった。この時点ではまだそれに気づけなかった。
ライブは続く日取りも上々であった。
そんな日々の中、自分は久しぶりにペロペロ天国のシフトに入っていた。今夜。それで仕事へ行く前にフト、そういえばしばらくモモちゃんに連絡してなかったなぁ、なんてことを思い出して電話をかける。
「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」
無機質な女の声だった。こんな音声、自分は久しぶりに聞いた。
え? てか何で?
意味がよく分からなかった。
まぁ、でもガイダンスがそう言うのだからおそらくそうなのだろう。単純に電源が切れているだけなのであればこんなことは言われない。分からんが、おそらくなんらかの理由でモモちゃんの携帯はあかんくなってしまっているのだ。
えーっ。
ま、いーや。ペロペロに行ったらどうせ会えるやろうし。理由はそれから聞けばいいや。なんて思って愛車を転がす。煙草をふかしてチンチロと街を行く。音楽活動が上手くいっていると心も暖かくなる。自分は余裕をぶっこいて有頂天であった。
しかし自分のそんな余裕もペロペロの店舗に入った瞬間に終わる。
自分がバックヤードから入ると、そこには如何にも非合法的なお顔と身体つきをしたお兄さん方が三人もいらっしゃった。しかも店舗に入る自分を見る目つきの感じからして、おそらく彼らが待っていたのは自分なのだろうと見受けらた。
「牧村通君やね」
「あ、はい」
上手く誤魔化せばよいものを、咄嗟のことで自分は馬鹿正直に答えた。
「ちょっと顔貸しや」
三人のうち一人が自分の肩に手を回す。その時、見慣れた我店の店長がぼこぼこにされて床に転がっているのに気づいた。
「あの……店長は、どったんですか?」
自分が聞くと別の男が店長の頭を踏みつけ、
「まぁ、彼は管理不行き届きっちゅうのかなー。そのお仕置きと言うか。いや、これ自分のせいなんやで」
と言った。
「はぁ」
「ほな、行こか」
自分の肩に手を回した男が言う。自分は身体を半ばホールド状態にされ、そのままバックヤードの外に停めてあった車に乗せられた。一人が運転、残り二人が自分の両サイドに乗った。車が静かに出る。
走り出した車内は恐ろしく静かだった。静寂。殺気めいたものが空気中を漂っていて、おそらく自分がおかしな行動に出たとしても、数秒の後には取り押さえられるであろう。ファー。窓の外を見ると、これはまた打って変わって穏やかで、日常って感じで日が差していて、人々はしっかりと今日を生きていた。至って普通に。それは完全に自分のいるこの車中とは別の、真っ当な世界だった。
てか一体どこへ行く気なのだ。この車は。自分は。
実は一つ心当たりがあった。
ペロペロ天国に採用された時、店長に一つだけ注意されたことがある。あの日、確かに店長はこう言った。
「牧村君ね、何があっても店の女の子にだけは手出しちゃダメだよ」
「はぁー」
「こんなことこれから働き出す人に言うのもアレなんだけど、うちの店、バックにちょっとコレな人が付いてるの」
店長はそう言って指で頬を切った。
「それでここの女の子って全員そのバックの偉いさんが面接して採用してんのね。だからいわば全員がお気に入りなんだよねー」
随分マニアックな偉いさんがおるもんや、と自分はその時失礼ながら思った。
「しかもその中でも特にお気に入りの娘が何人かいて、そこに手出そうもんならもうお終い。前に、あ、これは僕が店長になる前だけど、偉いさんの一番のお気に入りに手出した馬鹿がいたみたいで、そいつは噂では亀岡の山奥に生きたまま埋められたらしいよ」
「ひぇー。おっそろしいですねぇ」
なんて言うも、その時自分は恐ろしいだなんて本心ではこれっぽっちも思っていなかった。完全な他人事だった。手を出すオア出さないなんてロマンティックな職場ライフは自分には無縁だと思っていたからだ。自分なんて野良だし、変なロン毛だし、所詮は売れないバンドマンなのだから。
しかし結局自分は店の女の子に、モモちゃんに手を出した。
ちょっと自分の想像を言うていいかな?
昔、想像とは鳥のように自由だ、とか誰かが言うてたなぁ。小説か。アレは何やっけかなぁ。まぁ、いいや。
おそらく自分とモモちゃんのことがその偉いさんにバレたのだ。偉いさん、バックって、おそらくヤさん関係なんやろなぁ、話の流れから言って。んで、この車は今、そのヤさんの事務所、オフィスへ向かっている。事務所で待っているのは、おそらく偉いさんやろな。あとその取り巻きの若い衆的な奴らと。それも自分のしたことから考えると、おそらく皆怒っているのだと思う。や、怒っているのは偉いさんだけか。若い衆は何となくそれに引っ張られて怒ってるテイになっているというか。いや待てよ、そういうヤさん的な人って面子とか大事にするよなぁ、オヤジの顔に泥を塗られたとか。だからやっぱ皆、若い衆も皆怒ってるかも。まぁ、どちらにせよ自分はボコにされる。ステゴロならまだしも、道具、木刀とか、なんならドスとか、最悪チャカ的な。それで一通り可愛がられたあと再び車で運び出されて、最終、亀岡の山奥、もうそうなれば六甲でもどこでもいいけどさぁ、埋められるんやろな。それでエンドロール。FIN。
ファー。
なんてこんな想像をつらつらと述べていると、どこか馬鹿げているようで、なんや自分全然余裕あるやん、と思われるかもしれないが、それは違う。確かに最初は正直、水島さんとナッパの方が怖いよなぁ、とは思った。同乗中の三人も非合法的な雰囲気を醸し出しておりもちろん怖いのだが、水島さんやナッパのような得体の知れない怖さはなく、まだどこか納得できた。でも今、自分の行く末を想像してしまった今、急に彼らが恐ろしくて仕方なくなってしまった。
その証拠に自分は失禁していた。
車中に漂う尿の臭い。なぜ三人は何も言わないのだろうか。何があっても動じないよう訓練されているのか、それともこのような強行たる拉致に慣れており、被告人の失禁など日常茶飯事で慣れっこになっているのだろうか。
やがて車が停まり降ろされる。相変わらず誰も失禁にはツっ込まない。自分は濡れたズボンを気にする余裕もなく行く道を示されてフラフラと歩いた。
通された事務所は水島さんのとことは打って変わって、いかにもヤさんやなぁ、と分かるような感じで、虎の皮張りやパターゴルフの練習セットなんかがフツーに置いてあった。そして思っていた通り若い衆が数人。その向こう側にゴルフクラブを素振りしている腹の肥えたスーツのオヤジがいた。パッと見で、あー、こいつが噂の偉いさんやぁ、と分かった。
「社長、連れてきました。こいつがその牧村です」
社長?
どう見ても社の長じゃなくて組の長じゃん。もちろん、んなことは言えんが。社長様は自分を見てニカッと笑った。
「おぉ、牧村君。お疲れ」
「あ、お疲れ様です……」
正直、全然身体に力が入らなかったが、何とか耐えて言った。もうかなりギリの精神状態やった。
「君、モモと付き合ってたんやって?」
きた。やっぱり。
「や、まぁ、あの。付き合ってたってわけじゃ」
「でもやってたんやろ?」
「あ、はい。まぁ」
って何正直にぶっちゃけているのだ。自分は自分のアホーさ加減に腹が立ってきた。
「あいつ、中々ええ身体しとるよなぁ」
社長はそう言って笑った。
「はぁ」
「遠慮するなや。俺ら、ホラ、いわゆる兄弟なんやから」
社長のゴツゴツした手が自分の肩をぽんぽんした。笑っとるから自分も笑った方がええんかなぁ、と思い、合わせてははっなんてちょっと笑ってみる。すると次の瞬間、ゴルフクラブが自分を襲った。
最初は何が起きたのか分からなかった。自分は虎の皮張りの上に転がっており、腹のあたりが熱かった。そこで気付いた。ゴルフクラブで殴られたのだ。まだ軽振りだったので致命的なダメージはなかったが、見上げた社長の顔は恐ろしかった。
「お前さ、あの店長から説明受けんかった?」
「受けました。すいません」
謝った。
マジで怖ろしくてまた失禁してしまいそうだった。しかしもう何も出ない。恐怖とか、そういうものとは別にして、身体の中の尿という尿は先ほど出し尽くしてしまっていたようだった。
「モモは俺のお気に入りベスト三には入る女やったのによぉ。お前みたいなクソに抱かれてガキまで身篭ってたなんて、あー、マジ情け無くなるわ」
モモちゃんは社長の愛人やったんか。言うてくれれば良かったのに。
え? てか身篭ったって何?
「もう君はあいつに会うことはないやろけどね。しかしあのアホ店長もアホ店長やわ。自分とこの店員をちゃんと見てへんからこんなことになんねん。自店で二人も女の子に手出されよってからに」
二人? あ、田中君か。
となると田中君も自分同様に拉致られたのだろうか。そんな自分の考えが表情から伝わったのか、
「逃げたよ」
社長はアイアンを素振りしながら言った。
「え」
「だから逃げたんだよ。もう一人は。田中つったっけ、あのクソ餓鬼。俺にバレたことに気付きやがって、女と逃げやがった。あー、殺してぇー」
女って、ユウちゃんか。てか逃げたかー、田中君。流石やな。やっぱり抑えるとこ抑えてる。自分は少なからず感心した。そして落胆した。
「社長、こいつどうします?」
車中、自分の隣に座っていた男が言った。
「まぁ、ちょっと可愛がったれや」
社長が言う。
あ、やっぱりそうなるんやな。
自分はあっと言う間に屈強な男達にとりかこまれた。それで殴る蹴るが始まる。咄嗟に指を庇った。うつ伏せになって身を丸め、防御体制に入る。暴力は容赦なくそんな自分の背中に降り注いだ。雨みたいに。ぶっ飛んでしまいそうなくらい痛かった。
やがて男の一人がそんな防御体制に対する攻撃に飽きたのか、床に蹲る自分の首根っこを掴み引き剥がした。重たいボディが入る。意識が飛んでしまいそうだった。男たちの笑い声が聞こえる。
「なんやお前、そのポーズ。手守ってんのか?」
自分は無意識のうちに再び先ほどの防御体制に入っていた。それを見て若い衆の一人が笑って言う。
「社長、なんやこいつ手守ってますよ」
「ほな指でも二、三本詰めたろか」
社長がそう言ってアイアンを素振りする。ケラケラ笑っていた。それに合わせて若い衆も笑う。
首根っこを掴んでいた男が自分をテーブルの上に乱暴に倒し、左腕を抑えた。
「おーい、ドス持ってこい」
ドス?
ドスって、刃物か?
本当に切るつもりなのか? 自分の指を。
若い衆が笑いながら小刀を持って来るのが視界の端に見えた。
指を切られてはギターが弾けなくなる。
それだけはダメだ。
絶対にダメだ。
何があろうともそれは絶対に許さない。
不思議なことにこの瞬間、自分の中から恐怖が消えた。濡らした股間、取り囲む屈強な男達、アイアン。絶対的弱者。しかしこの時、自分の内側にあった感情はただひたすら「怒」のみであった。
「あぁぁぁーーー」
自分は信じられないくらいの大声で叫んだ。あまりに突然のことで驚いたのか、ホールドしていた男の力が緩む。それで自分は激しく抗い男を振り払う。その間もずっと叫んでいた。
起き上がり見渡すと皆、呆然としていた。
自分は怒っていた。ソファの側に立てかけられたゴルフバッグからドライバーを取り出しすぐに社長の頭に振り下ろした。
「あっ」
社長が低い声を出して頭を抑えて蹲る。指の間からは鮮血。
「てめぇ」
若い衆が自分に駆け寄ってくる。自分は手に持っていたドライバーを奴らに投げつけた。一瞬、奴らの動きが止まる。でも死ぬ。このままここにいたら百パー死ぬ。
それで自分は思い切って窓を突き破って外に飛び出した。これはかなりの賭けだった。なんせ自分はここが何階なのかも知らなかったのだ。しかし室内にいては百パー、デス、選択肢はなかった。
ガシャーンと物凄い音がして、重力に引かれて落ちていった。落ちた先、身体にはそれなりの衝撃があった。が、思っていた程の痛みは無い。生きてる。見ると丁度よく停まっていたタクシーのボンネットの上に落ちていた。
「あそこや!」
若い衆たちが窓からこちらを見ている。三階だった。ファー。
「あ、あなた、どうしたんですか?」
随分気の弱そうな運ちゃんがタクシーから降りてきた。呆然とした目で凹んだボンネットとその上の自分を見ていた。そりゃそうやわ。いきなり人が降ってきたんやから。
「あの、すいません。話は後で、とりあえず車出してもらえますか」
「は、はぁ。出すってどこへ?」
「どこでもいいんで早く」
それで自分は素早くタクシーの後部座席に乗り込み、車を発進してもらった。若い衆がビルから飛び出して来たのとほぼ同タイミングだった。間一髪だった。
置き去りにした後部座席の向こう、一気に力が抜けた。奇跡的に逃げられたのだ。シートに深く沈み込む。
「あ、あの。どこへ行けばいいんですか?」
運ちゃんは相変わらずオドオドしており、普通この状況やったら怒ってもいいのにクソ真面目にそんな業務的なことを聞いてくる。自分はとりあえず最寄駅の名を言った。タクシーは闇道を行く。
しかし、冷静に考えてこれで終われるはずは無いよな。
自分は社長を殴ったのだ。ドライバーで。あれ、大丈夫かな? まさか死んどらんよな? 殴ったあとも「あっ」とか言うてたから、まぁ大丈夫か。うん。死んでない死んでない。多分。しかし、連中の怒りボルテージは間違いなくマックスやろなぁ。そりゃそうやわ。社長殴って逃げてるんやもん。あかんよなぁ。謝っても絶対許してくれんよなぁ。
おそらく奴らは自分のことを血眼で探すだろう。ペロペロ天国近辺とか、自分の家だとか。
家?
そや、ペロペロ天国の履歴書に自宅の住所もバッチリ書いてある。おそらくバレるのは時間の問題だ。やっべえ。てか、菊。菊に連絡せな。自分は慌てて菊に電話した。
「なぁに?」
五コール目で菊が電話に出る。
「あ、まだ仕事中か?」
「ううん。とっくに帰ってる」
「あー、そうか。今どこ?」
「裏山でキクイモ採ってるけど」
またキクイモか。もう夜だというのに。
「すまん。ちょっといろいろややこしいことになってて、大事なものだけまとめて早急に家を出てくれ。ほんと早急に」
「え、何? ごめん、ちょっとこっち風が強くて聞こえへんー」
「や、だから、いろいろあってすぐ家を出てほしいんよ」
「はー、何それ。よく分からん」
「まぁ、そりゃ今はそう思うやろけど、とにかく急いでくれ」
「家を出てどこに行けばええの?」
「あー、そやな。とりあえず駅まで来てくれる?」
「ほーい」
それで電話が切れる。
菊のリアクションは思っていた通り軽かったので、あいつマジで大丈夫かよ、と不安になった。しかし意外にも菊は預金通帳や多少の着替えや自分のギターを持ってちゃんと駅に現れた。
「大丈夫だったか?」
「何が?」
菊は少し不機嫌だった。
「や、何か変な奴とかおらんかった?」
「別に」
「あ、そう。良かった。てかさ、いきなりやけど今現金って幾ら持ってる?」
「今? 四万あるけど」
「いったん貸してくれん?」
「ええけど、家賃払う分やで」
「あー、うん。分かった」
とりあえず今今のことだけで、先のことを考える余裕なんて自分にはなかった。
自分は菊から受け取った四万を持ってロータリーに停まったボンネットの凹んだタクシーに向かう。運転席には件の運ちゃんがしょんぼりした顔でハンドルを握りしめていた。
「あの、これ。足りるか分からないですけど、とりあえず受け取ってください」
自分はそう言って借家代四万を運ちゃんに渡す。運ちゃんは力無く「はぁ」なんて言ってそれを受け取った。
自分という人間はそんなに綺麗ではない。むしろどちらかと言うと汚い方だと思っている。今回の運ちゃんの件も、相手が「てめぇ、どういう了見だ。ブチ殺すぞ、コラァ」なんて凄んでくる輩だったら、自分は多分金など払わずに逃げ出しただろう。しかし、彼のようにグンニャリして悲しい顔をされると弱いよなぁー、一応命の恩人であるのは間違いないんやし。しばらくすると彼は車を出して闇夜に消えた。もう二度と会うことはないやろなぁ、と何となく思った。
菊と二人、少し行った駅のビジネスホテルへ入る。室内に入ると自分はベッドに倒れ込んだ。
「CDは順調に売れてるんちゃうの?」
菊はテレビのリモコンをイジりながら聞いた。
「それはまぁ、そうなんやけど」
「何よー」
「仕事関係でちょっとトラぶってもうて、今ちょっとヤさんに追われてんねん」
「はー。また何でそんな人らに」
「まぁ、ちょっといろいろあったんだよ。だから今ちょっと家はヤバい。いつ追手がくるやもしれん」
「呆れたー。ここの支払いはどうすんの?」
菊は欠伸をしながら言う。
「とりあえずこれで」
そう言って自分はブラックカード見せた。
「それ、怖い人のカードちゃうん? そんな私用で使ってええの?」
「あかん、やろなぁ。せやけど仕方ないわ。それしか方法ないもん」
「ふーん」
菊はスポーツニュースにチャンネルを決めたようだった。
シャワーを浴びて、その日は寝た。ホテルのベッドは少し固かったが、それでも自分は幸だった。生きているって素晴らしかった。
それでホテル暮らしが始まる。
菊はホテルから仕事へ行き、自分は基本的には部屋で怯えて過ごした。
でも自分はただただ怯えて隠れていれば良いわけではなかった。そう、ライブがあるのだ。それでCDを売らなければならない。そうしないと自分は玉ねぎで、結局のところ命を取られる。
自分はライブのある時のみ部屋を抜け出し、寺尾の運転する機材車に乗りライブハウスまで行き、ライブをして、またコソコソと機材車でホテルの部屋まで戻った。ライブ中はアドレナリンも分泌されるので、一時的に面倒な一切合切を忘れられるのだが、その前後、部屋⇅ライブハウスの移動時はヤバかった。恐怖で心が張り裂けそうで、常に周囲を警戒していた。しかし幸いにまだヤさん達にはまだ自分がガウチョのボーカルであることはバレていないようで、追手らしき人間は現れなかった。
そしてここで新しい問題が発生した。
ライブの集客は悪くないのだが、CDの販売数が目に見えて伸び悩み出したのだ。
初週は確かに四百枚強売れた。で、二週目も二百枚近く売れた。が、しかし迎えた三週目、ここでもう一踏ん張り頑張ってほしいところなのに、五十枚しか売れなかった。本日、二月の二十一日、木曜。六回目のライブが終わった。約束の二月末まであと一週間。残すライブはあと二回。
これには自分も寺尾も焦った。
「どうするべ、このままじゃ実際ヤバいで」
自分の滞在するビジネスホテルの一室。寺尾と二人、片手にワンカップ大関、もう片手であたりめを摘んで作戦会議を行っていた。
「分かってんよ、そんなこと」
自分は苛立って煙草に火をつける。が、上手くつかない。手が震えているのだ。玉ねぎオア生き埋め。自分の精神状態はかなりキていた。
「あぁ、もう」
つかない煙草とライターをベッドの向こうへ投げ捨てる。
「てか、お前はなんでホテル住まいしてんだよ」
最もな疑問だった。自分は寺尾に現状をちゃんと説明していない。普通に考えてバンドの大事な時期に何をやっとんねんと思うだろう。自分ならそう思う。怒ると思う。現状に加えてバンド仲までギクシャクしたくはなかった。
「お前、また何かヤバいことに首突っ込んでるんとちゃうやろな?」
「いや、いや、そんなことないて。てか、何よヤバいことって」
「何って聞かれると分からんけど」
「ほら、な。何も無いって」
「でも、じゃ何でホテル暮らしなんだよ」
やはり最もな疑問だった。
「ただいま」
菊が帰ってきた。それで何となく話題が逸れた。
「今日はCD何枚売れたー?」
「ダメ、今日でやっと六百五十越えたところ」
寺尾が言う。
「あと三百五十枚かぁ」
「んであと一週間」
自分は結局煙草が吸いたくなって、ベッドの向こうにさっき投げた煙草とライターを情け無く取りに立つ。
「このペースでいくと完全にキツいよなぁ」
「ヤバいって。売り切らないとマジで水島さんに何されるか分からんぞ。ブラックカードやってけっこう使ってもうたしさぁ」
寺尾はそう言って頭を抱えるのだが、実際のところ自分は寺尾の知っている倍ほどの金額をブラックカードで使ってしまっていた。すまん。心の中でそう思った。
「そや、いっそのこと自分達で買ってみたらどうやろ?」
寺尾が言うた。
「え、どゆこと?」
「いや、だから自分等で金出して自分等のCD買うんやって。そしたら売上は残るし、売れたことにはなるやろ」
「その金はどこから出るの?」
「ま、それは闇金とかからさぁ」
自分は溜息をつく。堂々巡りである。
しかしまぁ、まったく無い話でもないなとも思った。不本意だが。とりあえず死期は延ばせる。死んでしまっては元も子もないのだ。
その時、自分の電話が鳴った。
なんと水島さんだった。
「わ、わ」
自分は震える電話を寺尾にわたした。
「何だよ。出ろよ」
「頼む。出てくれ」
「嫌やって。お前の携帯やろ」
それで結局自分で出る。水島さんは何やか騒がしい場所にいるようだった。陽気だった。
「おーう、バンドマン。調子はどうや?」
「はぁ、まぁ、頑張ってます」
「相変わらず歯切れの悪いヤローやな。お前関西人やろ? 調子はどうやって聞かれたらボチボチでんなぁ、ちゃうん? 頼むで」
「あ、はい。ボチボチでんなぁ、です」
「遅いわ」
「すいません」
「で、どうや。CDの売れ行きは」
「はい。もうちょっとという感じです」
「お、そうか! ちゃんと売り切れそう?」
「まぁ、何とか」
「はは。良いよ。素晴らしいよ。俺はね、君はやる時はやる男やと思ってたよ。えーと、名前、名前、名前何や?」
「牧村です」
「そう。牧村。ガウチョ、ガウチョ」
水島さんは相当飲んでいるようだった。多分、パーリー的な。それで電話の向こうで、そのおそらくクラブ的な会場で「俺がプロデュースしたバンドが千枚もCD売りよったぞー」なんて大声で言っている。で、周りも周りで「え、水島さんプロデュースなんてやってたんですか?」「えええ、すごーい。さすが水島さんー」なんて言うてる。「ははは、まぁ元は全然無名の奴等やってんけどね。まぁ俺にかかればね」と得意げな水島さんの笑い声。そんな会話が4Gを用いて自分の耳に届く。最悪だった。
「よー、頑張れよバンドマン。頼むで」
「はい。頑張ります」
「あ、一応言うとくけど、変なズルはすんなや。そういうの後でバレたら最高にダサいからな。そんなことして俺の顔に泥塗ったら、お前等どうなるか分かってるやろなー」
「はい、はい。分からないですけど分かってます。てか、もちろんです。ちゃんと売ります」
「おー、もうみんなに売れたって言うてもうたからな。よろしくな」
それで電話が切れた。
寺尾の顔を見ると、おそらく電話の音声が漏れていたのだろう、聞こえていたようで、真っ青だった。菊はというと別にこたえたような感じもなく、ワンカップ大関をホットココアでも飲むように両手で包んで飲んでいた。
「あかんわ。ちゃんと売らな」
自分は弱々しく言うた。半笑いやった。
「やな」
寺尾もそれは分かっていた。
「いよいよ物語も佳境に入ってきたなぁ」
と菊が言うたが、自分も寺尾も何も言わんかった。