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川を飛ぶ子供の目  作者: 羊
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川を飛ぶ子供の目 2


 ベランダに足だけ放り出してギターを爪引き、そろそろ新しい曲も書かなあかんし、ライブの予定も決めなあかんなぁ、なんて考えていた麗らかな日曜の午後、テーブルで電卓を叩いて家計簿を付けていた菊が、

「あかん、完全に貯金が尽きたー」

 なんて独り言のように重大なことを言うから自分は始め、耳を疑った。

「今のマジ?」

「え? 何が?」

「や、だから貯金が尽きたって」

「あぁ、うん。そうそう。残念ながらマジだわ」

 菊は電卓のオフのボタンを焦れたように何回か押して消した。

「マジって、ヤバいやないかそれ」

「うーん。てか寒いからベランダの窓閉めてくれへん?」

「あ、ごめん」

 自分は言われた通り窓を閉める。遮断。静寂。

「いや、まぁ窓は良いとして、ヤバいやん。実際」

「うん。どうしようかなーって思ってたとこ」

「どうしようかなって。てか、なんでそんなことに? あの自転車のおかげでかなり経費削減できてたんとちゃうん?」

「まぁー、削減できたはできたけど、それ以上にお酒飲んだりしてたから結果マイナスよ」

 自分は絶句した。安酒代も積もれば山ということか。抜かった。てか冷静に考えたら往路分の削減金額なんてたかだか二百二十円で、これは完全に一日の安酒代に対して負けている。くそう。「経費を削減している」という概念だけで酒を飲んでしまった自分の失策だった。何故自分はこんなに阿呆なのだろう。自責の念が半端なかった。マジ、半端ないって。

「こうなったら仕方ないわよねぇ」

「え、何か良い策があんの?」

「いや、策っていうか、まぁ、いよいよ私が風俗系の店で働かなあかんなぁ、って」

「え、風俗って、それはちょっと、どうなん?」

「でもさー、しゃあなくない? それよりお金になりそうな仕事思いつかないし」

「いや、でも。ちょっと、それは」

 流石の自分もそれは抵抗があった。金が無いからって妻を風俗に沈めるなんて。どうなん? それ。

 風俗。自分はもうかなり長い間行けていないが、お金を払った獣達が裸の女の子にあんなことやこんなことをしてもらう、する場所。プレイス。菊は、身体は小柄だが意外と胸の具合は良く、顔もとびきりの美人というわけではないが可愛らしい顔立ちをしている。だからまぁ、そういう店にいたらそれなりに人気が出るんじゃないだろうか。確かにお金になるのではなかろうか。

 って違う。

 確かに自分は屑だが。その自覚もあるのだが。それはないだろう、と思った。自分だって、人として越えてはいけない一線というものくらいは見極められるつもりだ。今、まさにそんな時なのではなかろうか。そう思った。

「風俗はやめよう」

「何で?」

「何でって。嫌なんだよ。分からんか?」

「ふーん」

 なんて不思議そうな顔をする。菊はやはり少し抜けているところがある。いや、少しというかかなり。

「じゃ、なんか他に策があるの?」

「うーん」

 自分は久しぶりに頭を使って考えた。バンドで、というのがもちろん自分の本流なのであるが、現状、次のライブの予定も決まっていないという体たらく。直近の収益は望めぬ。となると、手っ取り早いのは家にあるものを売るという方法。自分は音楽をやっていることもあり、勉強のためCD、小説類は割とたくさん持っている。それを売り払えばとりあえずくらいの銭にはなるのではなかろうか。なんて考えたが、や、駄目だろうなー。何せそのほとんどが中古屋の百円叩き売りなんかで買ったやつやもん。普通に考えて百円で買った古物が五百円に化けるとは思えなかった。買い手もそこまで馬鹿ではない。最悪、わざわざ遠道を売りに行ったのに、状態が悪く引き取ってすらもらえないという可能性だってある。売れ残った中古品を抱え帰る自分の丸まった背中。愛車をきこきこ漕いで。切ないよなぁ。寒いよなぁ。嫌だ。まぁ、多少なりとも金に換えられそうな代物がまったく無いわけではない。でもそういうものはやっぱり、こんな状況になっても売りたくないなー、なんて思ってしまう。あとは手っ取り早く借金か。とりあえず親か。いやぁ、これもあかんやろなぁ、多分。既に何回か金策を断られたこともあるし。実際、まぁ大学を出た後は半勘当状態ではあるし。

 自分は腕を組み、ソファに居直る。うーん、なんて。

 えーと、まぁ、かなり考えがまとまった。

 結論。

「自分が仕事を探します」

「あっ、ほんま。それが一番助かるわ」

 菊はそう言って手を口に当てて欠伸をした。本当に緊張感のない女である。

 それで自分は久しぶりに職に就くことになった。



 夜街のネオンはケバケバしい。てかイヤらしい。何かもう、駄目だ。

 遠くから見る分には夜景、なんつって、街並み、家々の灯りだなんて、美しいのであるが、近くで見ると「休憩三千円ポッキリ」だとか「ド助平学園」だとか、まぁ「情熱焼肉」なんて正当なのもあるが、こんな風俗街、最早もう何が正当で何が正当でないのか、正常な判断がつかない。師走の喧騒。自分は「ペロペロ天国」のロゴが入ったピンクの法被を着て、往来する人々から助平そうなオッさんを選び、小声で「良い子揃ってますよ~」なんて囁きかける。

 寒空の下、一体何をやっているのか。

 まぁ、分かるだろう。勘の良いやつは。やー、勘が良くなくても分かるわな。そう、風俗の呼び込みである。何を隠そう、これが自分のニュージョブなのである。

 あれから自分は求人サイトで理想に合う職を探した。一応、高給、交通費支給、週三勤務から、昇格あり、正社員採用可能性あり等と、言うのはまぁ、タダだろうと都合の良い条件を打ち込んで調べた。んで、幾つか面接を受け、落ち、また調べたりしてを繰り返し、最後に残ったのが、自分を拾ってくれたのが、このペロペロ天国だったのだ。辿り着いてみると、希望検索条件もクソもなく、結局夢も希望も何もないジョブに就いていた。何の因果か、お前が風俗で働くんかーい、というオチである。

 このペロペロ天国というのは所謂店舗系のヘルスであり、その名の通りペロペロ、「舐め」をテーマにした館で、コースは四十分、六十分、九十分の三つから選べる。舐めるオア舐められるは其々の自由だが、とにかくそういうことがしたい殿方のためのお店だった。同業他店舗と比べると少しリーズナブルな価格設定で、忘年会シーズンのスタート時期なこともあり賑わっていた。こんな自分の囁きを聞き、料金表を見てにやにやと入店する輩もいた。

 自分はこう見えて割と正常な性癖を持ち合わせた人間で、四十分も六十分も、そんなに舐められねぇ、と普通に思った。舐める方も然りである。いや、まぁ、突き詰めるとそれだけではなくもちろんシャワーを浴びたりお話ししたりもするのだろうけど、舐めるオア舐められるをせなあかんというのは中々プレッシャーで、上手く舐められるでしょうか、とか舐められた時のリアクションってこれで合っとるんでしょうか、とか何やらアタフタしてしまいそうで、それならば自分はもっとノーマルなプレイを同価格で楽しみたい。そんなことを思った。

 また、自分がこんなことを言うのは非常に失礼なのだが、女の子のクオリティもまぁ良くなくて、大概が皆何かが欠けたようなルックスをしており、それは簡単に言うと他は良いのだが極端に目が小さいとか鼻が大きいとかそういう話で、ボディの方も生活の荒んだ具合が手に取るように分かるような弛みきったそれで、煙草をすぱすぱやるその様等、非常に下品で、自分は受付に置いてあるキラキラとした妖艶美女のパネルと控え室の彼女等を見比べて助平達に対して非常に申し訳ない気持ちになった。

 自分はここで田中君という友達ができた。

 田中君は自分より幾つか若いが職歴は長く、手際も良く呼び込みのテクニックや価格交渉のかわし方等、いろいろなことを教えてくれた。彼は細身だが筋肉質で、頭はソフトモヒカン、昔で言うベッカムヘアーという感じで、普段はにこにこしていて優しいのだが、しつこい酔客に喝しているシーンでは、内に秘めた暴力性が顔を出すこともあり、非常に迫力があった。首元に覗く龍の彫り物が更にその感じを強いものにしていた。

「牧村さん、今日はもう上がってもいいすよ」

 その夜、店前で呼び込みをしていたら中からタキシード姿の田中君が出てきて言った。

「ありがとー。まだ時間前やけどええの?」

「ええ、お陰様で今日はもう今待合の人だけで時間いっぱいなんで」

「そっか。良かった」

 正直、自分は寒さが限界だったので助かったと思った。ジャケットの上から法被を着ているのだが、やはり寒空の下、何時間も外に立ちっぱなしは辛い。

「繁盛してんねー」

 自分は法被を脱ぎながら言う。

「そっすねー。でも今月はまだまだこっから増えますよ」

「そっかー」

 冷たい風が吹く。自分は法被を脱いでさっさと室内に入ろうと思った。すると田中君が、

「てか、牧村さんってお酒飲めるんすか?」

 なんて聞いてきた。

「えっ、ああ、好きやけど」

「あっ、マジっすかー。良かった。俺ももう上がりで、今から店の女の子と何人かで飲みに行くんすけど、良かったら牧村さんもどうすか?」

「マジかー。じゃ行こうかなぁ」

 有り難いことにこの日は初めての給料日で、それなりに銭も持っていた。

「おっ、やった。ほな、ちょっと待っててください。すぐ着替えて来るんで」

 田中君はしゅびっと片手をあげて中へ戻って行った。自分の法被もついでに持って行ってくれた。

 それで自分は店前で煙草を吸いながら田中君を待った。しばらくすると田中君はダウンジャケットに身を包み、顔は見知っていたが話したことはない女の子を二人連れて出てきた。

 自分は一応その二人の女子に対してはじめまして的なことを言うたのだが、二人は「やだー、牧村さんでしょー」なんて自分のことを知ってくれていたようで、それで自分は少し心が軽くなった。

 処を居酒屋へ移す。自分が一人で行くような安居酒屋ではなく、もっとちゃんとした真っ当な居酒屋だった。生ビールが一杯四百八十円だった。

「じゃあ、お疲れ様ってことで」

 と、田中君の乾杯の発声。

 皆ビールで、女の子もけっこうお酒好きな感じだった。

 この女の子だが、ユウちゃんとモモちゃんと言い、それはまぁおそらく源氏名なのだが、我がペロペロ天国内では小マシな、って言い方は失礼か、すげぇ美人ってわけではないが、我店の中では間違いなくトップツーの女の子であった。それで自分は、田中君、抑えるところ抑えてるなぁ、と感心した。

 ユウちゃんはロングの茶髪で細身、それもかなりの。まだ学生時分の年齢だろうと見受けられた。若干ヤンキーチックな感じだった。一方、モモちゃんは黒髪で、ユウちゃんに比べるとやや膨よかだが、まぁユウちゃんが痩せ気味なだけで、彼女が中肉中背という感じ。チェック柄の可愛らしいシャツを着ていて、それがとても良く似合っていた。二人ビールを飲んで笑っていた。 薄暗いペロペロの店内で見るのとは二人とも印象が違って見えた。ふっつーのどこにでもいる女の子だった。四十分も五十分もペロペロできる子にはとても見えない。

「牧村さんって、店入ってどれくらいなんですかぁ?」

 ユウちゃんが自分に聞いた。

「今でちょうど一月やね」

「あれ、まだ一月ですか。何かもっと長くいるような気がしてました」

 なんて女の子二人、くすくす笑う。それで自分も、はは、なんて笑ってみる。

「それまでは何してたんですか?」

 田中君が聞いてくる。彼は中々酒のペースが早く、もう二杯目のビールにかかっていた。自分もそこは負けてられないなと思い、飲んだ。

「やー、仕事はなんも。ずっとバンドやってたからね」

「えっ、そうなんですか。じゃ楽器とかできるんですか?」

 モモちゃんが妙に食いついた。

「うん、まぁ。楽器はギターとペースと、ドラム。あとキーボードも若干やけど」

「すごーい」

 女の子達は驚き声だった。たまーに、こういうことで感心されることがある。まぁ、演奏できること自体は嘘ちゃうし、確かにそこだけ聞くと少しかっこいいのかもしれない。所謂バンドマンハッタリである。

「今もやってるんですか?」

「うん、やってるで。最近はあんまライブできてへんけど」

「えー、ライブとか見てみたいです」

 と、モモちゃん。

「うん、うん。是非来てよ」

「どんなバンドなんですか?」

 と、これは田中君。

「えーと、どんなって言うと?」

「あ、ほら。ジャンルとか」

「あー、ジャンル。ジャンルね。んー、まぁ、ロックって言うか、パンクって言うか」

「へぇ、どんな曲をやるんですか?」

「うーん、例えば……」

 そう言って自分はサムゲタンの歌詞を朗読した。すると何故だか分からないが、爆笑。大爆笑。三人は手を叩いて笑い転げた。

「牧村さんっておもしろーい」

 と、ユウちゃんが最早泣き笑いのような感じで言った。

「え、そうかな?」

 意外だった。自分の何がそんなに面白いのかが分からなかった。

 それから他の三人の身の上話を聞いた。

 田中君は今、二十八で、若い頃はかなりヤンチャだったらしく、高校卒業後、アウトロー、もしくは半グレと言うのだろうか、所謂そのような集団に属し、チーム的な感じでオラオラと活動をしていたのだが、何やら少しおイタが過ぎた一件があったようで、罪名までは言わなかったが、二十二の時に御国の機関に身柄を拘束され、服役となり、二十四で出所した。で、その後、当ペロペロ天国に就職したらしい。

 ユウちゃんはまだ二十歳で、彼女も田中君同様昔はかなりやらかしていたクチで、中学くらいからもうグレにグレ、あろうことかシンナーにハマってしまい、それは結局十七まで抜けられなかったらしいが、昨年、ずっと母子家庭で生計を共にしていた母親が倒れ、ユウちゃん一人で当面の生活費を稼ぐ必要が生じ、それで今ペロペロしているのだという。学校等には通っておらず、昼間は献身的に母親の看病をしているのだとか。

 モモちゃんは二十一。二人のように悪さはしておらず、片田舎に生まれ、普通に地元の中高を出た後、都心の専門学校へ進学したが、これを中退し、かと言って特別やりたいことも見つからず、適当な職を転々とした生活を送っており、それで今は当ペロペロに属しているとのこと。田舎の両親には普通にオーエルをしてると嘘をついているらしい。

 そんな話。

 いやー、みんないろいろあるなぁー、と素直に感心した。ついつい聞き入ってしまった。

「でー、牧村さんはー?」

 その頃にはもうかなり酒も入っており、頬を朱に染めたユウちゃんが聞く。女の子のそういうところはやっぱ可愛い。触ってみたい、頬。なんて自分も随分飲んでいた。

「そうやねぇ……」

 自分。むー、自分の話か。普段そんなに話すことが無いから何を話せばええのか正直、分からん。

 自分。えー、自分は生まれも育ちもこの辺で、両親は、父親とは小学生の頃に死別しているので今は母親だけで、この母親とももうかなり長い間会ってない。まぁ、金絡みのトラブルもあったし、それ以外にもいろいろとあった。原因は一概には言えない。学校は普通の公立の小中高を出て、一応三流の大学に進学した。恥ずかしい話、何学部だったのかすら覚えていない。それくらい怠惰な大学生活を送っていた。卒業してからは職を転々って言うほど働いてもなく、ほとんど野良ついていた。大学時代のバイトの後輩だった女の子とずっと一緒に暮らしてて、二十六の時に結婚したんやけど、生活はほとんどその、まぁ今で言う嫁さんに面倒みてもらってた。音楽は、中高とギターを弾いてたけどこれは一人でやってただけで、あ、中高はバレー部やってんけど、今はもうルールすら怪しいのやけど、それでちゃんとバンドを組んだのは大学の軽音サークルが初めてだった。あれはー、十八か。そのバンドを今も続けてる。ドラムの奴が三年前に抜けて今はサポートやけど。このバンドで成功したいと思ってる。音楽、俺っち、すげぇ好きで、割と真剣に思ってる。

 なんて、そんなことを話したのだが、話している途中から何だか自分でも情け無くなってきた。

「まぁ、そんな感じやわ」

 三人のリアクションは読みにくかった。うーん、なんて呆れているようにも見えるし、多分そんな訳はないのだが、感動しているようにも見えなくはなかった。ふーむ、なんて自分も自分で自問自答しているような間の取り方をする。でも、結局またすぐに違う馬鹿話に戻った。

 居酒屋を出たらもう深夜二時を回っていた。男二女二の割り勘で、自分も男で、てか何なら最年長なのでそれなりの額を支払った。これは後で冷静になれば痛い出費なのだが、かなり酔いも回っていたので自分は何かもうどうでもよくなっていて、景気良く銭を放出した。

「じゃー、お疲れ様でしたー」

 なんて手を振り合う。

 おーう、またねー、なんて言うていたらいつの間にか田中君とユウちゃんは消えていて、静まりつつある歓楽街、モモちゃんと自分、二人きりになっていた。え、あの二人、随分素早く消えたなぁ、なんて思っていたらモモちゃんが、

「あの二人、実は付き合ってるのよ」

 と教えてくれた。

「なんや、そうやったんかー」

 何か分かる感じの組み合わせやな、と思った。

「牧村さん、どうやって帰るの?」

「自転車だよ」

 自分はそう言って路肩に停めてある愛車を指差した。

「あー、駄目なんですよ。自転車でもお酒飲んで乗ったら犯罪で、今は罰金なんですよ」

「何かそれ聞いたことあるわー。厳しくなったんよなー」

 なんて、自分は屑であるが、屑の上に犯罪者に成るのは嫌で、嫌ではあるがこんな時間に愛車以外の帰宅手段もないから仕方なしだろう的なテンションでへらへら笑っていた。んで、何となく流れでモモちゃんとキスをした。

 会話の途中、それを中断してのキス。なんや、なんや、ロマンティックではないすか。それもディープなやつではなくソフトなやつで、それがまた良かった。自分は無意識にモモちゃんを抱き寄せていた。

「うちくる?」

「そうさせてもらおうかなぁ」

 なんて売り言葉に買い言葉。

 モモちゃんの家は徒歩で行くと二十分くらいだったのだが、自分にはほら、愛車があるから、これを四分に短縮した。

 辿り着いたマンションの一室は小綺麗で、自分の抱くモモちゃんのイメージ通りにミッキーマウスの縫いぐるみやプーさんのクッション何かがベッドサイドに置かれていた。微かにミルクのような香りがした。

 これはもしや、即やりの展開なんかもなー、なんて思って愛車を飛ばしてきたのだが、そういうわけでもなく、モモちゃんは丁寧にティーパックからの紅茶を淹れてくれた。自分は猫舌なタチで、そいつをふーふーやっていたのだが、その時に部屋の端にアコースティックギターが立て掛けられているのに気付いた。

「ギターやるんだ?」

 自分が聞くとモモちゃんは、

「昔やけどね、ちょっと真剣にミュージシャンなんて目指してた時期もあったの」

「へぇ、そうなんや」

「でもなかなか難しいやんねぇ」

「せやなー」

 それで自分は先程のキッスに気を大きくして、何を血迷ったかそのギターを手に取り、あろうことか故尾崎豊氏の名曲、アイラブユーを弾き語ってみせたのだった。

「すごぉい」

 後から素面に戻って思い返したら死んだ方がいい、てか出来ることであればタイムマシンで過去へ戻り、ブチ殺してやりたいくらいの小っ恥ずかしい弾き語りであったが、一般の方からすると自分のギターは長い間やっていることもありそれなりに達者であり、この状況ではそれなりの成果を上げた。

「素敵」

 なんつって、モモちゃんはもう確実にいけるやろうなぁ、と判断できるところまで来ていたので、自分は彼女をシングルベッドに押し倒し、優しく再びキッスをした。

「モモちゃん」

「モモちゃうくて、本名は明美っていうねん」

 なんてベイビーは女を見せる。

 で、やった。

 なんつーか、すっげぇ気持ち良かった。

 その日は結局二人、裸のまま抱き合って眠り、夕方のモモちゃんの出勤の時間までずっとベッドでイチャイチャしたり、洋画のDVDを観たり、煙草を吸ったりして過ごした。

 日が暮れる頃、モモちゃんと一緒に家を出て、ペロペロへ行く彼女を見送った。自分は本日は非番であったので、駅前でつけ麺を食べてビールを一杯、意気揚々と自宅へ帰った。馬鹿だ。



 年末ギリって頃、流石に自分も危機感を覚えて、久しぶりにライブをやった。二本。

 しかーし、正直二本ともピリッと来なかった。

 一番の理由として中村がいなかった。連絡しても出ないのだ。自分等に対して完全無視を決め込んでいるようだった。

 まぁ、この前の踏み倒しの一件があるので、予想ができたことではあるのだが、ここまで鮮やかに消えるとは。サークル側からも最近はもう取り立ての電話は来ない。本格的に我々と縁切りしたということなのだろうか。

 それで中村はいなかったのだが、ドラムなしでやるわけにもいかないので、急遽別のサポートを探した。来てくれたのは進藤君というドラマーなのだが、彼は昔からの知り合いで、声を掛けたら「え~、ガウチョでやれんの? やる、やる」と即答で良い返事をもらえた。我々も一応長いことやっているのでそれなりに名前が知れている。それにニッチではあるが、一部層からはカルト的人気があるのも事実だった。今回はそれが効いた。

 進藤君が入ってくれることが決まって、それで我々は一安心したのだが、その安心も長くは続かなかった。と、言うのも進藤君。彼は決して悪いドラマーではないのだが、実際スタジオに入ってみると自分等とは合わないことがすぐ分かった。プレイ的な話で微妙なところなのだが、これには自分も寺尾も頭を悩ませた。しかし、自分等は贅沢を言える立場ではない。スティーリー・ダンのフェイゲンとベッカーではなく、ただの牧村とただの寺尾なのだ、彼、合わないからチェンジねってことはできない。

 そんな具合だからライブもピリッとしないのだ。この二回のライブ、自分等はそんな違和感を抱えながら演奏をしていた。そして客にしても、分かる奴にはしっかりその辺が伝わっていて、感想を書くカードにもいろいろ書かれた。前の方が良かった、何か今回のは違った、なんて、分かってんだよ、タコこらぁ! なんてキレてしまっても悪いのは客ではなく他でもない自分等なので仕方がなく、そんな状況にも関わらず進藤君はよく分からないが何か手応えのようなものを感じているようで、ね、ね、次のライブいつやる? なんて言ってきて、その相手をするのが更に辛かった。


 これはマズいなー、と十二月三十一日の夜、大晦日、自分と寺尾と菊で緊急会議を開いた。

 自分の家で豚野菜鍋をつついて日本酒を三人で飲んだ。テレビでは毎年やっている笑ってはいけない芸人のやつが半ばエンドレス状態で流れていた。アウトー、なんつって。呑気なもんやなぁ。こっちはマジで笑えない状態なのだ。アウトなのだ。

「やっぱ中村よなー」

 寺尾が煙草に火をつけて言う。

「まぁ、せやけど、あいつはもう無理やって。もうあいつのことは忘れよう」

「サークルにお金ちゃんと払って謝ったらええやん。そしたら許してくれるんちゃうの」

 なんて菊が提案する。

「それはなー」

 自分はこれを渋る。

「だって働き出したんやから多少はお金やってあるやろ」

「うーん」

 自分が渋っていると寺尾が、

「いや、牧村。分かる。分かるで、その気持ち。一回踏み倒した金を払うなんて、男として負けだよな。情け無いよな」

 と、言った。

「何それ、よう分からん」

 菊は怪訝そうな顔をして言った。

「まぁ、なぁ」

 なんて自分も曖昧な相槌を打つが、寺尾の言うことも分かるは分かる。

 じゃ、何故に曖昧なのかと言うと、これはまた銭の話で、自分も働き出してからは少なからず家に金を入れている。が、自分のペロペロ勤務時間から考えるとそんなものはごく一部で、それを菊も何となく分かっているので、まだ自分がたんまり金を溜め込んでいるはずだ、と思っているのである。だから先ほどの「多少はお金やってあるやろ」なんて発言が出るのだ。

 で、銭の話なんて言うてるくらいやから勘の良い方なら分かると思うが、そんなものはもちろん無い。

 その理由はモモちゃんで、実は自分とモモちゃんはあの夜だけでは終わっておらず、その後も関係を続けていたのだ。

 自分とモモちゃんはまるで恋人のように互いのシフトを確認し合い、上がりに時間差がある場合は近くの路地裏に身を潜めて相手の終業を待った。それで近隣の居酒屋で一緒に酒を嗜み、だいたいがそのままモモちゃんの部屋まで行き、日によっては自分はまたギターを弾いたりして、最終的には接合し、身体を重ねて朝を迎えた。

 やってみて初めて気付いたのだが、そう言ったセカンド・ラブ的な活動にもいろいろと金がかかる。自分は男だし、年長者だし、飲み代も流石に割り勘というわけにはいかず毎度全自腹を切るし、時期的にクリスマスプレゼント的なもんやー、あとゴムとか、何かと出費はかさんだ。だから正直言って自分の収入は家に入れている以外のほとんどをモモちゃんに使っており、貯蓄など皆無であった。

 当たり前やけど、そんなことは菊には言えない。いくら菊が変子やとしても、抜けていたとしても、流石にこの下衆具合は怒るやろなぁ、と思う。怒らんでもそれはそれで不気味なのだが。菊の場合どちらも有り得る。そして自分はそのどちらも嫌だ。

「じゃあドラムはどうするんよー」

 菊が言う。

「進藤君を頑張って教育するか……」

「いや、彼は教育とかそういう問題ちゃうよ。根本的にうちと合ってない。プレイスタイルなんてそんな直ぐに変えられんやろー」

 自分はコップの日本酒を飲み切り言った。

「ほなまた新しい人探すか?」

「ファー」

 考えるだけでウンザリする。サポートを探すのもそれなりに大変なのだ。

「あーあ。菊ちゃん、ドラム叩けへんの?」

 寺尾は日本酒をコップに注いで回りながら言う。

「そんなん叩けるわけないやろー」

 菊は注がれた日本酒を飲みながら言った。だよなー、なんて寺尾。

 自分はそんな会話を聞きながらまた煙草に火をつけた。テレビからアウトー、なんて相変わらずあの番組がやっており、自分はもういい加減鬱陶しくなってきたのでチャンネルを変えた。すると画面には打って変わって除夜の鐘的な映像が流れ出した。仄暗い山肌の空撮にバックミュージックでゴーン、ゴーンなんて鐘の音が鳴っている。年が明けたのだ。

「あっ」

「おっ」

「あら」

 自分等は三人、目を合わせた。

「とりあえず明けましておめでとうございます」

 菊がペコりと頭を下げる。

「おめでとうー」

 なんて言ってコップの日本酒で乾杯する。

「越してしまったなー。また一つ新しい年や」

 寺尾が感慨深く目を瞑って言う。

「なんや、やけに改まって」

「やー、だって今年こそは何とかしたいやん。この状況をさぁー」

「まぁ、せやなー。出だしからドラマー問題でつまづいてるけど」

 自分はまたチャンネルを変えた。次は音楽番組で、明けましておめでとーう、なんつって何や見たことはあるけど名前は知らないバンドのボーカルが手拍子を煽って歌ってる。ポップで、自分はここまで露骨にポップという音楽は好かないので、無意識にチッと舌打ちをしていた。何故世間ではこんなしょうもない音楽が売れるのか。

「二人とも、お蕎麦あるけど食べる?」

「え、なんで蕎麦?」

 自分はきょとんとした。

「ほら、年越し蕎麦」

「あぁ、あぁ」

「食べたい」

 寺尾がそう言って手をあげる。自分も何となく蕎麦、食べたくなってきたので同じく手をあげた。はいよ、なんて言って菊が台所の方へ歩いていく。

 テレビでは相変わらずさっきのバンドが歌っていた。画面端に大ヒットメドレーなんて書いとるから、多分まだ何曲か歌うんやろう。

「こいつら知っとる?」

 自分は寺尾に聞いた。

「あー、そりゃまぁ。最近売れてるからな。ようレンタルで出てるよ」

「こんなん何がええんやろなぁ」

「まぁ、分かり易くはあるよな、歌詞もメロディーも。てか、こいつらも頑張るなぁ。確か紅白も出てたはずやで。めっちゃ急いで移動したんやろな」

「録画ちゃうんか?」

「いや、流石にこのあけおめテンションで録画はないやろ」

「ほな、紅白が録画とか」

「あー、それはあるかもな。最近は録画で出る人もけっこうおりそうやし」

「年末はフェスとかもあるし、どんな人気者でも身体は一つやしなぁ」

 自分はそこまで言って大欠伸をかました。

 そしてその時、何かが自分の脳を打った。

「録画」

「え? 何?」

「録画。いや、てか録音か」

「だから何だよ」

「録音やったら無理に進藤君使わなくてもええやんな?」

「え? あぁ。って何? 録音ってもしかしてレコーディングのことか?」

「そうそう。ライブやったら無理やけど、レコーディングやったら一人二役もできるやろ」

「それは何や、もしや俺かお前がドラムを兼任してレコーディングするってこと?」

「うん」

「そりゃまぁ、言っちゃ悪いけど確かにその方が進藤君にお願いするよりはええわな」

「せやろ。二人でいったんレコーディングして、それをバラまこうや。今はそれがベストちゃうか? レコーディング、もうだいぶやってへんのも事実やし」

「うーん。せやな。となると問題は一つ」

「え、何?」

「いや、金やろ。金」

「あー、うん。まぁ、そやな」

 すっかり忘れていた。

「前もそうやったけど、なんやかんやレコーディングって金かかるやん。しかも今度は一発録りできひんし」

「確かに」

 前にレコーディングした時はまだ綴がいた。金は当時から無かったので、その時は全部一発録りでやったのだ。その方がスタジオを使う時間を短縮できるから。それでもまぁまぁな金がかかった。ライブだとチケットノルマ、箱代の差し引きで、いつからか大体がトントンにまで持っていける。それはそれで素晴らしいことなのだが。それで自分等はずっと金のかからないライブに比重を置き、長い間レコーディングを避けていたのだ。

「レコーディングできる曲が今七、八曲やろ。んで、まぁばら撒くとなると最低五百枚は作りたいよなぁ。ミックスはもう自分等でやるとして、幾らくらいいるかな?」

「個別に録るしかないし割と時間かかりそうやなぁ。プレスも五百枚、それだけで十五万くらいか? スタジオ代とか、もろもろで三十万くらいは要るかなぁ」

「三十万、高いなぁ。やっぱそれくらいするんかー」

「分からんけど、録るなら録るでガチでやるやろ? もうちょい見といた方がええかもな。三十五万くらい」

「ファー、上がったよ。寺尾、お前実際幾ら出せる?」

「まぁ、頑張って四万かな」

「四万? お前、真面目に働いてるんちゃうかったんかよ」

 自分は寺尾の貯金額の少なさに驚いた。正直、十はあると期待していたのだ。

「あほか! 俺、バイト暮らしやぞ。そない高給なバイトでもないし。家賃とかもろもろあるし。そんな貯金なんてあるか!」

「怒るなよ。ごめんって」

「そう言うお前はどうやねんな」

「俺は無い。マジで無い。すまん」

「はぁ? 仕事始めたんやから多少は持ってるんちゃうんかよ?」

 寺尾が大きな声を出すから菊に聞こえるのではないかと自分は慌てた。

「シー、シー、待て。その話は止めろって。お前、菊の前でその話は絶対するなよ」

「……また何かやましいことしてるんか?」

「まぁ、その話はまた今度や。とりあえず話を戻そう」

 なんて言っていたら菊が「お蕎麦できたよー」と湯気立つ蕎麦を乗せた盆を手に戻ってきたので、ギクっとした。それでとりあえず蕎麦にありつくことにした。刻み葱とかまぼこだけのシンプルな蕎麦。出汁は甘く美味かった。おそらく安袋麺なんやろうけど、意外と蕎麦なんてものはちゃんとした店で食べるよりも安袋麺の方が美味かったりする。

「何話してたん? 何かずっと二人で話し込んでたみたいやったけど」

 菊が蕎麦を啜りながら聞く。自分は少しどきりとしたが、なるべく平静を装って話す。

「あんな、ドラムがはっきりしないから一旦ライブはやめて、二人でレコーディングしようかって話しててん」

「へぇ、良いやん」

「問題はお金やねんなー」

 と寺尾か呟く。自分は咳払いをして、

「菊、実際、レコーディングにはお金がかかるんよ。それで、家のお金から幾らなら出せる?」

 と正直に菊に聞いた。

「お金なぁ、まぁ、出せて一万やな」

「そうやんなぁ……」

 なんせ貯金が底をついたのはついこの前の話なのだ。そんなに直ぐに金が貯まっているはずがない。

「レコーディングってそんなに高いん? 二人の貯金を足しても全然足りひん感じ?」

「せやねんなぁ」

 自分は心が痛んだので、目を伏せて言った。音を立てて蕎麦を啜った。

「うちの実家にお金貸してもらうようお願いしよか?」

 菊がそんなことを言うから驚いた。

「いやいや、ええよ。そんなん。止めとき」

「そう?」

 まったく、突拍子も無いことを言い出す。菊の実家にしても決して裕福な家庭では無いのだ。片田舎の百姓で、季節になると野菜を送ってきてくれるような感じなのだ。

「ええって。自分等で考えるわ」

「そうか。ほな、じゃあこれだけ」

 そう言って菊は自分の財布から一万円札を一枚抜き出して自分に手渡した。財布の中にはそれ以外に札は無かった。自分はこれを受け取る。素直に感謝した。

 しかしあと三十万。今までの自分等の傾向から言って、こういう決断は早めに実行に移さなければまたズルズルといってしまう。寺尾も自分も分かっていた。だからあと三十万。それが早急に必要だった。

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