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待賢門院はまた月を見上げた。
「わたくしにも、かつて心から逢いたいと思う御方がおったと言ったであろう。わたくしは今まで何度思ったことか。全てを振り捨てて、想うお方のところへ走って行けたならと。わたくしにはそうする自由も勇気もなかった。それだけが、わたくしの心残り……この世を去るその時まで、その苦しみが消えることはなかろう。そなたには、そのような想いはさせたくない。もし、その手立てと自由があるならば、己の全てを賭けて、その想いを遂げてみせるがよい」
待賢門院の表情は厳しく、それでいて優しかった。
堀河にはこのずっと年下の女主が、なぜだかとても大きく見えた。
まるで、亡くなった母に叱咤されたような、そんな心強さと温かみを感じた。
堀河は薄っすらと目を潤ませて、子供のようにしっかりと頷いた。
「では、早速奥で文を書く。墨をすっておくれ。文が出来たら、すぐに鳥羽院のところへ遣いしてもらおう。今宵は確か、鳥羽の離宮の方におられるはず。この三条西殿の牛車を使うのを許すから、それに乗って急いで行くがよい」
待賢門院は書状をしたためるために立ち上がった。そして、庭先に控えている桜子に目を止めて言った。
「兄上に仕える者か」
桜子は未だに呆然と待賢門院を見上げたままだったが、さすがに我に返って答えた。
「はっ、前左衛門尉佐藤康清の一子で、佐藤義清と申しまする」
桜子は待賢門院の前で少しでも自分を大きく見せたいのだろう。無理に胸を張り、まだ名付けられてもいない名告を名乗った。
「佐藤義清か。覚えておこう。では、そなたに命じる。この堀河の供をして、鳥羽殿へ遣いしておくれ。厩へ行ってわたくしの命だと言えば、すぐに牛車の用意をしてもらえるであろう」
待賢門院は葡萄染の袿の裾を翻すと、御簾の奥へ静かに去って行った。
桜子はその姿から目を離すことも出来ずに、奥の屏風の向こうにその姿が消えるまで目で追っていた。
そして、しばらくすると、うっとりとした潤んだような瞳を輝かせて、堀河に言った。
「あれが、待賢門院様でございますか……まるで、衣通姫のような」
それ以上はもう声にならないのか、桜子はしきりに溜め息をつきながら、いつまでも御簾の向こうを見つめていた。




