川を飛ぶ子供の目 3
モモちゃんの部屋の電灯、LEDの、それとその向こうに見えるベージュの天井、そういった一切合切が段々と見慣れたものになってきとるなぁ。なんて。自分は裸の腕を頭の後ろに組んで思った。ベッドで、布団に隠れた下半身も裸で、パンツすら穿いていない。それは隣で眠るモモちゃんも同じで、今はすやすやと寝息を立てているが、さっきまではまるで獣のようだった。悶えて。もちろん自分も獣になった。そんなアフター。賢者ターイム。
それにしても繰り返しになるが、この部屋の空気にも本当に慣れた。枕元に転がるミニーちゃんとか、化粧台の上の色とりどりのマニュキアとか。それもそのはず、年が明けると我々の逢瀬は更に回数を増し、自分は週二のペースでここに通っていた。今は一月の二週目なのでこれで早四回目。大学生のカップルと同じくらいのペースで会っている。やっている。
自分はベッドを出て床に捨てていた自分のボクサーブリーフを着する。それで部屋の隅に置かれたギターを手に取り、何となく最近考えていたフレーズを弾いてみた。
結局あれ以来、金の算段はまったくついていない。レコーディングの話は宙に浮いたままになっていた。しかし、だからと言って自分のレコーディング欲というものはまだしっかりと身体にあって、レコーディングするならこの曲はこうアレンジしようかなぁ、とか、また新しい曲の断片なんかを暇があればギターで弾いてみたりしているのだ。
しっかし金なぁ。
多分だが、これは自分が何とかしないとどうにもならない問題だと思う。
寺尾も一応、考えてみる的なことを言ってあの日は帰って行ったが、おそらくなーんも考えついていないと思う。あいつはそういうアイデア性に昔から乏しい。その証拠にあれから一度も連絡を寄越してこない。おそらく一人で悶々としているのだろう。想像がつく。だから奴に期待しても無駄だ。多分一生レコーディングなんて始まらない。
ほんで菊にも期待はできない。いや、期待って言うと言い方悪いなぁ、失礼やなぁ。だってもう泣け無しの一万をもらってるわけだし。あのー、期待っていうのは追加は望めないという意味ね。まぁ下手にお願いして「自分の働いた銭は?」なんてカウンターを受けるのも嫌だし、また風俗で働き出すだなんて言い出されても嫌だし、菊はとりあえず放置。
そうなると自分に残るのはモモちゃんくらいなのだけど、まだ二十一のこの娘子に金を無心するのは、オーバーサーティの自分としてはやや抵抗があった。それで年が明けて二週経つのだが、まだ何も切り出せていないのだ。
どうしよっかなぁー、なんて。意味不明なメロディで歌ってみた。
「どしたん?」
それでギクッとして振り向くと布団から目元から上だけを出したモモちゃんがこちらを見ていた。
「ごめん、起こした?」
「ううん。ちょっと前から起きてた。ギター聴いてた」
「そっか」
「でも、どうしよっかなって何?」
「あぁ、あぁ、まぁ、新曲?」
自分は不意にそんな変歌を聴かれてしまい、しどろもどろになっていた。するとモモちゃんがクスっと笑う。
「牧村さん、ほんま嘘が下手」
「はは。そうかなぁ」
「何かあったん?」
そこまで聞かれてしまってはもう本当のことを言うしか無い。
自分は今のバンドの状況、レコーディングをする旨、それには金がかかり現時点ではまったく算段がついていないことをモモちゃんに話した。
モモちゃんはうん、うんと相槌を打ち、話の大筋をだいたい理解してくれた。
「それで、どうしよっかなという話」
「なるほどね。レコーディングってけっこうお金かかるんやね。知らんかった」
「そうなんよねー」
自分はそう言って煙草に火をつける。
「でも、ごめん。お金は私も無いの」
モモちゃんは本当に済まなそうな顔でそう言った。でも自分としてはハッキリと断ってくれて良かったと思った。
「いや、いや、まぁ気にせんとってよ」
「お金、一回田中さんに聞いてみたら?」
「田中君?」
「うん。田中さんって交友関係広いし。もしかしたら何か良いツテを知ってたりせえへんかなぁ、って。本人もお金持ってそうじゃない?」
「あぁ」
田中君か。確かに何とかしてくれるかもしれない感はある。頼れる感じ。彼にはそんな包容力がある。
「明日相談してみたら?」
「そやなー。そうしてみる」
そう言って自分はモモちゃんに優しくキッスをした。慣れたもんで。それでもう一発キメてその夜は寝た。
建物に入った時、や、や、や、それよりもずっと前から、「自分は間違っていない、自分は間違っていない」と何度も何度も心の中で唱えた。
いったい何故自分がそのような言葉を繰り返し唱えたのか。それはやはり自分の選択したこの道が、どう考えても間違ったものだとしか思えなかったからだ。だが何回繰り返し唱えてみてもその気持ちを拭うことはできなかった。
仄暗い廊下。現代都市の象の墓場的な。そうとしか思えなかった。自分は田中君の背を追って歩いた。
通されたのは小さなオフィスで、簡素で、想像していたような如何にもヤさんの事務所って感じの虎の皮張りやパターゴルフの練習セットみたいなものは無かった。てか、ここはやはりヤさんのオフィスなのか? その辺の説明を自分はもっと田中君から聞いておくべきだった。後悔した。
オフィスには男が二人。一人は見るからに強面でガタイマックスのお兄さん。両腕にはびっしりとタトゥー。ドクロとか。それをこの季節にも関わらずタンクトップ一枚でまざまざと周囲に見せつけていた。もう一人は身体付きはそれほどでもないが、ややインテリな感じ。その表情や雰囲気から格段にこちらの方がヤバいと言うことがアマチュアながら自分でも分かった。ナッパとベジータが地球にやってきて、あ、これはベジータの方がヤバいなぁって何となく分かるような感じ。長髪。眼鏡をかけて、白シャツ。はだけた胸元にはネックレスがジャラジャラとかかっていて、手の甲にはダイアモンドのような柄のタトゥーが入っていた。
「おう、田中。久しぶりやな」
眼鏡のお兄さんは田中君の顔を見ると明るい声で言った。それが逆に怖かった。
「お久しぶりです。水島さん」
そう言って田中君は深く頭を下げる。今後の展開から考えて、自分も頭を下げた方がええんやろなと思い頭を下げる。
「まぁ、楽にせえや。座り」
それで自分等は勧められたソファに腰掛けた。先方のお二人もその正面に座る。
「えーと、彼は?」
水島さんと呼ばれた男が自分を見て言った。
「自分の職場の同僚の牧村さんです」
「よろしくお願いします」
自分は誠心誠意頭を下げた。
「はは。まぁ、そう固くならんとってよ」
水島さんは身体を乗り出して自分の肩をぽんぽんと叩いた。笑顔で。
額を汗が伝うのが分かった。えー、部屋暑いかなー? ちげーよ。そんなんじゃねぇ、ダボ。怖いんだよ。クソダボ。やっぱり田中君に相談したのは間違いだったのか。
あれは昨日のこと。
自分は同時に入った休憩の際に件のレコーディング費用のことを田中君に相談した。
「三十万かぁ。俺はちょっと貸せる額じゃないですねぇ」
田中君は煙草をふかしながら腕を組んで言った。
「やっぱそうやんなぁ。誰か知り合いに相談に乗ってくれそうな人いない?」
「うーん。まぁ、ねぇ。心当たりはなくはないですけど」
「え? マジ?」
「まぁ、昔から付き合いのある先輩なんですけど」
田中君は何故か渋い顔だった。
「何? もしかしてちょっとヤバい人?」
「ヤバいって言うか、うーん、まぁヤバいはヤバいすけどね。いい人なんですけど。ヤバいですが。でも普通にちゃんとお金を返せれば問題は無いと思いますけど」
「いや、返すよ。もちろん」
レコーディングができれば音源が作れる。五百枚作ってそれを一枚七百円で売れば三十五万。借りた三十万にお釣りが来るくらいだ。八百円だと四十万、九百円だと四十五万、千円だと五十万なのだ。いける。返せる。とりあえず録ったらすぐにライブをしよう。やりまくろう。その時はまぁドラムは進藤君でもしゃあない。それでライブ会場でCDを手売りしまくろう。そういう算段でいた。
「あのー、絶対約束通り返してくださいね。それができるなら紹介できますけど」
「お願いします」
それで今日なのだ。
しかし、まぁ水島さん、ヤベー感じ。ナッパの方も。アウトローっつうの? 如何にもって感じで。まぁ、二人とも多分ヤさんではないと思うが、見ようによってはそれ以上にヤバい部類にも見える。だって、田中君も昔ヤンチャしてたってこの前言うてたもんなぁ。その先輩やもんなぁ。昨日の田中君の話し方からして、ヤバいという予想はしていたのだが、これは思っていた以上にヤバい感じ。ほんまに自分はこの方々からお金を借りるのであろうか。諦めて消費者金融かなんかに借りた方が良かったのではないか。そんな考えがよぎったが、時既に遅し。眼前にはもう水島さんとナッパがいる。あ、やっぱ止めときます、とはよう言えない。
「それで君、幾ら借りたいんや?」
水島さんが自分の目を見て言う。
「三十万です」
自分はついに扉を開けてしまった。
「はぁ? たったそれだけでええんか?」
水島さんは呆れたような顔で言った。これは想定外のリアクションだった。
「は、はぁ」
「自分、その三十万で何するつもりやねん」
「レコーディングして、CDを作るつもりです」
「自分、バンドマンか?」
「はい」
「どんなバンドやねん?」
「どんなって言うと……」
「ジャンルとか」
「ジャンルは、まぁ、ロックって言うか、パンクって言うか、ですね」
「どんな曲をやるんや?」
「えと、例えば……」
そう言って自分はサムゲタンの歌詞を朗読した。
水島さんは爆笑した。
「ははは。マジかお前。なぁ、こいつオモロいなぁ」
そう言って隣に座るナッパの足をばんばん打った。強面のナッパも若干表情を緩める。
「それで自分、なんや、けっこう真剣に音楽やってるんか?」
「やってます。売れて成功したいと思ってます」
それで水島さんはじっと自分の目を見た。覗き込むように。鋭い眼光。自分は最早失禁せんばかりにビビり倒していたが、ここで引いたら全てが崩れる、と自らを律して何とか持ち堪えた。しばらくすると水島さんは自分から視線を外し、
「ふん、分かった」
と言った。何が分かったのか、自分にはまったく分からなかった。
「よし、お前。ほな俺がお前のバンドのレコーディング費用全部持ったる。好きなだけレコーディングしたらええ」
「え」
自分は更にわけが分からなくなった。
「だからレコーディング費用、俺が出したるって言うてんねん。鈍いの。いや、丁度俺もな、一回音楽プロデューサー的なんやってみたいって思ってたとこやったんよ。秋元康的な? ちょっとちゃうか。奥田民生とか、小林武史みたいな。なぁ、良いやろ? いや、まぁプロデューサーって言うても名前だけで実際はなんもやらんけどな」
そう言って水島さんは笑う。
「は、はぁ。ほんまにええんですか?」
「ええよ。その代わりな、条件が一つある。絶対売れろ。プロデューサーの、俺の顔に泥を塗るようなことは許さん」
「あ、はい」
「CD、何枚作るつもりやったんや?」
「一応、五百枚の予定です」
「少なっ。千はいっとけや」
「え、千ですか」
驚いた。
「そう。んで、全部売れ。せやなぁ、一月中にはCD完成させてー、二月で全部売り切れ。それくらいやったらマスコミも注目するよな?」
水島さんは隣のナッパに聞く。ナッパは静かに頷いた。
「できるよな?」
「あ、え、いや」
「自分さー、そこは即答で『できます』やろ。てか、できるできひんちゃうくてやるねん。成功する奴っていうのはそういう奴や」
「はぁ」
この人、めちゃくちゃだ。
千枚。しかもそれをたった一月で売り払うなんて。てか、そもそもレコーディング自体も一月中に終わらせられるかどうか……。そんな展開になるなんて思っていなかったから、まだ録るものの全容すら見えていないのだ。
「えーと、なんてバンド名なんやっけ? 自分のバンド」
「ガウチョです」
「ガウチョ。ほー、まぁええやん。ほなこれ」
そう言って水島さんはポケットからブラックのカードを出して自分にわたした。
「レコーディング代とか、CD代とか、何やよう分からんけど、支払いは全部これでやり。まー、何か困ったことがあったら連絡してよ」
「あ、はい。あのー、因みになんですけど、もし千枚売れなかったらどうなるんですか?」
「はぁ?」
水島さんは眉間にシワを寄せて自分を睨んだ。自分は恐怖で、無意識のうちに下を向き「すいません。すいません」と謝っていた。
「自分なぁ、さっきも言うたけど、やる前からそんなこと考えてたらあかんで。絶対やる、って気持ち、それだけでええんや。まぁ、けどなぁ、売れんかったらそらそれなりにしんどい目にはあってもらうことになると思うよ」
水島さんは当然のことのようにさらっと言って煙草に火を付けた。ナッパが隣から灰皿を水島さんの前に出す。
自分はしょんぼりした。
金の算段がついてレコーディングができるのだからそれはそれで良かったのだけど、そうは思い切れずしょんぼりして、「はぁ」なんて呟いていた。それしか言えなかった。なんて言うたらええというのだ。
深夜のファミレスにバイト終わりの寺尾が入ってくる。浮かない顔をしているところを見ると、やはり金の算段がまったくついていないんやろう。まぁー、今となってはどうだっていいが、そんなこと。
「悪い、遅くなった」
「お疲れさん」
「早速で悪いんやけど、金のこと、まだまったく駄目なんや」
「そんなことやと思ってた」
「すまん」
寺尾は本当にすまなさそうな顔で言った。
「いや、ええよ。てか実はな、ちょっと、いや、だいぶ状況が変わって、とりあえず金のことはどうにかなった。おそらくそこはもうどんなに使っても大丈夫や」
「は、マジで?」
「うん、マジ」
「……それは喜んでええのか?」
寺尾は本能で危険を察知していた。
「とりあえずそこに対しては」
「話が見えない。ちゃんと話せよ」
「まぁ平たく言うと、プロデューサー、つーか出資者がバックに付いた。レコーディングやプレスの金は全部その人が出してくれる、らしい。ただ、そのプロデューサーっていうのがちょっとアレな人で、二月中には作ったCDを全部売れって言わはるねん。で、それができなかったらちょっとしんどいことに……」
「何やねんプロデューサーって。何でそんなんがうちのバンドに付くことになんねん」
「それはまぁ、成り行きなんやけど」
「ちなみになんて人?」
自分は水島さんの名刺を寺尾に見せた。すると寺尾はサッと青ざめた。
「いやいや、お前、この人はマズいって」
「えっ、知ってんの?」
「マーベラスの水島って言うたらここらじゃ有名やろ」
「待って。その、マーベラスというのは何なん?」
「まぁ、半グレ集団つうか。簡単に言うと危ない集団よ。アウトローっていうか。水島さんはそこの頭や」
「あ、あぁ、やっぱそんな感じの人やったんや」
「聞いた話じゃ、あの人に逆らって生きたまま生身を玉ねぎみたいに削がれた奴がいたとかいないとか」
「マジ?」
「いや、それがマジかは知らんけど、いろいろな伝説はある。絶対に手出したらあかん人間やってもっぱらの噂やぞ」
「えええ」
「お前さー。ほんまにあの水島さんがうちのバンドのプロデューサーになったんか?」
「うん」
「何でまた? まぁ、だいぶ変わった人らしいけど」
「その感じはあった」
「んで、何枚売れって?」
「千枚」
「は、は、は、千枚?」
「うん」
「めちゃくちゃ言うなよ。一月で千枚なんて、下手しオリコンチャート入ってまうやんけ」
「え、そんなレベル?」
「いや、分からんけど。まぁまぁな数字やろ。お前なぁ、それでその話受けたんか?」
「まぁ」
「まぁ、って」
「だって、断れるわけないやろ。何かトントン拍子で話進んでいくしさぁ。怖いし。殺されるかと思ったんだよ。隣にはナッパもいるしさぁ」
「ナッパ?」
「いや、側近だよ。水島さんの。こいつがまた怖いねん。デカくて」
「だからって……んで、どうする?」
「どうするってやるしかないやろ。レコーディングするよ」
「そうか。まぁ、そうやんなぁ。それしか無いよなぁ」
「寺尾な、これは逆に言うたらチャンスなんかもしれんぞ。金に糸目をつけずにレコーディングできたり千枚もCD作れるタイミングなんて、おそらくもう二度とない。自分等の好きなことを好きなだけできるんやぞ」
「お前、すげぇプラス思考やな」
「そう思わないとやっていけないってのもある」
「まぁチャンスってのは一理あるけど」
「じゃ俺、すぐにアルバムの構成とか曲とか考えるから、明後日からガッツリとスタジオに入ろう。なんせ一月中には完成させなあかんねんから」
「時間ないな。うーん。よし、分かった。どうせもう受けてもうてんねんからな、一丁やったろうか」
それで自分等は何とか逆境をモチベーションに変え、この無謀な挑戦に立ち向かうことを決めた。できるできひんじゃなくてやるのだ。確かに。そこは水島さんの言う通りやった。
山盛りのポテトフライを二人で分けて食べた。会計の際、試しに水島さんのブラックカードで支払ってみた。ちゃんと支払いができた。ヒュー。
アルバムの構成というものは、他の人は知らんが、自分はけっこう頭を悩ませる。全体の雰囲気というか、やっぱアルバムと言うだけあって統一感、それ一つが作品という感じが欲しくて、ただ単に何曲か録ってそれを何となく並べる的なのは、自分は嫌だった。
レコーディングは明日から始まる。寺尾が予定通りスタジオを抑えたのだ。ブラックカードの実力を目の当たりにしたからか、いつもより若干グレードの高いスタジオやった。で、まぁ、明日から始まるということは、今日中にはアルバムの構成のラフ案が必須になる。それもラフ案とは言えかなり精度の高いラフ案が。実際録りだしたら変更点は出てくると思うが、なんせ時間がない。無闇矢鱈に録っている時間は無いのだ。
自分は昨晩から一睡もせずギターとA4に向かっていた。
ぶつぶつ言うて、爪弾いて。あーでもない、こーでもないなんて。たまにファーなんて奇声を発したりして、ベランダで煙草をふかしたり。考えれば考えるほど袋小路に追い込まれていた。一歩進んで二歩下がる的な。よいしゃ、降りてきたぁ、と思って書き出したフレーズも、昼食の具の無い袋麺を経て見直してみると、なんだか陳腐なものに見えたりして。消したりして。そんな繰り返し。
悩んだ頭に熱茶が差し出される。菊だった。
「どう?」
「まぁー、ぼちぼち」
「明日からレコーディング始められそう?」
「できるできひんじゃなくてー、やるんだよ」
「ふぅん。昨日からそれよく言うな」
「まぁ、決意というか何というか、一種のおまじないだよ。ファー」
一応菊には事情を説明した。レコーディングする金の出資者ができたこと、その出資者がマーベラスの水島さんという方で、自分は一月で千枚CDを売らないと玉ねぎにされてしまうかもしれないこと、全て話した。なかなかバットな状況ではあるのだが菊は「へぇー、レコーディングできるんなら良かったやん」なんてどこまで状況を理解しているのか、逆にこちらが不安にさせられるようなリアクションだった。まぁ菊らしいと言えば菊らしいのだが。
「寝ないで大丈夫なん?」
「あぁ、不思議と眠くはない」
「倒れたらおしまいよー。無理せんとな」
「あんがとー」
「じゃあ、私はちょっと裏山までキクイモ取りに行ってくるわ」
そう言って菊は立ち上がった。
「あー」
出た、キクイモ。あっかんのー。水島さんのこともあるが、それを抜きにしても、自分はもうそろそろ本当に売れなければならない。世間に認めて貰わねばならない。そしてそれが不可ならば早々に来た道を引き返し、真っ当な道をやり直さなければならない。ぼろぼろのジャケットを着込んで玄関を出る菊の背中に思った。
しかしこの、~しなければならない、というのはどうも背中をせっつかれるような感じでキッツいなぁ。今まで自分はそういう一切合切から逃げてきていたから尚更思う。思い返せば営業やってた時くらいか。そういう概念があったのは。しかしあれも力半分やったし、長続きもせんかったし。一般の方はもっと早ようからちゃんと、~しなければならないって世界で生きてるんやろな。会社行かなければならない、子供の世話しなければならない、とか。偉いよなぁ。それはキッツい世界やと思うよ。実際。
「はぁ」
誰もいない部屋、自分のため息が静かに空間に響いた。乾いた空気。消し忘れていた換気扇の音。自分は再度、本当に売れなければならないと強く思った。
レコーディングスタジオに行くまでの電車で二十分だけ眠った。正直もう限界だったのだ。それで電車を降りてホームに立った頃、頭はまだ曇であったが、まぁ先ほどよりはマシで、とりあえずの除雪はできた、歩ける、という感じだった。こんな状態で果たして声は出るのだろうか? 否、できるできひんじゃなくて、YARUNDAYO。
スタジオに着くと寺尾はもう来ていた。ロビーで煙草を吸っていた。
「流石に今日は時間通りに来たか」
「るせー」
そう言って自分は手に持っていた角A4サイズの茶封筒を寺尾に投げる。
「これは?」
「アルバムの構成案とデモテープ」
「間に合ったのか」
「十二曲入り、四十分」
「でかした」
寺尾は立ち上がり自分を抱きしめた。
が、感動するにはまだまだ早い。なんせ自分等は今からこれをカタチにして、千枚ものCD媒体を売らなければならないのだ。千というと、これはやはり凄まじい数で、参考までに今から千年前というと、ちょうど藤原頼通が関白となった年である。だから何だというわけではないが。
オーバードライブ、コーラス、ディレイ、イコライザー、んでエフェクター。ボリュームは上げ気味で、ガンガンいきましょうという感じ。
「じゃあ。とりあえず既存曲からやろうか」
「おう」
一曲目はサムゲタンだった。この曲は最近ではライブでの定番になっており、知名度も高かった。今回のアルバムのキモになる曲だと思っている。曲自体は二年ほど前に書いたものだ。自分はギターをかき鳴らし、これを熱唱する。爆音。なんだ、なんだ、やはり良い曲ではないか。詞ではないか。皆何故爆笑するのか、自分には甚だ理解ができない。疾走感、グルーヴも良い。これが自分だ。自分の作る音楽だ。何故こんな良いものを世間は受け入れてくれないのか。切に思った。しかしそれと同時に、自分と世間と、そもそも求めているものが違っていることはないだろうか、とも思った。だって、それではいつまで経っても平行線なのだから。困る。そんな状況で続いていくのはリビングデッド。生ける屍そのものだ。恐ろしい。しかし自分は自分にとって良いと思うものを歌うしかなかった。例えば将来、自分が売れてレコード会社から売れ線の、ラブポップ的な、君に出会えて良かった~オ~イェイ、haha、愛が全てさぁ~nanana的なものを書くことを強要されたら、自分は書くかもしれない。歌うかもしれない。もちろんそんなもの書きたく無いし歌いたく無いのだが。やけどそれはあくまでプロとしての「仕事」の範疇で、自分が書いたとしてもそれは自分のものでは無いのだ。自分は極力自分でいたい。そう思っている。今もしここで自分を曲げてしまったら、例え成功したとしてもそれはリビングデッドだ。死んどる。だから、うん。今はやるしかない。自分は自分をやるしかない。歌うしかない。
それから我バンドは缶詰になってレコーディングを行った。缶詰ってももちろん桃やミカンみたいな瑞々しい奴ではなく、どろどろとどて焼きみたいに閉じこもって。分かるか、んなこと言わんでも。男二人やし。部屋の空気はだんだんと悪くなり、三日目の夜に菊が様子を見に来た頃にはこの世のものとは思えないほど空気は澱んでいた。
「うわぁ、何なんこれ」
そう言って菊は顔をしかめた。
机の上には幾重にも書き直された譜面、コンビニのおにぎりのゴミ、灰皿は吸い殻で満杯、異臭。床にはコカコーラの空瓶が数本転がり、自分も寺尾も上裸で、着ていたティーシャツを頭に巻いていた。自分が部外者ならば、そんな部屋絶対に入りたくない。
「おー、菊」
自分は濁った目で菊を見た。
「上手くいってないの?」
「いやぁ、そんなことないで」
ブースの中では寺尾がブンブンとベースを弾いていた。躍動するたるんだ上裸、頭に巻いたティーシャツからボリュームのある天然パーマがあふれ出している。目は自分同様に濁っていた。でもちょっと笑ってる。菊はそれを見て、
「ほんまに上手くいってる?」
と再度聞いた。
「え、何で? ばっちりやで」
自分は笑顔で煙草に火をつけ、いろいろと書き足し消しを繰り返したアルバムの構成案を見せた。
「十二曲中、五曲録れてる。あと七曲」
「えっ、早い」
菊は驚いた。
「はは。順調っすよ。まぁ、一睡もしてないしね」
「三日間一度も?」
「うん」
「それ、大丈夫なん?」
菊はそう言って道中に買ってくるよう頼んでおいたエナジードリンクを数本、自分にわたした。
「ありがとう。んー、後々のことを考えると、レコーディングは一週間くらいで終わらせたいんよね。てか終わらせないとヤバい。それなりに考えながらやるとやっぱ時間かかるから、睡眠時間削って凝縮してやってるという感じでさぁ。明日は二人とも仕事どうしても休めんかったから一度中断せなあかんし」
「そっか」
菊は唇を突き出して言った。
ブースから寺尾が出てくる。外からはよく見えなかったが、いつの間にか下もパンイチになっていた。
「よぉ、菊ちゃん」
なんて笑顔。濁っとる。そんな調子で翌日夕方までにもう二曲録れた。順調。ノープロブレム。
夜、久々にペロペロ天国に行ったのだが、やはり何日も寝ていないと身体はズタボロで、ノープロブレムなわけもなくて、自分は休憩の際に喫煙所のベンチにて深く落ちてしまい一時間も休憩時間をオーバーしてしまった。誰か起こしてくれや、とも思ったが、そうも言えず自分は多方面に謝って業務に戻った。女の子達にもクスクスと笑われた。
外に出ると田中君が自分の代わりに呼び込みをやってくれていた。夜の歓楽街は氷のように冷たかった。冷凍都市。
「田中君、マジごめん」
「あー、いいっすよ。ちょうど暇だったんで」
田中君はタキシードの上に法被を着ていた。
「うっかり寝てしまった」
しかしおかげで頭はかなりすっきりした。
「牧村さん、大丈夫すか?」
「あ、レコーディングのこと?」
「そうっすよ。お金を借りるだけのつもりが、なんか変な展開になっちゃったじゃないすかぁ。大丈夫かなって、けっこう心配してたんすよ。責任感じてたというか」
「まぁ、頑張ってるよ」
「千枚って、俺よく分からないんですけど、売れるもんなんですか?」
「いやー、正味キツいよね。めっちゃキツいよね」
「マジすかー。ねぇ牧村さん、俺がこんなこと言うのもおかしいんですけど、ダメだって思ったらすぐに逃げ出した方がいいですよ。水島さんはマジで恐ろしい人ですから」
「ちょっと聞いたよ。玉ねぎの話とか」
「玉ねぎ? あー、あの生きたまま皮を削いだって話すか」
「そうそれ。ちなみにそれってマジなん?」
「さぁ……でもそれ以外にもいろいろありますからねぇ」
「はは」
「牧村さん、俺にできることなら何でもするんで相談してくださいね」
「ありがとう」
そう言って田中君は店舗の中に入って行った。なんか、相当に責任を感じてくれているようだった。
ただお金を借して返して、それで終わらせるつもりやったんだろうなぁ。いや、自分かてそうやったけど。
まぁでも、元アウトローでそちら方面の方に多少は顔が効くであろう田中君が味方でいてくれることは自分としてはありがたい。あまりこんなことは考えたくないのだが、最悪の最悪、命を取られるオア取られないまでの天秤までいってもうたとして、そういうコネクションで何とか状況を耐え凌げるのであればそれはかなりデカい。
そんなことを考えながら自分はまた「良い子揃ってますよ~」なんて道行くお兄様方の耳元で囁き始める。風のように。馬鹿のひとつ覚えのように。
この時はまだ、これが田中君を見る最後の機会になるとは考えも及ばなかった。
その二日後、水島さんとナッパがスタジオに来た。
突然だったので自分も寺尾もぽかんとしてしまった。そもそもこのスタジオの場所を彼らに教えた覚えはない。
「ハロー。どや、上手くやっとるか?」
水島さんはそう言ってまるで自室のようにスタジオのソファに腰を下ろした。
「おい。どやねん」
ぽかんとしている自分に怒鳴る。
「あっ、はい。まぁ順調です」
「まぁ、って何やねん。まぁ、って。相変わらずピリっとせんやつやなぁ。てか自分、名前なんてったっけ?」
「牧村です」
「あ、せやせや。思い出した。ほんでアレや。ガウチョや。ガウチョ。よう覚えてたなぁ。俺、記憶力やばない?」
水島さんがそう言うと、ナッパは静かにうなづいた。しんとした室内に水島さんの笑い声だけが響いた。
「ほんでそっちにいるのがバンドのメンバーか?」
「はい。ベースの寺尾です」
自分が紹介すると寺尾は水島さんにぺこぺこと頭を下げた。なぜか何もしていないのに「すいません、すいません」なんて謝ってる。奴も相当にビビっているようだった。
「てかバンドって自分等、二人だけ?」
「今はそうです」
「なんや、二人でバンドなんてできるんかい」
「ライブではサポートのドラムを一人入れて、レコーディングは自分か寺尾、どちらかがドラム叩いてなんとかやってます」
「ふぅん、そっか。なぁ、君、ちょっとそれ貸してみ」
水島さんはそう言って寺尾が肩から掛けていたベースを指差す。寺尾は打たれたように、ベースを肩から外して水島さんにわたした。
「へぇ。良いやん、良いやん」
そう言って水島さんは目を瞑って寺尾のベースをベンベンやっていた。その手付きからしておそらく弾いた経験はないのだろうなぁ、と見受けられる。寺尾は普段、自分の愛機を他人に触られることを極端に嫌う。でも今は恐ろしくて何も言えず、弱々しくははっなんて笑ってる。可愛そうに。
「そや、そや、自分等。今日は良いニュースを持ってきたんや。危なー、言うの忘れるとこやったわ」
「な、なんですか?」
自分はもう、フツーに聞くのが怖かった。
「そんなビビらんでもええやんー」
水島さんが笑いながら自分の肩にグーパンチを入れる。冗談のつもりだろうが痛い。自分は力なく苦笑いを浮かべる。
「せっかくCD作っても売る機会がないとあかんやろ? だからほら、来月のライブのスケジュール決めてきたったぞ。とりあえず週二や。この会場でCD売り」
そう言って手渡されたスケジュール表には日程とライブハウスの名前が印刷されていた。見るとどこもなかなか上質なハコで、我バンドには少し背伸びしたくらいのキャパシティだった。
まぁ、それはともかく、自分はなぜこの人はこんな会場が抑えられたんやろかと不思議に思った。普通こんな直前のタイミングでこんな会場は抑えられない。やはり何か非合法的なものを感じる。
「多少の客は俺が引っ張ってきてやる。あとは自分等の実力でどうにかせえや」
水島さんは自分等にそう言い放った。
変な話だが自分はこの時、一瞬恐怖を忘れ、水島さんはもしかしたら神なのではないかと、マジでそう思った。
いや、そうは言っても逆境は逆境で、千枚のCDを売らないと玉ねぎにされるかもしれないことは変わらないのだが、そんなことはパッと飛んで、「自分の好きなようにレコーディングができる」「千枚もCDを作れる」「デカいハコで歌える」「客も斡旋してもらえる」等と、話の美しいところだけが閃光のように目の前で煌めいて、その向こうにいるこのアウトロー様が一瞬神のように神々しく見えたのだ。
自分はやはり、こんな状況になっても純粋に音楽が好きなようだった。
やがて水島さんとナッパは帰って行った。
「恐怖で足が震えたわー」
なんて引きつった顔で笑う寺尾の足は、今現在進行形で震えていた。それを見て自分にも段々と恐怖が帰ってくる。
んで、慌てて進藤君に来月のライブの予定を電話し、何があっても来てくれと鬼気迫る口調で伝えた。現実を何も知らない彼はこれを快くオーケー。灰色の街にはこの冬最初の雪が降った。自分等にそんなものをゆっくり見る余裕はなかったが。