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待賢門院は夜露に濡れて輝く月影の庭を眺めながら、ふっと歌を呟いた。
今はただおさふる袖も朽ちはてて心のままに落つる涙か
(あなたを失ってしまった今は、涙を押さえるべき私の袖も、長い間涙にひたされたために朽ち果ててしまいました。それで、押さえることの出来ない涙は、私の苦しい胸のうちから、ただそのままに零れ落ちるだけなのです)
「これは、季通殿がわたくしに送って寄越された歌じゃ。別れてから一度だけ、季通殿は伝手を頼って、密かにわたくしに文を寄越された。それには、ただ一首、この歌だけが書かれてあった。文は人に見られてはならぬとすぐに焼いたが、歌は何度も口ずさんで空で覚えている。わたくしに残された形見は、ただこれだけ」
待賢門院は寂しげに微笑んだ。だが、また月を見上げると言った。
「いや……筝もそうであろうか。わたくしは寂しくなると、いつも筝を弾く。こんな月の明るい晩にもな。明るい月を見ると、いつも季通殿のことを思い出す。ついこの間も、月を見て急に筝が弾きたくなり、少納言の君に命じて一緒に筝を合奏したものだったが」
堀河は自分が御所に呼び出された夜のことを思い出した。
あの夜、待賢門院は単なる気紛れではなく、遠い昔の儚い恋を想って筝を弾いていたのだ。
堀河の中で、捉え所のない気難しやの女主人の形が消え、自分と同じただの一人の女の姿に変わっていった。
堀河は待賢門院がなぜか心からいとおしくなった。
そして、堀河は簀子を立ち、母屋の奥から筝の琴を取り出してきて、待賢門院の前に置いた。
「どうぞ、お弾きあそばせ。誰にも気兼ねなく、昔のことを思い出して」
待賢門院は細い指先に爪を嵌めると、しめやかに筝を弾き出した。
その音色は、まるで瑠璃の椀の中で白珠をころがすように滑らかで甘く、それでいて寂しく哀しかった。
この筝の音が、この都のどこかにいる季通に届くことはあるまい。
しかし、堀河にはこの音色が月に立ち昇り、それが月光に変じて、どこかで同じようにこの月を見上げている季通に降り注いでいるような気がしてならなかった。




